ピリオド

  • since 12/06/19
 サンダルフォンは配属されるや、とんでもないところに来てしまったかもしれないと慄き、顔を青白くさせた。
 配慮に、不満は無い。それどころか、身に余るくらいで、戸惑いが膨れ上がる。
「気分が悪いのか?」
「いえ!……大丈夫です」
「不調があれば言いなさい」
「ありがとうございます、提督」
 提督はにこりと微笑を浮かべて、サンダルフォンは応じるように、引き攣りそうになる顔をどうにか誤魔化して笑みを作った。
「そろそろ休憩にしようか」提督が口にすればサンダルフォンは顔をあげて「珈琲をお持ちします!」と言うと、逃げるように執務室を飛び出した。一人残された提督は、失念したように、部屋の模様替えをしたのだったと思い出す。執務室にあったはずの簡易キッチンは一夜にして重厚な本棚へとなっていた。

 サンダルフォンは共有のキッチンで珈琲を淹れる。艦隊に配属されてからの唯一の仕事は、我ながら完璧であると自負している。そんな自負、捨てちまえと艦娘としてのプライドが叫び上げた。
 ふうと溜息をつきながら、ぽたぽたと滴る珈琲を見つめる。
 配属されたばかりのサンダルフォンを提督は秘書に指名した。当初こそサンダルフォンは嬉しく思った。提督の期待に応えたいと内心ではしゃぎ、舞い上がっているのをぐっと堪えて冷静に「よろしくお願いします」と言った。提督が「うん、よろしく」と言ったのをサンダルフォンは覚えている。
 それから半年以上が経っている。
 はじめは、艦隊の運営や陣形、作戦内容と学ぶことが多かった。運すらも味方につけた提督の指揮は的確で、作戦に参加した艦隊の被害は最小限に、戦果を挙げていた。

「よくやった」とMVPに輝いた艦娘に声をかける提督と、そして声を掛けられた艦娘を、サンダルフォンは羨ましく思った。いいなあ……。と浮かんだ言葉をそっと飲みこんで、いつか自分も作戦に、役立ちたいと思った。提督の指揮で、華麗に敵を仕留める。想像するだけで、サンダルフォンは気分が高揚してしまった。そのために、たくさん学ぼうと意気込んだ。
 だというのに、今の有様である。
 サンダルフォンは情けなくて悔しくて、涙も浮かばない。浮かびあがり、吐き出すのは、どうしようもないという諦めがこもった溜息である。
 配属されてから、サンダルフォンは一度たりとも戦闘に参加していない。何のために配属されたのか意味が分からなくなる。役立ちたい、よくやったと褒められたいなんて夢のまた夢。夢にすら描くことが出来ない。サンダルフォンは戦闘に参加することもなく、日々、珈琲を淹れるだけだった。

 そもそも配属された鎮守府は優秀だった。あまりにも優秀すぎた。着任している艦娘は軒並み高練度であった。
 今更、サンダルフォンを育て上げるメリットは無いのである。
 サンダルフォンに特殊な技能があれば別であったが、サンダルフォンはいたって平均的な能力の潜水艦娘であった。作戦初期こそ潜水艦種は稀少であったが、順次投入され、稀少性は薄まっている。もっと早くに作戦に投入されていたら、と考えてはサンダルフォンは涙を呑んだ。本部めと……と幾度となく逆恨みを向けた。その度に同僚に慰められる。同情するなら戦闘に連れていけ。サンダルフォンが言えば同僚は提督に言いなさいとド正論を返してきた。サンダルフォンは言い返すことが出来ず、ふて腐れた。既に実行済みであった。

 サンダルフォンは、提督に正々堂々真正面から戦闘に参加したい、練度を上げたいと意見具申した。
 現状を見れば、一目瞭然である。
 サンダルフォンの意見は却下された。戦闘は作戦海域は勿論のこと、他鎮守府との演習や戦闘のない遠征ですら、サンダルフォンは参加したことがない。

