ピリオド

  • since 12/06/19
 ルシフェルが語る世界は、サンダルフォンにとってあまりにも遠い出来事だった。
 言葉通りに、瞼に描いた。ぽつりと一人になったとき、夢想した。
 
 空の広さ。
 大海原。
 星の降る夜。
 月光の温かさ。
 
 それらは、サンダルフォンの世界には無かった。
 空は見上げれば遠く、そして木々や窓の枠組みで小さなものだった。海という存在は、話に聞く限り、そして書物から思い浮かべる限り、大きな水たまりでしかない。星も月光も、サンダルフォンの生活の中にあったものの、感動をするかと言えば当たり前の存在すぎて戸惑いを覚える。
 ルシフェルの言葉を否定するなんて、あり得ない。語るそれらは、確かに、空の世界に存在するのだろうけれど、ただ、サンダルフォンにとってはあまりにも遥かな夢物語のようであったから、憧れを通り越してしまっていた。
 
 朝焼け。
 夕日。
 夜空。
 進化の行く先――……。
 
「いつか、俺も見てみたいです」夢見るように呟いた。稚い無垢な呟きに、ルシフェルは何時だって、優しい笑みを返していた。
「きっと――サンダルフォンも美しいと思うよ」
 その時、サンダルフォンはどのような言葉を返したのか覚えていない。ただきっと叶いっこないことだと思ったのだ。ルシフェルの言葉を慰めだと思ったのか、同情だと悲しんだのか、もう、忘れてしまった。
 
 ルシフェルの語る美しいものを共に共有したいと夢見ながら、ほろ苦さと共に流し込んだ。
 未だ役割の与えられていないサンダルフォンにとって、研究所はおろか、指定された区域外すら出歩くことは禁止されている。それを知らないルシフェルではない。知っているからこその善意であったのだけれど、その善意がいつしかサンダルフォンの胸にチクチクと小さな棘を残していく。
 やがて来るはずのない「いつか」に絶望したのは、サンダルフォンの身勝手だった。絶望を憎悪に変換したのは、サンダルフォンの八つ当たりにすぎない。いつだってルシフェルはサンダルフォンに真摯に、向き合っていた。
 逃げ出したのは、サンダルフォンだ。
 
 パンデモニウムの心まで凍えかねない日々の中で、不意に耳朶に蘇った声に、言葉に、怒りが燃え上がった。いっそ狂いかねないほどの憎悪が、サンダルフォンを二千年間生かし続けていた。
 今にして思えば、サンダルフォンは生かされていた。
 パンデモニウムへの投獄はもとより、脱走した後ですら、ルシフェルはサンダルフォンを守り続けていたのだろうと、馴染んだとはいえ、それでも強大な天司長の力を宿したサンダルフォンは改めてルシフェルという存在の偉大さを感じる。
 パンデモニウムを脱走して、殆ど初めてといってもよい空の世界は、憎悪に充ちた心ですら「美しい」と思ったのだ。何処までも広がる蒼穹が、ルシフェルの瞳を思い出させた。だから、壊そうと思った。自分を責め立てるような青が、おそろしかった。そんな、壊そうと思った、壊れてしまえと思った世界の美しさに、サンダルフォンは幾度となく、息を呑む。
 水平線と交わる夕日。陽が昇り切らない朝焼け。迫りくるような宵闇を照らす月光。暗闇の中導くように光り輝く星々。飛沫の煌めき。雨上がりの遥かに掛かる虹。風が運ぶ香り。青々とした緑。色付く果実。そして――か細くも連綿と紡がれる命の営み。
「これが貴方の言っていた光景なんですね、」と記憶に残る言葉と一致する光景に思わず言葉を掛けようとして、はっとすることを繰り返す。
 あの人は既にいない。
 共に見ることは出来ない。
 その度にどこに向けて良いのか分からない感情が、サンダルフォンの中でさまよって行き場を無くす。ただ、瞳に焼き付ける。
 いつか、命を終えたときに、今度は自分がと、ささやかに夢に描くのだ。
 
