ピリオド

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 ルシフェルは母親の腕に抱かれたまま、すよすよと小さな寝息を立てている姿に、仰天した。すさまじい衝撃であったのだ。感情が揺さぶられる。蒼穹が見開かれ、刻み付けんとばかりに見つめた。

──なんて、清らかな子だろう!!

 釘付けになるルシフェルを母子がすり抜けていく。「ん?」と不思議そうに母親は振り返ったものの、母親の赤み掛かった瞳はただ平々凡々な病院のロビーを映すだけであった。まあ病院だものねと思いながら母親は生まれたての我が子を抱えなおして病院を出ていった。
 ルシフェルは、衝撃から立ち直るや否や母子を、子どもを追いかけた。
 その出会いはまさしく運命であったのだ。この出会いのために、幾星霜の時を無為に漂い続けていたのだと、ルシフェルは確信めいた予感を抱いた。

 ルシフェルは死して、さ迷い続けていた。

 安穏と平和を享受する世を見守り、戦乱の世を嘆きながら、ルシフェルは辿り着く場所も存知ぬまま、人々の営みに感嘆しながら、行く先もなくぼんやりとしていた。気づけば生きていた時代から、気が遠くなるような時が過ぎ去っていた。時代と文化ばかりが移り変わってゆく中、ルシフェルは変わらないままであった。変わることが出来ないでいた。だというのに、数千年の不変はたったの一瞬、たったの一目で変化した。心がせいて仕方がない。あの子が気になって仕方がない。
 追いかけた先、母子は車に乗りこんでいた。ルシフェルは着いてまわった。やがて数十分走った車は、出来たばかりの新しい家の前で止まった。母親が子どもを抱きかかえながら鍵を探し出そうとする姿にルシフェルははらはらとする。鍵が探し出される前に、ガチャリと扉が開いた。
「連絡をしてくれといっただろう!!」
 心配のあまりにわき上がった怒りを前にして、腕の中の子どもはぱちりと目を開けた。きょとんとしていた赤み掛かった目はじんわりと滲みだし、わっと泣き声と共に決壊した。「あなたが怒るから」という母親に父親は罰の悪そうな顔をした。

 若い夫婦が子育てに悪戦苦闘する姿をはらはらとしながら、ルシフェルは子どもの成長を見守った。

 陽気な陽ざしがリビングに差し込んでいるなか、くまのぬいぐるみをぎゅっと掴んだまま寝息を立てている。ルシフェルは微笑を浮かべながら寝顔を見詰めた。
 サンダルフォンと名付けられた赤ん坊は目まぐるしく成長している。片時も、目を離さないでいるルシフェルも、その成長には驚かされてばかりだ。
 くうくうと寝息を立てていたサンダルフォンだったが、くしくしと目を覚ましてしまった。きょろきょろと見渡すと、母親がいないことに気づいてしまった。
「おや、泣いてしまう」とルシフェルが心配に思った。サンダルフォンが泣く度に、ルシフェルはとっくに喪った心臓の痛みを思い出すほどに、哀しく切ない気持ちになってしまうのだ。母親が気づくことを願ってしまう。しかし、予想とは裏腹にサンダルフォンは泣き出す素振りは見せない。それどころか、興味津々とばかりに、最近覚えたばかりのはいはいでリビングを徘徊しだしてしまう。
 ぐるぐると回ったあと、やがてサンダルフォンはぺたんと座り込んだ。ルシフェルはにこにこしながらその冒険を見守っていた。
 きょとりとしていたサンダルフォンはふと、すぐ隣のファブリック生地のソファにペタペタと触れだした。それからソファにしがみついた。ぐらぐらとする体にルシフェルは「サンダルフォン、危ないよ」と声を掛けるが、当然、聞こえはしない。夢中になっている。母親のいない淋しさよりもソファへの興味でいっぱいらしい。
 やがてサンダルフォンはソファにもたれかかるようにして立ち上がった。
 今までにない高さに、きょろきょろとしている姿に、おお!! とルシフェルが感嘆した瞬間、ぐらぐらとサンダルフォンの頭が揺れ出す。ゆらゆらと、やがてひっくり返るように後ろ向きに倒れていく。
「危ない!!」と思わずルシフェルはサンダルフォンの頭を庇うように手をのばした。
 無意味だと冷静な頭が判断しているものの、見ているだけということが出来ずに、咄嗟に体が動いていた。果たして、無意味ではなかった。
「──?」
「サンちゃん、目が覚めたのねぇ」
 そういって現れた母親はぺたんと座り込んでいるサンダルフォンに声を掛けた。サンダルフォンは不思議にきょときょととあたりを見渡している。そんなサンダルフォンの直ぐ傍で、ルシフェルは安堵の吐息をもらした。それからにぎにぎと手を確かめて、再びサンダルフォンに手をのばす。あっけなく、すり抜ける。しかし、先ほどの一瞬、ルシフェルの手には確かに触れたという意識があった。
 証拠に、サンダルフォンはたんこぶの一つもない。

