ピリオド

  • since 12/06/19
 午後の麗らかな陽気が降り注ぐなか、ルシフェルはフードを深く被りながら背中を丸め、俯いて歩く。──暫く身を隠せ。有無を言わせずに、携帯電話とカード類を取り上げられ、代わりとばかりに現金数十枚と量販店で買ってきた服を持たされたルシフェルは、家を放り出された。何があったのか理解したのは、重要参考人として身に覚えのない事件の容疑者としてお尋ね者になってからだった。
 日中は路地でひっそりと息を殺し、日が落ちると公園の遊具で仮眠を取り、夜が明ける前にふらりと路地に戻るという生活を、一週間、繰り返している。
──いつまでこの生活を続ければ良いのだろう。
 ルシフェルはちゅうちゅうと自動販売機で購入したゼリー飲料を吸いながら途方に暮れる。公園のブランコのチェーンは錆だらけで、ぎしぎしと嫌な音を立てた。人もいないからとフードをとり、丸めていた背筋を伸ばす。首が痛み、手でおさえた。
 ルシファーが考え無しに身を隠せという事はないことを、ルシフェルは理解している。そもそも身に覚えがないということを、ルシファーも知っているのだ。それでなお、身を隠せということは余程の危険があるということなのかとルシフェルが考えていると、じゃりと砂を踏みしめる音にはっとした。
 ぽかんと、ルシフェルを見つめているのは小さな子どもだった。
 よれよれでプリントがほとんど剥がれたシャツと、半ズボン。半ズボンから伸びている脚はぽきりと折れてしまいそうなほどに細かった。
──しまった。だが、子どもか。誤魔化せるだろうかとルシフェルが思案しているとふらふらと子どもが熱に浮かされたみたいに歩いて来る。ブランコに座るルシフェルの前にやってくる。全体的に薄汚れた子どもだった。そのくせ、目だけはキラキラとしている。
「てんしさま?」
 ルシフェルは戸惑う。既に時刻は三時をまわっている。
「どうしてこの時間に公園に?」
「のどがかわいちゃったから」
 照れたように言った。ルシフェルはそうか、と言いながら、ざわざわと胸騒ぎに、落ち着かないでいた。喉が渇いたからと言っても、どうして態々外に出なければならないのか。ただ、貧窮している家庭であるにしても……と子どもを見ながら、その容姿に眉を寄せた。髪はぬとぬとと油まみれで、ふけが浮かんでいた。
「てんしさまはどうして?」
 ルシフェルが言葉を探しているうちに子どもは、「──おれを、むかえにきてくれた?」ともじもじとしながら言った。ルシフェルは意味が分からず、言葉を失っていると子どもは悲しそうな顔を浮かべた。
「ちがう? おれ、まだ良い子じゃない?」

──まだ、てんごくにつれていってもらえない?

 悲愴な声に胸が痛くなる。
 ルシフェルの知る子どもは、甲高い声で笑って、泣いて、全身で生き生きとしている。対して目の前の子どもは生気を感じられない。どくどくと心臓が音を立てて、吐き気が込み上がる。
「……お母さんと、お父さんはどうしたんだい?」
 叫びだしそうな声を抑えて問いかける。
「サンダルフォンはさきに、てんごくにいってなさいって。あとからおいかけるよっていってた」
「それは、いつ?」
「いつだろ……ちょっとまえ」
 サンダルフォンはにこにこと楽しそうに、嬉しそうに言った。
「てんごくって、いたくないんでしょ? ほんとう?」
 痛くないことが天国だというのならば、当たり前に転がっている。サンダルフォンの青痣だらけの脚に気付いてしまったルシフェルは、遣る瀬無くなった。
 ルシフェルが立ち上がると、ブランコはぎしりと耳障りな音を立てた。
「お父さんとお母さんは家にいるのかい」

