ピリオド

  • since 12/06/19
 扉を破壊しかねない勢いで思い切り閉めた姿に、ベリアルは肩を竦めた。今日はまた、一段と荒れている。今まさに人1人、殺して来たといわれても納得してしまう凶悪な顔の創造主の姿があった。
 研究成果報告のために、最高評議会から呼び出された。なぜ俺がと不満を抱きながらも研究所所長という立場をちらつかれば従わざるを得ない。権力を笠に着ただけで能力の劣った連中相手に、御機嫌取りなんぞとルシファーは不愉快を隠せないでいた。対人関係におけるスキルは全て放棄している。ルシファーは己の才能一つでのし上がったのである。そんなルシファーにとって、己の研究の真意を理解できない連中は相手をするのも馬鹿馬鹿しく、時間の無駄でしかない。
 ルシファーの様子から、また何か言われたのだろうなとベリアルはある程度の予想が出来ている。大方は「その研究に何の意味があるのだ」といったあたりか。意味のない研究なんぞない、とルシファーが言ったところで、連中には理解が出来ない。よくあることだ。そもそもルシファーの理解者なんて、最高傑作くらいだろう。その最高傑作とも、どうやらスペアの処遇を巡ってひと悶着あったようだから、猶の事、ルシファーの機嫌は悪かった。そこにきての追い打ちかと、今日ばかりは軽口は叩けないなとベリアルは口を引き結ぶ。ここでふざけてコトコト煮込まれる、なんて洒落にならない。
「……じゃあ奥の区域の進捗を確認してくるよ」
 そういって部屋を出る。部屋の重苦しい重圧から解放されて鼻歌混じりに回廊を歩く。
 部屋にひとりとなったルシファーはといえば、我慢ならないというように吐き捨てる。
「くそっ!!」
 ずんずんと部屋の奥、所長の椅子に座ると、背もたれに身を任せて、ずるずるとだらしなく、身を任せる。
「……何が嫁だ、子どもだ。馬鹿馬鹿しい」
 怒りの後に呆れが込み上がる。
 研究報告の場であるにも関わず、研究に関する質問はない。下卑た問い掛けばかりにうんざりと場を切り上げた。そもそも星の民は長命は種だ。空の民のように短命であり種の保存のためという理由もなく、子孫を残すなどという行為は道楽であり、馬鹿げている。ルシファーにはそのような戯言に付き合う時間なんぞない。
 付き合ってられん、思い出したくもないとルシファーは記憶を塗り替えるように、積み上げられた報告書を手に取り、目を通す。ルシファーにとっては取るに足らない研究内容であるが、それでも最高評議会連中の下らない言葉に比べれば雲泥の差に価値がある。
 とはいえ、どれもルシファーにとっては価値はない。
「……コストの削減か」
 着眼点は悪くは無いなとルシファーは一つの研究に目をつける。
 結局、ルシファーは私室に戻ることなく所長室で一夜を過ごした。興味をいだいた結果、自らの探求心に火がついてしまい、しなくてもよい徹夜をしたのである。うっすらと隈をこさえたルシファーの様子にベリアルはまだ溜め込んでいる書類は無かったはずだよなと内心で考えて、それからにっこりと笑って見せる。ルシファーは不快そうに眉を寄せた。
「最高評議会からの届け物らしい」
 はぁと低音で不快感を示すとルシファーはベリアルが態々机に積んだそれを、ぱらりとめくり、放り投げた。ベリアルがおっと、と言いながらこともなげにキャッチをする。中々の分厚さである。ぱらりとページをめくりながら、ルシファーの様子を窺うに、反応を示さない。見ても良いのだろうと、これは何だろうかと不思議に思いながら、まさかなぁといやいやと否定しながら、たずねる。
「ファーさん、見合いでもするの?」
「するか」
 ふうんとベリアルは興味も失せたみたいに、ゴミで良のかいと聞くから任せるとこたえた。
 いずれは向こうも諦めるだろうと思っていたというのに、毎日毎日飽きもせずに送られてくる釣書に、事あるごとに「親しい女性はいないのか」「この前の女はどうだった」「子どもの予定はどう考えている」なんて聞いて来る。仕舞にはベルゼバブまで送られてきたのだから、ベリアルは腹を抱えて笑った。ベルゼバブはといえば巻き込まれて不快なうえにベリアルに笑われて、ブチ切れながら帰って行った。アイツ何しに来たんだとルシファーは、意味が分からずにただ無視を決め込んでいた。それらはベリアルの腹筋に更なる追い打ちをかけた。
 ルシファーは無視を決め込んでいるものの、確実に苛々としている。その横でふと、このやりとり、何かでみたことがあるな……とベリアルは考える。何処だったか。随分と昔のことだと記憶を紐解いて、これだと閃く。
──空の民がよくやってる応酬じゃん!!
