ピリオド

  • since 12/06/19
「この時代に、まだこのような豊かな森が残っていたとは……」
 ルシフェルはひとり、感動を覚え、思わず呟いた。
 かつてルシフェルが空の世界で天司長として生きていた時代と変わらぬ厳かな気配が満ちている。さわさわと風がそよぐ。果てのない青々とした緑が生い茂る。人の身となった今では、あるがままの自然はいっそ強大すぎて触れ難いものであるのだとルシフェルは、しみじみと感じていた。
 額にじんわりと滲んだ汗を拭う。
 一息ついたルシフェルはもう少しと荷物を抱えなおすと、また道なき道を歩き進む。目指すは森の奥深く、辺境に位置する村である。長期の交渉の果てにやっと立ち入ることを赦された村であった。村として確認をされているものの、どの国にも属さず、独自の発展をし続けている村の調査と研究が、ルシフェルの民俗学者としての目的であり、個人としては人探しである。
 天文学的な数字であるとルシフェルも理解している。生まれているのかも分からない。生まれているとしても、記憶があるとも限らない。淋しいことであるが、今までも生まれ変わりである知人と再会したものの記憶の有無はマチマチであった。もしも彼に記憶がなかったら……とルシフェルは想像するものの、それが探さない理由にはならない。たとえ記憶がなくとも、ルシフェルはサンダルフォンを探して、求めて止まない。それが、ルシフェルとして生まれた本能である。
 ルシフェルの中で、サンダルフォンは三大欲求と変わらぬ、生理的欲求であった。ルシフェルはただの人間であるので欲求には抗えない。かくして若き学生時代のルシフェルはサンダルフォンを探すにはあらゆる場所に行く機会に恵まれていると、進路を民俗学者へと舵取った。
「なぜ民俗学者なんだ、止めておけ」
「止めるつもりならサンダルフォンを連れてきてくれ」
「サンダルフォン? 何を言ってるんだ、お前は」と困惑する周囲の制止を押しのけ、気づけば見事民俗学者として確固たる地位を築き上げた。最早周囲は何も言えなくなった。

 やっとの思いで辿り着いた村は、予想を裏切りのんびりとしていた。よそ者であるルシフェルを物珍しく見る視線はあるものの、敵意はなく、排他的でもない。それどころか人好きする笑みを向けて、親切ですらあった。
 村には宿泊施設はない。なんせ辺境に位置し、他所との交流のない村である。そのため、ルシフェルは村のまとめ役をしている一族の家に厄介になることになっていた。取材交渉をしていた相手である。他の民家よりもやや大きく、豪華に作られている家でルシフェルは「ようこそ」と歓迎を受けた。それから研究に役立つのではないかと、村の歴史をまとめた史料を見せられたから、あっけなさに拍子抜けする。

 村を出歩くことも咎められない。
 なぜ、この村は長年取材や調査依頼を断り続けていたのだろうかとルシフェルも分からなくなる。今まで研究の為に多くの未開の地を訪ね歩いたルシフェルでも、首を傾げる。

 不意に、カランカランと何処からともなく鐘の音が村中に響き渡った。人々はそれまでの朗らかな様子をさっと奥深くにしまい込み頭を垂れる。ぴんと、緊張の糸が張りつめる。ルシフェルはきょとりとその光景を見ていた。やがてカツンとヒールを踏みしめる音が響き、そちらに目を向けた。
 赤い瞳が見開かれ、ルシフェルを見つめる。しかし、何を言うでもなく逸らされるとそのまま数人の男たちを引き連れて歩き去っていった。張りつめた緊張が弛む。やがて誰からともなく、拝み始める。ややあってから、先ほどと変わらぬ日常に戻り始めるなか、ルシフェルは呆然と立ち尽くしていた。
「彼、は?」
「サンダルフォン様だよ。知らないの?」
「……サンダルフォン様?」
「うん、あのねサンダルフォン様はね、神様なんだよ」
 ルシフェルの問いかけに少女がにこやかにこたえる。「神様?」ルシフェルが鸚鵡返しに言えば少女は嬉しそうに「そう!」と言った。
 見間違えでもなんでもなく、先ほど姿を見せた「サンダルフォン様」とやらはルシフェルの知るサンダルフォンであった。ルシフェルが求めたままである。ルシフェルの心配や不安もただの思い過ごしの考えすぎであったように、記憶もあるようだった。あの見開かれた目は「知らない人間がいる」と訝しむものではなく、「どうしてここにいるんだ」と言う驚きの目であった。
「サンダルフォン様」についてルシフェルが少女に問いかけようとすれば、少女は名前を呼ばれて去っていく。

