ピリオド

  • since 12/06/19
 変化の乏しい、穏やかな世界を、今ならサンダルフォンは「愛しい」と思える。いつだって失ってから気づくのだと、思い知らされる。それから、これは過去を再生しているに過ぎないのだと、夢でしかないのだと理解をしてしまって、切なさで苦しくなる。
 起きてしまえば虚しいだけの、思い出であっても、サンダルフォンは縋ってしまう。記憶の中でも、あの御方に会えることができるなら、声を聞くことができるならばと、烏滸がましくも願ってしまう。
 この記憶が、いつを再現しているのかサンダルフォンには分からない。研究所は、ぼんやりとした時間が流れていた。明確な区切りというものが無いために、サンダルフォンはルシフェルの帰還が遠くに感じることもあれば、一瞬のように思うこともあったのだ。

 此処は何処だろうと、サンダルフォンは周囲を窺う。
 研究所の区域の一つであることは間違えではない。ただ、立入許可された区域ではない。サンダルフォンが行動を許可されているのは限られた区域である。その中に、該当する区域はない。どうしてこんなところにいるのかと戸惑い、困惑を浮かべてきょろりと忙しない動きを見せるサンダルフォンに、声が掛けられる。
「何をしている」
 はたと、声の主が、サンダルフォンには分からないでいた。
 声は、ルシファーであり、ルシフェルである。2人の声は良く似ていた。高圧的な口調は、ルシファーであるように思われた。しかし、声音は冷たくはない。冷淡ではない。だから、ますます、混乱してしまう。
 痺れをきらしたように、声が掛けられる。
「おい、どうかしたのか」
 振り向いたサンダルフォンは、その姿に予想をしておきながらも驚きを隠せない。だって、知らない。不安そうな、焦ったような顔を、どうして向けられるのか、理解できない。
 そんなこと、あるはずがないというのに、ルシファーはサンダルフォンの様子に不可解そうに、まるで「心配」をしているかのようだった。
──なんだこれは!? 過去の再生ではないのか? と、サンダルフォンは戸惑いを覚えてしまうのも、無理が無い。
 サンダルフォンの記憶にあるルシファーは、残酷に、冷酷で、冷徹な研究者であった。暴君であった。ルシフェルが何故、彼を友と呼ぶのか理解が出来ないほどにおそろしい存在であった。
 まさか、偽物ではないのかとルシファーを見て訝しむ。
「……ちょうどいい。ついてこい」
 そういってサンダルフォンの返事を待つこともなく、ルシファーはすたすたと歩いていく。サンダルフォンは戸惑いながら、追従した。
 夢であっても、逆らうということは出来ないでいる。研究所という空間と、その空間の絶対的存在であるルシファーは、サンダルフォンから反抗心を削いでいく。

 所長室に、サンダルフォンは初めて踏み入った。
 記憶の再生であるというのなら、知らないはずだ。だというのに、所長室にはサンダルフォンも覚えのない研究器具が棚に並び、読んだことのない書籍がずらりと本棚に押し込められていた。ルシファーのような研究者──仲間内であるならばカリオストロの研究部屋を再現しているのではないかと思ったが、それにしてはサンダルフォンは全く、覚えが無い。仮に、カリオストロが持つ研究器具であるならばサンダルフォンは間違えることはない。
 書類が散乱しているローテーブルを挟んでソファが二つ向き合い、そして扉を開けて正面には、書類が山積みとなっている机がある。
 サンダルフォンは研究所所長の部屋なんて、知るはずがない。
 だというのに、この再現はどうしたものかと、自分は、この部屋を知っているのかとサンダルフォンは考え込んでしまった。
「面白いものはないだろう」
 何とこたえればよいのか分からず、サンダルフォンは曖昧に頷いた。ルシファーはくつりと笑った。それから来客用らしきローテーブルに広がっていた書類を乱雑にまとめると、現れたテーブルの表面に適当に紙を広げ、どっさりと焼き菓子を乗せた。何をするのだろうとサンダルフォンが固唾をのめば、焼き菓子を手に取り、むしゃむしゃと食べ始める。
 サンダルフォンは、呆気に取られてしまった。
「頭を使えばカロリーが消費されるからな。お前も食え」
「……は、い」
 サンダルフォンはおずおずと、焼き菓子を一つ、手に取った。
 いたって平凡な、研究所があった時代、二千年以上も昔であることを考慮すれば、上等な菓子である。ルシファーにじっと見られながら、緊張をいっぱいに、かぶりついた。
 素朴な味わいが口に広がる。その様子を、ルシファーは満足そうに見ていた。
「…………その菓子の材料は稼働不良の天司だぞ」
 思わずルシファーを見た。ルシファーは冗談だと真顔で言って、またもぐもぐと咀嚼しだす。ルシファーなら、やりかねないと疑り深い目を向けるサンダルフォンにルシファーは溜息を零した。
「俺が自分で食べるものにそんなものを使うか」
 それもそうかと思いながら、これはルシファーの手作りなのかと驚いてしまう。
「……美味しいです、とっても」
 俺が作ったからなと言いながらどこか得意に、自慢気なルシファーにサンダルフォンは戸惑ってしまう。



