ピリオド

  • since 12/06/19
 サンダルフォンは日課のように、小さな窓枠から青空を見上げる。研究所は変化が乏しく、広がる空に代わり映えはない。時折流れてくる雲の形を、ぼんやりとなぞって、時間をやり過ごす。けれど、その日は違った。名前の知らない小鳥が窓枠を飛び越えて部屋に入ってきた。見たことはある。小さな、茶色い、地味な鳥だ。サンダルフォンは緊張感を覚えて、息を潜めて、小鳥を見つめる。小鳥はよたよたと小さな足で、歩くというよりも、飛び跳ねるようにして室内に入っては気儘にあちこちをうろうろとしていた。その様子が滑稽で、サンダルフォンはこみあがってくる笑いを抑えようと必死になる。ややあってから、抑えきれない吐息を漏らしてしまうと、小鳥ははっとしたように、サンダルフォンの存在に気づいた様子で、慌ただしく飛び去っていった。歩くよりも飛ぶ方が上手であった。サンダルフォンはふふふ、と笑い声を漏らしてから、虚しさに襲われる。
 どうして自分は、なんて思ったところでどうしようもならない事ばかりを考えてしまう。
 なんとなしに、脚に触れてみれば虚しさは膨れ上がるばかりだ。
 手で触れれば足があることを思い出す。けれど、触れなければ感覚はない。下半身から伸びているサンダルフォンの肉体の一部であるはずのそれは、サンダルフォンの意思の範囲に無い。決して、サンダルフォンの所為ではない。それは、たまたま、運が悪かったというだけのことだ。ただの不幸。天司の製造過程における、排除しきれない不運。その運命によって、サンダルフォンは天司としては不完全な肉体となり、役割なんて与えられるはずもなく、廃棄を命じられる日を待つばかりであった。
 その日を思うと、憂鬱な嘆息を零してしまった。
 ネガティブな思考を邪魔するみたいにして、ノック音が響く。サンダルフォンは顔をあげると「どうぞ」と声を掛けた。誰が現れるのか、想像する必要もない。この部屋に現れるのはただ一人と決まっている。
 眩い銀髪にサンダルフォンは目を細めてしまう。
 サンダルフォンは嬉しさ半分と、それから申し訳ない気持ちがいっぱいになって息苦しさを覚える。
「…お帰りなさい、ルシフェル様」
 ルシフェルが部屋を訪れることは珍しいことではない。それどころか、サンダルフォンを除けば、ルシフェルしか訪れることはない。だというのに、ルシフェルは何時まで経ってもどこか、部屋とのちぐはぐさが拭えない。あるいは、サンダルフォンがルシフェルという存在に不慣れなのだ。
 ルシフェルは室内に入るとサンダルフォンの足下で膝をつく。びくりと震えるサンダルフォンの様子に気づいた様子はない。
「変わりは無いか?」
「はい、なにも」
「そうか」
 ルシフェルの表情からは、感情は読み取れない。サンダルフォンは自分の返答はおかしかったのだろうかと、不安と心配が混ぜこぜになって、掌には汗がじんわりと滲んだ。
「触れるよ、サンダルフォン」ルシフェルはサンダルフォンの足に触れる。
 居た堪れなさを覚えて、サンダルフォンはそっとルシフェルの旋毛に落としていた視線をずらした。
「痛みは?」
「ありません」
 サンダルフォンは心苦しくなった。
 貴方の所為ではない。貴方のことを恨んでなんていない。ルシフェルに向かって口にしたい言葉は、喉元にせり上がるばかりで、音に乗らないでいる。
納得しきっているわけではないが、サンダルフォンは状況を理解していた。不完全な肉体に役割が与えられるはずもなく、目を掛けられる理由なんて、ルシフェルの中の罪悪感しかない。
「中庭に行こうか。人払いはしているから、問題はないよ」
 断ることなんて出来はしない。サンダルフォンははい、と首肯する。ルシフェルはその言葉に少しだけ、嬉しそうに笑って見せた。それからサンダルフォンの膝裏と腰に手を回して立ち上がる。サンダルフォンは相変わらず不慣れな体勢と、ルシフェルとの近さにどぎまぎとしながらも、随分と昔、初めてこの運ばれ方をしたときに言われた通りに、ルシフェルの首に腕を回した。
 ルシフェルが言った通り、人払いがされ、誰ともすれ違うことなく中庭に辿り着いた。サンダルフォンはほっとする。部屋から出るとき、必ずと言って良い程にじろじろと見られるのだ。その視線が、サンダルフォンは苦手だった。