 浮かび上がった疑問を、民俗学者として、そしてサンダルフォンに関することとして無視をすることはルシフェルには出来なかった。

「サンダルフォン」はルシフェルにとって安寧の名前である。自分でつけておきながら、口にするたびに胸に温かなものが込み上がる。少しばかりの贔屓は否定できないものの、名前だけでも安寧が滲み出ているとルシフェルはしみじみと思う。しかし、世間一般には人につけるべき名前としては忌避され、役所でも突き返される名前である。
 ルシフェルはまったく以て解せない。
 天司が過ぎ去った世界において、サンダルフォンの在り方は「悪」として歴史に記録されている。
 それはどの国を巡っても、辺境の地であっても共通認識であり、歴史であった。いがみ合っている国家間ですら、その歴史は共通である。
 邪神サンダルフォンによって災厄は引き起こされた。
 人として空の世界の歴史に触れたルシフェルは臓腑がぐつぐつと燃え滾る怒りを覚えた。憤死寸前まで頭に血が上って、それから遣る瀬無く、虚しさを覚えた。
 もしもパンデモニウムの封印ではなく、サンダルフォンを優先していたならばこの記述はなかった。そもそもサンダルフォンを災厄に駆り立てたのはルシフェルの責任である。災厄はルシフェルの罪でもあるのだ。だというのに、サンダルフォンばかりが邪神として扱われる。サンダルフォンばかりに罪が向けられる。
 それがルシフェルには赦しがたい世界の歴史である。

 滞在先の家に戻り、史料を隅々まで読んでも村における「サンダルフォン」に関する記述は一切ない。いっそ不自然であった。史料には村が巻き込まれた災害や疫病、事故や事件についてが書かれていた。それから、まとめ役の一族が保管しているだけあってその系譜が書かれている。どうやら、森を開き村を作り出した一族であるらしい。
──ここ数年で生まれた信仰なのだろうか? ならばその前は何を信仰していた?
 カランカランと鐘が鳴る音が、再び、響き渡った。

〇 〇 〇

 その日の夜のことである。ルシフェルはランプの薄明かりのもとで村人から聞いた話と史料をまとめていた。宗教については何一つとして手がかりになる情報は得られなかった。村人たちの間では箝口令が敷かれているのか、さりげなく話が逸らされる。それどころか、宗教について探っていることに対して、穏やかな態度の下では警戒と不審が見え始めていた。ある意味では収穫ともいえるのだろう。よそ者には言ってはならないという、どうやら後ろ暗いという意識があるようだった。ルシフェルはその後ろ暗さが「サンダルフォン様」と関係しているのだろうと思うと、不安に駆られる。理不尽に、ひどい目に合っているのではないかと思うと、そわそわと落ち着かなくなる。
 また、村の生活様式が大昔で止まっていることが気がかりだった。水道や電気も通っていない。村には井戸があり水源となっていた。そして電気の代わりのランプや蝋燭が光源であった。電気が無い故に、家電製品の類も普及していない。

 散々に買い換えろと言われ続けている、ルシフェルが取材用に愛用している型落ちしたボイスレコーダーですら、この村においては「魔法の蓄音機」扱いであった。
「すごい!」と興奮に鼻息を荒くする子どもたちにルシフェルは戸惑った。
 ルシフェルがボイスレコーダーを操作する。
「すごい!」と子どもたちの声が再生されるや、子どもたちはわっと歓声を上げた。対して大人たちは冷ややかな目でルシフェルを観察していた。