 時系列を整理した。
 珈琲という飲み物はまだ未発見であり、中庭の使用は許可されていない。何より、サンダルフォンは軟禁状態ではなかった。研究所内においてある程度の自由が許されていた。
 サンダルフォンは戸惑う。やはり、これは夢なのかと、過去の再生ではないのかと判断をしかねる。覚えが無い。はずだというのに、既視感を抱く。もどかしさの原因をはかりかねている。
 咎められることがないと分かっていながら、部屋をでる度にどうしたってちらっと違和感を覚えてしまう。
 サンダルフォンに与えられた部屋からほど近く、緑が豊かな区域はひっそりとしている。何よりも、研究者が立ち寄ることも少なく、サンダルフォンのお気に入りの場所であった。
 緑が生い茂る地面は舗装されていない。サンダルフォンの履いているヒールは時折、危うげにぐらりと傾いた。サンダルフォンは気にせずに、でたらめな鼻歌をうたいながら、水のエーテルを調整する。細やかな水滴の中を日ざしが通過する。七色に煌めく手元に満足になる。その姿に、声が掛けられる。
「ここにいたのか」
 思いもよらぬ声に、サンダルフォンの手元が狂い、ぱしゃりと弾ける。
「すまない、驚かせるつもりはなかったのだが」という声にサンダルフォンは振り返り、慌てて首を振った。恥ずかしいところを見られてしまったという羞恥から、顔が赤くなる。
 記憶の中であっても麗しい姿に懐かしいと思う前に、ルシフェルの余所余所しい、ぎこちない態度に、淋しく、思ってしまった。
 ルシフェルを前にして、サンダルフォンは緊張をしてしまう。
「不在の間に変化はなかっただろうか」
 問い掛けに、サンダルフォンは「ありませんでした」とこたえた。
 彼の最期の言葉を知り、語らいを経た今ならば、「そうか」と言う声が少しだけ、やわらかく感じたのは、自意識過剰だろうかとサンダルフォンはちらりと考えた。
 不意にじっと見詰められて、居心地が悪くなる。
「……それは?」
「あ、これは……ルシファー様にいただいたんです」
 サンダルフォンが美味しいと言った焼き菓子である。エーテルの操作でもすれば、日持ちをするだろうと言われて持たされた。つい、昨日の事である。

 初めて所長室に連れられ、焼き菓子を振舞われて展開についていけずにいたサンダルフォンだったが、ふと気になったのだ。部屋を出ているのに、何故咎められないのかと。ルシファーは心底、不思議そうに何故咎める必要があるのかと、逆にサンダルフォンに問いかけた。その上で、立入禁止区域でなければ咎める必要はないだろうと言われ、サンダルフォンは何も言えなくなった。
 すぐに覚めると思った夢の終わりが訪れる気配はない。与えられた部屋でぼんやりとしていると、ルシファーが来て所長室に連れられ、ルシファー手作りの菓子を与えられる。ルシファーは、研究に息詰まると焼き菓子を大量生産する。そして、ルシファーの周囲には甘味を好む存在がいないから、サンダルフォンに与えるだけということだった。
 何もかも、サンダルフォンの記憶にはない。初めて知ることなのに、サンダルフォンは知っていた。ルシファーが初めて作ったという菓子を、懐かしく感じてしまう。
 抱いた矛盾に戸惑った。
 困ったような顔をするサンダルフォンを、ルシフェルは難しい顔で見詰めた。
「友とは、親しいのか」
「……良くして頂いています」
 だからこそ、これは一体どういうことなのかとサンダルフォンは分からない。過去の再現ではなく、ただの夢として、サンダルフォンの願望であるというのならば、サンダルフォンはルシファーと親しくありたいと望んでいることになってしまう。
 ありえないことだ。
 ルシファーは仇である。彼の計画が、すべての発端である。計画自体が、空の世界を守るために生きると決意したサンダルフォンとは真逆の思想である。だというのに、焼き菓子を切り分けるルシファーに対して憎しみは微塵もなかった。それどころか、サンダルフォンはルシファーを前にしておそろしいという感情を抱かなくなっていた。名前を呼ばれる度に心が満ちていく。向けられる、仕方ないといわんばかりの呆れた顔ですら、サンダルフォンは嬉しくて、それはまるで、
──だめだ。いけない、ことだ。
 ルシフェルの手が伸び、サンダルフォンの額に触れた。なにをしようとしているのか分からないまま、なにが、いけないのですかと問いかける前に、サンダルフォンはアレ、と何かが抜け落ちた感覚に首を傾げる。──なぜルシフェル様がいらっしゃるのだろう、どうしてこの区画に来ているのだろうと思い出せず、困惑を浮かべる。
「部屋を出てはいけないよ」
 ルシフェルが真剣な顔で言うから、サンダルフォンはなぜ、と問いかけることも出来ずに首肯する以外、許されなかった。

