ピリオド

  • since 12/06/19
 カナンの神殿の最奥にて、ルシフェルは佇み、瞳を伏せる。
 伏せた瞳が描いたのは、嘆きの声をあげるサンダルフォンの姿だった。災厄を引き起こし、特異点との戦いに敗れ、ボロボロのまま、叫ぶ姿。血がにじむような慟哭が耳朶に蘇る。ルシフェルは初めて、サンダルフォンの心に触れた。

 ルシフェルは思案する。

 ルシフェルのコアの中で、眠りにつかせたサンダルフォンは未だ目覚める気配はない。眠りにつかせたまま、サンダルフォンの自発的な目覚めを待つことも、ルシフェルは吝かではなかった。傷が癒えるまで、再び、語り合える日まで、サンダルフォンに寄り添うつもりであった。
 言葉が返ってくることがないと分かっていても語り掛ける。いつになるか分からない目覚めの日まで待ち続けることも、覚悟をしている。
 役割を空の世界へとかえし、天司長でもなく、役割のない対等な存在として、ただの命として、新たな関係を築き上げることが出来たらとルシフェルは想い、描く。

 ルシフェルは思案する。

──果たして、正しき選択なのだろうか。
 サンダルフォンの苦悩を、ルシフェルは想像すらしなかった。
 何故と疑問を抱くだけだった。心を閉ざした理由に、心当たりが無かった。ルシフェルにとって、突然の出来事であったのだ。しかし、サンダルフォンにとっては突然ではなかった。
 ルシフェルにとって、サンダルフォンはそこにいてくれるだけで良かった。名前を呼んでくれるだけで良かった。笑ってくれるだけで良かった。「お帰りなさい」と、「いってらっしゃい」と言ってくれるだけで良かった。中庭で、待っていてくれるだけで良かった。
 ただ、サンダルフォンであるだけで、良かった。
 サンダルフォンの言葉が、ルシフェルの心を満たす。サンダルフォンこそが、ルシフェルの帰る場所だった。
 サンダルフォンが叛乱に加わったことに、災厄を引き起こしたことに、ルシフェルは怒りを覚える。他の、誰でもない自分自身に対して、怒りが湧き上がる。サンダルフォンに対しての怒りは微塵もない。それどころか、自分の所為で追い込んでしまったのだという更なる怒りの炎がごうごうと燃え上がる。
 サンダルフォンはルシフェルにとって、唯一の、永久不変の存在であるのだ。故に、役割の有無は、ルシフェルにとって些事であった。
 しかしサンダルフォンは役割を求めた。
「天司として作られたからには、あなたに作られたからには、役割を果たして、役に立ちたいのです」
 サンダルフォンの言葉は心地よく、ルシフェルの耳朶に響いた。
 不安に、心配そうに役割について問いかける姿に、ルシフェルはその度に、少しでも不安を取り除くことが出来ればと、そして役割程度でサンダルフォンの価値は揺るがないのだという本心から、繰り返した。
「案ずることは無い」
「貴方が、仰るならば……」
 サンダルフォンの浮かべた曖昧な微苦笑が蘇るたび、ルシフェルは身体の内に、鉛を落とされたような重みが圧し掛かる。あの微苦笑の下でどれほどに傷ついたのだろうか。今更になって、あの言葉はサンダルフォンが望んだ言葉ではないのだと思い知らされる。サンダルフォンを安心させるどころか、不安を煽り、守ったつもりであったサンダルフォンを、じくじくと呪ったのだ。
 サンダルフォンの苦悩を、望みを、本心を、ルシフェルはサンダルフォンが傷つくまで知ることが出来なかった。理解することが、出来なかった。
──理解をしているかどうかも、怪しいところだ。

 ルシフェルは自嘲を浮かべ、思案する。

 ルシフェルにとって、即ち、サンダルフォンにとっての最善のあり方。
 眠り続けることを、サンダルフォンは選んだのか? 守られることをサンダルフォンは喜ぶのか? 共にあることが、サンダルフォンの望みなのか。
 すべて、ルシフェルの押し付けであり、エゴではないのか。
 サンダルフォンの為と思っての振る舞いが、すべて、サンダルフォンを追い詰め、傷付けてきた。その結果、サンダルフォンに災厄を引き起こさせた。全てが自己満足であったのだと、思い知らされる。
 再び、繰り返すだけではないのか。繰り返して、更にサンダルフォンを傷付けるだけではないのか。考え出すと、ルシフェルは自らの選択が、行為が、本当に正しいのだと、断言できるだけの確証が得られない。なんせ今までのルシフェルの行動が総て裏目に出ているのだ。
 ルシフェルは苦悩を浮かべ、思案する。
 苦渋の決断であった。断腸の思いであった。世界の存亡と等しい選択であった。致し方ないと、渋々と、眉間にぎゅっと皺を寄せて、考えうる限りの選択をすべてシミュレーションして、これ以上にない、最善なのだと、自身に言い聞かせる。

 ルシフェルは語り掛ける。

──特異点

「うう……ん……?」
 呼びかけられた特異点はぎょっとした顔で、きょろきょろと周囲を窺う。真っ白な空間が広がっている。前後も上下も無い空間が延々と続いている。自分の居場所すら分からなくなる。

──ここは何処だろうか。
──自分は確か自室で、眠っていたはずだ。

 災厄という事件を解決した、といえるのかあやふやな所であるが、ひとまずは島が落下することはなくなり、世界は平和になって、安心に、旅を続けている。サンダルフォンと言葉を交わしたルリアは、何か、思うところがあるらしく納得をしていない様子だったが、事件の後、サンダルフォンについて知る術はない。ここはいつもの夢の中なのだろう。特異点は冷静に分析する。なんせ夢で不可思議な世界を見ることは初めてではない。しかし、なぜルシフェルがいるのだろうかと、疑問符を浮かべている特異点に、ルシフェルは語り掛ける。
「君に、彼を託したい」と言ったルシフェルは苦い虫をごりごりと噛み潰したかのような顔をしていた。不本意です。不服です。とありありと浮かんでいる。とても、頼み事をする顔ではないことは、特異点にもわかる。
 ルシフェルとの面識は、一度だけである。
 サンダルフォンとの戦いにおいて、最後の最後で介入してきて、最終的に災厄を解決していった。完全に二人きりの世界であったし、口を挟む隙は一切無かった。
「彼?」
「……サンダルフォンだ」と告げられた名前に特異点は呆気にとられる。言いたいことは山のようにある。コアに眠らせたのではないのか、とか、もう起きているのかとか、具合はどうなのかとか、反省はしているのかとか。やがて、どうにか出た言葉というのが、
「うちを更生施設か何かと勘違いしてない?」
「彼を頼んだ」
 あ、逃げたな。と特異点は思った。
 急速に、白い世界がぼやけていった。
 どうやら夢が覚めるらしい。