──いないのだろうなと思いながら問いかける。案の定というべか、サンダルフォンはいないと首を振った。
「君を天国に連れて行けるか、お家を見せてもらっても良いかな」
「てんしさまが、きてくれるの!?」
 喜色の浮かんだはしゃぎ声は、子どもらしくあった。ルシフェルが人差し指を口元にすれば慌てて口を押える。こくこくと頷いたサンダルフォンはあかあかと輝いた目でルシフェルを見上げた。
 こっちだよとルシフェルの手をひくサンダルフォンは無邪気だった。疑うということを知らないでいる。自身に掛けられた言葉をそのままに、受け止める。
 黴臭く、じめじめとしている。
 窓はガムテープが貼られ、カーテンが閉められたままだった。ゴミがあちこちに放り出され、生ごみの臭いにルシフェルは吐きそうになる。時折、かさかさと不愉快な虫が這っているのは、知らないふりをした。
 サンダルフォンにとって当たり前の部屋は、ルシフェルにとって異常な部屋だった。
 すいすいとゴミを踏みしめながら歩くサンダルフォンに、ルシフェルは躊躇いながら踏み入れた。ぬとりと何かを踏んだ気配がした。
 一か所だけ、汚れがマシなスペースがある。サンダルフォンの定位置である場所に、ルシフェルは座らされた。
 落ち着かないでいるルシエルに、そわそわとサンダルフォンが気が気でならない様子で、声を掛けた。
「てんしさまは、とおくからきたの?」
「うん、ずっと遠くだよ」
「てんごくも、ずっととおい?」
「……そうだね」
 きっと、この子にとって天国とはずっとずっと遠い存在なのだと思うと目の奥がぐずぐずと熱くなった。
 きゅうきゅうと可愛らしい音が鳴る。サンダルフォンは照れ隠しのように俯いた。それからちらっとルシフェルを見てから、ううんと考えたようにしてごみの足場を踏みしめながら異臭のするキッチンを漁りだす。そこが、かろうじてキッチンだと分かるのは冷蔵庫や電子レンジがどうにか確認出来たからだ。
 何かをみつけたサンダルフォンはとてとてとルシフェルに菓子パンを差し出す。
「てんしさまがたべて」
 消費期限はとっくに切れていた。
「これはどうしたんだい?」
「おかあさんがおいてってくれた」
 サンダルフォンは宝物みたいに言った。
 あまりにもな姿に、ぎゅっと胸が締め付けられる。言葉が出ない。可哀想なんて、押し付けだと分かっていても、ルシフェルにとってその姿は憐れ以外の何物でもなかった。ルシフェルはサンダルフォンに手を伸ばそうとすれば、サンダルフォンはぎゅっと目を瞑って、耐えるような仕草を見せた。ルシフェルはべたつく髪を撫でる。サンダルフォンはおそるおそると目を開けてから、きょとりとルシフェルを見上げるとふにゃりと笑って見せた。
「私はね見つかってはならないんだ。だから、私のことを秘密にしてくれると、約束してくれないか?」
 ルシフェルの言葉に、サンダルフォンは仰々しく頷いた。



 期限の切れたパンをどうしたものかと思いながら、サンダルフォンを見る。サンダルフォンは手足を折りたたむようにして丸まり、眠っていた。
 部屋の外は別世界に日常が流れている。
 元気のよい子どもの声が薄い壁越しに響いて来る。きゃあきゃあと無邪気な声が響く度に、ルシフェルの胸の奥がずんと重くなる。
 ううんと愚図った様子のサンダルフォンが顔をあげて、それからきょときょととしてからルシフェルを見つめ、にこりと笑った。
「てんしさま、いてくれたんだ」
「……うん」
「きょうはてんごくにつれていってくれる?」
「まだだよ」
「そっか」
 サンダルフォンは残念そうに、納得した。

