ピリオド

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 ルシフェルによって作られ、育てられ、そしてルシファーによって役割を全うすることがないと判断をされたサンダルフォンの処遇は、ルシファーの管轄下に置かれるという形で落ち着いた。心ここにあらずという状況のまま、ルシフェルから説明を聞かされたサンダルフォンは自身でも不思議なことに、不満が湧き出ることはなかった。動揺もなく、失望もなにもなく、ただ、あの時、ルシフェルは言葉を噤んだままであったから、これはもう、どうしようもなく、疑いようのない、廃棄と同等なのだろうと実感していた。心は凪いでいた。何か言いたげに、口をまごつかせるルシフェルに「わかりました」と応えた。言葉を掛けられたルシフェルの方が、どこか、傷ついたような、動揺をした素振りを見せたことが、サンダルフォンにとっては、億尾にも出さなかったものの、煩わしくあった。どうして、今更になって、と口にしたところで、意味はないことも、承知しているから、もやもやとした不快感が胸を掠める。
 作られた当初こそ、研究所所長であるルシファーの手による検査が行われていた。
 サンダルフォンに与えられた役割を考えれば、それは他の研究者に勘付かれることのないようにという思惑もあったのだとうと、今になって気付かされる。能力値や肉体構成について、天司長であるルシフェルと殆ど同等である。無論、最高傑作には及ばないものである。
 思えば奇妙なことである、とどうして当時は思わなかったのだろうか。サンダルフォンは与えられていた私室の片付けをしながら考える。
 研究所所長が、態々時間を割いて、付きっ切りで、検査を取り仕切り、何より他者を一切介入させることがなかったのは、はっきりいって異常であった。ルシフェルですら、検査に立ち入らせることはなかったのだ。あるいは、ルシフェルが不在の時を見計らっていたのだろうか。
「片付けは終わったかい?」
 声を掛けられたサンダルフォンは、びくりと肩を震わせる。おそるおそると振り返る。軽薄な微笑を浮かべる所長補佐官を務めるベリアルが部屋の入口にもたれかかっていた。
 サンダルフォンは、ベリアルの笑みに得体の知れない気味の悪さを感じた。
 はっきりと数えたことはないものの、作られ、意思を得てからの歳月は短いものではない。その短くはない歳月のなかで、サンダルフォンが交流を持ったのは僅かな人数であった。それこそ、数える程度だ。つまるところ、サンダルフォンの対人能力は、高くはない。
 どのように応えれば良いのか分からぬまま、サンダルフォンは部屋を見渡した。私物、といえるものはルシフェルに与えられた珈琲を淹れるための機器とティーセット程度である。あとは備え付けの家具か、愛着を抱くほどのものでもない消耗品であった。
「それを持っていくのか」
 まさか、と言わんばかりの口調に、サンダルフォンは躊躇う。ベリアルはやれやれというように芝居掛かった動作で肩を竦めた。それから、聞き分けの無い子どもに言い聞かせるように、
「別に構わないと思うよ。だけど、そんなものを持っていってどうするんだい? 思い出に縋るのかい? 分かってるだろう、もうルシフェルが君を守る理由なんてないよ」
 遠慮の欠片もない、むしろサンダルフォンの柔い心の傷付け方を熟知している口ぶりであった。サンダルフォンは言い返す言葉を持っていなかった。そうじゃない、なんて言ったところで、ならどのような理由があるのかと問われれば言葉が出ない。
 何も言わないサンダルフォンに満足したのか、ベリアルは「じゃあ行こうか」と陽気に言った。名残惜しむように白いティーカップをするりと撫でて、部屋を出るとベリアルを追いかける。サンダルフォンは、この部屋にはもう二度と立ち入ることが出来ないのだろうという未来を、どこかで知っていた。

 ルシファーの管轄下に置かれてから、サンダルフォンの境遇は、覚悟したような惨い研究材料になるだとか、実験に使われるだとかいうことは無かった。寧ろ、好転をした、と言えなくもない。中庭と私室の往復しかすることの出来なかった活動範囲は広がった。今まで禁止されてきた図書区域や研究施設を出入りする自由が与えられた。安堵すればよいのか分からない。なんせ、出入りはルシファーと共にいるときに限ってのことだった。