「火事場のなんとやら、というものだろうか」とルシフェルは思うことにした。なんせサンダルフォンに怪我がないことが重要であったのだ。ルシフェルにとって些事である。

 はいはいだけでも行動的だったサンダルフォンだったが、つかまり立ちと、つかまり歩きをおぼえ、とうとう独り歩きを取得した。すると、その行動範囲はさらに広がっていった。子どもらしく、やんちゃで、あらゆるものに興味を抱く姿を微笑ましく、ルシフェルは見守り、危ない時には「火事場のなんとか」でサンダルフォンを守っていた。その度に何が何だか分からない様子できょとりとしているサンダルフォンは、微笑ましく、愛しく、慈しむべき存在であった。初めて抱いた安らぎであった。生前にも抱くことが無いままであったというのに、死して得ることになるとは、思わないでいた。



 よく晴れた日のことであった。サンダルフォンは母親に手を引かれて車に乗りこむ。しっかりとシートベルトをしているが、忙しない。楽しみにしていた家族旅行であった。わくわくとしている姿を見守っていると、伝染したように嬉しい気持ちになっていた。
──酷い事故だった。両親は即死だった。サンダルフォンが、擦り傷一つで生き残ったことは奇跡であった。ルシフェルはといえば──自分が傍にいながら擦り傷を負わせてしまった、情けない、慢心であったと悔やんでいた。
 両親の死を理解していないものの、両親がいなくなったことは察しているサンダルフォンがわんわんと泣く度に、ルシフェルは胸が締め付けられた。より一層に、この清らかで無垢な魂を守らねばならないのだ、と決意をしたのである。

「サンちゃん、おばちゃまと暮らしましょうね」とにこやかな笑みを張り付けてその内心ではサンダルフォンに相続された両親の遺産を虎視眈々と狙っている女性を遠ざけてやった。

「ごめんなあ、こんな家で」と済まなさそうな顔をしている男の目にはねっとりとした欲が隠し切れないでいたから、ルシフェルは耐えがたく本性を暴いてやった。

「疫病神め!!」とサンダルフォンを詰る同級生たちを少しばかり懲らしめてやると、すっかり懲りた様子でサンダルフォンを揶揄うことがなくなった。

 年を重ねても、サンダルフォンの身も心も穢れのひとつもなく美しく清らかであった。

「サンダルフォン、私が君を守るよ」とルシフェルは聞こえないと分かっていながら、優しく声を掛けた。



「きみ、すごいのが憑いてるね」とすれ違いざまに声を掛けられたサンダルフォンは胡散臭い視線を向けた。
「失礼。不躾だったね」そう言った女性は、サンダルフォンとは微妙に視線を合わせない。斜め上を見詰めている。というよりも、釘付けになっている。考え込んだ様子で、ひとり納得をしている姿に気味が悪いなとサンダルフォンは思ってしまった。初対面の、それも女性に対してと失礼過ぎるかと思ったが、そもそも声を掛けてきたのは女性であるし、自身には一切の非が無いなと思いなおした。
「思わず声を掛けてしまったよ。ここまで強力なものは今までみたことがない。……悪いものではないよ。きみにとっては、だろうけれどね。急に声を掛けてしまってすまないね」
 立ち去る女性と一瞬だけ、ちらりと目が合った。憐みが浮かんでいた。サンダルフォンは「待ってくれ、どういう意味だ」と声を掛けようとした。
 もしかしたら彼女なら自分を理解してくれるのではないか、長年の境遇を解き明かしてくれるのではないかという、僅かな可能性を抱いた。しかし、可能性以上に彼女を巻き込んでしまうのではないか、という根付いた恐怖が、サンダルフォンに二の足を踏ませた。
 言葉は喉元迄せり上がったものの、とうとう吐き出されることはなかった。女性はとっくに、雑踏の中に消え去ってしまった。サンダルフォンは言葉を飲み込んで、興味が無いとでもいうようにそそくさと歩き出す。

 慎重すぎるくらいに人と距離を置きながら、気疲れを覚えるほどに用心深く、歩いていた。けれど、サンダルフォンがどれだけ注意をしてもぶつかってしまう。
「すいません」と慌てて声を掛ける。
 サンダルフォンに非はない。携帯を操作しながら歩いていた男に非があった。だというのに、ぶつかってきた男はチッと舌打ちをして去っていった。
 やってしまったと思った矢先、「ぎゃっ」と小さな悲鳴を上げて男が躓いた。思わずというように、手からすっぽ抜けた携帯は何も知らない女性の足元につるんとすべっていった。女性は気付かずに蹴り飛ばしてしまう。蹴り飛ばされた携帯は転がっていき、交通量の激しい路面で落ち着いたが、すぐさま大型トラックが通過していった。バキバキと無惨なガラクタに成り果てた携帯だったものがアスファルトの上に転がっていた。
 男は見事な連鎖にぽかんとするしかないでいた。