 きゅうとお腹が鳴る。ルシフェルはパンをそっと隠してから、サンダルフォンに財布から紙幣を三枚渡した。サンダルフォンは不思議そうに紙幣を摘まんだ。
「これで、ご飯を買ってきなさい。それから、ゴミ袋を買ってきてくれないか?」
「……まかせて!!」
 サンダルフォンの頬が朱色に染まった。サンダルフォンは飛び出すように家を出ていった。ルシフェルはその背中を見送る。立ち上がると、恐る恐ると足を踏み出す。ねとりとした感触に背筋をざわつかせながら、部屋を見て回る。どこもかしこも、ゴミだらけだった。とても、人が暮らす環境ではない。
 吐き出すものもなく、こみ上がるものを押し込める。
 ガチャリという音に身を隠す。
「てんしさま……?」
 心細い声に、ルシフェルは安堵しながらサンダルフォンにおかえりと声を掛けた。ルシフェルの姿に、サンダルフォンは満面で「かってきました」と袋と御釣りを渡した。御駄賃だと御釣りをそのままサンダルフォンに渡そうとすれば、サンダルフォンは顔を強張らせた。
「おとうさんにおこられる」
 ルシフェルは仕方なく、財布にしまった。

 サンダルフォンが買ってきたパンは、一人分だった。二人分、と言えば良かったなと思っていれば、そのパンはルシフェルに差し出される。ルシフェルは一瞬、不思議にサンダルフォンを見つめた。言葉が、足りなかったのだなと思いパンを袋から出すと半分に分けて食べた。
 むぐむぐと食べているサンダルフォンを見つめていると、不意に視線があった。サンダルフォンはにこっと笑うとおいしいと言った。ルシフェルはそうだねと曖昧に返した。
「お父さんとお母さんは、いつ帰ってくるのか分かるかい」
「あのまるじるしのところ」
 サンダルフォンが示した壁掛けカレンダーの月末には丸印と共にゴミ出しと書かれていた。
「そのあいだにひとりでてんごくにいけなかったら、つれていってくれるんだよ」
 サンダルフォンはにこにこしながら言った。
 なんて残酷なのかとルシフェルは気分が悪くなった。この子は、私がいなかったらひとりで「天国」を見ながら緩やかに死んでいたのだろう。誰にも看取られることなく、疑問もいだくこともなく、痛みのない世界を夢見てその小さな命を終えていたのだろう。
「てんしさま、どうしたの?」
 サンダルフォンが不安そうに問いかけて来るからルシフェルは、なんでもないよと言った。パンを食べ終えるとルシフェルはさてと立ち上がる。頼んだゴミ袋では到底、足りないだろうがまずはと手あたり次第に詰め込んでいった。時折、かさかさと動き回る害虫に対しては無心になる。サンダルフォンはおろおろとその様子を見守っていた。
「おこられる」
 大丈夫だとルシフェルが言ってもサンダルフォンは、不安そうな顔をしていた。