〇 〇 〇

 爽やかな朝の陽射しが降り注ぐ中、航行するグランサイファーの室内には、重苦しく、険しい雰囲気が満ちていた。
 話し合いの場として設けられた場は、グランが説明を終えると沈黙が降りた。グランが説明をしている最中から、一言も発することなく、団員たちの警戒を一身に向けられている青年は、涼しい顔をしている。
 長い沈黙の後、「……反対だ」と一人が口にするのを切っ掛けに声が上がる。当然の反応なのだが、グランは少しだけ気まずい気持ちになって、サンダルフォンをちらりと見た。
 目覚めてすぐに壁にもたれかかっている姿を認識したとき、喉から飛び出し掛けた悲鳴を早朝だからということを思い出して、慌ててのみこんだ。ルシフェルめ……と恨みがましい気持ちがグランの中で芽生えた。こちらの事情も省みることなく押しつけられたのだ。
 サンダルフォンのことは、好きではない。吐露された事情に同情する気持ちはあった。けれど、だからといって、巻き込まれた身としてはたまったものじゃない。
 サンダルフォンは自身の身のことであるというのに、興味がなさそうな顔で佇んでいた。そんなサンダルフォンの存在を隠し通すことなんて出来はしない。一番に気づいたのはルリアだった。ばたばたと部屋に飛びこんできたそのルリアは、話し合いの場でビィと共に遠くに位置している。ビィはサンダルフォンを警戒している。当然だ。しかし、ルリアに警戒はない。心配と不安をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだ顔で見守っている。
 当のサンダルフォンはといえば、涼しい顔をしている。隣に座るグランが一番の貧乏くじである。サンダルフォンに注がれる警戒と非難がグランに飛び火する。グランがサンダルフォンを恨みがましく見つめれば、サンダルフォンは視線に気づいたらしいが、反応を示すことは無い。ぼんやりと団員たちを見つめている。
「団長、聞いているのか?」
「は、はい!!」
 サンダルフォンの横顔を不可解に見つめていたグランに、団員が呆れたように溜息を吐いた。
 団員達の意見はただ一人を除き、同乗を認めないという結論だった。
 グランはどうしたものかと考える。
 グランとしても、可能であればお引き取り願いたいところである。しかしルシフェルからは一方的に押しつけられた上に押しつけ返すことも出来ない。なんせルシフェルの所在を知らない。知る術もない。かといって、其処らの島にサンダルフォンを降ろした結果、再びサンダルフォンが事件を引き起こしでもしたらと考えると、捨て置くことも出来ない。それは同乗拒否を主張する団員たちとて懸念している。どうにこうにも埒が明かない中、

「すまなかったと、思っている」
 誰の声なのだろうかと、一瞬だけ、その場にいる一人を除いて思ってしまった。
「無関係のきみたちを巻き込んだことを、申し訳なく思ってる。俺のことは捨て置けばいい。君達が危惧するような事件は起こさない。──いや、俺の言葉は信用ならないな……君達が俺を裁けばいい。きみたちには、その資格と、権利がある」
「そんなこと、思ってないじゃないですか」
 声を上げたのはルリアだった。
 ぎゅっとワンピースを握りしめて、サンダルフォンを涙目で睨んでいる。ふるふると小刻みに震えているルリアをビィが心配そうに「おい、ルリア?」と声を掛けていた。ルリアは大丈夫ですと震える声でこたえている。大丈夫そうには見えない。
「ルリア、別室に」と声を掛ければ、「大丈夫」ですと頑ななルリアに、どうしたのだろうとグランは心配に思いながら見守る。
「サンダルフォンさんは反省なんてしてません。全部言葉だけです。すまないだなんて、申し訳ないだなんて思ってない。ただ諦めてるだけじゃないですか」
 ルリアがサンダルフォンの心の内、奥底に秘めた本心を明らかにする。柔らかな部分を見破られ、突き付けられたサンダルフォンがきっとルリアを睨みつけた。
 お前に何が分るのだと、カッと脳が湧き上がる怒りで、目の前が赤くなる。ひりひりとする程の感情がむき出しになる。
 団員たちが構える。
 一触即発の緊張感が張りつめた瞬間、ふと、サンダルフォンが眦を和らげた。激しい感情が消え失せる。
「……そうだな。君の言うとおりだ。これは、単なる諦めだ」
「どうして、諦めるんですか」
「……諦めない理由が無い」
 サンダルフォンは自嘲を浮かべる。
「手を下す価値も無いのだろう。そもそも、見捨てられて当然か」
 研究所時代には叛乱に加わりパンデモニウムに封印。挙句にはパンデモニウムから脱走をして空の世界を滅茶苦茶にしようとした。恩を仇で返すどころではない。ふふふと陰鬱な笑みを浮かべるサンダルフォンを、グランは矢張り、好きにはなれない。同情を誘っているのだ、油断するな。赦しちゃだめだ。言い聞かせる。ルリアやビィを危険な目に遇わせた。グラン自身も、危うく空の底に落とされかけた。
 サンダルフォンは危険人物である。
 危険人物らしく、邪悪であれば良いのに、サンダルフォンはすっかり毒気が抜かれて空気が抜けてしぼんだ風船のように、頼りない。
 ルリアの言う通りに、すべて諦めてしまって、もうどうにでもなってしまえという気持ちだけがサンダルフォンの中にあるだけだった。

 サンダルフォンを降ろすことも、まして断罪することもすぐさま結論付けることが出来ず、ひとまずの形として、同乗することになったとはいえサンダルフォンは部屋に籠りきりだった。監禁をしている訳ではない。ただ、サンダルフォンが出歩かないだけである。
「それで、君達は暇人なのか?」
 部屋を訪ねるルリアにサンダルフォンは仕方なさそうに声を掛けた。ルリアを心配して着いてきたグランは苦笑して、ビィは相変わらずなサンダルフォンについ、口を挟んでしまう。
「なんだよ、その態度は! 折角来てやったっていうのに」
「誰も頼んでない」
 サンダルフォンは呆れた様子で、溜息を吐き出した。ビィがぷんぷんと「ひねくれダルフォンのすねダルフォン!!」と言葉を掛ければむっとしたようすを見せたが、言い返すこともなく、サンダルフォンは何も言わずに目を伏せた。
「なんとかいえよぉ」
「なんとか」
 張り合いがない、肩透かしな反応にしょぼくれるビィと、すっかり捨て鉢になったかのように鸚鵡返しをするサンダルフォンのやり取りに、グランは何とも言えない気持ちになる。ルリアはビィとサンダルフォンのやり取りにあははと苦笑した。
 二言三言を交わすと、サンダルフォンに部屋を追い出される。
「君達は自分たちが大切にされているということを自覚しろ、心配をかけさせるな」
「サンダルフォンさんだって、ルシフェルさんに大切にされてます!だから、」
 ルリアの言葉を遮るようにぱたんと扉が閉められる。ルリアは扉を前に、しょんぼりと肩を落とした。

