ピリオド

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 朝も夜も無い。時間の経過が分からないでいる。常人であれば気が狂う空間において、サンダルフォンを見送ってから、ルシフェルは彼の言葉のままに珈琲の木を育てていた。言葉の通り、育てている間は気がまぎれた。同時に、淋しさと虚しさを抱いた。
 飲み干した珈琲は、初めて育て、収穫をして淹れた珈琲に比べれば口当たりがまろやかになった。
「……これは、サンダルフォンが好ましく思う味、だろうな」
 独り言が増えてしまった自分に、ルシフェルは笑ってしまった。
 サンダルフォンはルシフェルが淹れる珈琲を美味しいと喜ぶ。本心から口にしているなかでも、一層に、サンダルフォンすら無自覚に、目を輝かせる味をルシフェルは知っている。
「ただいま戻りました」と口にするサンダルフォンの顔をルシフェルは想い描く。おそるおそると、身を縮こませているだろうか、それとも自信たっぷりな顔であるのだろうか──そして、その願いがあまりに残酷で冷酷で、自分本位だからルシフェルは複雑になってしまう。なんせルシフェルの願いは、サンダルフォンの生の終わりを意味している。
 会いたいという本心と、生きていてほしいという願いの矛盾に、苦い笑いを零した。
 不意に、引き込まれる感覚に襲われた。脳が揺さぶられ、目を開けることもままならない。視界が歪む。瞼越しの光。ぼんやりと、人の形に思えた。
「……サンダルフォン」はっと呼びかけてみれば、ぼやぼやとした輪郭がくっきりと浮かび上がる。サンダルフォンは椅子に座りながら、まどろみに身をゆだねているように穏やかな様子で、目を閉じていた。
 意識が定まる。まだ浮き上がったような感覚が落ち着いた。



「ここ、は……」
 ルシフェルはぐるりと見渡した。先ほどまでいた空間ではないことがわかる。
 小さな部屋だった。
 ルシフェルが腰かけている椅子と、真ん前に置かれているテーブル。テーブルの上には冷めきった珈琲が淹れられたままのカップがある。僅かに残った珈琲の表面には、うっすらと埃が浮かんでいた。それから、「業務日誌」と背表紙に書かれている冊子が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚とチェストが目についた。チェストの上には珈琲を淹れるための器具が丁寧に並べられていた。
 怪訝に、警戒をしながら立ち上がる。部屋一つだけで、扉を開けたら外だった。木々が鬱蒼と生い茂っている。見上げれば木々の隙間から青空が見えた。精々、小動物程度の気配しか感じられない。
 まさか。そんなはずがない。夢を見ているのだと言い聞かせる。引き返し、部屋に戻れば、亢奮なのか、恐怖なのか、汗ばんでいた。
 思い違いではない。間違えることはない。この世界はかつて、ルシフェルが自らの意志で守った「空の世界」である。そしてルシフェルが身に纏っているのは、かつてルシフェルが身に宿し揮った「天司長の力」であった。サンダルフォンに継承をさせた力だ。サンダルフォンに、託した力だ。

 既にルシフェルの肉体は滅び、空の世界に介入することは出来ないでいた。不滅を滅する力により、ルシフェルは滅びた。サンダルフォンを取り組んで、肉体を得たのかと悍ましい想像を浮かべるも、しかし、自らの内に、サンダルフォンの気配はない。ならばなぜ、空の世界であるというのにサンダルフォンの気配がないのか、そして自分は肉体を得ているのか。なぜと疑問が尽きぬまま、部屋を見て回り、本棚に詰め込まれている業務日誌を手に取った。表紙には日付が書かれていた。表紙をめくり、覚えのある字に手が震えた。
 日付と、天気、来客人数と売り上げが細い字で記録されていた。それから、一言が書かれている。



──今日は雨だから客足が少ない。久しぶりに団長とルリアが来た、元気そうで安心をした。団長に子どもが生まれた。あまりにも活発で心配になる。この土地でもう10年を過ごしてしまった。若作りにしては無理がありすぎる。怪しまれてきた。移転をすることにした。新しい土地では、災厄の伝説が根付いていた。邪神と共通している赤い目が原因であるらしく、客足が少ない。邪神本人なのだから共通も何もない事だ。店を荒らされた。流石に、すこし、辛い。アウギュステの商会から出店を開かないかと誘いがあった。進化が落ち着いたのかあれ以来鮫は出ていないらしい。

 部屋に保管してある業務日誌は最新のものと、最古のものでは五百年の歳月がある。
 サンダルフォンが身を寄せた騎空団は解散をした。それは不幸な解散ではなかった。目的を達した故に解散をした。それから、サンダルフォンはあちこちを転々としながら喫茶店を開き、空の民たちと触れ合いながら生きていた。時には、邪神の伝説が根付いた土地で、容貌から疎まれながら、生きた。迫害されてなお、サンダルフォンは空の世界を守り続けたのだ。
 最新の業務日誌を手に取る。
 サンダルフォンが空の世界で生きていた証が眩しく、目の奥が熱を宿す。

──空の世界に、もはや天司は不用だ。約束を果たす時が来た。明日、ルシフェル様のもとにいく。

 息苦しさを覚えながら、どうにか、口から吐き出す。
 か細い吐息が零れた。
 どのように思ってこの言葉をしたためたのだろう。自分の言葉は、彼を縛りつける呪いになっていたのではないか。祝福あれと願っていながら、味方であると言っておきながらと不安になった。
 最後のページを開いた。

──思った以上に、遅くなってしまったけれど、早く、ルシフェル様にお会いしたい。やっと、自信をもって、会うことができる。……ルシフェル様は待っていてくださっているだろうか。それだけが不安だ……。



 サンダルフォンが目を覚ましたのは、かつての戦いのなかで辿り着いた、果ての場所である。命の終着点ともいえる場所だ。
 終わることのない生を終わらせたのはサンダルフォン自身である。
 空の世界の行く末を見届けて、約束を果たしたと、満足に伝えられるだけに生きた。身を寄せていた騎空団が解散をして、そしてサンダルフォンが小さな喫茶店を開いたのは五百年近く昔のことだった。
 騎空団は伝説として語り継がれて、団長は勇者のように、あるいは偉大なる冒険者として讃えられていた。そして、災厄の邪神サンダルフォンもまた、忌まわしき伝説として語り継がれていた。それだけのことをしでかしたのだから仕方がないことだと、憤る団員たちに対して当人であるサンダルフォンは受け入れていた。
 災厄の邪神サンダルフォンは伝説の騎空団と、天司長の手により滅ぼされた。サンダルフォンが天司長となったことは、世界を守り続けたことは、記録されていない。知る人間もいない。それで、よかった。忌まわしい狡知の言葉通りに理解者はいなくなった。それでもサンダルフォンは生きた。約束をした。何より、ただ一人の絶対的な味方がいるから耐えることができた。
「ルシフェル様……?」
 そわそわと、心細く周囲を見渡しても、気配はない。やはり、待たせ過ぎたのかと肩を落ち込ませる。だけど、どうすれば良いのか分からない。先に進むことも、空の世界に戻ることも出来ないでいる。
 仕方がないと、椅子に座った。
「珈琲の木、育てられていたのか……」
 口にした言葉を忘れていない。部屋の窓から見える景色に笑みを浮かべた。それから、
「……待つのは、慣れてるさ」
 気丈に振る舞って見せた。

2020/11/12
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