 ゴミ袋を使い切って、かろうじて二人分が寝転べるスペースを確保できた頃には日が沈みかけていた。サンダルフォンは居心地悪そうにしながら、立ちつくしている。
「……お風呂に入ろうか」
「うん」
 電気や水道が使えるのか疑問であった。ルシフェルの不安をよそに、サンダルフォンはといえばがさごそと風呂場に備え付けられた洗面台の下から、プラスチックの洗面桶を取り出すとルシフェルに差し出した。ルシフェルは呆気にとられる。サンダルフォンにとってのお風呂は、洗面桶だけであることを知ると虚しくなった。
 お風呂場の蛇口は、サンダルフォンの力ではとても動かせないほどにきつく締められ、テープで塞がられていた。
「ここはおとうさんとおかあさんがつかうから」
 風呂場だけは、妙に綺麗であった理由に納得すると同時に、見知らぬサンダルフォンの両親に対して冷たい感情を抱いた。どのような事情があっても、子どもに冷酷な仕打ちをして良いという理由にはならない。
 テープを剥がして蛇口をひねる。どばどばと流れだすと、もうもうと湯気が立ち込める。サンダルフォンは青白い顔でルシフェルを見つめていた。
 ルシフェルはサンダルフォンに笑い掛ける。
「入ってしまおうか」
「でも」
「天国にいくためだよ」
 そういうとサンダルフォンは、うんと頷いた。それから服をぽいぽいと脱ぎ捨てる。骨の浮き出た体のあちこちは、火傷のあとや黒い痣がくっきりと残っていた。痛ましい姿をあまり見ないようにしてルシフェルはサンダルフォンを洗う。べとべととしていた髪がつやつやになるまでに3回、シャンプーをした。タオルで体を洗えばタオルが黒ずみ、流れていく石鹸の泡は濁ったように思えた。
 全身を洗われてすっきりとしたサンダルフォンはびくびくと湯舟に浸かっていた。サンダルフォンにとってそこは痛くて熱い思い出しかない場所だったから、恐ろしくてたまらなかった。だけど「てんしさま」に言われたのだからと決心をして顔を強張らせながら浸かっているうちに、心地よい気持ちで、やがて安心をしたのか、溶けたようにうっとりとしていた。その様子を見て、ルシフェルはほっとして自分の体を洗う。
「てんごくは、まいにちおふろにはいるの?」
「そう、だね」
「そっか……はやくてんごくにいきたいなあ」
 ぴちゃりと跳ねた水滴と共にサンダルフォンの小さな願いがこだました。



 サンダルフォンに食事と一緒に、新聞を買ってきてもらってやっとルシフェルは日付感覚を取り戻した。サンダルフォンの両親が帰って来るまで、あと二週間であった。そして、全国紙の新聞には、ルシフェルが重要参考人として関わっているとされているルシフェルの全く覚えのない事件についての報道は掲載されていなかった。ルシフェルが新聞を読んでいると、サンダルフォンは寝転がりながらその様子をじっと眺めていた。ぱたぱたとサンダルフォンの細い脚がばたつく。
 夜中にこっそりとゴミ出しをした。部屋はすっきりと片付けられている。生憎と、部屋の壁や床にしみこんだ臭いまではとれないものの、いずれ、消えていくだろう。その時に自分はいない。サンダルフォンは、どうするのだろう。私はどうしたらよいのだろうと、視線を感じながらルシフェルは、戸惑う。
 もう二週間後に、サンダルフォンは両親に天国なんてところに連れていかれる。サンダルフォンだけが一方的に、きっと、両親は追い掛けなんてしない。だからといって、ルシフェルには何もできない。この子をつれて逃げる──? 交番に駆け込む──? あるいは、なにも、知らないふりをして「てんしさま?」
 そんなこと出来るはずがない。
「お父さんとお母さんは、好き?」
「うん。だいすき」
「……痛い事をされているのに?」
「それは、おれがわるい子だから」
 サンダルフォンは両腕の中に顔をうずめた。小さな旋毛を見下ろす。であった頃はてらてらと油とふけまみれだった髪は、今やふわふわとしている。
「おかあさんもおとうさんも、おれのためなんだって」
 くぐもった声に、ルシフェルは何も言うことは出来なかった。
 ルシフェルには、とてもサンダルフォンの為とは思えなかった。幼いサンダルフォンを家に置き去りにして、一度たりとも様子を見に戻ることもない。食事の用意もない。賞味期限の切れたパンは情けだったのだろうか、それとも偶然サンダルフォンが見つけたものであったのか、わからない。水を飲もうにも、蛇口は子どもの力ではどうにもならない強さで止められていた上に、テープで頑丈に封じ込められていた。
「てんごくは、いいこだけがいけるんでしょう? おれ、いいこ?」
「……うん。サンダルフォン、きみはとっても、良い子だ」
 へへへとサンダルフォンはくぐもった声で笑った。