 ルシフェルは自らの行動が村人たちの不審を煽っていることを重々承知であった。承知の上で誘導した通りに動く村人たちにルシフェルは感謝をする。村は徐々に、剣呑な雰囲気に包まれていた。
 記憶にある限り、穏やか村に張り詰める空気に気づけないほど、鈍くはない。

「まったく、もう……」と村の状態に、仕方なく立ち上がると付き人に声をかける。
「他所から研究者が来ているんだろう? 呼んでくれ」
「アレは異教徒です! サンダルフォン様の御目にかかるには……」
「だからこそ、だ。教えを広める時期が来たんだ」とサンダルフォンが適当な出まかせを口にすると、付き人はぶるぶると震え、感極まったように、
「成程……! すぐに連れてまいります!」
「丁寧に、くれぐれも失礼のないように、お越しいただくんだ。いいな? 客人だからな?」
「承知しました!」
 本当に承知しているのか怪しいところであった。サンダルフォンの命令に喜び勇んで飛び出していった付き人はそれから暫くして言われた通りにルシフェルを連れてきた。サンダルフォンの念押しは無意味だったらしく、ルシフェルの服には汚れがついている。付き人には打撲が見られる。一悶着あったらしい。サンダルフォンは頭痛を覚える。
「連れてきました、サンダルフォン様!」
「……俺は、丁寧にと言ったよな?」
「はい!」
「…………外で待機していろ」
 男は命じられるままに部屋を出ていく。サンダルフォンは溜息を吐き出して顔をあげる。ルシフェルは穏やかな顔で立っている。サンダルフォンは苦笑を浮かべ、口を開いた。

「無茶をしましたね」
「そうだろうか? 君には正攻法では会えないようだったからね、少し回りくどい方法を取らせてもらった」
「俺が気づかなかったらどうするつもりだったんですか?」
「君ならきっと気づくと信頼していたから、あの方法を取ったんだ。だってサンダルフォンなのだから」
「だって、が理由になってませんよ」
「なってないだろうか……」
「もうっ! ……人間は、いや……彼らの精神は頑丈ではないのですから、あまり刺激しないでくださいね。今だってギリギリで踏みとどまっているんですから。それに、ルシフェル様だって、もう、人間なのでしょう?」
「ああ。私は人間だよ。……君もだと思うのだが、どうだろうか? サンダルフォン」
「俺も、ただの人間ですよ」そう言ってサンダルフォンは笑みを作った。ルシフェルはその笑みをじっと見てから、目を伏せ、思案を浮かべる。サンダルフォンはその思案を邪魔するように、声をかける。時間はあまりない。

「ルシフェル様、御願いします。……どうか、すぐに村を出ていってください。それから、この村のことは忘れてください。もう二度と、この村に近付かないでください」切羽詰まった声にルシフェルも真剣にこたえる。
「ああ、わかった」と物分かりよく首肯することなんで出来やしない。納得なんて出来るはずがない。サンダルフォンと再会するために、約束を果たすために費やした苦労や時間を盾にする訳ではないが、納得するだけの理由を求める権利がルシフェルにはある。
「理由を聞かせてくれ」
「理由、なんて……あなたがよそ者というだけで十分なんです。この村にいちゃいけない。貴方を危ない目になんて、合わせたくなんてないんです。お願いします、ルシフェル様」
「ならば、そんな村に、大切な君を置いて行くことは出来ない」

 サンダルフォンの顔がくしゃりとゆがむ。どうして分かってくれないのだというもどかしさと、こんな自分でも大切にされているという息苦しい程に切ない嬉しさ。だからますます、サンダルフォンはこの人を傷付けたくないと思ってしまう。
「サンダルフォン、私と一緒に、村を出よう」
 ふるふると首を振る。ルシフェルが懇願するように、「サンダルフォン」と呼びかけても、サンダルフォンは哀し気に目を伏せて拒絶をする。
 ぎゅっと拳を握りしめて、掌に爪を立てる。その痛みが無ければ、ルシフェルの言葉に頷きそうになる自分を、咎めるように。じんじんとした痛みがサンダルフォンに立場が思い出させる。
「……サンダルフォン様」心配をした付き人が扉越しに声をかける。サンダルフォンは小さく呼吸を整える。
「話は終わった」
「終わってないよ、サンダルフォン」
「サンダルフォン様になんて不敬を!」
「俺が赦している」
 それこそ、不敬なのは俺の方なのだがとサンダルフォンは思った。そもそもお前たちの振る舞いこそ、不敬なのにと咎めたい気持ちになる。