〇 〇 〇

 サンダルフォンは自身の中身がぽろぽろと零れ落ちていくことがわかった。パンパンに、はち切れんばかりに膨れ上がった感情のままに振舞って、自暴自棄を起こしていたことを他人事のように振り返る。その結果として多くの無関係な人々を傷付けたことは、サンダルフォンなりに、反省はしているのだ。これでも。それなりに。一応。無意味な結果に付き合わせてしまったという申し訳なさを抱いている。
 サンダルフォンは膝を抱えて、小さく、丸くなる。
 航行を続けているための揺れに、内臓が浮き上がった感覚を覚える。せり上がってくるのに、吐き出すものがない。気持ち悪さに嗚咽を漏らす。
 自業自得。因果応報。身から出た錆。結局、思い上がりであったのだと認めざるを得ない。──否、突き付けられた現実を受け入れなければならない。
 ルシフェルにとって、サンダルフォンという存在はその程度だった。
 何を期待していたのか、サンダルフォンにはもはや分からなくなってしまっていた。

──自分の価値をルシフェルに認めさせたかった。

 だというのに、役割を言い訳にして、裏切りだと難癖をつけて、どうしようもないことを逆恨んでいたに過ぎないのだと思うと、サンダルフォンは自嘲せざるを得ない。ただの八つ当たりでしかなった。その上で、何も得ることが無かった。寧ろ、何もかもを失って残ったものといえば伽藍洞になった身である。
 あらためて自分の価値は空っぽであるのだと痛感する。その度に、ぽっかりと抜け落ちていく。
 安寧と慈しまれていたのは、無垢ではなく、無知に、愛されていると大切にされていると思い込んでいたサンダルフォンに過ぎないと伽藍洞になったサンダルフォンは気付かされる。
 これが罰なのだろうなとサンダルフォンは少しだけ、笑ってしまった。

「サンダルフォンさんは逃げてるだけです」と懲りることなく部屋を訪ねてきては、サンダルフォンの心を暴露するルリアに、サンダルフォンは「そうかもしれないな」と返した。
「サンダルフォンさんは向き合っていません」とルリアはサンダルフォンを責め立てるように言う。サンダルフォンは「ああ、逃げてるんだろうな」と返した。ルリアはぐすりと鼻をすすって俯いた。サンダルフォンは不思議にルリアを見つめる。
「……俺は君を傷付けたのだから、もちろん、君は、俺を詰る権利がある。責める権利がある。裁く権利がある。だが……俺と向き合うことで、君が傷つくというのなら、オススメはしない」と言うと、グランを見る。
 邪悪な雰囲気がごっそりと抜け落ちているサンダルフォンに、邪神の面影はない。ルリアの言う通りの諦めが透けて見える。
「反省をしていないなら、意味が無いじゃないか」とグランが言った。サンダルフォンは「これでも、反省はしているんだがな」とぽつりとつぶやいた。
「君には面倒ばかりを掛けて、本当に、申し訳なく思っている。俺の処遇なら、四大天司にゆだねると良い。あるいは、ミカエルか。天司長の副官を務めているミカエルならば適切な判断を下すだろう。……彼女たちにも、悪い事をしたよ」
「それが逃げてるって言うんです!」
 ルリアがもどかしそうに声を上げた。サンダルフォンは相変わらず「そうだな」とこたえている。何を言っても、サンダルフォンの心には響くことが無く、事実と認識をするだけだった。口にしたルリアが傷つくばかりで、不毛な会話だと、サンダルフォンは思った。
「逃げずに向き合ってください、じゃないと」
「向き合ってきたさ、俺だって」
 サンダルフォンは微笑を浮かべていった。
「向き合って、声を上げた。……その結果がこの様だ」
 それからサンダルフォンは、笑ってくれとグランとルリアに向かって言った。
「笑ってくれないと、あまりにも惨めじゃないか」
「笑いません。笑えません」
「……俺が言えたことじゃないが、君達も酷いな」
「本当に、サンダルフォンが言えたことじゃないよね」
 はっとしようにサンダルフォンは「そうだな」としおらしく言った。グランはばつが悪く、口をまごつかせて、何も言えなくなった。いっそサンダルフォンが開き直っているならば、「それがどうしたと」いうふてぶてしい態度で振舞ってくれていたら、とグランは思ってしまう。それはそれで、反省をしていないのだから問題ある。しかし反省をさせてやろうという気持ちで接することができる。ちっとも、言い過ぎたなんて思わないでいられる。
 だというのに、今のサンダルフォンは反省をしたつもりでいるのだから性質が悪い。
 サンダルフォンの同乗を拒否している団員たちですら、扱いに困っている。「心配をしているわけではないが、部屋に籠ってばかりで彼は大丈夫なのか」と訊かれたグランは、曖昧に頷くことしか出来なかった。
「俺が出歩けば、君たちも気が気でないだろう」とサンダルフォンは言って部屋に籠っている。
「心配をしているわけではないが、食事は必要ないのか?」と訊かれたグランは曖昧に頷いた。
「天司だから飲食は必要ない」とサンダルフォンは言っていた。それから、「役割はないけれどな……区分としてはまだ、天司らしい」と自嘲気味に付け加えられたからグランは心苦しい気持ちになって、ますますサンダルフォンを扱いづらく思った。
 団員達は積極的にはサンダルフォンに関わることはない。部屋を訪ねることもなければ、直接の会話もすることはない。だが、気にはなるらしい。
 サンダルフォンと話をしようとするルリアと、それを心配して付き添うグランとビィに様子を訊いて来る。当初こそ、ルリアを心配していた言葉は、やがて頑なな様子のサンダルフォンへと向けられている。団員たちはきっと、認めない。

「明日には寄港する予定なので、サンダルフォンさんも準備しておいてくださいね」
「準備……?」
「はい、お出かけの準備です」
「……俺の立場をわかっているのか?」とサンダルフォンは確認をする。
「はい」とルリアが首肯した。
 怪訝な顔をして、ルリアを見つめている。ルリアはにこにことしている。サンダルフォンは、困惑を浮かべて、グランに視線を向けた。
「悪いけど、一人行動は出来ないよ」
「いや、そうじゃない」
「ちなみに拒否権はないよ」
 サンダルフォンは頭を抱えた。
 その様子に、グランは少しだけ胸がすく思いになった。ルリアは頭を抱えるサンダルフォンをにこやかに見つめていた。

〇 〇 〇

 立ち寄ったのは、一連の騒動について収束してからやっと情報が行き届いたような、辺境に位置する島であった。災厄の「サ」の字すら行き渡っておらず、当然のようにサンダルフォンについては知られていない。それでも万が一にとそなえて、サンダルフォンはフードを目深に被ってルリアに腕を引かれ、その後ろをビィとグランがぞろぞろと着いて回る。直前までサンダルフォンは「正気か?」としつこいくらいに確認をしていた。
 サンダルフォンは自分が引き起こした騒動について、恨まれて憎まれて至極当然と思っている。そんな自分を連れまわすというのだから相応に、危険が付き纏う。仲間と勘違いをされてしまう、謂れのない悪意を向けられるぞとサンダルフォンは警告をした。根拠のない「大丈夫です」を繰り返されて、サンダルフォンは何も言えなくなって、久々の青空の下に引っ張り出されたのである。

