ピリオド

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 ぐんと気温が下がった冬の朝のことである。ルシフェルは吐き出した息が白く、濛々と立ちこめて溶けていくのを見てから家を出ようとしたとき、「人魚が掛かっています!」と知らせが入った。ルシフェルは知らせを聞くなり、港の方へと向かった。屋敷からは海はすぐに見えるというのに遠く感じる。ルシフェルはもどかしい気持ちを覚えた。
 ルシフェルが港に付き、息を切らせるながら、きょときょとしていれば「領主さま、こちらです」と案内をされる。囲むように人だかりが出来ていた。困惑と戸惑いを浮かべていた人々はルシフェルが現れるとほっとした顔を見せて、散っていく。
 人だかりが失せた中央には無茶苦茶に絡まっている網の中、うごうごとしている姿があった。びたんびたんと尾が跳ねる。朝日が照り付けるなか、あちこちできらきらと輝くのは暴れた拍子に剥げた鱗であるようだった。息も絶え絶えながらも、抵抗の意思を見せ、ルシフェルを睨み上げる目に、ルシフェルはぞくりとしたものを覚えた。
 やがて人魚は目を廻してこてんと倒れた。ざわつく声をルシフェルが落ち着かせる。
「気絶をしているだけだ。すぐに海に……いや、治療をするべきか」ルシフェルは人魚の尾を見て眉を寄せた。「私の屋敷に運ぶ」
 それから、海水を屋敷に運ぶように手配をして、屋敷の者に水槽を空にするように伝えてくれと使者を飛ばす。
 目を廻している人魚に、ルシフェルは直接触れないようにと抱き上げた。ぐったりとしている体は思いのほか重く、そして尾が長い。数人の男たちと屋敷へ運ぶこととなった。
 準備の整えられた水槽に、ゆっくりと人魚を入れる。
 こぽこぽと沈んでいく姿を不安に思いながら、ルシフェルは不謹慎だと自覚しつつも、嬉しいと思う気持ちが隠せないでいた。

 人魚は魔物である。海面から顔を覗かせては人を惑わす美貌と美声で、悪戯に航海者を海に引きずり込む。邪悪な海の怪物である。あるいは信仰の対象である。人魚のいる海は豊かな海だ。人魚に惹かれるのは人間だけではない。魚も集まる。その魚を獲ることにより生活を営む人々にとっては、豊漁の証ともいえる有難い存在である。
 ルシフェルが領主である港町でも、恩恵に与っており、人魚を信仰している。特にルシフェルは人魚に命を救われた身であるから、人魚に関しては、熱心に保護を訴えていた。

 二十年程昔のことだ。ルシフェルは海に落ちた。それまで、ルシフェルにとって海とは慣れ親しんだ遊び場であったのだが、海はルシフェルの知らない顔を持っていた。藻掻けば藻掻くほどに沈んでいき、海面が遠のいていく。ルシフェルは頭の片隅で「死んでしまうな」と冷静に思っていた。途端、手を掴まれてものすごい速さで浮上した。酸素を求めてぼんやりとした頭で見たのは、力強く、しなやかに跳ねる尾とうねるような長い髪であった。ルシフェルが次に目を覚ましたのは砂浜の上だった。日陰から起き上がると、太陽は真上でさんさんと輝いていた。
「こんなところにいたのか」と呆れた声をかけたのは、今では遠い場所で研究をしている従兄だった。「また海に入っていたのか」
「……うん」
「おまえ、服のまま入ったのか?」
「怒られるだろうか」言いながらルシフェルはちらりと従兄の後ろの海に視線を向けた。水平線の中、ぷかりと上がった顔は、ルシフェルと視線が交わるとぴちゃんと飛沫を跳ねさせて引っ込んだ。従兄が怪訝に振り向いたが、水平線が浮かぶだけだった。
「人魚がいたんだ」
「……珍しいな」
「見たことある?」
 従兄は何もこたえることはなかった。