「……バレてるのかな」
 不安に、ぽつりと呟いた。
 役立ちたいという気持ちは、事実である。だけど同時に、不純な動機もサンダルフォンにあった。
 提督のことを、慕っている。上官へ向ける尊敬と憧れの中で、気付けば芽生えていた。サンダルフォンは艦娘という身であるものの、精神は年ごろの少女である。そんな少女にとって年上で、優しく、頼り甲斐のあり、見た目麗しい、生活圏のなかで唯一の男性ともなれば、憧れの中に恋心が生じることも、仕方がないことでもあった。とはいえ、サンダルフォンはこの恋が成就されたら、なんて願うことはない。自身について客観的にも理解をしている。

 サンダルフォンは戦闘兵器である。だから、提督と結ばれたいと願ったりなんて、少女としての幸せを望むだなんて、烏滸がましい。端から期待をしていない。それでも、ちらっと思ってしまうのは本部が導入したシステムの所為だと、サンダルフォンは責任転嫁をする。そもそも名前が悪い。「ケッコン」なんて気軽に導入するなとサンダルフォンは腹立たしい。
 提督と艦娘が強い絆で結ばれた証であり、艦娘にとっては提督に大切にされていると周知させるようなシステムである。システムでしかないと分かっているのに、少女の純真な心を弄ぶ名称である。
 ケッコンは艦娘の憧れだ。艦娘としての、戦闘兵器として更なる強さを求めたい。少女としての、仮初でも夢を見ていたい。本部の残酷さを、サンダルフォンはひしひしと思い知らされる。

 サンダルフォンも、ケッコンに憧れる一人であった。そのために、練度を上げたい。
 練度が上限に至ることがケッコンの唯一の条件であった。サンダルフォンは焦る。なんせ鎮守府には練度が上限に達している艦娘が半数以上いるのだ。うかうかしていたら、効率性のためとケッコンをしてしまうのではないかと、気が気でない。艦娘にとってケッコンは憧れであるが、提督にとってはシステムの一つに過ぎない。能力の向上という認識であるのだ。

 珈琲の抽出を終えると、カップを手に取りサンダルフォンは気持ちを落ち着かせて執務室へと戻る。
「おまたせしました」と声をかけたサンダルフォンに、提督は驚いた様子で手にしていた箱を落とした。こつん、と転がった小さな四角形の箱から、指輪がこぼれた。
 思わずサンダルフォンは呼吸を忘れた。
 転がった指輪を、提督が手に取った。
「任務の報酬だ。存在を忘れていた」
「……ケッコンするんですか?」
「いや、しないよ。キリがないからね」
 提督の言葉に、ほっとしたような、虚しいような気持ちになった。
「所詮はシステムだ」
「……そうですね」
 システムに縋る行為を咎められているような気がして、サンダルフォンはいよいよ恋心との決別を覚悟した。

〇 〇 〇

 緊張した面持ちの少女を前にして、ルシフェルは頭の中が真っ白に弾けた。初めてのことだった。少女から目を逸らせずに、ルシフェルは凝視していた。ふわふわとした鳶色の髪は、何も言わないでいるルシフェルに少女が不思議そうに小首を傾げると、さらりと揺れた。
「……提督?」
「うん、よろしく頼む」
 声を掛けられた少女は、嬉しそうに「よろしくお願いします!」と声を弾ませた。

 少女たちは、此度の作戦のために投入された戦闘兵器である。並大抵の人間には無い強靭な肉体を持っている。ルシフェルも軍人として鍛えられているものの、少女たちには遠く及ばない。彼女たちの強さを、ルシフェルとて重々に承知している。指揮官としてルシフェルは戦闘の様子を把握していた。
 ルシフェルよりも幼い体躯の少女が、海上の敵に対して魚雷を発射し、砲弾を撃ち込み、戦闘機を飛ばす。おどろおどろしい敵に対して怯むことなく、竦むことなく立ち向かう姿を、ルシフェルは見てきた。彼女たちにとって見た目というのは、必ずしも戦闘能力に直結するわけでははない。
 だというのに、ルシフェルはサンダルフォンを一目見て思ってしまったのだ。
──彼女が傷つく姿は、見たくない。
 提督として、指揮官として、軍人としてあるまじきことを思ってしまったのだ。
「サンダルフォン、着任早々に悪いが秘書に就いてもらう」
「秘書、ですか? ……務まるでしょうか?」
 心配そうに見上げる姿は、どこにでもいる平々凡々な少女に思えてしまって、ルシフェルはますます、彼女を作戦海域に送り出すということに躊躇いを覚えることになってしまった。