 長閑な島の空気は、故郷であるザンクティンゼルを思い起こさせてグランはほんの少しだけ、懐かしい気持ちを覚えた。
 辺境に位置し、立ち寄る者は珍しい。島民たちは来訪者を嫌がるどころか、よく来たねと言わんばかりに出迎える雰囲気も、郷愁を加速させた。
 ビィと二人で細々と暮らしていた時には、想像すらしなかったような冒険をしてきたのだなとグランはしみじみと思った。
「ルリア、何考えてるんだろなあ」とビィの疑問に、グランは同意した。サンダルフォンも、口にはせずとも同意した。
 ルリアに腕を引っ張られているサンダルフォンは、なぜこの少女は自分に構うのかと不思議でならないでいる。自分を苦しめたいのだろうかと、これが彼女が自分に与えようとしている罰なのだろうかと思ったが、純然な善意であるらしい。
 市場は賑わい、活気づいていた。店が立ち並ぶ。前を通ると店主に「旅の人だろう? 見ていきな!」と呼びこまれた。その度に立ち止まるグランたちを、サンダルフォンはお人好しだなと思った。
 すれ違う人は島民が、物珍しそうにサンダルフォンたちを見ながら通り過ぎていく。ルリアが商品を見て目を輝かせる。「素敵ですね」とサンダルフォンは同意を求められる。グランが商品を見比べて「……どうしよう。サンダルフォンはどう思う?」なんて声を掛けて来る。
 だというのに、サンダルフォンは独りぼっちな気がしてならない。
 掛けられる声に生返事をしていれば「疲れたのか?」なんてビィが心配したのか、呆れているのかよく分からない言葉を掛ける。サンダルフォンは首を振った。本当かよとビィが疑わしそうにサンダルフォンを見詰めた。
 ぐー……と気が抜ける音がして、発生源を見ればルリアが恥ずかしそうにあははと誤魔化すように笑った。
「そろそろご飯にしようか」とグランが提案すればルリアが待ってました、と言わんばかりに「そうしましょう!」と同意を示した。
 ご飯にしよう、と決めた途端にグランもビィも市場に漂う香りに空腹が刺激される。何を食べようかと考える姿を、サンダルフォンはぼんやりと見詰めていた。

「俺のオススメはそこの定食屋だね」

 うんうんと悩んでいる姿に声を掛けた男に、サンダルフォンは咄嗟に身構えた。悩んでいた連中はといえば警戒心は皆無に、きょとりと男を見つめている。
「驚かせたかい?」と男が済まなさそうに言った。グランが首を振る。男は「それなら良かった」と言って笑って見せた。
 サンダルフォンはぞわぞわと、肌を粟立たせた。
「あそこの定食屋だよ。お手頃価格で味も良い。加えてメニューも豊富だ」
 グランたちが示された場所を見つめる。すっかり見落としていたが店がぽつんと立っていた。立ち並ぶ商店で隠れていたようだった。
 あそこにしようか、とグランが言えばルリアもビィも賛成する。食事をするつもりのないサンダルフォンは従うだけだった。
「ありがとう、そこの定食屋にするよ!……貴方は、島の人?」
「いや? 俺も旅をしているんだ。気儘な一人旅さ」
「一人、ですか!?」とルリアが思わず声を上げれば男が苦笑する。
「ああ。といっても、旅と言えば聞こえはいいが……。ほら、ちょっと前に島が落ちただろう? ……アレで故郷がね」
「あ……」
「まあ命があっただけ、と思うしかないさ」と言って男は肩を竦めた。グランは何と言えばいいのか分からずに困った顔をする。ルリアは視線をさ迷わせる。ビィがちらっとサンダルフォンを見た。
 サンダルフォンが浮かべていた表情は、フードの影で分からなくなっていた。
「そういえば、知ってるかい? あの事件の元凶はまだ生きているらしいぜ」と男の言葉にグランは「そうなんだ」と言った。
「まったく、恐ろしいったらない。君達も気を付けな」と男に言われたグランたちは曖昧な顔をして、男に勧められた定食屋へと向かう。
 サンダルフォンは、ふと、振り返った。
 黒いドレスシャツをはだけさせた男と目が合う。男はにこやかな顔でサンダルフォンに手を振っている。サンダルフォンは視線をそらすと、グランたちを追いかけた。男は肩を竦めた。

 定食屋にはちらほらと客がいた。サンダルフォンたちは案内をされたスペースに座ると注文をする。食事は不要だというサンダルフォンも、マナーだからと言われたら仕方ないからと注文をした。
 気まずい沈黙のなか、サンダルフォンはぼんやりと先ほどの男のことを考えていた。ちらりとだけ、見た覚えがある。ただ記憶は曖昧だ。なんせ当時のサンダルフォンの頭にはルシフェルのことしなかった。ルシフェルのこと以外、考えていなかった。余裕がなかったのである。そんな中で、そういえば見覚えがある気がしないでもない、という程度であった。サンダルフォンの記憶にある天司といえば、まずはルシフェルが挙げられる。それから、サリエルと遠目から見た指教の天司、四大天司と数える程度だった。ルシフェルとサリエルを除けば、交流は一切ない。サンダルフォンが一方的に知っているだけだ。だから、他人の空似である可能性は否定できない。確信がもてない。考え込むサンダルフォンを心配したように、グランが声を掛けた。
「……サンダルフォン?」
「どうした?」
「いや、あの……さっきの……」
「ああ、それが?」
「それがって……」
「サンダルフォン、本当に反省してねぇんだな……」とビィがいっそ、呆れたように、しみじみと言ったのでサンダルフォンは「これでもしてるんだが」と返した。

〇 〇 〇

 パンデモニウムから大脱走をしたサンダルフォンについて、いち早く気づいたのはルシフェルであり、そして二番目に気づいたのは自身であるとベリアルは確信していた。
 ベリアルはといえばサンダルフォンに接触することなく、サンダルフォンが暴走するのを手を叩いて見物をしていた。ぼとぼとがらがらと崩れ落ちていく島を見下ろしながら、「いいぞいいぞ!」とお節介なエールを送り続けていた。
 どうせサンダルフォンに世界を壊すことなんて出来やしないとベリアルは承知していた。いざという事態になれば、サンダルフォンの身か、あるいは心を守るためにルシフェルが顕現するだろうと予測していた。なんせサンダルフォンには四六時中ルシフェルの目が向けられている。ルシフェルの目を掻い潜りサンダルフォンと接触をしたところでリターンは小さい。ならばいっそサンダルフォンを泳がせてルシフェルを釣り上げるべきかと見守っていたら何やら痴話げんかを見せつけられた。
 天司長として平等に振舞い、淡々と麾下に命じて誰よりも機構じみていたルシフェルが、サンダルフォンをでろでろに甘やかす特別扱いを見てきたとはいえ、ベリアルもうわぁと内心で思った。思っているうちにとんとん拍子でベリアルの目論見通りに事が進んでいく。傷つき膝をつくサンダルフォンをルシフェルが回収していった。ルシフェルはきっと、サンダルフォンを手もとから離しはしない。あとはルシフェルの隙を作るだけだ。さてそろそろかと、「おいまだか」と急かしてくるベルゼバブを宥めながら、ベリアルは舌なめずりをした。だがしかし、ここにきて目論見が外れあれよあれよと明後日の方向に突き進んでいく。
 ルシフェルがサンダルフォンを自らの庇護下に置かず、特異点に委ねたことがそもそもの番狂わせであった。