 早く孫の顔を見せてくれ御隣のあの子は結婚してるのにあなたは良い人いないのうるせえなこっちにも都合があるんだよ……。
 そうだそうだ、どうりで見たことあるやり取りなわけだ、と思い出したことに満足するベリアルをルシファーは、とうとう壊れたのかと胡乱にチェックしていた。
 奴らの猛攻はいつまで続くのか……。星の民は、何事にも執着しない性質ではなかったのか。自らが異端扱いであることを自覚している。なぜ俺の嫁だ子どもだということに執着をする。わけがわからない。
「もう、いっそ適当に選んで結婚したら?」
「ふざけるなよ」
「ならいっそそこらへんで適当に拾ってくるかい?」
 他人事と適当を言うベリアルに手にしていた書類を投げつけようとしたルシファーはふと、考える。結婚も子どももルシファーには不要だ。しかし、最高評議会からの余計な世話はそれ以上に不要だ。ならばいっそと、考える。
 周囲の星の民──研究員は基本的には男だ。いっそ男色家であると……それはなんだか癪に障る……星の民の女──周囲に思い浮かばず、それどころか共犯者になり得る同族は思い浮かばない。
 ファーさん友達少ないもんな、などと口にするベリアルをルシファーは睥睨した。ごめんごめん気にしてた? なんていうベリアルを無視する。別に気にしてない。友と呼ぶことを許したのはルシフェルただ一人である。対等であることを認めている、ルシファー自らが作り出した最高傑作である。
 ふと、考える。
 いないなら、作りだせばよい。
 その技術を、確立させたのは自分に他ならない。
「そういえば役割のない天司がいたな……」

──あれでいいか。



 意図せず、盗み聞いてしまった自らの役割。そして意味のない存在だと、きっぱりと明言をされた。サンダルフォンという存在、すべてを踏みにじる言葉がルシフェルによって守られてきた脆く、柔らかな心をぐさりぐさりと刺し、抉っていく。
 役割を欲したのは、役に立ちたいと願ったのは、敬愛してやまない御方のためだった。その御方が、何も言わないでいた。役に立たないという言葉に対して否定もせず、廃棄か愛玩かと問われても、口を噤み続けていた。
 それがなにより、堪えた。
 中庭に降りることもなくなったサンダルフォンを、ルシフェルは気遣う。しかし、役割については何も言わない。ああ、その程度の存在なのかと、サンダルフォンは自嘲を浮かべた。天司長にとって、サンダルフォンは取るに足らない、自らが作った故に気に掛ける程度の存在で、用途が分れば、その程度なのだと、サンダルフォンは諦めを覚える。研究所内を漂う不穏な雰囲気は感じ取っていた。いっそと、身を投じてやろうと意気込んだサンダルフォンを制止したのは、見覚えのない天司だった。
 軽薄な笑みは気味が悪く、サンダルフォンは胡乱に男を見た。
 研究所所長補佐官、ルシファー直属だと名乗ったベリアルに、サンダルフォンの顔から色がなくなる。廃棄だと、直感した。捕まってはならないと、反射的に逃げようとしたサンダルフォンをベリアルは容易く拘束をする。痛みに呻くサンダルフォンをベリアルは見下ろしながら、
「きみ実戦経験が無い割には中々良い反応をするじゃないか」
 全力で藻掻くサンダルフォンを、涼しい顔で拘束をするベリアルとの力量差は圧倒的だった。力不足だけではない。ベリアルのいう経験が足りない。
 生物の気配を感じられない無機質な区画をベリアルは鼻歌混じりに、サンダルフォンを連行しながら歩く。拘束をされて、自身の意思で体を動かすことが出来ないサンダルフォンは、口惜しさと、それから恐怖を抱く。
 何も、残せない。存在した意味もなく、存在すら消える。廃棄をされる。
 役に立ちたいと思っていたサンダルフォンも、憎しみを抱きつつあったサンダルフォンも、すべて、この世界から消え去るのだ。誰の記憶にも残らない。せめて、あの御方はと考えたサンダルフォンだったが、すぐに、情けないような、虚しさに襲われる。
「連れて来たよ、ファーさん」
 気安い声に、内心で悲鳴をあげるサンダルフォンに対して、知ったこっちゃないと、ベリアルは扉を開けて、勝手知ったる部屋に入る。息苦しい程の雰囲気を感じているのは、サンダルフォンだけのようだった。恐怖に、キィン……と、耳が痛くなる。自身の息遣いがやけに大きく聞こえる。