「すごく、可愛いんだ」と語彙力を失ったルシフェルの感想にルシファーは溜息を零す。本部にて作戦に投入すべき艦娘の調整や、装備の研究をしているルシファーは、近頃……といってもサンダルフォンが投入された時期を境にして、不定期に発作を吐き出す通信にうんざりとした。呆れながらも通信を切ることはない。ルシファーの研究者としての生理的欲求である興味を抑えることが出来ないのである。友人の恋愛事情にはまったく以て毛ほどにも興味はないが、それが艦娘ともなればルシファーも調整に関わった身としては気に掛けないわけにもいかない。
「聞いてるのか、ルシファー」
「聞いてる。サンダルフォンだろう?」
「ああ、彼女だ。とても愛らしい。今日も珈琲を淹れてくれたんだ。彼女の珈琲を飲んだことはあるか? とても美味しいんだ、いつか君にもと思ったのだが……」延々と続く自慢話を聞き過ごしながら、愛らしいサンダルフォン、というものがルシファーには想像できなかった。記憶にあるサンダルフォンを引っ張り起こせば「いつ作戦に投入されるんだ?」「投入時期はいつになるんだ?」と後ろを引っ付きまわる姿と、煩い声が耳朶に蘇った。愛らしいのか? ルシファーには鬱陶しいだけでしかなかった。それにアレがしおらしく珈琲を淹れるという姿も想像できない。ルシファーにとってサンダルフォンは煩く、生意気で調整に難儀した「作品」でしかない。
 そのサンダルフォンのことをルシフェルが気に入ったと知ったのは、サンダルフォンが着任をしたその日であった。珍しいこともあるものだと思いながら通信に応じればその日は朝までサンダルフォンがとても可愛いという話だけを一方的にされた。よくもまあ会って数時間程度の存在に対してそこまで感想を抱けるものだと、ルシファーはいっそ感心した。

「ところで、君に頼みたいことがある」とルシフェルが真面目な声で切り出した。ルシフェルの声はいつだって真面目で、ふざけた気配は一切ない。惚気や自慢も真面目な声である。だが一段と真面目で、強張った調子であった。
「どうした?」
「今からでも、サンダルフォンの戦闘衣装を、もう少し、露出が少ないものに変えられないのか? そもそも、あの衣装は、きみの趣味なのか?」
「違う!」
 ルシファーは思わず声を荒げた。言いがかりである。ルシファーはスクール水着にセーラーなんて嗜好はない。あの衣装は上層部の指示である。言わば上層部の趣味である。ルシファーは正気かと思ったが正気らしかった。艦娘として調整をしたサンダルフォンも、衣装を手に取ってルシファーに「正気か?」と言わんばかりの視線をじとりと向けたのだ。ルシファーは艦娘の調整をする度に、特に潜水艦種に対しては強気で「俺の趣味じゃない」と強く、説明をした。誰も求めていないが、ルシファーの趣味と思われることはどうしても、矜持が許されないでいた。閑話休題。
「目のやり場に、困る」
「眼福の間違いだろう」
 ルシフェルが呻いた。
 配属された少女たちは戦闘には不向きな露出の高い衣装を纏っている。中でも、潜水艦種は飛びぬけて露出が高い。常時、水着である。夏場でこそ違和感はない。他の艦種も水着になっているから溶け込む。戦時下、作戦最中であるというのに水着とは如何なものかという常識はいつしか誰も口にしなくなった。
 そもそも鎮守府屋内で水着こそ異常であるのだが最早誰もが気にも留めない。ルシフェルもそういう季節なのかと思うようになっていた。
 特殊な繊維を使用している衣装は敵との戦闘や、模擬戦闘行為で以外には損傷することはない。だが、損傷した時の露出といったら、あられもないにも程がある。
 ルシフェルがサンダルフォンを作戦に組み込まない理由である。誰が好き好んで、想う女性が傷つき、ましてや肌を曝け出す姿を見過ごせるというのか。生憎とルシフェルにはそういった性癖は無かった。ただルシフェルも、男である。微塵にも助平なことを考えていないように見えても、それなりに、性欲はある。執務室に二人きりで、そして想いを寄せる相手が平然とした顔で、スクール水着で過ごしてるという倒錯的な日常に慣れることが出来ない。
「いっそ目覚めてみたらどうだ?」
「他人事だと……」
「他人事だからな」とルシファーはくつくつと笑った。
「確認をしたいのだが、鎮守府内で過ごす時には指定衣装ではなくても良いのか?」
「構わん」
「そうか。感謝する、ルシファー。それでは」と通信が切られる。結局付き合わされるだけで収穫はなかったなとルシファーは溜息を零す。
 人間である提督と、戦闘兵器として存在している彼女たちが結びついたとして、果てには何が残るのか。ルシファーの興味と感心はその一点に尽きる。