 それから、サンダルフォンはただ部屋で肉体を維持するだけの日々を送っていた。
「……これ、なんだろう」
 硬く、ぼろぼろと崩れていくそれを掌にのせると無性に、哀しい気持ちになった。

「サンダルフォンはまだ自己の確立が不安定だ。安定するまで、外部との接触を避けたい」
「不安定な存在ならいっそ廃棄をして、作りなおせばいいだろう」
 ルシフェルが険しい顔で睥睨するものだから、ルシファーは投げやりに言った。
「あれはお前の作った天司だ、好きにしろ」
 ルシフェルは分かったというと所長室を出ていった。伽藍とした部屋のなか、ルシファーは溜息を吐き出す。ルシフェルの挙動の不可解さが理解できない。サンダルフォン、という存在を作らせたものの、持て余している。ルシファー自身が接触をして感じ取ったのは、ルシフェルには遠く及ばないということくらいである。接触をするなと言われても、と思ってふと、これから大量に作った菓子をどのように処理すればよいのかと考えた。ついでに、サンダルフォンが菓子を食べる顔は悪くはなかったのだ。
 それからルシファーとサンダルフォンは、接触をすることはなくなった。
 サンダルフォンが部屋を出ることもなくなった。ルシファーがサンダルフォンの部屋に出向いたところで、サンダルフォンはルシファーに怯え、びくびくと振舞うのだから、不愉快だった。それが本意でなくとも、ルシフェルによる措置の結果であっても気分が悪い。
 自分に見せていた笑みを、ルシフェルに見せている姿を見ると無性に苛立った。やがて疎ましさを抱く。計画に支障がでる。最高傑作であるルシフェルに害を与える、不完全な存在。そもそも、スペアという役割すら全うすることはない。

 珈琲を口にして、サンダルフォンが笑みを零す。その姿をじっと見つめていたルシフェルは「口に合いませんでしたか?」と心配そうに首を傾げる姿に、笑みを返しながら、その首をぎゅっと絞めつけられたような息苦しさを覚える。
 不自然にならないようにと、珈琲を口にした。
 「美味しいよ」と言えば、嬉しそうにしている。愛らしい姿だと思うと同時に、ルシフェルは重苦しい罪悪感を覚える。
 許される行為ではない。軽蔑される、恥ずべき行為だ。分かっていながら、ルシフェルはサンダルフォンの記憶に介入した。その記憶を持つサンダルフォンは何よりもルシフェルの恐怖だった。恐怖は、ルシフェルを残酷に、冷徹にさせた。
 浅ましいと呆れながら、ルシフェルは手放すことが出来ない。執着に成り果てた感情を必死に、気づかれることのないようにと隠すのだ。



 朝の日ざしに、サンダルフォンは目を細めた。
 ぼんやりと天井を見上げる。
 眠っていたのは、ほんの数時間程度だ。だというのに、夢の中では膨大な時間が経っていた。
 人間のように忘れるということが、サンダルフォンには出来ない。膨大な記憶はいつまでも所持され、ふとした瞬間に紐解かれる。けれど、その記憶は今の今まで「封じ込め」られていた。
 天司長により、厳重に、サンダルフォンですら紐解くことができないようにと封じ込められていた。
 それが、今や、天司長となったサンダルフォンは、かつてのルシフェルを超えた12枚羽である。
 封印が、解けたのだ。
 サンダルフォンは、思い出した。思い出してしまった。思い出したく、なかった。いっそ、封じ込めたまま、知らないままであったら、忘れたままであったら、どれだけよかっただろうか。
 砂糖菓子のような甘やかに、仄かな、育つこともなく摘み取られた感情を胸に抱えた。
「……ひどいですよ、ルシフェルさま」
 さよならも言えない恋を、今更、思い出してどうしろというのか。
 サンダルフォンは途方に暮れた。

Title:約30の嘘
2020/11/19
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