 サンダルフォンを、じっと青い目が観察をする。
 温度を感じさせない、冷え切った目に見つめられて、拘束をされているからだけでなく、身が竦んだ。
「お前……役割が欲しいと言っていたな」
 冷ややかな声音にも無反応なサンダルフォンに、ただでさえ、不機嫌なルシファーは不快そうに、眉を寄せた。そういえばと、ベリアルが思い出したみたいに声を掛けた。
「拘束してたんだった。どうする?」
「面倒だ。コイツの意思なんぞ別にいらん……運べ」
「はいはい。……サンディ、ちょっと寝てようか。なんだったか……『案ずることは無いよ』だったかな?」
 身体を動かせないサンダルフォンの目が見開かれる。
 ベリアルは楽し気に、声を掛けた。
「じゃあおやすみ、良い夢を」
 意識が遠のく。ふらりと、倒れ込みかけたサンダルフォンをベリアルは「おっと」と、さして焦りを感じさせない態度で受け止める。それから、脇と膝裏に手を入れて抱える。そこそこに大切に扱わなければと、ベリアルなりに大事に扱っているつもりだ。
 抱えたサンダルフォンを、ルシファーの研究室に運び込む。
 台の上にサンダルフォンをそっと置く。意識が深く沈んでいるのだろうサンダルフォンは、拘束が解かれても身動ぎしない。
「くそっ…………はぁ……」
 ルシファーはサンダルフォンを前にして忌々しく、ため息を吐き出した。乱雑に髪を掻き、苦渋と言わんばかりの顔である。
 最低で、最悪の手段である。しかし、一番、手っ取り早い。よりにもよってと思いながら、研究の一環であると割り切るしかない。そうでなくては、やってられない。
 それからルシファーはサンダルフォンの肉体構成要素の最終確認をする。目を通した、サンダルフォンを作ったルシフェルによる報告書を不要とばかりにぐしゃりと丸めた。ぽいと放り出した報告書をベリアルがキャッチして、興味本位で開き目を通す。へぇと言いながら、内心で、サンダルフォンのスペックに驚いていた。天司長の繋ぎとしては申し分ない程のスペックだ。拙い戦闘であったが、確かに、経験を積めば敵性異分子の排除くらいは容易いだろう。しかし、もはやそのスペックを揮うこともないのだと考えると、ほんの少しだけ、同じく作られた命として「カワイソウ」と同情をした。
 拘束を解除したサンダルフォンが、目覚めては厄介だ。それにルシフェルの帰還を考えると早々に終わらせる必要がある。ルシファーはサンダルフォンに手をのばした。
 中庭に現れなくなったサンダルフォンを、ルシフェルは帰還の度に部屋をたずねて、様子をうかがっていた。せめてと声を掛けるものの、サンダルフォンの表情は硬く、声は沈み、ルシフェルが抱いた安寧とは程遠い。何かあったのかと問い掛けても、何もありませんの一点張りだった。
 ルシフェルは、サンダルフォンが塞ぎこんでしまった理由に見当がつかないでいた。思い至らないでいた。まさか、自分の役割を知ってしまったなどと、露ほども思わない。
 研究所に帰還をしたルシフェルは、まず中庭に顔を出した。もしかしたら、なんていう淡い期待はあっけなく消え去る。次に、声を掛けようと部屋にむかう。扉越しでもと、せめてもと、思いながら、サンダルフォンと声を掛けようとして、荒らされたまま、伽藍とした部屋を目にして、言葉を失う。
 力の残滓はサンダルフォンと、そして見知った、かつての副官であることに気付く。そして、その上官たる存在を思い浮かべたルシフェルは「らしくない」焦りを浮かべる。そんな、まさかと駆け込んだ。友と呼ぶことを許された創造主の性質を、知らないわけではなかった。
「帰ったのか」
 悠々とルシフェルを迎えたルシファーの隣で、所在無く佇む人影が俯いた。フードを深く被り顔は見えないものの、覚えのある気配に、ルシフェルは一瞬だけほっとした。しかし、変質した姿になぜと疑問を抱く。その元凶たる友に声を掛ける。
「どういうつもりだ」
「役割がないのだから、問題はないだろう?」
「そういう問題ではない」
「ならばどういう問題だ」
 役割がないと言い切ったルシファーの隣で、浮かび上がった悲愴な表情を、フードが隠す。



 目覚めたサンダルフォンはぼんやりと天井を見上げた。肉体がある。意思がある。それが不思議で、不可解で、疑問が浮かんだ。
──廃棄では、ないのか?