 サンダルフォンにとって、どのような立場であってもルシフェルは敬愛すべき存在である。天司長だろうと、人であろうと変わらない、唯一の存在である。だからこそ、彼にだけは、不甲斐無い自分を見せたくはなかった。散々に情けない姿を晒しておきながら、醜態を演じておきながら、それでも、見られたくなかった。
 この世界で出会いたくなかった。

〇 〇 〇

 世界を作り変えようとした。天の世界を創りだそうとした。自分を否定する世界なんて、あの人が愛するものなんて、すべて壊れてしまえばいい。そのために、世界を壊そうとした。実際にちょっとだけ壊した。
 サンダルフォンの魂に刻まれた罪である。
 サンダルフォンの犯した罪は歴史に刻まれ、邪神の名は語り継がれている。サンダルフォンがルシフェルの後を継ぎ、天司長として空の世界を守り続けたという真実は、狡知の言った通りになるのは口惜しいことであるが、旅の仲間たちが持って生まれた分の命を終えると、誰も知るところではなくなった。
「それでいいの?」団長は、残されるサンダルフォンを心配して言った。サンダルフォンはすっかり覚悟していたから、「これで良いんだ」と返した。団長は何か言いたげに口をまごつかせて、サンダルフォンの頑固さをよくよく知っているから何も言えずにただ、溜息をついただけだった。

──犯した罪はサンダルフォンに。
──サンダルフォンの功績は天司長に。

 称讃されることなく、感謝されることもなく、守り続けてきた空の世界で生きる命が「サンダルフォン」を憎悪の存在として認識するようになっても、サンダルフォンは構わなかった。それだけの罪を自分は犯し、そして彼らには自分を恨み憎む権利があるのだと承知していた。
「サンダルフォン」が世界から憎まれ続ける、生きている限り孤独こそが、罰であるはずであった。しかし、サンダルフォンにとっては罰ではなかった。なんせサンダルフォンにはルシフェルという存在がいた。ルシフェルは味方であり続けてくれる。心は孤独ではなかった。
 今際でさえ罪と向き合い続けた。けれど終ぞ、罰はなかった。そればかりが気がかりで、まるで逃げるようではないかと心配に思った。

 結局、空の世界には天司は不用であると確信をして、サンダルフォンは命を終えた。
 憎まれて、恨まれて当然である存在としてのサンダルフォンは、困惑を覚えた。

 サンダルフォンが人として生まれたのは今世を含めると99回になる。次が記念すべき100回目である。これまでの98回の生においてサンダルフォンは敬愛し、命を終えたサンダルフォンを「おかえり、サンダルフォン」と優しく出迎えてくれたルシフェルと出会っていない。「もしも生まれ変わったら、また珈琲を飲もう。きっと、きみを探すよ」と言ってくれたルシフェルとの約束を、果たしていない。
 サンダルフォンは98回、果たせない約束に、ほっとしながら命を終えた。
──良かった、再会できずに済んだ。そう思って、笑顔で見送られる。
 そしてまた繰り返すのだ。

 同じ場所で生まれて、大切に育てられて、残酷に命を奪われる。サンダルフォンの生誕も生きる過程も固定されていた。

 まだ一桁代で繰り返していた時点では、なにが起こっているのか理解出来なかった。生まれ落ちた瞬間、自分は今まで夢を見ていたのではないかとサンダルフォンは思ってしまった。今度こそは、なんて淡い期待を抱いてしまった。期待はすぐさま絶望に染まる。
「サンダルフォン様だ!」わっと歓声が沸き起こり、祀り上げられる。大切に、それこそ怪我や病気の一つもすることもなく育てられる。そして笑顔で、あっさりさっくりと、命を摘み取られる。
 当初こそ「なぜ」と思った。そもそも「サンダルフォン様」として祀られる理由もなければ、大切にされる意味もない。邪神サンダルフォンは憎まれるべき存在として、刻まれている。だというのに、村においては信仰されている。