 二週間後、自分はここにいるのだろうかルシフェルには分からない。明日、ルシフェルを尋ねて関係者が来るかもしれない。もしかしたら、サンダルフォンの両親が帰ってくるかもしれない。明日ではなく、いますぐ、次の瞬間にはピンポンとチャイムが鳴り、カンカンカンと扉が叩かれるかもしれないのだ。
 終わりを覚悟している。
 その癖、サンダルフォンという存在を捨てきることが出来ない。
 純真無垢に、両親の言いつけを守り「天国」という場所に焦がれるサンダルフォンを、見捨てることが、出来なくなっていた。
 ルシフェルは新聞をたたむと、サンダルフォンの旋毛に手をのばした。触れると、サンダルフォンは体を一瞬、強張らせた。
 日が暮れる。
 柔らかな癖毛を撫でまわしながら、ルシフェルはまだ、迷っていた。
 すっかり弛緩したサンダルフォンから寝息が聞こえる。うつ伏せのままで、息苦しいだろうと、仰向けに起こせば、あどけない寝顔が晒される。その姿を見ているうちに、ルシフェルは欠伸を零した。少しだけと思いながら、壁にもたれかかり、目を閉じる。
 サンダルフォンが目を覚ました時、どっぷりと夜は更けていた。
 すうすうと寝息を立てる「てんしさま」──ルシフェルを起こさないように、起き上がる。ゴミをすっかり片付けられた部屋は、落ち着くことが出来ない。歩いても、足の裏がごつごつとすることもなければ、つるりと滑ることもない。物足りなさのようなものを感じながら、サンダルフォンは部屋を出た。
 喉が渇いたのだ。
 蛇口をひねると水が流れる。外に出なくても、お水が飲めるようになったんだとサンダルフォンは感動を覚え、そして改めて思うのだ。

──てんしさまはやさしい。きっと、てんごくはとってもいいところなんだ。
 良い子だと、言われたことを思い出してサンダルフォンはくふくふと笑った。天国ってどうやって行くんだろう。天国はどんなところなんだろう。天国にいっても、てんしさまと一緒に居られるのかな。
 考えると、わくわくと、胸が高鳴った。
 お父さんとお母さんに怒られる、痛い事をされると怯えながらも、サンダルフォンはルシフェルと共に入るお風呂が楽しみになっていた。湯舟に浸かることはとても、気持ちの良い事だと知った。お風呂に入ると、体はべとべとしなくなって、痒くなくなった。髪がぬとぬとすることもない。ふわふわとする髪は本当に自分のものなのか、サンダルフォンは触っても、実感することが出来なくて心配になった。そんなサンダルフォンを、ルシフェルはぎゅっと抱きしめた。ぎゅうぎゅうと、痛いくらいに抱きしめられたのに、サンダルフォンはその痛みは嫌ではなかった。息苦しいくらいに痛いのに、頭の奥がパチパチと弾けるようにくらくらとするのに、ごめんね苦しかったねと離れられる方が、ずきずきと痛かった。
 殴られるよりも、ずっと、痛かった。
 両親が最後に顔を見せたのはいち、にぃ、さんと数えて20日前のことだ。お母さんたちだって辛いのよ、あんたがわるい子だから仕方ないのよと言われると、サンダルフォンは申し訳なくなった。自分が悪い子だから、母を苦しめる。父を苦しめている。
 カチャカチャと鍵が開けられる音に、サンダルフォンは一瞬で手足から汗が噴き出た。ばくばくと心臓が跳ね上がる。ぎいと開けられる。冷たい冬の風とともに母がいた。甘ったるい香水と化粧の香りのする母は、サンダルフォンに気付くと、顔を青ざめさせた。
「なんで、」
「おかあさん?」

──まだ丸印の日じゃないのにどうして帰って来たんだろう。良い子にしてるか確認しにきたのかな。なにかわすれものがあったのかな。
 サンダルフォンは駆け寄る。
 ひっと、悲鳴をあげた母は
「どうして生きてるのよ」
 そういってサンダルフォンを気味悪がった。
 おかりなさいと、言おうとして半端に口を開いたまま、サンダルフォンは母を見つめた。母はサンダルフォンを見ないようにして部屋にあがると、ヒステリックな声を上げた。どうして部屋の荷物がなくなっているのと責め立てられる。サンダルフォンはびくりと震えて、何も言えないまま俯いた。
「──っ」