〇 〇 〇

 
 幾つかの季節を巡り、サンダルフォンの隣で奇跡が形を成した。
 幾多もの偶然が重なりあった、奇跡と呼ぶほかにない結果として、ルシフェルはサンダルフォンの隣で生きている。その背中には、かつて神々しく清廉であった純白の六枚羽は存在せず、天司長としての力はサンダルフォンに譲渡されたまま、ルシフェルは一つの命として空の世界で生きている。
 ルシフェルは驚くほど変わらないまま、空の世界で、そして、騎空団の中に馴染んでいた。サンダルフォンの夢を応援すると言って、それから喫茶室の手伝いをしてくれている。サンダルフォンは申し訳なくて固辞したものの、押し切られてしまった。不敬だと思いながらも、ルシフェルとの共通の時間を過ごせること、何より珈琲について語りあうことはサンダルフォンにとって在りし日を思い起こさせる同時に、幸せを噛みしめる日々であった。それでなくても、今ではサンダルフォンの趣味となっている珈琲は、ルシフェルのことを知りたいと、ルシフェルが美味しいと思ったものを理解したいと必死になりながら手探りで時間を見つけては慣れようとした結果であったのだ。
 もう二度と、それこそ記憶の中でしかと思っていた優しい日々をサンダルフォンは噛みしめていた。
 それこそ殆ど毎日、といっても過言ではない。飽きないのかと団長に言われてもサダルフォンは首を傾げてしまう。すると団長はしょっぱいものを噛んだみたいな顔で勝手に分かったような様子を見せる。サンダルフォンは何も言われていないが馬鹿にされたような気持ちがして面白くなかった。
 サンダルフォンは飽きていない。だが、ルシフェルはどうだろうかと不安を覚えてしまった。一度過った不安は、サンダルフォンの中でちらちらと過っては消え去ってくれない。優しい人だ。だから、もしかして、本当は、と不安が押し寄せてくる。そんなサンダルフォンの変化にいち早く気づいたのは、ほかの誰でもないルシフェルであった。
 サンダルフォンは平然と笑みを浮かべて「なんでもないです」というものの、なんでもないわけがないと、ルシフェルは察していた。だから、根気よく、誰に似たのか分からない頑なさを紐解いて、それから、呆気にとられてしまった。
「飽きるわけがない」
 心底不思議な顔をするルシフェルに、サンダルフォンはほっとして、それから可笑しくなって、笑ってしまった。
「俺もです、飽きるわけがないです」
 二人してくすくす、と笑い合った。
 毎日、珈琲を共にしていても会話は不思議なことに尽きることがなかった。まだルシフェルが蘇ったばかりの頃は、それこそ時間が足りないのではないかとサンダルフォンは心配に想う程に伝えたいことがあった。いってきますと宣言してから、それほど時間は経っていないけれど、空の世界で生きていることを、知ったことを、一生懸命に伝えた。ルシフェルは興味深そうに、共に過ごせずにその場に存在出来なかったことを嘆く気持ちを奥底にして、上回るような嬉しさで聞いていた。
 それも、伝えきってしまって、それから何を話したらと心配のような、不安のような気持ちがあったものの、時間になれば穏やかに過ごせていた。
 研究所時代のルシフェルはといえば、時間に追われていた。なんせ天司長であるのだ。サンダルフォンもルシフェルが多忙であることは知っていたから、珈琲を口にして慌ただしく去っていく姿に、行かないでと言えるはずもなく、いってらっしゃいませと見送ることしか出来ないでいた。
「今でも夢のようです」
「そうだね」
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
 時間に追われることも、役割もなく、二人は夢想した世界が現実であることを噛みしめる。
 ガラス窓越しの陽射しに、サンダルフォンは目を細める。
「もう少しで夏が来ますね」