 彼らは「サンダルフォン様」を敬い、復活を信じ、そして「天の世界」に希望を抱いている。復活をした「サンダルフォン様」によって作られた天の世界へと行くことが彼らにとっての救いであるらしい。
 彼らはサンダルフォンを手に掛けるとき、微塵にも悪意はない。それどころか罪悪感も抱いていない。
「サンダルフォン様」を肉体から解放することが、正しいことだと信じている。

 数十回目の生においてやっと村人たちの真意を知ったサンダルフォンであったが、抗う気持ちはなかった。それどころか、「なるほど」とストンと腑に落ちてしまった。どうやら、これが世界から与えられた罰のようだった。
「サンダルフォン様」の生まれ変わりどころか、本人である、とは流石のサンダルフォンも言えない。我が身可愛さではなく、邪神なんてものを崇拝している彼らを想えばこそ、言えるはずもない。

 長年信じてきた存在に裏切られた虚無が何に繋がるのか、サンダルフォンはよく知っている。それこそ、信じた期間が長ければ長い程、裏切られたという気持ちは強くなる。サンダルフォンの経験談ながら、信じたのは自分の勝手である。求めたのは勝手であった。だというのに、勝手に裏切られたつもりになって、八つ当たりを向けた。そして今に至る。サンダルフォンとしては、彼らに自分のようにはなってほしくない。
 彼らが天の世界に何を期待しているのか分からない。そもそもサンダルフォンが天の世界を創ろうとしたのは、ただの当てつけであった。そんな世界を夢見る彼らをサンダルフォンは哀れに思った。
 繰り返される命は、サンダルフォンの償いのためにある。サンダルフォンは無意味だと理解していながら、彼らの信仰のために、抵抗することなく、申し訳ない気持ちを胸に、受け入れる。それが、サンダルフォンの償いだった。

 今やサンダルフォンは、ただの人である。
 かつてのようにエーテルを操ることは出来ない。空を自由自在に駆け巡ることも出来ない。世界を壊す力もない。無力な、ただの人間である。
 仮に力があったとしても、サンダルフォンは世界を壊すことは出来ない。何があっても、世界を守る存在としてあり続けることを選択する。
 記録に残されていなくとも、誰の記憶に残っていなくても、天司長として、サンダルフォンの意思として、世界を守り続けたのである。あるいは、天司長でなくても、空の世界で生きる命として、守り続けた世界を、今更になって壊そうだなんて、ちらりとも思わない。
 かつて壊そうとした世界だというのに、壊れた世界というものを、サンダルフォンは想像も出来ないでいる。新たな世界だなんて、天の世界だなんて想像もつかない。
 それは人の身となった今でも変わらない。

 だというのに、求められるのは破壊として、邪神としての姿であるのだから皮肉なものだとサンダルフォンは笑ってしまう。
 終末を阻止した身が、終末を願われている。

〇 〇 〇

 話をしたのは夜のことだった。娯楽のもなく、電気の通っていない村では夕方になれば家で過ごすようになる。まず、出歩くことは無い。にも拘わらず「サンダルフォン様によそ者が呼びだされた」という出来事は知れ渡っていた。情報源はルシフェル本人である。なんせルシフェルは使者を名乗る男相手に大立ち回りを繰り広げて見せた。堂々と、村の中央で。
 夜中でしんと静まり返っている中で突如として「おとなしくしろ!……ギャア!」なんて一方的な声が聞こえたら村人たちも起きて、何だどうしたと様子を確認する。そして様子を見ればよそ者のやけに顔の整った不審な青年と、サンダルフォン様の付き人である青年が掴み合っている姿に誰もが目を丸くした。掴み合っているというよりは、よそ者であるルシフェルが、付き人の拳や掴みかかろうとする手をいなすように立ち回り、ルシフェル自身は努めて加減をしたものの、傍目からは割かし容赦のない拳を叩きこんでいる。
 付き人はボロボロになりながらも健気に、サンダルフォン様の命令を遂行するために「サンダルフォン様がお呼びだ!」と声を張り上げ、どうにか、しがみついているようだった。
 夜中で起こったにも関わらず翌朝には誰もが、その衝撃的な事件を知っていた。
──サンダルフォン様がよそ者を呼びだされた。
 話をするどころか、顔を会わせることも畏れ多い存在である。信仰を捧げるべき終末の神。天の世界へと導いてくださる尊い御方。
 村人たちの父母、祖父母、そのまたと連綿と続く命は長年、天の世界を目指してきた。けれど天の世界は一度たりとも創られていない。もしかしたら、天の世界なんて……サンダルフォン様なんて……と疑問は閉鎖的な村のなかで口にすることは出来ない。そんな、恐れ多い疑問を向けられるわけがない。けれど、鬱屈とした不満は丁度よく、向けられた。
──なぜ、よそ者が呼びだされる?
 疑問と共に、妬み交じりのやっかみがルシフェルに注がれる。