──非科学的だ、俺の所為じゃない、全部、偶然だ。

 言い聞かせても染みついた罪悪感がじわじわと濃くなるだけだった。
 サンダルフォンは青ざめたまま、駆け出して、息も絶え絶えに、立ち止まると、ずるずるとしゃがみこんだ。
「もう、嫌だ」



 凄惨な事故だったと記録されている。その事故の中、生き残ったことを奇跡と言われた。あるいは、母の愛が救ったのだと美談として取り上げられた。
 幼かった当時は、両親が突如としていなくなったということだけが理解できた。どこにいるのと聞いても誰も教えてくれず、探し回っても見つからない。
 捨て去られたのだと思った。
 良い子になるから置いていかないでと淋しく恋しく、わんわんと泣いた。
 今でも両親を思い出すと、サンダルフォンはたまらない気持ちで、胸がつっかえたように息苦しく、切なくなる。
 両親が健在であった頃こそが、サンダルフォンの二十年にも満たない人生の絶頂期であり、幸福に充ちた日々であった。
 記憶の中でだけの存在となっている父と母は、サンダルフォンにとって唯一の味方である。
 サンダルフォンは、一緒に逝きたかった。
 淋しく生きるだけならば、いっそつれていってほしかった。

 両親を喪ったサンダルフォンは、遠縁の女性に引き取られた。会社を経営しており、裕福な女性であった。けれど金銭感覚には厳しく、サンダルフォンを甘やかすことはなかった。
──女性の会社が破綻したのは、間もなくであった。呆然とする女性は、ひとりで生きていくのがやっとという経済状況に陥ってしまい、共に暮らすことは困難となった。

 施設に引き取られかけたサンダルフォンを、ならばと引き取ったのは遠縁の男性だった。玩具を買ってくれる優しい人。サンダルフォンはとても懐いた。なんせ子ども、それでいて傷心であったから、単純であった。
──男性に病が見つかったのは、間もなくであった。入退院の繰り返しと治療に、自分のことだけで手いっぱいとなった男性は、サンダルフォンの面倒まで見て居られる状況ではなかった。

 親戚の間を転々としたが、病気や事故、事件に見舞われ、とても子どもを余分に育てる余裕もなくなった。そのうちにサンダルフォンを引き取るという声もなくなってしまった。
 ある日、見知った親戚が膝を合わせてひそひそとしている話していた。サンダルフォンは思わず、ひっそりと、息を殺した。
「あの子がきてから、おかしくなったのよ」
「ご両親だって……ねぇ?」
 サンダルフォンは「違う!!」と言いたかったが、唇を噛んで、ただ耐えることしか出来なかった。
 ひそひそ話をしていた親戚は、間もなくして事故にあったという。その際に、唇が割ける大怪我を負ったと伝え聞いた。

「死神が来たぞ!!」
「疫病神だ!! 逃げろ逃げろ!!」
 同級生たちの悪口を、サンダルフォンは鼻で笑って、心で泣いた。反応をしたら、ダメなのだと自分に言い聞かせるしかない。思い上がりであれば、それでいい。全部、偶然であれば、それでいい。
 だというのに、死神とサンダルフォンを揶揄った同級生は階段から落ちて、骨折をした。疫病神と悪意をぶつけてきた同級生の家は、一家離散となった、同級生は姿を見せなくなった。

 目を合わせたら呪われるぞ。
 名前を口にしたら祟られるぞ。

 あり得ない噂ばかりが広がっていった。

──俺の、所為じゃない!!
──傷つけたいなんて、願ってない!!

 訴え続けているうち、陰口は聞かなくなった。
 暴力なんて、もっての外。



 だって、何がおこるか分からない。
 遠巻きに、畏怖される。
 サンダルフォンは、ひとりぼっちになってしまった。
 あるいは、自ら、ひとりを選んだ。
 自分の所為で、誰かが傷つくところを、見たくはなかった。

「もう、いっそ」とサンダルフォンは考えた。死んでしまおうか。淋しいばかり、癒えない傷ばかり、痛みしかない世界からおさらばをしようとしても、サンダルフォンは死ねなかった。

 高層ビルから飛び降りたら、たまたま街路樹がクッションになって無傷だった。
 大量服薬を試みたが、眠っている間に吐き出してしまっていた。
 あらゆる方法を試みたが、どれもこれも失敗した。

「死ねないんだ」という絶望は、サンダルフォンの最後の希望を木端微塵に打ち砕いた。

Title:天文学
2020/12/05
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