 ぎゅっと前髪を掴まれ、顔を上げさせられる。母の口が動いている。母の声がする。なのに、何を言っているのか理解できなかった。パシンと頬が熱を持つ。やがてじんとした痛みを覚える。突き飛ばされる。ううと呻いたサンダルフォンはそのまま動かなくなった。母は、慌てて部屋を飛び出す。
「──サンダルフォン?」



 鍵の開錠される音にルシフェルは目を覚ました。目を凝らせば、すぐ傍にいたはずのサンダルフォンの姿はない。ルシフェルは息を潜めていると、やがてヒステリックな声が響いた。心臓の音が跳ねる。それから、パシンと、叩かれるような音がした。ルシフェルの頭は真っ白になる。動けと念じても、体は動かない。暫くすると、ごつりと鈍い音がして、扉がかたりと音を立て、ヒールがかつんかつんと遠ざかっていく。金縛りが解けると、ルシフェルは力が入らない足で、ふらふらとしながら、音のした玄関へと向かった。玄関の隣は、台所だった。
「──サンダルフォン?」
 倒れ込んでいる姿に声を掛ける。
 ぐったりとしている姿に声をかけても、返事はない。「てんしさま」とこたえる声は返ってこない。ルシフェルは何度も、サンダルフォン、サンダルフォンと呼びかける。そのうちに、カンカンと扉が叩かれた。「ちょっと何時だと思っているんですか」という声にルシフェルは、ふらつく脚で、扉を開ける。見知らぬ、おそらく隣人は苛立たし気な顔で立っていた。
「救急車を、子どもが、サンダルフォンが」
 ルシフェルの縋るような言葉に胡乱な顔をしていた隣人だったが、ただならぬ様子に押し切られ、言われるがまま、やってきた救急車に、サンダルフォンは乗せられる。ルシフェルはサンダルフォン、と小さく呼びかけていた。

「こちらでお待ちください」と言われ、処置室に連れていかれたサンダルフォンを待つ間、後悔ばかりが過っていた。どうして、あの子を連れ出さなかったのか。自分は疚しいことなどしていないのだから、堂々と、警察に行けばよかったのだ。助けを求めれば良かったのだ。なぜ、その決断が出来なかったのか。
 ルシフェルは、待合室の草臥れたソファーに座り、祈るように手を組む。ぐったりとするサンダルフォンを思い出して、項垂れた。
 病院であるにも関わらず、ばたばとした足音にルシフェルはのろのろと顔をあげる。息を整える姿に、不思議に声を掛けた。
「ルシファー? なぜ、ここに?」
「警察から、連絡が、あった」
 病院の関係者が通報をしたのだろう。サンダルフォンの状態を考えれば、当然のことだった。その当然のことを、自分はしなかったとルシフェルは喉のずっと奥にずしりとしたものを感じた。
「今までどこにいた?」
「あの子の家に、隠れていた」
「……道理で見つからんわけだな。もう隠れんで良い」
「そうか」
「連絡をしようにも、お前との連絡手段が無い上に、お前も見つからんし」
「……すまない」
 ルシファーは珍しく、気を使うような言葉を掛ける。ルシフェルは気もそぞろに返していた。
 人を慰めたりだとか、気落ちした人間に寄り添うだなんてことをルシファーが出来るはずもなく、なんせ人付き合いというものが不得意だから、やがて会話は無くなり、ずんとした重苦しい雰囲気が待合室を包む。
 処置室の扉が開くなり、ルシフェルは立ち上がると医師に駆け寄った。「サンダルフォンは」と必死に縋るルシフェルの様子に、医師は「軽い脳震盪です。検査の結果、どこにも異常はありませんでした」とこたえた。ルシフェルはやっと、生きた心地を取り戻す。よかったと呟くと、体の力が抜けてしまい、ずるずると廊下にしゃがみ込んだ。
「ただ……」
 医師が顔を曇らせる。異常な痩せぎすは体質ではない。衣類に隠れて、打撲傷や火傷の痕が確認をされた。やんちゃ、だけでは片付けられない惨状であった。