 サンダルフォンは、はっきりいってしまえばルシファーに苦手意識を抱いている。嫌悪や憎悪ではなく、苦手である。いつだって不満そうに、詰まらなさそうな顔をして、冷え冷えとした視線を向けられると、息が詰まる。そんな人物と共にいても、心は休まらない。だから、ルシフェルから譲渡されてから長い歳月を経ても、サンダルフォンの活動範囲は極僅かであった。そして、長い歳月、殆どともに過ごしていながら、サンダルフォンがルシファーに対して好意を抱くこともなかった。
 所長室にはパラパラとページをめくる音だけが響いた。サンダルフォンはその音だけは、少し、心地よく思った。
「サンダルフォン」
「準備は完了しています」
 呼びかけられたサンダルフォンの答えにルシファーは何も言わない。これは、満足をしているのだろうなとサンダルフォンは内心で、安堵の息を吐き出す。当初は、何のことだか分からずに、呆れた嘆息を零されては、きりきりと喉が締め付けられるような息苦しさを覚え、身を置く場所がわからずに、心細かった。その当初を思い起こせば、随分と、学習をしたと自分でも思える。誰にも褒められることはないのだ。せめて、自分だけは、褒めてやりたい。頑張っているな、俺。よくやった、俺。
 どうして自分がこんなことを、と思わないでもない。未練がましくも、あるいは刷り込みなのか、天司としての本能なのか、天司長のためになりたいと、思っている部分が残っているようだった。何百年経ったと思っているんだと、サンダルフォンはルシファーの後ろに付き従いながら遣り切れない自身に対して疎ましさを感じた。
 目深に被ったフードの狭い視界にも、すっかり慣れておきながら、うじうじと、割り切ることが出来ないでいる。
 合理主義であり無駄を嫌うルシファーはサンダルフォンに所長秘書官という役職を与えた。役割は変わらないままだ。サンダルフォンは変わらず、天司長のスペアである。サンダルフォンの劣等感を少しばかり満たしたような、あるいは刺激をしたかのような役職である。補佐官であるベリアルと異なる点で言えば、殆ど四六時中、例外を除いて、付き従わざるを得ないという点だ。
 所長室を出て暫く歩くと、研究棟に入る。研究棟内ですれ違う研究者たちが道を開けていく光景は、ルシファーの地位の高さをまざまざと感じさせた。
 奥に進めば進む程、サンダルフォンの鼻には鉄錆た、むせ返りそうな悪臭が感じられた。吐き気を堪えながらルシファーと、周囲の様子を窺う。ルシファーの意見を取り入れながら次の段階へと話を進めていく研究者も、ルシファーもこの悪臭に関しては何も言わない。サンダルフォンは自身を落ち着かせるために、そっと小さく、息を吐き出した。獣の唸り声や、機械音でかき消されて、誰にも聞こえないはずの小さな音であったはずなのに、ルシファーが振り返るものだから、サンダルフォンは一瞬呼吸を忘れて、口を引き結んだ。それは一瞬の出来事であった。次の瞬間にはルシファーは研究者と向き合う。サンダルフォンは偶然か、勘違いだろうと思い込み、だけど邪魔をしてしまったのかもしれないと、一層に気配を消した。

 ルシファーに直接、あれをしろ、これをしろと言われることは殆ど皆無である。秘書官としての務めとして、サンダルフォンは意図を汲み取ってあれやこれやと試行錯誤をしているだけであった。実際にルシファーの求めることをサンダルフォンは理解している、とはとてもではないが思っていない。教えて欲しいと口にしたところで、鼻で笑われるに決っている。ただ、もしも一つだけ許されるならば、なぜルシフェル様と会うことを許可してくれないのだろうかと、問いかけてみたいのだ。
 数百年前の、サンダルフォンの処遇に関するごたごた直後であれば理解が出来る。ベリアルから聞いた話では、あの直後、サンダルフォンがそれまで与えられた私室を退き、ルシファーの元に身を寄せて間もなく、ルシフェルはサンダルフォンをどうにか、もう一度引き取ろうとしたようだった。義理堅い御方だなと、サンダルフォンは今になってやっと、納得をしたような苦い笑いを零すことができるようになった。当時は、あの御方はなにがしたいのだろうと不信感を抱いたものだった。どうやら俺は、思っている以上に、あの御方に気に掛けていただいているのだと今では自信をもって言える。ベリアルは変な顔をしていた。