 休暇も兼ねて夏の間、騎空団はアウギュステに滞在している。サンダルフォンはその間経営修行も兼ねて海の近くで、出張喫茶店を開いていた。当初こそ手伝いであったルシオの顔だけを目当てに来ていた客層も今では落ち着いている。今ではサンダルフォンのアイスコーヒーを目当てにしている常連もいるのだ。サンダルフォンはこそばゆい気持ちを覚えるも「ここのアイスコーヒーをのむと夏が来たんだなって思うんだ」とはにかむ姿に悪い気持ちはなかった。夏の暑さは厄介だと思うが、季節は嫌いではない。
「海、か……」
「どうかしましたか?」
 思いつめた口調であったから、サンダルフォンはアウギュステに想いを馳せていた気分から、すっかり不安を浮かべて、ルシフェルを見つめた。そんなサンダルフォンの表情にルシフェルは自分が思った以上に、真剣な口調になっていたことに気づく。
「深刻なことでは、いや……あるの、だろうか……」
 過った事実は、ルシフェルにとっては深刻であった。真剣であった。それこそ、世界の命運と同等なほどであった。が、それはルシフェルにとってのことだった。果たしてサンダルフォンに言っても困らせるだけではないのかと、ルシフェルは躊躇した。しかし、あまりにも心配で気になって仕方ありませんと表情が訴えかけてくるものだから、観念してしまう。
「昔のことだ。海を見たとき――君と共に見たいと思った」
 命の気配が消え去ったどころか、命を呑みこんでしまいそうなほどに広がる凪いだ景色を目前にして、ルシフェルは立ち竦んだ。ぽつん、と孤独に、取り残されたような錯覚が過る。ありえないことだと思っていても、ざざんと思い出したかのような波が押し寄せてくるまで、ルシフェルには自分がどこにもいないような、透明になって消え去ってしまったかのような不安が押し寄せた。そして、サンダルフォンを求めた。ここに居てくれたら、名前を呼んでくれたら……――そんなことを、思い出しながらぽつりぽつりと語ったルシフェルは気恥ずかしくなり、目を伏せ、珈琲を啜った。
 ルシフェルの言葉に耳を傾けていたサンダルフォンは、呆気にとられる。一言一句聞き逃すことなく、耳朶を打ち、やがて脳で処理をして、理解する。ここにルシフェルがいなければ、身悶えしていた。必死に理性で押さえつけているものの、真っ赤な顔で視線をさ迷わせて、ルシフェルのことを直視出来ないでいた。嬉しさで、どうにかなってしまいそうな心をどうにか抑えつけて、座るサンダルフォンに、ルシフェルは矢張り困らせてしまったなと苦笑を零す。
「俺も、あなたのことを、想いました」
 サンダルフォンは俯いたまま、震えそうになる声をもどかしく思いながら、言葉を紡いだ。
 災厄の邪神でもなく、天司長でもない。サンダルフォンとして海に触れて、空の世界の営みを知って、過ったのはルシフェルのことだった。あの御方だったらと思っては淋しさを誤魔化した。語り掛けては、返ってこない言葉を想像してみた。
「あなたが、いてくれたらと、思ったんです」
 言葉にすることは、出来なかった。誰にも言えない事だった。いってきますと言ったのは、サンダルフォンに他ならないのだ。
 自分だけは、決して、口にしてはならないことだった。
 安息の場所から飛び立つことを選んだのは、自分だった。選択を後悔してはならない。だというのに、ふと過る淋しさに胸が締め付けられて、ふと耳朶に蘇る声を求めていた。
「そう、か」
 ルシフェルが浮かべた微笑や安堵に呟いた声音にサンダルフォンは気づかないでいた。
 こみ上げる感情は総じて、サンダルフォンへの愛しさだった。どうしてか分からないほどに、ルシフェルはサンダルフォンを愛しく思っていた。自分が作ったからなのかと思ってみたが、ルシファーと共に作った麾下に対して同じような感情を向けることが出来ない。サンダルフォンだけが、ルシフェルの特別であった。
 