 ここがてんごくなのかな。と目覚めたサンダルフォンは思った。しかし、頭がずきずきと痛むからてんごくではないのだと気付いて、少しだけ、しょんぼりとした。
 ふかふかとする「ベッド」の上で眠っているうちに、頭のずきずきが痛くなくなって、もしかしたら、自分はてんごくにいるのではないかと期待をした。だけど、まだてんごくではないのだと教えられた。どうして病院にいるのか、サンダルフォンには思い出せなかった。思い出さなくても良いと言ったのは、腫れぼったい目をしたてんしさまであった。
 特別個室には、サンダルフォンが退屈しないようにとルシフェルが持ち込んだ絵本やおもちゃがあふれている。サンダルフォンは文字が読めないから絵を見ながら、遊び方がわからないからおもちゃを眺めて過ごしていた。
「調子はどうかな、サンダルフォン」
「あ、てんしさま」
 サンダルフォンは、ぱっと笑顔を浮かべる。
 病院では毎日3回ご飯がでて、おやつもでる。大人は優しい。殴ったりしない。みんな、てんしさまなのかなとサンダルフォンは思っている。
「んっと……いい、です」
「よかった」
 ルシフェルはベッド横の椅子に座った。
「なにか困ったことがあったら、言うんだよ」
「はい……あの……いつになったら、かえれますか?」
 サンダルフォンの帰る場所は、無い。サンダルフォンの両親は法の下に、裁かれている最中である。サンダルフォンに対してだけではなく、後ろ暗い部分は突けば突くほどに零れ落ちてきた。
 何も言わないでいると、サンダルフォンはそわそわとしながら、じゃあと切り出す。
「………おれ、てんごくに、いくの?」
 ルシフェルはきゅっと唇を噛んで首を振った。
 そっかあとサンダルフォンは残念そうに言った。
「おれ、わるいこだから」
 仕方ないねと淋しそうに笑って言ったサンダルフォンをルシフェルは堪らず、抱きしめた。てんしさま、苦しいよ、と藻掻くサンダルフォンにすまないと言いながら、力は緩められない。
「サンダルフォン、君は、悪い子じゃない」
「だったらどうして、てんごくにいけないの?」
「……良い子だからだよ」
 サンダルフォンは納得していない様子だった。抱きしめていたサンダルフォンをそっと離すと、視線を合わせる。
「サンダルフォン、私はてんしじゃない」
 ルシフェルの胸は、罪悪に張り裂けそうになった。今まで、純粋に慕っていたサンダルフォンを騙して、裏切り続けたのだということをまざまざと実感する。
「私は、ルシフェルという、ただの、人間なんだ」
「ルシフェル……さま?」
「さま、はいらないよ。それから、」
 そういって、ルシフェルは真剣な表情でサンダルフォンを見つめた。少しだけ、緊張をして、強張る。サンダルフォンは不安になった。
「それから、」と繰り返すと、口の中が渇いているのが分かった。
「それから?」と、サンダルフォンは何を言おうとしているのか、分からずに首を傾げる。
「きみの、家族になりたいと、思っている」
 手が汗ばみ、冷たく、情けなく、震えていた。
 サンダルフォンは、ぱちぱちと目を瞬かせて、かぞくとぼんやりと、繰り返した。それから、
「ルシフェルさまは、ほんとうは、かみさま?」
「ちがうよ。ただの、人間だよ」
 サンダルフォンは本当? というように首を傾げた。

2020/11/26
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