ピリオド

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 ルシフェルはぼんやりと揺られながら、街並みを眺めていた。ありふれた日常が流れていく。人々は日々を謳歌している。隣人と手を取り合い、笑い合っている。彼らに支えられてルシフェルは暮らしており、そして彼らを守ることはルシフェルに課せられた義務だった。
 常と変わらぬ、見慣れた風景であるはずなのに、不意にルシフェルは視線を逸らすことが出来ないでいる。ちらりと見えた姿が焼き付いて、離れない。段々と、やがて小さくなっていく。離れていく。それが、無性に、耐えがたくて、声を上げていた。
「……っ! とめてくれ」
「は、はい」
 御者に命じれば小さな嘶きと共に、揺れが収まる。ルシフェルは御者の制止も聞かずに飛び降りると、一目散に駆けだした。
 路地に入り込む。大通りから一歩入り込んだだけで、じめじめと、昼間だというのに薄暗い。疎らな人の中、声が聞こえる。ルシフェルは引き寄せられていく。
「──花はいかがですか」
 籠に色鮮やかな花を詰めた少女が通り過ぎる人に声を掛けている。悪いねと断られても、またいかがですかと声を掛ける。無視をされても、悲しみを浮かべることはない。鳶色の、飛び跳ねた髪に、華奢な手足の何もかもが、ルシフェルにとっては美しく、瑞々しく、この世の何よりも尊いものに見えた。実際には、華奢を通り越して肉付きの悪い手足に、整える道具もないままで無造作なだけの髪である。
「……花はいかがかな?」
 少女がルシフェルを見て、声を掛ける。
 ぱちぱちと頭の奥で弾けるような感覚。心臓が痛いくらいに跳ね上がった。
 少女は、売り物の花をルシフェルのきらきらとした、薄暗い区域には似つかわしくない銀髪に飾り付けた。うん、似合っているなと満足に笑い掛ける。
「きみのような子どもが来る区域じゃない、迷ったのなら」
「きみが欲しい」
 少女が怪訝な顔でルシフェルに視線をあわせ、しゃがみこむ。深い薔薇色の瞳に映る自分があまりにも必死で、だけど、どうしても抑えきれない。真剣に見つめるルシフェルに、少女は耐えきれないというようにふき出した。くすくすと肩を揺らし、眦には涙を浮かべる。
 きょとりと、ルシフェルは少女を見つめる。
「悪いが春は売ってないよ」
 少女はそう言うとすくっと立ち上がる。まだ大人、とは言えない年齢の少女ではあるがそれでもルシフェルよりは年上だった。ルシフェルは精々、彼女の胸元程度の身長でしかなく、見上げた。
「大通りまで送ろう」
 そう言うとついておいでと言われるから、ルシフェルはうっとりとその声を聞きながらついて歩く。
 ルシフェル様、と御者の悲鳴交じりの声にルシフェルはああ、そういえばと彼の存在を思い出した。そんなルシフェルに、矢張り良い所の坊ちゃんなのだなと笑い掛ける。
「御礼を、させてくれないか」
 ルシフェルがぎゅっと服の裾を掴んでいるから、振りほどけずに御礼と言うなら花を買ってくれたら十分だというのに、馬車に詰め込まれ、以来、サンダルフォンは閉じ込められたままだ。
 サンダルフォンには身寄りがない。自身の境遇を不幸と嘆くことは無かった。決して、珍しいことではない。自分と同じく親から捨てられた、あるいは不幸にも独りぼっちになってしまった子どもたちと、路地裏でひっそりと暮らしていた。食べ物は奪い合いであったし喧嘩は絶えない。子ども同士だけでなく、大人の憂さ晴らしに乱暴をされることもある。幸せとは言い難い。豊かな暮らしとは、とてもではないが言えない。それでも、サンダルフォンは自分のことを姉と呼び慕う、幼い彼らが好きだった。サンダルフォンにとって、掛け替えのない家族であり、彼ら彼女らのためならば、頑張って生きようと思えた。決して、貴族の道楽のために生きようとなんて思っていなかった。
 サンダルフォンは膝を抱えて後悔をする。あの日に戻りたい。あの日、あんな子どもを放っておけばよかったんだ。あんな子どもに関わった所為で、何もかもが滅茶苦茶になっている。
 二の腕に爪を立てる。ぎりぎりと痛くて、抉れた皮膚から血がにじんだ。
 銀色の髪に青い瞳をしたお伽噺の天使のような少年は、サンダルフォンにとって悪魔と等しい存在だ。彼のただ一言の我ままの所為で、サンダルフォンの矜持はずたずたにされ、血の繋がりはなくとも心が繋がっていた家族と引き離された。見知らぬ家の娘という経歴が与えられて、今までのサンダルフォンが殺されていく。
 広い部屋は檻だった。外から施錠をされている。鍵はルシフェルが所持している。美しい庭だろうとルシフェルが笑い掛けた薔薇が咲き誇る庭園が、部屋のバルコニーから見下ろせる。いっそ、バルコニーから飛び降りてやろうかと、何度となく、思った。茨に身を投げ出して、ずたずたになった姿に興味も何もかも、失せてしまえばいい。だというのにそんなサンダルフォンの心を知りもしない悪魔はといえば「私が君を守るよ」なんて甘い、きれいごとを囁くのだ。
「きっと君に似合うから」
 可愛らしいはずの笑みがおぞましく感じた。
 赤い宝石で作られた薔薇の髪飾りは、宝石箱の中に眠ったまま、一度としてつけたことはない。つける理由も、無かった。
 値の張るものなのだろう。売れば、幾つのパンを買えるのだろうか、ルシフェルは考えもしないのだろう。サンダルフォンは美しいと思う前に、考えていた。
 息が詰まる。身寄りもない、礼儀以前に常識も欠けた小娘が礼儀作法一般教養を叩き込まれ、教師からも、使用人からも馬鹿にされる。若様を誑かして、なんて陰口。違う。サンダルフォンが言ったところで、誰も信じやしない。彼らにとってサンダルフォンこそが、悪魔であった。
 住まいも食べ物も衣服も、全て、路地裏で暮らしていた時には触れることが出来なかった夢にも見なかったものばかりだった。いっそ、全部夢ならばと思う。住まいといっても、部屋から出たことは一度もない。食べるものといっても、味気なく、食べたきがしない。柔らかな寝台は沼のように底が知れなくて、気持ちが悪い。ちっとも休まることはない。衣服も、君に似合うというルシフェルの人形遊びに付き合わされているようで、気分が悪い。帰りたい。戻りたい。あの子たちはどうなったのだろうと、弟たち、妹たちを想って涙を流した。
 味方は、どこにもいない。ルシフェルは味方ではない。帰りたいといったところで、ここが君の帰る場所だなんて意味の分からない事を言う。
 あれは、きっと悪魔なのだ。人間のふりをしているだけだ。甘い言葉を囁いて、破滅へと導こうとする。不幸にさせる。
 毎日毎夜願っている。
 誰かあの悪魔を滅ぼしてください。
 誰かどうかこの生活を終わらせてください。
 コンコンと、ノックの音がする。サンダルフォンはのろのろと顔をあげた。カチャリと開錠の音ともに、天使のような微笑を浮かべた悪魔が部屋に入ってくる。
 まだ、地獄だった。

Title:約30の嘘
2020/11/01
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