「どういうことだ!」と喚くベルゼバブにこっちが訊きたいくらいだとベリアルは心底、思った。どういう心境の変化であるのか。ルシフェルを理解したいとも思っていないが、そこそこに──なんせ作られた時期がほとんど同じであり副官も務めたので、長い付き合いがあり、ベリアルはルシフェルの思考回路をある程度は理解している。だというのに、全く想像すらできない行動であった。
 もしかして、いよいよ見捨てたのか? とベリアルはそんなまさかなと思いながら特異点に託されたサンダルフォンの様子を遠くから観察をする。サンダルフォンはすっかり意気消沈した様子で、おのれルシフェルと憎悪たっぷりに燃やし続けていた気概はぷすぷすと煙もなく、燃え尽きていた。ぼんやりと濁ったような目にぼんやりと生かされている姿には、いっそ始末してやることこそが情けなのではないかと思うほどの有様であった。
 なんとも憐れであるので、同情ついでにベリアルはサンダルフォンも役立たせてやろうと計画を調整することとした。
 サンダルフォンについてはルシフェルには及ばないものの四大天司に匹敵するスペックを持つ。隙を衝いてとはいえ、四大天司から羽を奪うだけの実力もある。全員とはいかないものの、強大な力を秘めている四大天司の羽を取り込んだだけあって、容量にも問題はない。
 ルシフェルの隙はどうやら作れそうにもない。
 散々にドヤされるだろうなと目に見えている。よりにもよってと悪態を吐かれることが目に浮かぶ。しかしまあ、ルシフェルには今のところ油断も隙もありはしないのだから、ルシフェルに等しい存在で我慢していただくしかない。それに肉体さえ手に入れればこちらのものである。あとは作り変えるなり、新たに作るなりとお任せするとしよう。

 次の日も、市場を見て回ろうとするグランたちはひそひそと遠巻きな声に顔を見合わせる。昨日には感じることのなかった敵意をひしひしと感じる。自分たちが何かしたのだろうかと不安になった。
 サンダルフォンは腕組をして沈黙を守っていた。
「どうしたんでしょうか」とルリアが口にしようとした言葉はきゃあという悲鳴に塗り替えられた。ルリアは何が起こったのかと、腕を引っ張ったサンダルフォンを見上げた。咄嗟に弾いた小石が、足元に転がり落ちる。サンダルフォンは険しい顔をして周囲を睨みつけていた。
「サンダルフォンさん?」
 ルリアが心配に名前を呼べば「やっぱり」「本当だったんだ」と声が次々に上がった。理解が出来ずに不安を浮かべるグランたちを他所に、サンダルフォンは理解をした。ぼそりとルリアに耳打ちをする。ルリアが訊き返す前に、とんと突き放される。
 丁度、グランが受け止められる位置であった。
「……君たちなら良い隠れ蓑になると思ったんだがな」とサンダルフォンはにやりと笑って言うと、翼を広げ、飛び立って行った。何が起こったのかと呆気にとられる。先ほどまでの殺気立った雰囲気が嘘のように島民たちが心配に、声を掛ける。
「大丈夫か……?」
「いったいなにが……」と訳が分からず、ルリアが細い声で呟いた。
「可哀想に……。利用されてたんだね」
「やっぱり! 聞いた通り、サンダルフォンていうのはとんでもない悪党だな!」と怒気混じりに上げられた声にびくりとルリアが震える。「なにを言っているんだ?」とビィが怪訝に疑問を口にした。
 どうやら一夜にして、災厄と元凶であるサンダルフォンが島に紛れ込んでいるのだという情報が行き渡ったらしい。

 飛び上がったサンダルフォンは、特異点たちは無事だろうか、蒼の少女は怪我をしていないだろうかと心配を浮かべて、立ち止まる。あの場にいては、特異点たちが仲間であると勘違いをされる。頃合いを見て、騎空艇に戻ろうと考えた。そしてふと、戻る? と自分の思考を疑問に思った。
 お人好しで呑気な特異点達も、これで痛感したことだろう。サンダルフォンがいかにお荷物で厄介者であるのか。
 サンダルフォンは、行く場所も分からず追いかけるものもいないと分かっているのに、逃げるようにして羽ばたこうとして、視界が真っ白になった。特異点達との戦いからまだ万全ではないのだから、立ち眩みかと思って落ち着いて目を開ければ、そこは今ではすっかり見慣れた一室であった。サンダルフォンはきょろりと周囲を見る。バタバタと駆け付ける音と、バタンと扉が壊されかねない勢いで開かれた。
 ルリアが、顔を輝かせる。
「サンダルフォンさん!!よかった……。グラン、ビィさーん! サンダルフォンさん、いましたよ!!」と大きな声で廊下に向かって呼びかけるとバタバタとこれまた忙しない足音が響いた。ばっと勢いよく部屋に飛び込んできたグランとビィにサンダルフォンは驚いた。
「……悪いな」と謝ろうとした。戻ってくるつもりはなかったのだがと口にしようとした言葉は「良かった」という声に掻き消えた。
「ずっと探してたんだから!! どこ行ってたの!?」
「怪我してねぇか!?」と口々に言われてサンダルフォンはぽかんと、グランたちを見つめて、居心地の悪さに視線をさ迷わせる。その態度にどこか怪我をと心配が寄せられたサンダルフォンは慌てて「怪我はしていない」とどうにかこたえた。ほっとした様子に、サンダルフォンはむずむずとした。

〇 〇 〇

 島での騒動の後ですら、サンダルフォンは捨て置かれることなく、騎空艇に乗せられたままでいる。物資の補給もそこそこに、島を後にした。自分の所為なのだろうとサンダルフォンは思った。だが、団員たちは何も言わない。居心地の悪さを感じた。
 変化といえば、部屋に籠もりきることが許されなくなった。立場としては、団員と変わらない。洗濯当番に掃除当番と、共同生活における数々の交代制の当番の中にサンダルフォンの名前が組み込まれていた。
 警戒心と危機感が足りないのではないかとサンダルフォンは思わず苦言めいたものを零した。当番の説明をしていたグランがきょとりとする。
「うちはいろんな人が集まってるからね」グランが能天気に笑った。
 団員たちは大なり小なり、事情を抱えている。身分も王族や貴族、国を追われた立場や出奔、果てには盗賊と多種多様であった。
「だが俺は」とと反論を口にしようとした。
「乗ってるからには、特別扱いはしないよ」
「……別に当番を嫌がってるわけじゃない」
 サンダルフォンは見当違いに、当番を嫌がっているのだと思い、聞き分けのない子どもに言い聞かせるようなグランの物言いに、米神をおさえる。「そんなに当番がいやなの?」とグランは相変わらず、サンダルフォンの意図を読み取ろうとはしない。まさか態とだろうかとサンダルフォンは思った。しかしそこまで器用でもないかと思い直す。
「わかった」と重々しく、言葉を口にするほかなかった。
 グランはよろしくねと朗らかに笑った。サンダルフォンはきまずい顔で視線をさ迷わせていた。
 サンダルフォンは当番が巡ってくれば、文句の一つも言うことなく与えられた仕事を淡々とこなしていた。真面目な気質で、手を抜くなんて出来ないのだ。