 戦闘兵器である彼女たちは、提督のことを慕う。よっぽどのことが無い限り嫌悪は向けない。本能的に慕うのだ。そんな彼女たちが提督としてではなく、異性として、人間として感情を向けることができるのか。出来たとして、それは好ましい結果となるのか。
 ルシファーは彼女達の調整をしている。研究次第では更なる調整が必要になるだろうと思案する。感情制限は可能ならば掛けたいものではない。面倒なうえに、感情なくして生存本能は働かない。生存確率は下がり、作戦失敗につながる。巡り巡った結果として、戦況不利となる。
 ルシファーの調整指針となっていることなど露とも知らず、ルシフェルはといえば女性用の衣類を見繕っていた。制服に近しいデザインにするべきなのか、スカートか、パンツスタイルか……と大規模作戦に挑む艦隊メンバーを選出するときに等しい真面目さで熟考する。勿論、サンダルフォンへと贈るためである。

〇 〇 〇

 ルシフェルは届いた品物を受け取りながらふと、冷静になる。もしかしたらとても気持ちの悪い行動ではないのか。
 想いを寄せているとはいえ、サンダルフォンは部下である。上司からいきなり服を贈られたらどう思うのか。
──え……気持ち悪いです提督。
 引き攣った顔の妄想の中のサンダルフォンの発した言葉がぐさりと胸に突き刺さる。妄想の中ですらこの威力。現実ともなればルシフェルにとって致命傷になりかねない。再起不能になる恐れすらある。ルシフェルはちくちく痛んだ胸の傷を感じながらも、冷静になったことで現実にならずに済んだのだと思うことにした。胸の痛みは代償である。
「そのブランドって有名ですよね」
「!」
 ルシフェルは思わず肩を跳ねさせた。サンダルフォンがきょとりとルシフェルを見つめていた。驚かせてしまったのだろうかと心配に済まなさそうな顔で、胸元には書類が抱えられている。
「そう、らしいな」
「贈り物……ですよね?」とサンダルフォンは確認をするように言った。どうして態々確認をするのかと思ったルシフェルは、あらぬ誤解を招いたのかと、少し慌てる。
「ああ。知り合いに」
「そうですよね」サンダルフォンは安心を滲ませた。紺色の古典的なスクール水着から伸びる脚からルシフェルは目を逸らした。机の端に寄せた品物を見ながら、声をかける。
「……きみは、恋人でもない異性から服を贈られたらどう、思う?」
「ないですね」
 ドン。ルシフェルの胸を砲弾が貫いた。
 いやまだギリギリで耐えている。致命傷だがかすり傷である。
「そもそも服って好みもあるし、何よりサイズとか、なんで知ってるのかと思ったら──気持ち悪くないですか?」
「そう、か……」
「……俺の、意見ですけどね?」
 サンダルフォンは落ち込んでいる様子のルシフェルを見ながら、少し、言い過ぎたかなと反省をして、フォローするような言葉を掛けていた。