 サンダルフォンは束の間の安らぎを、ベリアルに邪魔をされたと思いながらもつい、声を掛けてしまう。
「天司長様は御変わりないか?」
「変わらないよ。サンディがいても、いなくても」
「そうか」
 聞いておきながら、サンダルフォンは複雑になった。それから余計なことを付け足した男が憎たらしくなる。自分の存在程度が、天司長に影響を与えているなんて烏滸がましいことを微塵たりとも考えていない。だというのに、意地の悪い男は態々言わなくて言い事と分かっていながら、サンダルフォンが傷つく姿を見たいがために口にしたのだ。
 サンダルフォンはベリアルの思惑のままに振舞うことは癪であった。だけども、どうしても、傷ついてしまう。顔を曇らせる。ベリアルは喉の奥底で、くっと堪えきらない笑いを零した。不快になってサンダルフォンは顔を窓に向ける。ルシファーが席を外しているからと、フードをはずしたのは久しぶりのことだった。汚れ一つないガラス越しに映る自分の表情は、どこか強張っていた。
「サンディは会いたいとは思わないのか?」
 会いたいと言えば会いたい、のかもしれない。今のサンダルフォンならば、冷静に話しが出来る。癇癪を起すこともなく、やけっぱちに不必要なことも口にはしない。しかし、会ったところでする話もなかった。昔のように珈琲を飲むこともなくなって、共通の話題もない。会いたいと言ったところで、ベリアルにその権限はないにしても、口にすることが出来ず、サンダルフォンは首を振った。ベリアルは「そうか!」とやけに楽し気に首肯していた。
 サンダルフォンは記憶の片隅のルシフェルを思い浮かべた。
 役割を果たせないものに対する慈悲を、サンダルフォンは忘れてはいない。

 天司長ルシフェルはといえば慈悲の欠片もない形相で、友であり創造主である、そして、安寧と慈しんだ天司を奪い去っていった男を鋭く睥睨した。当の男であるルシファーはといえば、相変わらずの顔だと慣れたもので、怯えなんてものは無い。
 殺気すら入り混じった視線に、何百年経ったのかと問い掛ければ、何百年しか経っていないというのが、このルシフェルである。優しさだけしか見ることのなかったサンダルフォンが見れば泣くか、誰だと言わんばかりの顔であると、同じ顔でありながら他人事のように思った。事実、他人事である。
「サンダルフォンは?」
 地を這うような声音は、自分は声を出したのだろうかとルシファーに思わせるほどに同じであった。
「席を外させた。問題があるのか?」
 ルシフェルが眉間に皺を寄せる。その様子が、ルシファーの気分を良くさせた。
「そもそもなぜ君の許可が必要なんだ」
「アレは俺の管理下にあるのだから当然のことだ」
「直属ではない」
「同じだ」
「同じではない。天司であるならば、サンダルフォンは私の麾下だ」
「役割も与えることができないのに?」
 黙らざるを得ないルシフェルを鼻でわらう。
「……役割がないというのならば、なぜサンダルフォンを手もとに?」
「ならばお前は今更なぜ、アレを手もとに置こうとする?」
「彼は私が作った」
「その責任感か? 馬鹿馬鹿しい、ならばお前は全ての天司において責任を持つというのか」
「……それが、天司長という役割に求められるならば」
 神妙な顔で首肯するルシフェルに、ルシファーは呆れてしまう。革張りの黒いソファの背に、ふんぞり返るようにもたれ掛かると、じっくりとルシフェルを見遣る。
 以前に見られることのなかった言動であった。創造主であるルシファーに反する意思表示は歓迎するべき傾向であるものの、状況は求めたものではない。
 たかが役割のない天司を理由になんて、洒落にもならない。
「天司長としての役割に、本当にアレが必要だと思っているのか」
 ルシフェルは目を伏せる。違うと否定をしたくとも事実であった。天司長として、サンダルフォンは必要ではない。けれど、心の奥底で違うと叫ぶ自身を否定することもできない。そして否定すべき言葉を、ルシフェルは口にすることができない。もどかしさに、顔を顰めさせる。その様子から、少なくとも、天司長としての機能には不備がないことにルシファーは自らを納得させた。