 航行するグランサイファーの甲板で、サンダルフォンは空を見上げた。澄み切った青が、哀しい程に遠く感じる。ついた溜息が虚しく溶けていく。
「おーい、サンダルフォン! サボってんのか?」
「今日は当番じゃない」
 後頭部にはりついて揶揄い混じりの疑りを向けるビィを鬱陶しく感じながらサンダルフォンは否定する。自分の羽を奪ってやろうとした存在に対して、ここまで気を許すなんてどうかしているなとサンダルフォンは思った。
 それからビィを追いかけて、グランとルリアがやって来る。
「サンダルフォンさんもお茶にしませんか?」
「今日のおやつはアップルパイだよ」
 にこやかに誘われる。サンダルフォンはきゅっと喉が締め付けられた気がした。ややあってから、首を振る。ルリアが残念そうに肩を落とした。
「気が向いたらいつでも来てね」
「はやく来ねえと、アップルパイ、全部食べ切っちまうからな」
 サンダルフォンは曖昧な苦笑を浮かべた。
 艇内に戻る後ろ姿を見送った。甲板に残されたサンダルフォンは、ぼんやりと突き進む先を見つめた。果てのない青を、突き進むなか、自分はどうしてここにいるのだろうと分からないでいる。
 理由が欲しかった。意味がほしかった。
 サンダルフォンは、委ねた。
 仕出かしたこと、巻き込んだこと、傷付けたことへの贖いをしなければならない。贖罪とは、何をするべきなのだろうかとサンダルフォンは考える。
 特異点に、蒼の少女、赤き竜。空の世界におけるキーパーソンである。天司長が気に掛けるのも当然のことかと考えていたサンダルフォンは妙に冷静な自分がいることに驚いた。

「……こんなはずじゃ、なかったのに」
「ならどういうつもりだったんだい?」
 にんまりと笑う男は欄干に腰かけ、優雅に足を組んでいる。ドレスシャツと黒いファーが風にそよがれている。爽やかな青空が似合わない、見覚えのある男に、サンダルフォンは敵意を向け、睨みつけた。男は肩を竦めて、両手をあげた。敵意はないというアピールをしているらしいが、航行する艇に無断搭乗した不審者に変わりはない。
 静かに殺気立つサンダルフォンに、異常事態と察した団員達がどうしたどうしたと甲板に出て来る。
「あ、」と声を上げたのはルリアだった。
「やあ! 紹介した定食屋は気に入ってくれたかい?」
「はい、美味しかった、です」とルリアは思わずこたえていた。
「それはよかった!」
「──え?」
 殺伐とした雰囲気のなかにこやかに話し掛けられていたルリアに狙いを定めた攻撃が繰り出された。禍々しいエネルギーが迫って来る。ルリア! と悲鳴交じりの声が遠くで聞こえた。逃げなければと思うのに、脚は縫い留められたかのように動けないでいる。目を瞑り、身構えた。しかし、いつまでたっても痛みはない。おそるおそると、目を開ける。
「サンダルフォン、さん?」
「……怪我はないな?」
 ルリアはおずおずと頷いた。サンダルフォンは小さく、良かったと呟いた。一瞬だけ、ふらついたが、踏みとどまる。
「無茶をするなあ……。できるだけ、きみは傷つけたくないんだ。大人しくしていてくれよ。それとも、彼らが大切だっていうのかい? 仲間、だとか気持ち悪いことを言わないでくれよ?」と、おえっと吐く真似をして言った。

 サンダルフォンは不快そうに鼻を鳴らした。男の言動全てが癪に障る。なによりまたしても自分の所為で巻き添えを喰らわせたという事実が、サンダルフォンをやり場のない怒りに震え上がらせる。
「……俺が目的なのか?」
「君以外には今のところ、興味はないよ。今は、手を出さないと約束をしよう」
「わかった」と言って、サンダルフォンは一歩踏み出そうとした。その腕をか細く、震える手が掴む。
 サンダルフォンは困り顔を向ける。
 ルリアが震える声で「いっちゃだめです」と言う。サンダルフォンとて分かっている。きっとサンダルフォンは叶わない。勝てる想像がつかない。団員が束になったところで、勝てる保証もない。言葉に従ったところで、約束を違える危険性もある。団員の無事は保証できない。しかし、時間稼ぎ程度には抵抗してやるつもりだ。
 その間に、団員たちが逃げ切れば、サンダルフォンの命にも、やっと意味が見いだせる。
「きみたちに、迷惑はかけないよ」と言い聞かせて、ルリアの手をそっと振り解かせた。
 ふらつく脚に力をいれて、甲板を踏みしめる。満足そうに、にやにやとしている顔が鬱陶しい。サンダルフォン、と引き止める声に小さく「迷惑を掛けた」とこたえた。
「じゃあ行こうか」とにこやかに口にした男を、光が貫く。しかし、間一髪で避け、黒い羽を広げて飛び上がっていた。サンダルフォンは肩に触れる手に気づくと、信じられない気持ちで見上げた。蒼い目が、慈しむように見下ろす。記憶と変わらない瞳に、サンダルフォンの中で切ない気持ちがあふれ出した。
「まだ君の出番じゃないはずなんだが……なぜ顕現したのか、聞いても? ルシフェル」
 天司長ルシフェルは冷徹な視線をかつての副官に向けた。

〇 〇 〇

「こたえる義理はない。ベリアル、ベルゼバブならば駆けつけることは無い」
「ああ、やっぱり? バブさん、こっちの指示を聞いてくれないんだよ」
 困るよねと言いながらもベリアルは攻撃の手を緩めない。騎空艇に直撃しかねない攻撃をルシフェルが相殺する。ルシフェルの放つ光弾をベリアルがひらりと交わす。サンダルフォンは呆気にとられる。ルシフェルに肩を抱かれながら、戦闘のど真ん中で立ちつくしていた。団員たちも顔を見合わせる。
「どうする?」「どうしたらいい?」と声もだせずに目で会話をする。だがしかし、出しゃばったところでルシフェルの邪魔になりかねない。手もだせず口もだせずに、ただ、見守るしかないでいる。
「スペアなんて見限ったと思ったんだが……ッ!」
 ベリアルの顔面すれすれを横切った光弾がふわりと揺れるファーを焦がした。
「スペア? 見限った? なにを言っている?」
 淡々と威圧的な声に、サンダルフォンは震え上がる。可哀想なほどに恐怖を感じながらも逃げることができない。なんせ声の主に、肩を抱かれている。
 サンダルフォンにとって、ルシフェルは陽だまりのような存在だった。暖かく、いつだって包み込むように優しくて、唯一の絶対的な安全地帯であったのだ。
 だから、サンダルフォンは知らないでいた。
 これは本当に、ルシフェル様なのかと思ってしまった。
 叛乱に加わり対峙した時にすら、特異点との戦いに敗れて惨めを晒したときにすら、サンダルフォンは、ルシフェルの怒りをみることは無かった。怒りを知らないのかと思っていたサンダルフォンは、初めてルシフェルの「怒り」に触れた。
 恐怖で竦み上がる身で、サンダルフォンは無意識に、喉を震わせていた。
「……ルシフェル様?」
 確かめるように呼びかけたサンダルフォンに、ルシフェルが「大丈夫だよ」と安心をさせるように、柔らかな声をかける。サンダルフォンはああ、間違いなく、ルシフェル様だと思うと、ぐにゃりと力が抜けて、身体を支えられない。ベリアルの攻撃を受けてボロボロであった身体に、理解の追いつかない展開、そして、安堵に、サンダルフォンはとうとう耐え切れずに、意識を手放した。