 何が哀しくて、焦がれる人が見知らぬ女への贈り物をするというのに、背を押すようなことを言わなければならないのか。サンダルフォンはむっとして、思わず八つ当たりを向けてしまった。上官に対して……と思ったものの、否此れは部下ではなく一個人として問われたことに対しての返答であると自らに言い聞かせる。

 サンダルフォンの容赦ない言葉にルシフェルはといえば、顔色を悪くさせて「そうか……そう、だな」と繰り返していた。
「……状況にも、よりますよ?」
 見て居られない姿にサンダルフォンはつい、言葉を掛けてしまう。
「いや。冷静に考えれば、気持ちが悪いことだった。ありがとう、サンダルフォン。きみに相談して良かったよ」
「お役に立てたなら……ちなみに、どなたに贈られる予定だったんですか?」
 冷静な、いつもと同じ調子で言えただろうかとサンダルフォンは不安を覚えた。耳の奥が痛む程に澄ませると、心臓が破裂しそうなほどに脈打っているのが分かった。掌が冷たく汗ばむ。
 ルシフェルが、曖昧な微笑を浮かべる。サンダルフォンは思わずと言う風に探り入れた。
「相手にもよりますよ。近しい人だったら、なんとも思わないかもしれませんし」
「……部下、なんだが」
 あ、無理だなとサンダルフォンは思った。
「やめておいた方がいいですよ」
「そうしておくよ」
 サンダルフォンはにこにこと笑いながら、ルシフェルが贈り物を止めたことを内心でガッツポーズを取りながら、同時にルシフェルが服を贈りたいと思っている存在がこの鎮守府にいるのだという現実に目の前がくらくらとした。

「……俺の知ってる人ですか?」
「知っている、だろうな」
「そうですか」
 それきり、サンダルフォンは何も言えなくなった。何食わぬ顔で、秘書用の机を前にして書類を見つめる。書類だというのに、何が書かれているのか、文字を認識できずに、理解できずにぼんやりと目で追っていた。何度か目で追って、たっぷりと時間をかけて意味を理解する。

「サンダルフォン、提案なのだが」
 声を掛けられたサンダルフォンが書類から顔をあげる。ルシフェルは真剣な顔をしていた。
「なんでしょう?」
「明日から私服で活動してみては?」
「……俺を海域にも演習にも出さないということですか」
 サンダルフォンの言葉にルシフェルは何も言わない。
「提督、俺は、作戦のために投入されているんです。珈琲を淹れるためだけじゃないんです」
「分かっている」
「分かってません! 提督は、ちっとも、分かってません!……分かっているのなら、どうしてそんなこと酷いことを言うんですか」
 本部から衣装が贈られる。水着や浴衣、ハロウィンの仮装やクリスマス、果てには至って普通な洋服もある。しかし、どれも特殊な繊維で作られている。戦闘行為にも問題はない。しかし、私服は個人の衣装だ。特殊でもなんでもなく、一般的な衣装である。戦闘になんて適していない。そもそも、潜水にも不向きである。
 サンダルフォンは戦力外通告を受けたのだと打ちひしがれる。書類が滲んだ。ぽたぽたと零れる。悔しさがあふれ出す。
「俺が不必要ならどうぞ解体をしてください。それか、本部に戻してください」
「そんなことはしない。君は必要不可欠な存在だ」
「そうでしょうか? 練度をあげる価値もないのでしょう? 艦隊にいても意味はないでしょう? 秘書にしても、新参の俺では役立ちませんし、そもそも提督には秘書もいらないじゃないですか? なんでも一人で終わらせるんですから」
「違う。サンダルフォン、私は」
 それまでの不満が爆発したようなサンダルフォンの言葉にルシフェルは否定をしたものの、言葉が続かないでいた。口にしようとした言葉が、それまでサンダルフォンに不満を溜め込ませていたのだと思うと、口に出来なかった。
 独り善がりであったのだと、痛感した。
 サンダルフォンが、鼻をすすった。「申し訳ありません」と言って、執務室を出ていく。ルシフェルは一人残され、途方に暮れる。
 一人浮かれていた自分が馬鹿馬鹿しく恥ずかしく、端に寄せた贈り物が忌々しく思えた。

