「あの、ルシフェル様」──サンダルフォンは勇気を振り絞る。ルシフェルは「うん?」とちっとも、おかしなことなんて無いとでもいうような雰囲気を出すものだから、つい「なんでもないです」と流れそうになった。そんな自分を叱咤する。口にしなければ、伝わらない、伝わるはずがないのだと身をもって知っている。
「この距離は、その……近すぎるのではないでしょうか?」
サンダルフォンは寝台に腰かけるルシフェルの膝の上に、恐れ多くも、乗せられて両腕の中にすっぽりと収められている。ルシフェルの吐息が首筋にかかるたびに、ぞわぞわとしたものが込み上がる。しかし、自ら腕を振り解くことなんて、サンダルフォンには出来ない。
「そうだろうか……君は、不快なのか?」
「そんなことはっ!!」
復活を果たした当初こそ、存在を確かめているかのように思われていた。サンダルフォンは気恥ずかしさこそあれ、最期に触れた重みとも、冷たさとも異なる、生きているルシフェルとの触れ合いを決して、断じて、これっぽっちにも、不快に思ったことは無い。今だって、無い。
しかし、既に季節をまるっと一周めぐったというのに、この距離感のままということはいかがなものかと、サンダルフォンは考えてしまったのだ。
ぴったりと寄り添い、触れ合う。決して、慣れることはないが離れがたい。だってサンダルフォンはルシフェルを慕っている。敬愛、だけではない。下心がある、恋慕の情を抱いている。純粋に敬愛だけならば、ルシフェル様の願いならばと喜んでこの距離に満足をした。しかし、恐れ多くも恋心を向ける御方との零距離というのは中々に神経が休まらないのである。当初こそ嬉しい気持ちであったが、だんだんと苦しくてもどかしくなる。
生きている、触れ合うことが出来るという奇跡以上を望むことはない。同じ気持ちを抱いてくれたら……なんていう夢物語を描くことは無い。そこまで烏滸がましくはない。ルシフェル様にとって自分は子どものような存在なのだろうということを、サンダルフォンは自覚している。大切にされている、想われているということを十分に理解しているから、一方的な想いは最期まで胸に秘めるつもりである。
サンダルフォンは腹をくくる。
「この距離感は、その──想い合う関係の距離です」
ルシフェル様は存知ないかもしれませんがと、ぼそぼそとサンダルフォンは口にした。
空の世界を見守り続けたとはいえ、ルシフェル個人が人との交流が盛んであったわけではない。こと、人同士という括りだけであるならば、サンダルフォンは経験が豊富である。なんせ経営修行という名目で、あちこちの島で短期経営を任されたのだ。
距離感を間違えているに違いないということを察したものの、今の今まで言えずにいた。子どものように思われているとはいえ、五歳児でもないのだから、体格だって筋骨隆々とまではいかないものの、抱きかかえるには無理のある体格だ。やっと、伝えられた。耳の奥でちりちりと焦げるような音が痛い。サンダルフォンは視線をきょどきょどとさ迷わせる。
──なんだ、そんなことか。
さ迷わせていた視線がぴしりと固定されてしまう。
買い集めた珈琲豆の入った瓶が規則正しく並べている。サンダルフォンの部屋の、自慢のコーナーである。あの珈琲豆はルシフェル様のお気に入りだったな……と思考が逃避していく。
「私は君が好きだ」
「うっ」
「君は?」
「お、お慕いしています!!」
「ならば問題はないよ」
話は終わりだと言わんばかりであったから、サンダルフォンは慌てる。終わってない、終わってないですよと縋った。
「問題あります!!」
「……好き同士が、恋人の距離感でいることになんの問題が?」
「す、すきといっても、その……」
きっと勘違いをしておられるのだとサンダルフォンは理解した。しかし、今更になって自分の想いを打ち明けるみたいで、それもわかり切った上でやすやすと屠られるのだから、口にし難い。
叶わぬ想いとはいえ、成就しない感情とはいえ、サンダルフォンにとっては大事に大事に育ててきた恋心である。むざむざと捨て去られるには、少しだけ、抵抗がある。
サンダルフォンがもごもごと、どのように説明するべきかと悩ませているとルシフェルはああ、と閃いたみたいに声を上げた。
「情欲を伴うのかということか?──安心していい。問題ない」
「……何が問題ないのか、一応、聞いても良いですか」
「君が疑念を抱くのは性行為が出来るかということだろう?」
「……は?」
「体格を考えれば君が受け身かと思うのだが私は別にどちら「ま、まってください!!」
性行為だとか、情欲だとか、おかしな言葉をルシフェル様のお声で聴いたような気がした。そんなわけはないはずだ。なんせルシフェル様である。ありえない。きっと何か、聞き間違いだ──と混乱するサンダルフォンにルシフェルは微笑を浮かべてそっと、両腕に力をこめた。びくりとサンダルフォンが震える。所在なく、視線がさ迷っていたが、やがて、降伏するとでもいうように、伏せられてから、ちらちらと様子を見るように窺う。
「サンダルフォン。最早、私は天司長ではないよ。だから遠慮はしない。覚悟して欲しい」
まっすぐに見詰められて、言われたサンダルフォンはといえば、理解が追い付かないでいた。遠慮をしていたのかとか、覚悟なんて言われても、どうしたら良いのか……。頭はごちゃごちゃと考えるのに、口から反射的に出たのは「うけてたちます」なんていう勇ましい、戦士のような言葉だった。
──どうして、あんなこと言っちゃったのかな。サンダルフォンはずきずきと痛む全身を逞しい腕に抱かれながら少しだけ、後先考えない自分を後悔して、それから愛されているのだと間違えることなく実感して嬉しい気持ち半分と、どうしたら良いのかわからない気持ち半分で戸惑いながら、目を閉じ、ルシフェルの胸に顔をうずめた。とくとくと鳴る鼓動が、少しだけ早まったのは、気の所為だろう。