 ぐったりとするサンダルフォンを、ルシフェルは横抱きに抱えた。何も言わないでいる姿が不気味であった。ベリアルの攻撃は情け容赦なく降り注ぐが、ルシフェルは目も向けずに相殺、どころかベリアルへの攻撃を激しくする。徐々に、ベリアルの顔から余裕がなくなっているのが、グランにもわかった。
「すぐに戻る。サンダルフォンをその間、くれぐれも頼む」
「いいの?」と訊けば、「…………あぁ」とたっぷりの沈黙の後、苦渋の決断とでもいうように首肯したルシフェルからサンダルフォンを受け取る。ルシフェルはサンダルフォンの頬に、名残惜しむように触れると、決意をしたように、翼を広げて飛び立つ。
 グランは白皙の頬に青白い怒りの炎が揺らめくのが見えた。
 ルシフェルがそれまでの攻撃とはけた違いの威力の光を放つ。縦横無尽容赦なく降り注ぐ裁定の光を、ベリアルは交わし続ける。余裕の笑みを浮かべることも出来ない。しかし、ついに光が翼を射貫き、墜落をした。ルシフェルはベリアルが堕ちた先を見下ろす。
 ベリアルは空を見上げる。見上げた空が閉じていく。どうやら天司長の安寧は、唯一のアキレス腱ではなく、逆鱗であったらしい。「ああ、畜生」とベリアルは言葉とは裏腹な狂喜めいた声音で呟いた。目を爛々と輝かせ、思案する。
 この程度で挫けることはない。

〇 〇 〇

 懐かしい気配を覚える。優しい声が、耳朶をうつ。名前を呼ばれたサンダルフォンは顔をあげた。そして、後悔をする。
 心配が滲んだ視線に、サンダルフォンは捨てられない感情に、気付いてしまう。捨てたつもりであった感情は、あっけなく、蘇るとサンダルフォンを駆り立たせる。奮い立たせる。
「俺は、どうしたって、この人を憎むことが出来ない」
 サンダルフォンは涙を滲ませた。
 敗北だ。
 どうしようもない、サンダルフォンがサンダルフォンである限り、決して覆ることのない完膚なきまでの、惨敗を、突き付けられる。
 憎悪を向けるべき中庭の風景に、サンダルフォンは安らぎを覚えた。嫌悪を向けるべきルシフェルにサンダルフォンは絶対的な安息を得た。
 かつての日々は、サンダルフォンにとって幸福だった。
 それは、あってはならない感情だった。思い出してはならない、封じ込めたはずの想いであった。だというのに、呆気なく封印が解かれる。サンダルフォンは思い出してしまう。思い出さざるを得ない。
 役立ちたかったのだ。
 ただ一人として、サンダルフォンを認めてくれるこの人を、ルシフェル様の、お役に立ちたかったのだ。
 どうして自分はこれほどまでに愚かなのだろう。サンダルフォンはさめざめと泣いた。おろおろと、心配をするルシフェルは、サンダルフォンが都合よく造りだした妄想だから、余計に虚しくなる。
 だってあり得ない。
 自分は見捨てられた。側にいる資格はない。あの時、天司長が顕現をしたのは特異点に危機が迫ったからだ。自分は、特異点を守ることすら、出来ない。情けなさと悔しさ、そして、得難い幸福を捨て去ったのは自分に他ならないのだという現実に、サンダルフォンは涙を流し続けた。そして縋ってしまう。現実には、ありえないことだからと夢に縋った。

〇 〇 〇

 ベリアルの襲撃から七日が経った。グランサイファーは襲撃なんて無かったかのような、穏やかな航行を続けていた。団員たちはぎこちない日常を送りながら、ふと気付けば一室を気にしてしまう。団員たちが立ち入るのも憚られる部屋では、ルシフェルが昏々と寝台の上で眠り続けているサンダルフォンを見詰めていた。
 意識を失ったサンダルフォンは、七日間眠り続けている。
 ルシフェルが確認をした限り、肉体に関しての異常はなく、コアも正常であった。精神への干渉もない。肉体にも精神にも問題はない。だというのに、声をかけても、揺さぶっても、身動ぐこともない。
 サンダルフォンが自らの意志で起きるのを待つしか出来ないでいる。
「生きていて欲しいと願うのは、エゴでしかないのだろうか。望んでは、ならないのだろうか。……間違っているのだろうか」
 サンダルフォンの覚悟を汲み、裁くことが正しいことであったというのか。
 ルシフェルは、ぞっとしない想像を浮かべることすら出来ない。サンダルフォンの存在しない世界を、ルシフェルは想像できない。それどころか、もしもあの時と言う事ばかりがルシフェルの中で思い浮かんでいた。
 サンダルフォンの心を巣食っていた不安を理解できていたならば。サンダルフォンの心に寄り添えていたならば。ルシファーの計画に、目的に、もっと早くに気付けていたならば。……──サンダルフォンは、傷つくこともなく、苦しむことなく、中庭で笑みを浮かべている。そんな、今日が、あったのかもしれない。
 サンダルフォンに関して、後悔ばかりが浮かぶ。過去を振り返ったところで、どうしようもないと理解をしている。無意味な行動だというのに、建設的ではないというのに、考えてしまうのだ。
 ルシフェルはサンダルフォンの頬に触れながら名前を呼びかけた。
 天司長としての威厳を微塵にも感じさせないほどに、か細く、弱々しい声が、虚しく響いた。

 その時、ふいに、サンダルフォンが目を覚ますとじっとルシフェルを見上げた。夢現に、ぼんやりとまどろむ瞳が、ルシフェルを認識しているのか定かではない。ただ、サンダルフォンが目を覚ました。それだけが、ルシフェルには理解できた。掛けるべき言葉が出て来ず、ルシフェルはただ見詰めるしか出来ないでいた。
「ルシフェル様がいる」
「ああ、ここにいるよ」
「……なんだ。まだ夢なのか」
「なぜ、夢だと?」
「しあわせだから」
 サンダルフォンはふふっと笑いながら、嬉しそうに言った。それから、小さな欠伸を零した。
「夢なら、覚めたくない。覚めたら、ルシフェル様は、いないから……」
 下がっていく瞼に抗うことなく、穏やかな寝顔を浮かべると小さな寝息をたてはじめる。
 ルシフェルは、ふらりとよろめいた。かつてない衝撃に打ち震え、身体の内側を駆け巡る激情が、あてもなく彷徨う。轟々と巻き起こる感情が制御できない。
 なぜ、後悔をするのか。なぜ、求めるのか。
 天司長として、あるべき行動ではない。
 当然のことだった。
 後悔を覚えるのは、天司長ではなくルシフェルだった。求めるのは、天司長ではなくルシフェルだった。
 どうか生きていて欲しいと願い、どうか笑っていてほしいと望んだのはルシフェルだった。
 それが、ルシフェルの「幸せ」だった。ささやかな、ただ一人に委ねた、幸せだった。
 きっと「私」は、サンダルフォン無くして生きることができないのだと、ルシフェルは今更になって、知った。