 ルシフェルは何食わぬ顔で、研究の為と森を散策して、村を徘徊して過ごしていた。大人たちは警戒して話が訊けないものだから、子どもたちと話をする。相変わらずボイスレコーダーは彼らにとって「とんでもなくすごい」存在であるらしい。

──カラン、カラン。鐘の音が響いた。
 村人たちは恭しく頭を下げるなか、ルシフェルはじっとサンダルフォンが現れるのを待つ。ややってからサンダルフォンはこつりとヒールを踏みしめて現れると、ちらりと視線が交わる。その瞳に落胆が浮かび上がる。
「どうして、まだいるんですか」
 雄弁に物語る瞳が伏せられ、付き人を従えて去っていった。その間、歩みはとまることがなかった。
「あ、どうしよう」おろおろとしている子どもは、ルシフェルが「どうしたんだい?」と声を掛ければいよいと涙混じりの顔でごめんなさいと頭を下げる。恐る恐ると差し出されたボイスレコーダーを、ルシフェルは首を傾げながら受け取る。
「壊しちゃった」
「……いや、大丈夫だ」
「本当?」
「うん、問題ないよ」とルシフェルがにこやかに言えば子どもは、良かった……と安心したように呟いた。ルシフェルはボイスレコーダーを受け取ると大事にしまい込んだ。
「サンダルフォン様は、いつも何処へ行くんだ?」
「えっと……」子どもは言いよどむ。けれども、ボイスレコーダーのことで罪悪感があるから、もごもごとしながら小さな声で言った。
「祭壇だよ」

 夜の静けさが、サンダルフォンを焦らせる。
 村の雰囲気は最悪だ。どうにかして、ルシフェルには村を早く、立ち去ってもらわなければならない。サンダルフォンに対しての村人は、信者として、どこまでも敬虔に振舞う。同時に、サンダルフォンが示したわけでもないというのに、誰が始めたのか不明な教えを守り、理由にして平気で命と摘み取る狂気を抱えている。サンダルフォンには慣れたものである。しかし、狂気がルシフェルに向かうとなれば別である。彼らが何をしでかすか、分かったものじゃない。ルシフェルに危害が及ぶことだけは、避けたい。サンダルフォンはどうしたら、と俯き考える。
 あれで、頑固なところある。