 ならばなぜルシファーはと考えていたところに、目が覚めたのかと声を掛けられたサンダルフォンは、不意をつかれたみたいに、慌てて上体を起こした。
「ルシファー、様」
 取ってつけたような敬称に、ルシファーは何ら反応を示さない。サンダルフォンの動作確認を取る。目を見ろ、手を挙げろとあれやこれやと命じられながら、なぜ自分は生きているのだろうと戸惑いを覚えつつも、サンダルフォンは検査台から降りる。その時になって、冷静さを取り戻した脳は急速に状況を理解した。
 サンダルフォンは呆然と立ち尽くす。
「いいか、お前は俺の嫁だ。わかったな」
 なにか訳の分からないことを言われた記憶のまま、サンダルフォンは剥ぎ取られた鎧の代わりに、白いローブを身に着けさせられて、ルシファーの隣で、ルシフェルが露にした感情を間近に触れた。
 声を荒げるルシフェルの姿を見たのは、初めてだった。
 サンダルフォンは雄型として作られたとはいえ、他の天司に比べれば華奢な作りであった。その肉体は、より一層、華奢に、細く、小さくなっている。
 天司長であるルシフェルが作りだしたサンダルフォンを、容易く、表面上とはいえ作り変えたのはルシファーに他ならない。天司という規格を作り出したルシファーだからこそ可能な、肉体の再構築だった。忌々しい最高評議会からの嫁娶れはよ子ども見せろコールに辟易として、ルシファーが作りだした、これならば文句はないだろうというルシファーにとって都合の良い嫁の完成である。そこに、一切、サンダルフォンの事後事前承諾はなく、意思はない。
 そもそもサンダルフォンは、ルシフェルによって作らせた天司であり、自らが製造に関わっていないとはいえ、ルシファーにとっては道具の一つに過ぎない。天司長のスペアという役割も、今となっては無意味なのだから、そのうち廃棄か、あるいは計画において何かしら駒に出来るだろうかという程度の存在だった。愛玩という選択肢を与えたものの、ルシフェルにその意思は見られないようであった。ならいっそ、役立ててやろうという心算でサンダルフォンという役割のない天司に白羽の矢を立てたのだ。
 ルシファーにしてみれば、リサイクル、リユース、リデュースの精神である。
 最高評議会が天司という自律機構に危機感を抱きつつある状況で、新しく作るとなると制約が掛けられる。従順な手駒は好ましくあるが、いずれボロを出す。それでなくとも、天司を作るにはコストがかかる。ならばいっそ不用品であるのだから有効活用してやろうという、研究所所長としての立場に基づいたコスト削減とエコ活動である。ついでにいえば、肉体を作り変えるという技術に関しての実施も試みたいという研究者としての興味もあった。
 外見の美醜に拘りがなく、そもそも天司に生殖機能は宿していない。性別が稼働に支障はもたらすことは無いのだ。サンダルフォンの肉体規格を女性ベースに再構築させたものの、ルシファーはそれ以上に手を加えていなかった。
 ルシファーの中に「失敗」はありえない。術式は完成されている。故に少女の姿となったサンダルフォンを前にしても、自らの正しさを証明したという気持ちしかわかないでいた。
 ただ少しだけ、生殖器と骨格を再構築させたことに伴って作り変えられたサンダルフォンの肉体は、他の女性天司に比べると、幼い姿であったことに、内心では戸惑っていた。そもそも元の男性型であった頃から、他の天司よりも幼い外見をしていたのだ。狡知がいたならば「年下趣味で押し通すのかい」なんていう軽口を叩くのだろうか。ルシファーは脳裏にいやにリアルに現れた狡知を蹴り飛ばした。
「……別に、良いか」
 目的は達成できたのだ。
 都合の良い嫁の調達に加えて、肉体の再構築においては、更なる成果を得ることができた。これで最高評議会の鬱陶しいお節介も正当に無視できる。平穏を取り戻せる、研究に専念できると、ルシファーは満足な気持ちであったから、襲来したルシフェルに対して悪びれることもない。
 ルシフェルはといえば、サンダルフォンの姿と、それから「嫁にする」というルシファーの発言に、言葉を失い、大いに混乱をした。