 けれど、今日はその息苦しさも忘れることが出来た。サンダルフォンは自分をじろじろと興味深そうに、存在することを疑問に思われることが苦手なだけであって、外の空気自体は嫌いじゃない。狭い部屋に閉じこもって過ごしているためか、開放的な外の空気は新鮮に感じた。たとえ、中庭という限定的な場所であっても十分だった。寧ろ、中庭より広ければサンダルフォンは戸惑いを覚えてしまう。広大すぎて、自分が世界からいなくなってしまったかのような、心許なさを感じてしまう。
 ルシフェルはサンダルフォンの顔色が良い事に気づくと、視線が彼にとって苦痛となっていたのかと改めて察した。以前は中庭に来るだけで酷く疲れた様子であったが、今日は落ち着いて、それからよく笑う。この子を作ったのは私であるというのに、何も知らないのだなという淋しさと、知れた喜びとが、胸中で複雑に渦巻いた。
 ルシフェルは言葉が少ない。表情から感情を読み取ることも、サンダルフォンには難しいことだった。だから、いつにも増して寡黙なルシフェルにサンダルフォンは、自分は不作法を働いてしまったのだろうかと考えたり、本当はお疲れなのだろうかと心配になってしまったりする。
 サンダルフォンはルシフェルの庇護下でなければ生きていけない。それが、ルシフェルの負担になっていることも、承知の上だった。だからこそ、ルシファーはサンダルフォンの存在を許さなかった。ルシフェルに対して、完璧を求めるルシファーにとって、サンダルフォンというルシフェルのアキレス腱になりかねない存在は、排除すべき対象だった。その点において、サンダルフォンのあずかり知らぬところで、ルシフェルの力技によって、解決しているとはいえ、ルシファーのサンダルフォンへ向ける視線は依然、代わることなく、厳しい。それもあって、サンダルフォンはルシファーのことを苦手と思っている。しかし、思考は同じだった。サンダルフォンは自分がルシフェルの弱点となるとは思っていない。けれど、忙しく、数多の麾下を抱えるルシフェルにとって、役割もなければ麾下として満足に稼働することも出来ない自分に時間を割く理由なんて説明がない。それこそ、創造主だから責任を取っているのだろうと、サンダルフォンはますます自分が赦せなくなってしまう。どうしようもない事故で、不運なのだと言われても、もしも自分が完全な肉体であったのならば……と想像をしてしまうことは、空想とはいえ虚しいばかりだというのに、サンダルフォンに何度も自傷を繰り返させる。
 麗らかな昼下がりの中庭には、重ぐるしい沈黙が降りていた。
 サンダルフォンは、このままではいけないと思っている。責任で、同情で、ルシフェルを苦しませることは、ルシフェルを縛ることはサンダルフォンの意ではない。何よりサンダルフォンは本来、ルシフェルの役に立つ存在として、麾下として存在するはずだったのだ。その役割を知らず、そして与えられることはないと分かっていても、それでもサンダルフォンはルシフェルの足手まといにはなりたくはなかった。
「あの、」声はみっともなく、上擦っていた。珈琲を口にしながら、口の中はカラカラと乾いていた。
 ルシフェルは静かにサンダルフォンが口にする言葉を待っている。
「俺、は……こんな、身体だから天司として不完全で、役割もなくて、でも、これはルシフェル様の所為じゃないから、だから、」
 言いながら、サンダルフォンは俯いた。自分で口にした言葉で自分が苦しむなんて、馬鹿らしいったらない。とっくに諦めていることなのに、今更になって悔しさみたいなのが沸き起こる。願わくは――ルシフェル様の手足となりたかった。役に立ちたかった。空を飛んでみたかった。自分の足で歩きたかった。願うだけならば、ルシフェル様の隣を、堂々と、歩きたかった。全て、あり得ないことだと分かっていても、天司として作られた身だからこそ、あり得たかもしれないと想像をしてしまう。
「ルシフェル様が、責任を感じる必要なんて、無いんです」