 夏のアウギュステの暑さにはルシフェルも参ってしまった。それでも、サンダルフォンといるならばと乗り越えることが出来た。
 暑さも落ち着いた夜。長椅子に座り、肩を並べて、海を前にして珈琲を飲んだ。何時もは、向かい合って座ることが多かったからルシフェルは新鮮で、そしてサンダルフォンは目の奥がジンと熱を持つほどの感動を覚えた。
 かつて、長椅子に用意をした珈琲は二つだったが、語り掛ける言葉は一つしかなかった。あの日から、想像すら、出来ない現実があまりにも幸せであるからサンダルフォンは良いのだろうかと数えきれないほどに押し寄せる不安を感じ取っていた。
 ルシフェルは呑みこむような暗闇を見つめる。昼間とは異なり人々の喧騒もなく、風すら止んでしまえば記憶と変わらぬ海であったのに、孤独は一切感じることはなかった。
 ちらりと、どちらともなく、視線が交差する。
 ああ、一人ではない。
 確認をすると、笑みがこぼれた。
 
〇 〇 〇

 
 それから季節を巡った。
「私に遠慮をすることはない」
 サンダルフォンは緩やかに首を振ると、悪戯っぽく言った。
「独り占めなんてずるいですよ」
 ルシフェルは面食らったように瞬いてから、すまないと笑って言った。
 古い記憶であったが、忘れることはない。今やこの世界に存在しない、中庭で秘密を打ち明かすようにルシフェルが口にした光景を二人で見る。サンダルフォンは、初めて目にする光景ではなかった。
 星が降り注ぐ夜空を見上げながら、サンダルフォンは覚悟する。嫌われても、自分勝手でも今更なことだ。俺は、ルシフェル様が言うような無垢でもなんでもないのだと、これ以上、幻滅されないためにも、なんて、結局は自分のためだと思いながら、口を開いた。
「俺は、貴方の愛した世界を壊そうとしました」
 ルシフェルが息を呑んだ。
 その姿を見ないようにして、サンダルフォンは自嘲を浮かべる。
 サンダルフォンは無知だった。無垢ではなく、ただ愚かな世間知らずなだけだった。散々に思い知らされた日々の中で、ルシフェルとの約束だけで生きてきた。サンダルフォンの長い生命活動の中で僅かな期間でしかない幸福の日々と、そして悪夢の中をさ迷いながら藻掻いていた。
「約束があったから、生きなければと思って、でも、自分の存在が赦せなくて、約束を果たしたらと考えても、空の世界で生きる姿なんて想像すら出来なくて、生きていることも、赦せなかった」
 ルシフェルが眉根を寄せてサンダルフォンを見詰める。サンダルフォンはその視線に気づくと仕方ないというように顔をあげた。
「ルシフェル様、空の世界ってとても、美しいんですね。貴方が愛したのも、分かる気がしました」そう言ったサンダルフォンは笑みを浮かべながら、泣くのを我慢した様子で続けた。
「貴方が、愛した世界だから、愛さなければと思ったんです。知らなければと、思ったんです。……なのに、俺は、貴方が愛したからじゃなくて、貴方が美しいと思ったからじゃなくて…………ただ、世界が愛しくて、美しいと思ってしまったんです」