〇 〇 〇

 サンダルフォンは、微笑を浮かべるルシフェルを見上げ、静かに目を閉じた。いい加減に夢から覚めなければならないと思ったのだ。夢は記憶の整理だ。
 サンダルフォンは夢を見ていた。中庭の優しい記憶が繰り返される度に、胸がきゅうと切なくなって、サンダルフォンは捨て去ろう、忘れ去ろうとしていた想いを突き付けられる。
 恋しくて、求めて、ならない。
 夢だと分かっている。そろそろ、目覚めなければならないのにと決心する度に、決心を揺さぶるように、後ろ髪が引かれる。 
「夢ではないよ、サンダルフォン」
「……偽物が、俺の名前を呼ぶな」とサンダルフォンは哀しくなる。
 苦笑を零したルシフェルがサンダルフォンの頬に触れた。質感まである夢なのかと、驚きに目を見開き、絶望する。こんなの、目覚めたくなくなってしまう。
 視線が交わる。
「私達はもっと言葉を交わすべきだった。私は、今まで君に、甘えていた」
「俺もあなたに甘えていた。貴方ならと、思っていた」
 途端、サンダルフォンは罪悪感が湧き上がった。途方もない、罪の意識がサンダルフォンを責め立てる。息苦しさを覚えるほどの罪悪がサンダルフォンを襲い、不安に、駆り立てる。
「罰を、ください。お願いです、ルシフェル様。どうか、」サンダルフォンの請いにルシフェルは目を伏せて、首を振る。サンダルフォンの顔が色を失う。
「出来ない。……私は、きみを裁けない。私は、どうしたって、君を赦してしまう。君の総てを、私は愛しく思っているから、出来ないんだ。サンダルフォン、すまない。私には、どうしても、君を裁くことだけが出来ない」
 サンダルフォンは、戸惑いを覚えた。愛しい、と聞こえた。出来ない、と聞こえた。
「サンダルフォン、私は天司長ではない、ルシフェルだ。君の前では、ただの、ルシフェルとでしか、いられなくなる。だから、私には、君を裁くことなんて、出来やしないんだ。その所為で、君を、傷付け続けたのに、なのに、私は、君を手放せやしない」
「でも、あなたは、特異点に俺を託したのでしょう? 手放したじゃないですか」
「……出来なかった。どうしても、きみのことを、見ていた」
 サンダルフォンは思い出した。立ち寄った島で、特異点たちから遠ざかろうとしたときの一瞬の出来事。そして、グランサイファーで対峙したベリアルとの戦いの最中。ルシフェルは、いつも、見ていた。サンダルフォンは、呆れたような、馬鹿馬鹿しい気持ちの中にちらりと過った気持ちを、無視することが出来なかった。
 ルシフェルは見ているだけでは、我慢ならなかった。手を出すべきではない、サンダルフォンのあるがままに、特異点に委ねたのだという冷静な理性を押しのけて、身勝手な振る舞いをする本能を抑えつけられなかった。
 懺悔するようなルシフェルを、サンダルフォンは、見たことが無かった。自分は、この人の何を見ていたのだろう。役立ちたいのは、誰のためだったのだろうか。サンダルフォンは思った。

〇 〇 〇

「怪我の具合はもう良いの?」
 舳先に佇んでいるサンダルフォンに、グランは声をかけた。サンダルフォンは振り返ると淀みない足取りでグランのもとへと歩み寄る。グランは少しだけ、ハラハラとした。落ちたらひとたまりもない。空の底に真っ逆さまである、と心配をする自分が可笑しくなる。かつて、落ちたのは自分であり、落としたのは彼である。そもそも落っこちるなんて、彼にはあり得ない。なんせ翼があるのだから。
「迷惑を掛けたな」
「迷惑なんて思ってないよ」
 サンダルフォンは居心地の悪そうな顔で、「そうか」と言うと黙りこくった。
 グランサイファーは夕暮れの迫る空を航行していた。主調理室では夕飯の支度が進んでいるらしく、スパイシーな香りが甲板にも流れる。
「……ついて行かなくて良いの?」
 サンダルフォンは一瞬だけ虚をつかれたような顔をした。それから、微苦笑を浮かべる。
「良いんだ」
「無理してない? 本当は、ルシフェルについていきたかったんじゃない?」
「してない、と言えば嘘になるかもしれない」とサンダルフォンは観念したように言った。
 ルシフェルがグランサイファーを発ったのは、つい先ほどのことだった。青空の中に溶けこんだ姿を、サンダルフォンはずっと見つめていた。
 二人きりで話し込んでいた間のことを、団員たちは何も聞けない。聞くことが野暮というものだった。すっかり、二人の間には柵がなくなっていて、サンダルフォンは見たことが無い穏やかな顔で、ルシフェルは柔らかな微笑を浮かべていた。それだけで、分かってしまう。
「俺はどうやら、あの人のことを嫌いになることは出来ないらしい」
「嫌いになりたいの?」
「なりたかったんだよ、嫌いになれたら、どれだけ良かったか! 嫌いになって、あの人が傷つく様を見下ろしてやりたい、自分が捨てた存在に傷つけらえる様を高笑いしてやりたい、なんて思ったんだが……想像できないんだ。俺は、あの人が傷つく姿も、膝をつく姿も、想像できない。あの人は完璧で、完全な存在だから。だから、俺は必要じゃなかった。スペアなんて、いらなかった」
 サンダルフォンは、ルシフェルとルシファーの会話を思い出すと今でも胸が苦しくなる。
「役割がスペアだったことも、不用として扱われたことも哀しかったけれど、それ以上に哀しかったのは、ルシフェル様が何も仰られなかったことだった。俺は、あの人に認められたかっただけだった。…・…天司としてじゃない。サンダルフォンとして、必要とされたかったんだよ。役割がなくても、きみが必要だ、なんて……思われたいと、言ってほしいと、思ったんだ。……だから、八つ当たりした」
 そう言ったサンダルフォンが眩しくてグランは目を細めた。サンダルフォンはその視線に恥ずかしさを覚えて、口をまごつかせる。やっと、といった具合に口を開いた。
「胸を張って、いつか、ルシフェル様の隣で、共に生きていけたらと、思っている……都合の良すぎる、ことだとは分かっている。……だから、まだ、あの人と一緒にはいられない。まだ、贖罪を果たしていないから。罪を、償っていないから……いつか、贖罪を果たしたら、」
 サンダルフォンの横顔が夕日に照らされた。
「あの人が言っていた、役割もない、ただの命として……そばで、生きていたい」
 決意に充ちた横顔は、昔日に思いを馳せるように切ない微笑が浮かんでいた。

Title:ユリ棺
2020/12/14
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