 ルシフェルが知る限り、ルシファーがサンダルフォンを気に掛けた素振りは一度もない。寧ろ疎ましさを抱いている素振りであった。逆も同じく、サンダルフォンはルシファーに対して怯えた様子であった。記憶にある限り、二人が想い合っているような関係には見られなかった。現にルシフェルが視界にいれるサンダルフォンはといえば、決して喜んでいる様子はない。ルシフェルは眉を寄せる。
「……サンダルフォンを嫁にするとは、どういう意味だろうか」
「嫁の意味がわからんか。雌雄の番だ」
「意味は知っている。なぜ、サンダルフォンを? それにその姿はきみの仕業か」
「ああ……もう、面倒だ。役割だ。俺の嫁が、こいつの役割だ。姿は役割のためだ。それで良いだろう」
「良くはない。嫁とは、役割ではないだろう」
 言い争うルシフェルとルシファーに挟まれて、サンダルフォンはおろおろと戸惑う。戸惑いながら、顔を上げれば、フードが取れた。
 面影はあるものの、少女らしくなった顔が晒される。
 輪郭は柔らかく、頬はほんのりと色付き、目はぱっちりと大きくなっていた。サンダルフォンは慌ててフードを被りなおして、また俯いた。
 青い目は僅かに見開かれていた。
 ルシフェルに対して根付いた敬慕、与えられた肉体を損なわせてしまったという失態と、損なった肉体を見られてしまったという羞恥が、サンダルフォンの中で複雑怪奇に渦巻く。
「ならばお前がコイツに役割を与えるのか?」
 ルシファーのうんざりとした様子の言葉に、ルシフェルは何も言わない。発するべき言葉が無かった。サンダルフォンの中で渦巻いていた感情が凪いでいく。分かっていたことだ。天司長にはスペアは不用だった。サンダルフォンは不用だった。それだけのことだ。盗み聞いたままだった。
「きみはそれでいいのか」
「俺は、」
 サンダルフォンは唇を噛んだ。
 ぎゅっと、ローブを握りしめる。
「役割ならば、全うするだけです」
 ルシフェルはサンダルフォンの言葉に考え込むように目を閉じると、そうかと首肯するだけだった。見捨てられたように思ってしまった自分が、よりいっそう、惨めに思ってしまったサンダルフォンは口の中に鉄臭さを感じた。
「これでいいだろう、さっさと戻れ」とルシフェルに命じたルシファーは、サンダルフォンの解答に満足していた。



 研究所所長の嫁、などという権力を求めてやまない女ならば喉から手が出る程に欲しがるポジションに、無理矢理につかされたサンダルフォンであるが、日常に変化はなかった。
 軟禁生活である。
 中庭も禁止され、いっそ監禁であった。
 旦那であるルシファーはといえば、最高評議会からのうんざりとした催促が無くなったことに満足であるようで、サンダルフォンの存在をけろりと忘れている。忘れているならば、この姿をもどしてくれまいかとサンダルフォンは思ったが、ルシファーという存在が恐怖の対象であることは変わらず、おいそれと物申すことは出来ずにいた。そもそも顔を会わせていないのだが。
「まあ一応、ファーさんの嫁っていう立場だからね。窮屈だとは思うけど、我慢してくれ」
 研究所所長という立場と、危険視すらされるほどの天才的頭脳により生み出された研究の数々。ルシファーに敵意を抱く存在は少なくはない。そしてそんなルシファーの嫁となれば、弱みになるだとかで、利用価値がある、らしい。
 ルシファーの嫁であるサンダルフォンと、ルシフェルによって作られた中庭のサンちゃんを同一として結びつけるものはいない。今のサンダルフォンはルシファーの寵愛をうけて、隠され続けていた御令嬢、という設定であるらしい。なんだそれはとサンダルフォンは呆れた。星の民の想像力は中々に逞しい。
「欲しいものはあるかい?」
 逡巡、サンダルフォンは珈琲を淹れるために取りそろえた器具を思い出した。部屋に取り残したままだった。しかし、
「……とくには、ないな」
「そうかい? まあ、欲しいものがあれば声を掛けてくれ」
 手に入るかはファーさん次第だけどね。と付け加えたベリアルは部屋を出ていった。取り残されたサンダルフォンは、ふうと息を吐き出す。広い部屋は、ルシファーの私室である。しかし、ルシファー自身は研究室と所長室で生活をしているといっても過言ではなく、部屋にはルシファーの気配はない。真新しく、余所余所しかった。