〇 〇 〇

 執務室を飛びだしたサンダルフォンはずんずんと歩いて、何があったのかとぎょっとしている視線を感じながら、怖い顔のままで、そのうちに海に出た。サンダルフォンは、海を見つめ、輝く水面に、ばしゃんと飛沫をあげて飛びこんだ。そのままサンダルフォンは深く、深く、潜っていく。光が遠ざかる。きらめきを彼方に置いてけぼりにして、ぐんぐん、ぐんぐんと潜っていった。
──提督の分からず屋!
 じんわりと、涙が滲み出た気がした。海の中に溶けこんで、分からなくなっていた。確認も出来ない。サンダルフォンは真っ暗闇の中で立ち止まる。少しだけ、冷たいなと思う程度の温度は、心地良いものだった。
 久しぶりの海に包まれながら、漂い、サンダルフォンは静かに、心が落ち着いていくのを感じた。
 海が好きだった。艦娘として調整のされる、サンダルフォンである前に、どこにもでいるような少女として生まれて、物心ついた時から、海が好きだった。海に焦がれたのだ。海に恋をしていた。だから、適性があったのかもしれない。適正があったから、海を求めたのかもしれない。
 もはや、どちらでもよいことだと、サンダルフォンは思った。

 グロテスクな深海魚にちょっかいを出しながら気儘に泳いでいるうちに、サンダルフォンは空腹を思いだした。燃料切れだった。補給をしなければならない。鎮守府に戻らなければと思うと、途端、憂鬱を思い出す。勝手に海に出たこと、提督に逆らったこと、解体も止む無しな振る舞いを今更になって「やってしまった」とサンダルフォンは情けない気持ちに耽る。勢いだけの考え無し。馬鹿につける薬はない。サンダルフォンは鎮守府の方向にちょっと進んで、またゆらゆらとあっちへさ迷いこっちへさ迷い、意を決して鎮守府の方へと向かってまた……という具合であったから、上昇し、暗闇から濃紺に、徐々に淡くなっていく青のなかに光が差し込んだように思ったとき、まんまるな青白い月が浮かび上がっていた。掴めそうなほどの近さに、サンダルフォンは海面から顔を出すと、面食らう。
 夜の静けさは、深海に似ているような気がした。
 濡れた髪が顔にまとわりつくのが気持ち悪く、サンダルフォンはまた潜る。といっても深くは潜ることない。月明りに照らされる海をすいすいと泳ぐ。ゆらゆらと髪がたゆたう。
 海から上がろうとしたサンダルフォンは、どういう顔をして戻ればいいのか分からず、途方に暮れた。ちゃぷちゃぷと悪戯に波を作っていれば、無意味に時間が過ぎていくのを感じる。
──呆れられただろうな……。
 つんと目の奥が痛くなってサンダルフォンはぐしぐしと拭った。