 一過性……にしては期間が長すぎるものの、熱暴走に等しいものだ。その厄介さをルシファーは身をもって知っていた。
 口ごもるルシフェルに、「さっさと現場に戻れ」と声を掛けて部屋を出る。
 それから、所長室の扉を開ければ慌てた様子でフードを被ったサンダルフォンに笑いを隠しきれていないベリアルが「おかえり、ファーさん」と気安く声を掛けられる。
 サンダルフォンはうつむいたまま、視線をさ迷わせる。
 その様子に僅かに苛立ちを感じるものの、ルシファーは何も言わない。ただ、その苛立ちを一人楽し気なベリアルにぶつけるだけだった。

 認めてしまえば呆気ないものである。
 恋と呼ぶには悪質な、やはり、ルシフェルの創造主としては当然というべき、独占欲をもって、サンダルフォンを手もとに置いた。不服そうなルシフェルを前にして、厄介なことに、ルシファーは自身の感情を客観的に理解をしていた。
 サンダルフォンの有用性や必要性を考えて、自らの合理主義や理想に反し、何より計画に不必要であることを天秤にかけたうえでなお、求めて止まない。
 これは認めざるを得ない。
 ルシファーはサンダルフォンを愛しく、思っている。
 それは疑いようのない真実であった。
 ルシファーは一目見たときから、サンダルフォンという存在を愛しく、思っていた。ルシフェルという最高傑作を、自らの欠けた部分を埋めるかのような存在を作り出したときとは異なる高揚感が、ルシファーの中で芽生えたのだ。
 そしてルシファーはそれを秘することはなかった。
 だから誰にも触れさせることはなく、傷付けさせることを赦さなかった。
 サンダルフォンにどのように思われているのか、なんてルシファーには手に取るように分かる。その分かりやすさも、愛しく思うのだから、我ながら重傷だとも呆れてしまう。サンダルフォンから好意的に思われようとするならば、ルシフェルのように振舞えばいいのだろう。優しく、柔らかに包み込むように接すれば良いのだと承知したうえで、なぜ俺が真似事をせねばならんのだという意地と不快感で、ルシファーはありのままで接する。そのルシファーらしい、いっそ冷酷で冷徹な振る舞いはサンダルフォンに恐怖を植え付けているいう自覚はあった。それでも、ルシファーは構いはしなかった。
 ルシファーは見返りを求めていない。サンダルフォンからの敬愛や思慕なんてものを、必要としない。ただ自らの愛を一方的に押しつけ、傍に置いておくだけで満足であった。
 サンダルフォンからどう思われていようと、それが嫌悪や憎悪であっても、ルシファーには興味はない。
 視界に入れたくないのであればフードを被って過ごせばいい。意味が分からないのであれば、理由として役職を与える。
 ただ、傍に置いていた。
 サンダルフォンの補佐能力の高さは、ルシファーにとっては予想外であったものの、日々成長をするサンダルフォンの姿はルシファーに愛しさを募らせ、そしてその一瞬見せる満足気な表情はルシファーの胸をまた高鳴らせた。
 歪な重ぐるしい愛情を、粗方を承知しているベリアルといえば「流石ファーさん、良い感じに狂ってるね」と言うものだからルシファーは不愉快になる。
「何を言っている。これは純愛にして無償の愛、だろう」
「え、ファーさん流の冗句? なに、いよいよ終末?」
 こればっかりは流石のベリアルも理解不能というようであった。
 何も知らぬサンダルフォンは、日々、ちくちくと身体のあちこちが突かれたように生きた心地を覚えないものの、ルシファーから離れるという選択肢は一向に、頭に浮かぶことが無い。今も研究各署へルシファーの代理として抜き打ち検査として出向いている。このまま逃げ去ることも出来るというのに、そのような考えは浮かんでもいない。ルシフェルに似てしまったばかりに、真面目だ。きっとこれは終末まで続くのだろうとベリアルは確信をして、席を立つ。暇潰しの盤上遊戯は暇潰しにもならぬほどの一方的な蹂躙が広がっていた。

Title:エナメル
2021/07/17
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