──カラン、カラン。と鐘の音が響いたのはその時である。
 こんな夜中に? と不思議に顔をあげる。あるいは、風で偶然鐘が鳴ったのだろうか。……思ったものの、そんな事態は今まで一度だって無かった。そもそも、そんなに強い風であるなら外はもっと荒れているはずだ。窓から覗く景色は穏やかな夜の世界である。
 何か、あったのだろうかと付き人たちが来るのを待っていれば、誰も来ない。
「だれか、いないのか?」サンダルフォンは、人は、こんなに情けない声が出るのかと知った。意を決して、サンダルフォンが部屋を出ようとしたところで、扉が開かれる。ほっとしながら「なにがあったんだ?」と訊ねようとしたサンダルフォンは言葉をごくりと呑みこんでしまった。付き人ではなかった。そこには、ルシフェルがいた。呆然と、サンダルフォンはルシフェルを見上げた。
「サンダルフォン、ここから出よう」
 ルシフェルの言葉に、サンダルフォンはただ、笑みを浮かべる。そして、首を振る。ルシフェルの言葉であっても、賛同は出来ない。
「だめです、ルシフェル様。行けません。俺は、ここで、彼らを」
「君の償いは終えている」
「いいえ、彼らの存在が俺の罪の証です」
「ちがう」
 ルシフェルは痺れを切らしたように、聞き飽きたと言わんばかりにサンダルフォンの手を取った。サンダルフォンが目を丸くして、思わず手を引っ込めようとしたものの取られた手は離すものかと引っ張られる。体勢を崩したサンダルフォンを、ルシフェルが抱き留める。
「彼らは君に甘えているだけだ」
「けれど、」
「そして、君も彼らに甘えている」
「……それ、は」
「償いでもなんでもない。ただの、殺人に過ぎない」
「お見通し、なんですね」
 苦しい程に、痛みを覚える程にルシフェルに抱き寄せられる。
 サンダルフォンは諦めて笑うしかないでいた。

〇 〇 〇

 子どもが口にしていた祭壇にルシフェルは忍び込んだ。警備と言ったものは存在しないが、誰が見ているかも分からない。口を噤んでいる様子だったから、秘匿する存在であり、そしてこの場所こそが「サンダルフォン様」に通じる手がかりになると確信していた。
 村の真裏、覆い茂る木々のなかにそれはあった。
 緑の中に白亜の支柱が並び立ち、囲い込むその中央に、彼らが言う祭壇があった。緑と白亜の中、その祭壇だけが黒く、目を引いた。ルシフェルは警戒をしながら祭壇に近寄る。そして、祭壇が黒いだけではないことに気づいた。よく見れば赤黒い。その色に、心臓が煩く、呼吸が苦しくなる。酸素が足りない。目の奥ではフラッシュが焚かれたように点滅が繰り返される。震える手で、祭壇に触れた。
 木製の祭壇の天板がずれる。
 息苦しく、くらくらする。ルシフェルは覗き込んだ。
 総て、理解をした。

「あれは、すべて君なのか」責め立てるような言葉にはルシフェルの焦りがあった。
 すべて。祭壇の内部を満たそうとしていた「サンダルフォン様」の成れの果て。死後。肉は腐り果て、骨は朽ち果てる。自然の摂理。だとしたらと、ルシフェルは胸の奥が冷え切っていくのを感じた。
「……彼らは、サンダルフォンを絶対に間違えないんです。不思議ですよね」
 誤魔化すように茶化して言ったサンダルフォンをルシフェルはぎゅっと抱きしめる。
「サンダルフォン」と呼びかける声に、サンダルフォンは参ってしまう。
「それでも俺はここを出ません。甘さでも、なんでも」
「頑固だな、君は」
「自覚はあります」
 サンダルフォンは笑って言った。
「笑うことではないよ……仕方ない」
 項垂れるルシフェルにサンダルフォンは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
 時間を無駄にさせてしまった。断ってしまった。罪悪感。だというのに、連れ出そうとしてくれる優しさが嬉しく、思ってしまった。
 この思い出だけで、サンダルフォンは今までの98回も、今回の99回目も決して無駄ではなかったのだとサンダルフォンはこみ上げるものを、抑え込む。
「ルシフェル様、そろそろ人が来ますから」
「ああ、分かってる」
 名残惜しみながら離れる。けれど、その手は取られたままだった。サンダルフォンは困った顔で、ルシフェルを見上げた。ルシフェルは何も言わない。
「ルシフェル様」
「うん、分かってる」
 分かってるのかなとサンダルフォンは困惑から、戸惑いを浮かべてルシフェルを見上げる。
 ルシフェルは穏やかなな顔をして、サンダルフォンに言い聞かせた。言い聞かされたサンダルフォンの顔色がさっと失せた。
「私はね、きみと再会をして、それから珈琲を飲むことをだけが生きる意味なんだ。きみがいないなら、この命に意味はないよ。……サンダルフォン」
──この人は、なんて残酷なことを言うのだろう!!
「ずるい、ずるいですよ! そんなの!!」
「ずるくて構わない。君がそのつもりなら、手段を選ばないともう決めた」
 ずるいずるいと言うサンダルフォンにルシフェルは平気な顔で言ってのける。本気である。サンダルフォンとこの場で別れるならば、ルシフェルもこの世と別れる。残酷な脅迫はこれ以上ないほどに効果覿面であり、サンダルフォンは「ずるいずるい」と言いながらも抵抗することなく手を引かれる。その姿は気の毒すぎるものだった。

