「……どうだろうか?」
「とても、美味しいです」
サンダルフォンは不慣れな、ぎこちない、どうにか笑みなのだとわかる歪な表情を浮かべた。ルシフェルはその表情をみて安堵したように、サンダルフォンとは正反対な、お手本のように完成された笑みを向ける。サンダルフォンは静かに、その笑みを学習するためにじっと見つめた。
穏やかな談笑を始めた途端に、ルシフェルの端末が着信を告げる。ルシフェルは困ったように端末を持て余していたから、サンダルフォンがどうぞと促した。ルシフェルは済まなさそうな顔をして、席を外した。
珈琲の入ったカップを両手で抱えて、サンダルフォンは無性に、苛々と感じたものを、こくりと液体と共に飲み干す。
ルシフェルがサンダルフォンの担当官となってから、半年が過ぎていた。
未だに、ルシフェルはサンダルフォンに「条件付け」をすることはない。かつての記憶のままに、サンダルフォンとルシフェルはフラテッロとして任務にあたっている。
「以前の担当官についての記憶を消さなくても良いのですか?」と問い掛けると、ルシフェルは悲しそうな顔をして首を振った。
ルシフェルの指示は効率的で、無駄がない。彼が担当官となってから、サンダルフォンの肉体的損傷の頻度は減少した。皆無といっても過言ではない。しかし、サンダルフォンは、彼が理解できないでいる。以前の担当官が良い、という比較ではない。担当官として彼は優秀なのだろう。しかし、サンダルフォンのことをまるで「人間」のように扱う彼の考えは、理解できない。
呼び出されたルシフェルは、上司であり唯一の肉親である家族であるルシファーと向き合う。ルシファーに投げ渡された資料を見て、ルシフェルは息を呑み、ルシファーを見つめた。ルシファーは「お前に任せる」と言った。それから、ややあってから、
「あまり、入れ込み過ぎるなよ」とくぎを刺す。
ルシフェルは一瞬だけ何を指しているのか分からずにいて、思い至る。
「そんなつもりはない」
「……どうだかな。そもそもアイツらと珈琲なんて何が楽しい」
「楽しいさ。サンダルフォンは美味しいといって、笑ってくれる」
ルシフェルは、サンダルフォンの歪な精一杯の笑みを思い浮かべて微笑を零した。半年という、長いようで短い期間で、打ち解けたつもりでいる。そんなルシフェルに、ルシファーは何を言うのかと思えばと呆れ、嘆息を零す。
「あいつらに味覚はないだろうが」
「しかし、」
「世辞だろう。──サンダルフォンだったか? 従順なようで何よりだが、お前、条件付けもしてないだろ。問題が起きる前にしておけ」
いって良いぞと言われても、ルシフェルはどこに行けばいいのか分からず、会議室の前で佇んでいた。それから、そんなはずはないと思いながらも、気が気でなく、珈琲を共にしていたテラスへと向かう。サンダルフォンは静かに座っていた。ルシフェルに気が付くと立ち上がろうとしたので、制した。
「次の作戦について少しね──サンダルフォン、珈琲は、美味しいかい?」
「美味しいです、とても」
「……そうか」
ルシフェルが目を伏せる。何時ものような笑みが返ってこないことに、サンダルフォンはああ、バレてしまったのかと素直に罰を受け入れようと向き直った。ルシフェルは椅子に座り、サンダルフォンと向き合う。
「一度も、美味しいと思ったことはなかったのか?」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいのではないよ、サンダルフォン。ただ、なぜ、付き合ってくれていたんだい」
つまらない時間だったのだろうと思うと、申し訳なくなる。だけど、一方で、それでも付き合ってくれたということが、もしかしたらとルシフェルは仄かな期待を胸にしていた。
サンダルフォンの顔から表情の一切が抜け落ちた。感情が、消え失せた。
「貴方が望まれたからです、担当官」
思わず、息を呑んだ。
サンダルフォンの目はじっとルシフェルを見つめている。
「……珈琲が美味しいと思うように、条件付けをなさったらどうですか?──あなたにはそれだけの権限があるんですから」
ルシフェルの失望したような目が、どうしたって頭から離れない。生温い、同情なんていらないと願っていながら、ぬるま湯に浸かりきっていた身はぎすぎすと居た堪れないでいた。サンダルフォンは逃げるみたいに部屋にこもってから、突っ伏している。
──ただの道具でいたい。
部屋に戻って来たきりつっぷしている姿に、サリエルは首を傾げた。
「僕たちは道具だよ、サンダルフォン」
「ああ、俺たちは道具だよ」
「どうして泣いてるの、サンダルフォン。僕は涙なんて流せないからわからないけれど……どこか痛いの?」
顔をあげたサンダルフォンに、サリエルは小さな手を伸ばすとぽたぽたと溢れているものを拭った。
「担当官!! どういうつもりですか!?」
サンダルフォンの怒声が室内に響いた。偶然居合わせた職員たちや、義体たちもどうしたのかと、何かあったのかと怪訝に見守る。その視線を意に介すことなく、サンダルフォンはつかつかとルシフェルへと詰め寄った。
反政府組織の一斉摘発を知ったのはつい、先ほどのことであった。担当官であるベリアルに連れられたサリエルに「サンダルフォンは?」と不思議そうに言われたのだ。何も、知らされていなかった。
義体が投入されるに相応しい任務である。
ルシフェルは世間話のようにさらりと、この組織のテロ活動により、両親を亡くした──復讐のつもりはないが、自分達のような子どもをこれ以上、作りたくはないのだ──綺麗ごとだと思った。それでも、サンダルフォンはその綺麗な世界を、馬鹿にすることはできなかった。そんな世界でと考えてから、ありえないことだと自嘲した。
総指揮はルシフェルであり、その義体であるサンダルフォンはといえば待機であった。納得できる理由がない。どうしてと詰め寄るサンダルフォンにルシフェルはひどく冷徹な瞳で淡々と言い聞かせる。
「サンダルフォン、私は君を道具だと割り切ることが出来ない」
分かってくれと言われ、何を分かればいいのか、サンダルフォンは分からない。ならば貴方は分かってくれるというのか。何もわかってくれていないのに。サンダルフォンは声を荒げて詰った。
「っだったら!? あなたが望むように条件付けをしたらいいじゃないですか!!」
サンダルフォンは残りわずかな命をせめてルシフェルの言う綺麗な世界のために費やしたいのに、ルシフェルは、何もわかってくれない。ルシフェルはただ、傷ついた顔をしていた。
2020/11/24