 以来、ルシフェルにとって人魚は港町で生きる者として「信仰すべき存在」であると同時に「命の恩人」となった。しかしルシフェルが人魚を見たのはその時の一度きりであった。そもそも人魚の目撃は少ない。一生に一度あるかないか。目撃したとしても生きている保証はない。海に引きずり込まれる危険性が高いのだ。人魚は海の生き物だ。……網に掛かる人魚なんて聞いたことはない。ルシフェルは水槽の中を見つめて心配に思った。元から弱っていたのだろうか、と何時まで経っても目を覚ます素振りのない人魚の状態を案じていれば、不意に瞼がひくついた。ぼんやりと開かれた目はまどろみの中をさ迷っている様子で、小さな欠伸をこぼす。ルシフェルはその仕草を目に焼き付けるように見ていた。やがてぐっと伸びをした人魚ははっとした様子できょときょとと見渡して、ルシフェルにやっと気づいた。気づいた途端、先ほどまでのくつろいだ様子が嘘のように、照れ隠しなのか、八つ当たり気味に睨み上げてくる。ルシフェルは苦笑した。ちっとも、怖くはない。

「君の治療を……」と口にしたルシフェルは思い出す。
 人魚の耳は退化している。そもそも深海で暮らす人魚にとって「音」は重要ではない。音よりも「振動」でコミュニケーションを取る、ということをルシフェルは長年の人魚研究で知り得ていた。ルシフェルは人魚の尾を示す。傷ついた尾を、人魚はやっと認識した様子だった。それから、ルシフェルが慣れない身振り手振りで治療をすると伝えればどうにか、伝わったらしく、人魚は申し訳なさそうな顔をしている。それからおそるおそると、水槽に触れた。物珍しそうに感触を確かめてから、こつんと小さく叩いた。了承は得られた様子だった。
 尾は二、三日も薬を塗り込んだ包帯を巻きつけていれば傷は残ることはなかった。ルシフェルは満足にその尾を見てから、まじまじと自身の尾を見ている人魚をちらりと見た。
「傷跡が残らなくて良かった」ルシフェルは言葉を掛ける。伝わらないと分かっていながらも声をかけていた。人魚は微笑みを浮かべて恥ずかしそうに口を開いた。音は乗っていない。五音のそれにルシフェルは「どういたしまして」と言った。
 人魚を屋敷に置く理由は最早ない。けれど、ルシフェルは放し難いと思ってしまっていた。まだ本調子ではなさそうだから、体のほうの傷が消えるまでとずるずると引き逃していれば、愛着がわいて、ますます、手放しがたくなっていく。まずいなと思ったときには既に手遅れだった。
 ルシフェルが水槽に寄れば、人魚もふらりと水槽に寄る。人魚が丸まっていた場所にはきらりとしたものが光って見えた。なんだろうかと目を凝らせばそれは真珠のようだった。なぜ、そんなものがとルシフェルは疑問に思った。用意をした水槽にそのようなものはいれていない。

 その答えは簡単だった。

 しんと静まり返った夜中、しくしくと涙を流していた。海が恋しいのか、淋しいのか。ルシフェルには何を想い憂い、悲しんでいるのか分からない。零れ落ちた涙がころりと転がり落ちる。ルシフェルはその姿を見て、「帰さなければ」と決意した。
 水槽を運び出すように手配をすれば、人魚はおろおろとルシフェルを縋るように見つめる。ルシフェルは大丈夫と声をかける。人魚は分からないはずの言葉を理解したように静かに、だけど心配を浮かべていた。水槽の中身は慎重に海に入れられた。人魚はきょろきょろと周囲を見渡す。それからルシフェルを見上げた。
「もう近くに寄ってはいけないよ」
 言い聞かせるような言葉を掛けたルシフェルの横顔は穏やかであり、そして淋しげであった。顔を覗かせた人魚はルシフェルを見上げてから、ぱしゃんと尾で飛沫をあげた。
 それから、朝になれば人魚が顔を覗かせる姿が港町では見掛けられるようになった。

Title:約30の嘘
2021/01/03
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