 鐘の音が響き、村人たちは慌てて家を飛び出した。しかし、いつまでたってもサンダルフォン様は御降臨なされない。福音の如く響く軽やかな足音はいつまでたっても聞こえない。そもそも、夜中に鐘の音なんて今までにないことだった。何かがおかしい。頭を垂れていたものの、不自然さに隣人を見ては、頭をあげ、きょろきょろと周囲をうかがう。何が起こったのだろうか。静まり返っていた村人たちは騒めきだす。
「……もしかして、サンダルフォン様の身に何かあったんじゃないのか」と誰かが口にした。
「様子を、見に行くか?」という言葉には、「しかし」だとか「だが」と言った言葉が沸き起こり、結局は不安ばかりが村人たちを包み込んだ。
 村人たちは問題事に対しては異常なまでに弱い。対処方法が分からないのだ。顔を見合わせてもどうしたら良いのか分からないまま、夜が明けた。

 その時既に「サンダルフォン様」は姿を消していた。

 鬱蒼と生い茂る木々を先行くルシフェルの後を、サンダルフォンは追いかける。迷いなく突き進んでいく背中に、サンダルフォンはせり上がる不安を投げていた。
「夜明けにはきっと気づいてしまいますよ」
「それまでに逃げ切ったら良いだけのことだ」
「簡単に言うんですから……自分で言うのもなんですけど、俺は箱入り育ちで、体力なんてありませんからね!?」自慢にならない宣言をする。
「その時は君を背負って逃げるよ」
「追いつかれたら?」
「それなりに腕は立つ。返り討ちにする」フィールドワークには危険がつきものだ。何よりも、ルシフェルはサンダルフォンを探し求めて、同業者ですら危険だからやめておけというような危険地域をあちこちと駆け巡って、ちょっとした冒険譚でも書けそうな修羅場を潜り抜けてきたのである。

 日が暮れたら? 捕まったら? この道であってるのか? サンダルフォンは不安をすべてルシフェルにぶつけていた。ルシフェルはなんてことないように、不安にこたえる。やがてサンダルフォンは何も言葉を口にできなくなった。言葉にしてはならない不安だけが、サンダルフォンに残っていた。
 黙りこくったサンダルフォンに振り返ることなく、ルシフェルは行き先を見据えながら声をかける。
「森を抜けたら一緒に暮らそうか」
「不敬ながら、ルシフェル様……そういうの死亡フラグっていうんですよ!!」
 思わず悲鳴交じりに声を荒げたサンダルフォンに、ルシフェルはふふふと笑った。遠くで「こっちから声がした!」と聞こえる。サンダルフォンはしまったと顔を青ざめる。木々の間から現れた村人はルシフェルを見るや襲い掛かって来る。「ルシフェル様!」とサンダルフォンは悲鳴を上げた。
「死んじゃいます!」
「人は結構頑丈に出来ている」
「やめてください!」
 呆気なく追っ手を返り討ちにしたルシフェルをサンダルフォンは必死に止める。ルシフェルは残念そうに手を離した。
「……サンダルフォン、私は怒ってるんだ」
「それは、まあ、襲われたら……?」
「いや。彼らが君を独り占めしていたことが、今更になって腹立たしくなってきた」
 ルシフェルがひどく真面目に言うから、サンダルフォンは何を言えばわからない。とりあえず足下にボコボコにされた信者の姿があるのは残念に思った。
 ふと、不安が掻き消えていることに気づく。
 ルシフェルの言った通りに森を抜けたら一緒に暮らすのだろうなと、漠然と思って、信者を見下ろすルシフェルに「行きましょう」と声をかけた。

2020/12/25
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