 もだもだとして揺るぎそうな決心を今だけでもとぎゅっと結びなおしたサンダルフォンは海から上がる。海の中を泳ぎ続けることも、まして潜り続けることも出来ない。いつかは燃料切れになる。余計に、提督に面倒を掛けることになる。これ以上の迷惑を掛けることは心苦しい。
 身体に重みが圧し掛かる。気が重いからなのか、それとも地上であるからなのか、はたまた燃料がすっからかんだからなのか、サンダルフォンには判断しかねた。ここに来てまたもや、ぎゅっとしめた決心がゆるゆると弛み始めた。
 サンダルフォンはぱしゃりと波打ち際を蹴り上げる。
「寒くは無いか」
「……寒くなんてありませんよ」
「でも見ていると、とても寒く思えるから上がっておいで」
 サンダルフォンはばつの悪い顔で、振り返る。ルシフェルは静かに立っていた。怒りも見えなければ、呆れも見られない。怒ることも馬鹿馬鹿しい程に呆れ果てたのかもしれない。居た堪れない気持ちになって、サンダルフォンはもじもじとしながら、とても歯向かう気にも、逆らうなんて気持ちも起きずに、言われたままに波打ち際からぺたりと上がった。
「怪我は無いか?」と声を掛けられてサンダルフォンは首を振った。ルシフェルは安心したように「良かった」と声を漏らした。いっそ怒ってくれたら、呆れてくれたらとサンダルフォンはきゅっと切なくなった胸を誤魔化すように、足裏のじゃりじゃりとした感覚に集中する。痛いようなむずむずとする感覚を必死にかき集めた。

 サンダルフォンは「勝手をして申し訳ありませんでした」を口にしようとした。なのに、喉はきゅっと締められたままで、言葉に声が乗ることは無い。サンダルフォンははくはくと口をまごつかせてから、一文字に結び、俯いた。
「冷えるね」
 風邪がびゅうと吹いた。切りつけるようなひりひりとした海風を感じながら、ルシフェルが言葉を口にする度に、濛々と白い吐息が夜闇に溶ける。
 ルシフェルは軍服だけだ。マフラーも巻き付けず、コートを羽織っていない。サンダルフォンの姿といえば軽装も良いところな水着で、その上で泳いだばかりでびしょ濡れである。どちらがより寒々しいかと言えば誰に聞いてもサンダルフォンである。にも関わらず、サンダルフォンはといえば提督の姿に風邪をひいてしまう、と心配になっていた。艦娘は、丈夫だ。人間の形をしているけれど、その身は、兵器だ。
「早く、戻りましょう」なんて自分が言っても……とサンダルフォンは躊躇する。
 夜風で乾いた海水は、べとべとと纏わりつくような気持ち悪さがあった。まだ乾ききれていない髪からはぽたぽたと滴り落ちている。しんなりとしている髪が重く感じた。
「着て居なさい」と脱いだ軍衣を差し出される。白いシャツがより一層に寒々しくてサンダルフォンを慌てた。
「大丈夫ですから。それに、へいき、ですよ?」
 サンダルフォンが固辞をしてもルシフェルは訊く耳もたずに、無理矢理にサンダルフォンの肩に上着をかけた。ひいとサンダルフォンは内心で畏れ多く、悲鳴をあげた。ルシフェルはそんなサンダルフォンの内心なんて知ったこっちゃないと、どこか満足な気持ちになって、視線を逸らした。逸らしたさきに、上着からのぞく生白い脚が目について、なんだか余計だったかもしれないと思った。

 ルシフェルとはじっと足元を見つめて言った。「君が、ボロボロになる姿を見たくなかったんだ」
「装甲の脆さは自覚してます」
「そうではなくて……」とルシフェルは、言葉を口にするには勇気が足りないでいた。ざざんと、しびれを切らしたように波が打ち寄せる。観念するようにルシフェルは、口を開いた。
「見たくはないし、誰にも、見せたくなかった。見せたいものじゃないんだろう、好きな子の肌なんて」
「……大事にしてくれるのは嬉しいですけど、そういうものですから」
「大事だよ。でも、それだけではなくて……私は、きみのことが好きなんだ。だから……だか、ら……」伝わらないもどかしさに、思い余って言葉にした途端、ルシフェルは狼狽えた。こんなタイミングで、口にするべき告白ではないと恋愛事に疎くても理解していた。サンダルフォンは思いもよらぬ言葉が耳朶に触れると呆然とルシフェルを見上げた。
 まったく手が掛かるぜと言わんばかりに、心地よい海風が真っ赤な頬を撫で去っていった。

2020/12/21
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