 思い返したとき、サンダルフォンは愕然とした。自分のなかから、唯一の存在であるルシフェルが、抜け落ちていくような、消え去っていくのではないかという漠然とした不安が襲い掛かった。恐怖だった。あり得ないことだ。ルシフェルという存在が、サンダルフォンを構成しているといっても、過言ではない。あの御方との思い出が、サンダルフォンを作りだしている。だというのに、どうしてとその事実に、言い知れぬ恐怖を覚えた。
「こわくて、たまらなかった」
 世界を知ることが、広がっていくことが、ルシフェルとの思い出を塗りつぶして、無かったことにするかのような恐怖だった。けれど、自分で選んだのだと、止めることは出来ないでいた。脅えながらも、広がる世界に、どうすればよいのか、不安を覚えていた。
 だから、蘇った事が嬉しくて、そして、安堵した。
「貴方とみる景色は、何よりも、美しいんです。良かったって、思ったんです。最低でしょう? 貴方の善意を利用して、貴方を利用して、俺は安心を得ていたんです」
「……どうして、良かったと思うんだい?」
「だって、あなたと見る景色は違ってるんです。初めてみたときよりもずっとずっと美しいんです。比じゃないくらいに、輝いて見える。だから、俺の中で、貴方は消えてないって、全部ただの勘違いだったんだって、思えて、だから……」言いながらサンダルフォンは自らの醜悪な部分を曝け出していることに、口が重くなる。とうとう、言葉を紡げずに俯いたサンダルフォンを見下ろして、ルシフェルは胸に溜め込んでいた息を、吐きだしていた。
 ――失望、させてしまった。
 サンダルフォンは呼吸すら忘れてしまって、ただ、立ちつくしていた。想像していた通りだというのに、ただ、現実になっただけだというのに、「嫌だ」なんて否定する自分という矛盾が往生際の悪さそのもので、情けなくなる。
 知らず、ルシフェルの視線から逃れるように俯いていたその顔を優しく、持ち上げられる。その手を、拒絶することは出来ない。サンダルフォンは、なすがままに、恐る恐ると見上げたルシフェルは困ったような微笑を浮かべていた。
 ――困らせてしまった、言わなければよかった。
 後悔に、唇をきゅっと噛みしめたサンダルフォンにルシフェルが語り掛ける。
「嬉しいと、何をいえば良いのか、分からなくなる」
 一瞬、何を言っているのだろうとサンダルフォンは訳が分からず、ルシフェルを見上げた。きゅっと解放された唇を細く、長い指がなぞる。他人に触れられることのまずない箇所なだけに、サンダルフォンは戸惑いながらも、その手を振り解くことが出来ず、ルシフェルを見上げた。
「私も、同じではないよ。かつて見た光景のどれもが、あの時のままではない。より一層に、美しいと思っている。きっと、きみがいるからだ。サンダルフォン。君と見る世界が、美しい」
「キザな台詞ですね」なんて笑うことが出来ないのは、ルシフェルの言葉が真摯であると誰よりも知っているからだ。決して嘘を口にしない。いつだって、思ったことを口にしている。だから、サンダルフォンは泣きたくなる程の幸福を噛みしめて、自分も同じなのだと思い至る。
「貴方と見る世界が、美しいと、思うのです」
 ただそれだけのことは、胸の底に落ち着いた。ルシフェルは「一緒だ」と言って笑うと、うっすらとサンダルフォンの眦に浮かんだ雫を指先で拭った。
 