――言ってしまった。とうとう、言ってしまった。数えることも出来ないほどの歳月、胸の奥底で言わなければと思っていたことだった。とうどう、口にしてしまった。本来ならば、サンダルフォンの立場で、不完全な身の上を庇護されているというのに、その優しさをすべて否定する不敬な言葉を、口にしてしまった。けれど、それでも良かった。もうこれ以上は、ダメだとサンダルフォンは自覚してしまった。
 ルシフェルの優しさは、自分が享受すべきものではない。役に立たない自分には過ぎたものだった。あるいは、恐ろしくなってしまった。
自分には何もない。優しさに報いる方法が何もない。役に立たない。役に立てない。そんな自分が与えられる優しさは、責任だとか罪悪感だとしても、あまりも大きすぎた。それに、何も言っていないとはいえ、ルシファーの目があった。恐ろしくてたまらない研究者であるが、その考えにはサンダルフォンも同意を示す。
役に立たない、天司でもないなり損ないに割く優しさも時間も、天司長にはないはずなのだ。だから、サンダルフォンは決意をしたのだ。それは文字通り、身を割く思いだ。なんせルシフェルの庇護がなければサンダルフォンの存在は赦されるものではない。研究所は無駄を嫌う。無駄な命なんて、存在しない。命はすべて、意味がある。意味が無ければ、創られる。――研究の糧という形で、役に立てられる。
正直なところ、恐ろしいことだ。研究所の奥深くで聞こえる断末魔を知らない訳ではない。耳をふさいでも耳朶にこびり付いたように繰り返される。悍ましいったらない。いつあそこに連れていかれるのだろうと恐怖を覚えたことは一度や二度ではない。けれど、自分が存在すべきは行き着くべきは、あの凄惨な部屋なのだという自覚もあった。
自分可愛さに、先送りにしていたのだとサンダルフォンは自嘲する。優しさに甘えていたのは自分に他ならない。ルシフェルを利用していたのだ。そんな自分に嫌気がさしたに過ぎない。だから、結局、すべて自分のため。こんな、自分のことばかりで役立たずな存在に、ルシフェル様が優しさを割く必要もない。あってはならない。
全て今更なことだった。
「ダメですよ、ルシフェル様。貴方の優しさは、俺なんかには勿体ないものです」
サンダルフォンは自分が、間違ったことを口にしたとは思っていない。けれど、ルシフェルを否定してしまったという罪悪感に、なにも言わないルシフェルに、とうとう、怒りを買ってしまったのだと思い至って、俯くしか出来ない。ああもうこれっきりなのだと思うと、名残惜しむ自分に、嫌気が差す。どうせ、口にした言葉は取り消せないのだというのに、未練がましい。だが、もうそれともさらばだ。幾らお優しいとはいえ、不快に思われたに違いない。廃棄を待たずして、実験場ではなくて、いっそこの場で切り捨てられるかもしれない。それはそれで、悪くはない。……考えていても、痛みもなければ声も掛けられない。サンダルフォンはもどかしくなって、恐る恐ると顔をあげた。もしかしたら、顔も見たくないと姿を消したのかもしれない、と思ったのだ。実はずっと、一人でびくびくと怯えていたのかもしれない、なんてちらっと思ったのだ。
「あ、」思わず声が漏れた。ルシフェルはその場にいた。変わらない様子で、静かに珈琲を口にしている。視線が合うと目元が和らいだ。何も、なかったみたいな姿にサンダルフォンは、自分は身を割く思いで告げたというのにと八つ当たりじみた怒りを一瞬だけ抱いた。そして、それ以上のから寒々しい、言い知れぬ、底なしを前にしたかのような恐怖を抱いた。
「珈琲が冷めてしまうよ」
 何でもないように口にするルシフェルに、サンダルフォンは得体の知れなさを感じた。
「ルシフェル様、御願いです。俺を、廃棄してください。もう、ダメです。俺は、もう、たえられない。壊れたい」
 逃げ出したい一心だった。壊れてしまえば良かったのに、壊れることも許されない。
「ダメだ、それは君の願いでも、かなえられない。君は、気付いたんだろう」
「しりません、しらない。俺は、知りたくない」
「サンダルフォン、私は――……
 きみが思うような優しさは持ち合わせていないよ。
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