〇 〇 〇

 
 ルシフェルが蘇った日々はとっくの昔のように思える。
 広い空の旅路とはいえ、事件や事故に遭いつつも全てが物珍しくありルシフェルは興味深そうにしていた。あるいはルシフェル自身が原因となることもありつつも、おおむね、空の世界を満喫していた。
 諦めていたただの命として、想像以上の日常のなにもかもが、愛しくあった。
 喫茶室の運営や、サンダルフォンの経営修行に付き合うことも何もかもが新鮮で、斬新であった。店主としてふるまうサンダルフォンは、ルシフェルの知らないサンダルフォンであった。その姿に淋しさを覚えつつも、「ルシフェル様」と呼び掛ける声は変わらないものであった。サンダルフォンの珈琲を独り占めしたい、なんて気持ちはそっと秘める。こんなにも独占欲は強かっただろうかと不思議に思っていた。ここにかつて副官と務めた狡知がいたならば「昔も今も変わらないだろ」なんてツッコミを入れていたが、ルシフェルには変化のように思えたのだ。
 騎空団の一員であるサンダルフォン、喫茶室の店主であるサンダルフォン。自分だけのサンダルフォンではないのだという現実を受け止めつつも、それでもルシフェル様と呼び掛ける声と、二人だけの珈琲を飲む時間は特別であると自負していた。
 喫茶室を利用する団員がいない時間で、つい先日立ち寄った島で買った珈琲の試飲をする。癖のある珈琲を面白いと感想を交換しあいながら、ふとサンダルフォンは問いかける。
「今までの旅の中で、一番、美しかったものはなんですか?」
 そういえばと思い出したようなサンダルフォンの質問に、ルシフェルはううんと悩んでしまった。サンダルフォンにしてみれば、何気ない問いかけだったからそこまで悩むことではないのにと思った。それからルシフェルと共に過ごすなかで見てきた空の世界がより一層鮮やかであったことを思い出す。
(ルシフェル様のことだから、すべて美しいと思った、とおっしゃるだろうか)
 心から美しいと思っているのだと分かっているが、言葉少ない様子から反応を窺うしか出来ない。ルシフェルの反応はいつだって殆ど変わらず、感動を覚えている様子であった。ただ、サンダルフォンがそうであったならばと思っているにすぎないにしても感情の起伏は大きくはない。
 ううん、と考えこんでいたルシフェルだったがぱっと閃いたようだったからサンダルフォンは自分の答えがあっているのか、なんて期待しながら声をかけた。
「決まりました?」
「……うん、決まった。というよりも決めていた、かもしれない」
 ルシフェルは悠然と微笑を浮かべる。サンダルフォンは言葉を待った。
「キミだ、サンダルフォン」
「……おれ、ですか?」
「ああ。今更、なのかもしれないが……サンダルフォン、きみが何よりも美しいと思った。愛しいと、思っている」
 サンダルフォンは混乱する。その混乱すら手に取るように分かって、それからその姿も愛しくて、ルシフェルは笑みを浮かべてサンダルフォンを見詰めた。
 ルシフェルの言葉を否定する、つもりはないにしてもサンダルフォンは首肯も出来ないでいた。寧ろ、どうしても、首肯は出来ない。
 サンダルフォンは、美しくない。
 それは見た目だけではない。心も、同様だ。
 煌びやかな天司のなかで、サンダルフォンは自分の姿が抜き出ているとは思えない。一般的な、感覚としてのことだ。サンダルフォン自身、美醜センスに自信があるわけではないから強くはいえない。しかし、何よりも、かつて裏切ったこと、憎んだ事、傷付けたこと、愛したものを壊そうとしたことすべてが、罪悪感として重くのしかかる。そんな性根が、美しいわけがない。
 美しくないものは、愛せない。愛されない。
 サンダルフォンは自分自身のことだけは、決して、愛することが出来ない。
 ルシフェルの言葉を信じている。決して、喜ばせるための言葉ではない。それでも、だからこそ、サンダルフォンは自分自身を愛せない。
 サンダルフォンは曖昧に笑みを浮かべながら、珈琲の黒い水面に視線を向けた。
 ルシフェルはただ、愛しく、その所作を見つめていた。
「君の総てが――罪も罰も、あり方が、私には美しいと思う」
 サンダルフォンは言葉に迷った。悪趣味です、というべきか、慰めと思うべきなのか、分からないでいた。
「……有難う御座います」
 散々に悩んでから、サンダルフォンは謝辞を述べる。納得はしていないが、否定はできないというジレンマから絞り出した声はどこか、ふて腐れたような声音であった。ルシフェルはその心が手に取るように分かってしまって、微苦笑を浮かべてしまう。そんな表情に罰の悪さから、サンダルフォンは居た堪れなくなる。
「俺は、美しくなんてないし……愛される資格、なんて」思わず、反射的に口にしていた。しまったと思ってしまったが、ルシフェルは微笑を浮かべて穏やかに、サンダルフォンを見詰めていた。サンダルフォンは視線をさ迷わせる。
「迷惑かい?」
「……いえ、」
 嬉しいと、思う。嫌悪されるより、ずっと良いに決まっている。だけど、美しいとか、愛しいと評されるのはサンダルフォンのなかであり得ないことだった。美しいも、愛しいも自分ではなく、目の前の御方にこそ、相応しい。けれど、それを口にするにはサンダルフォンは照れくさくて、恥ずかしかった。そもそも好意を寄せられること自体に慣れていない。団員たちが時折、見せてくるような揶揄い混じりのスキンシップではないことが、分かってしまっているからこそ、どのように振舞えばよいのか、分からない。
 サンダルフォンは困り果てて、胡乱に吊り上がっていた眦も所在無く、垂れ下がる。
 すっかり参った様子のサンダルフォンを前にしてもルシフェルは言葉を撤回することもない。ただ、自身で口にして、そういうことだったのかと得心していた。
 ルシフェルには分かっていた。サンダルフォンは、自分自身を好ましく思っていないことにも、その理由にも心当たりがある。そして、ルシフェル自身がその要因であることも明晰な頭脳は理解していた。その姿は痛々しく、物悲しいものがあった。けれど、決して、それだけが理由ではない。それではただの同情だ。ルシフェルは心底、サンダルフォンは美しいと思っている。愛しいと思っている。
 美しいから、愛しいのではない。
 愛しいから、美しいのではない。
 サンダルフォンという存在だからこそ、だった。
「君の分まで、愛するよ」
 ざわざわと落ち着かない気持ちになったサンダルフォンは、聞こえないふりをした。

2021/03/23
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