 サンダルフォンが大きな寝台に腰かければ、ふんわりと押し返され、僅かに体が跳ねる。サンダルフォンに与えられた部屋とは、当然ながら桁違いに広い。
 居心地悪くきょろりと周囲を見渡しても、暇をつぶせるようなものは皆無である。大きな窓から見える木々の葉が風にそよめき、陽光を受けている。変化のない、長閑な日であるらしい。だというのに自分はと──サンダルフォンは被っていたままのフードを外し、ローブを脱いだ。白地に金で星の民の紋章が刺繍されたローブをぬぐと、ほんの少しだけ、身が軽く感じた。息を吐き出せば、それまで見ないようにしていた膨れた胸が目についた。
 なんだか、ひどく、疲れる。
 寝台の上にあがり、横になる。全部夢だったら──なんて馬鹿馬鹿しい事を考えて目を閉じ、そして目を開けた。そこにルシフェルがいた。なんだ、全部夢か……と、ルシフェルの寝顔が険しいことに心配になって、ふとおかしい気持ちになって、それから、あげかけた悲鳴を飲み込んだ。
 窓からは月明りが差し込んでいた。
 気難しい顔で、器用に眉を寄せて眠る姿は星の民だ。ルシファーだ。ああ、現実だとサンダルフォンは残念な気持ちを抱いてから、なぜルシファーがここに居るのかと不思議になる。
 サンダルフォンは寝台をずるずると這い出る。
 とてもではないが、ルシファーの横で、呑気に二度寝を決め込むほどの図太い神経は持ち合わせていない。
 ちゅんちゅん。などという耳障りな囀りにルシファーは目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのか分からずに、ぼんやりと天井を見上げる。ああ、そういえば私室だったかと思い出す。「一応、嫁がいるって態度で示したら」などと面白がっている狡知の言葉を癪に思っていた。嫁を取ったんだぞ。それ以上は知った事かと言わんばかりであったが、「お嫁様は実は無理矢理に連れてこられたらしい」などと独り歩きしつつあるほんの少し真実が混ざった噂話と、ちらちらと伺うような最高評議会からの圧に致し方なく、それらしい振る舞いとして私室に帰ってみれば、寝台の上でぐうぐうと丸まり寝こけている姿に呆れかえった。そのぐうすかと眠りこけていた奴はといえば相当に寝相が悪いのか床の上で丸くなっている。
「おい」とルシファーが声を掛ければ、のろのろと起き上がり、きょとりとした顔がルシファーをみつめた。間抜けな顔だなとルシファーは思った。
 早々に研究室へと向かったルシファーをサンダルフォンはおっかなびっくりと「いってらっしゃいませ」と言って見送った。ルシファーは何も言わずに部屋を出ていった。声を掛けたときの顔を思い出して、あれこそが「鳩が豆鉄砲をくらったような顔」と言うのだろうと、サンダルフォンはちょっとだけ思った。
 ぼんやりと過ごしていたサンダルフォンを、やあと調子よくたずねたのはベリアルだった。手には、サンダルフォンが部屋に置いてきたままだった珈琲を淹れるための器具を持っていた。あの部屋は処分されるらしい。複雑な気持ちになりながら、器具を受け取る。
 ルシファーは私室には戻らないと言っていたのはベリアルだった。ベリアルの言う通りだった。だから、サンダルフォンは安心しきっていた。なぜ昨日は戻って来たのかと問い質したい気持ちだった。サンダルフォンが問いかける前に、ベリアルが本題だというように言った。
「昨夜は御楽しみだったかい?」
 ニヤニヤと笑っているベリアルにサンダルフォンは何を言っているのだろうと眉を寄せて見つめた。ベリアルはといえば、天司長による温室育ち純粋培養なサンダルフォンには、意味がわからなかったのかと見当違いに、直接的に告げれば、サンダルフォンはやっと理解をした。しかし、余計に何を言っているのだと思わざるを得ない。
「ルシファー様だぞ?」
「ああ君の旦那様だろ?」
 本意ではない関係である。サンダルフォンは不快感を無意識に浮かべてしまった。
「そういうものだろう、君達の関係って」
「……そう、なのか?」
 サンダルフォンは不安になり、ベリアルにたずねた。よりにもよって、ベリアルに、だ。ベリアルの性質を知らないからこその無謀である。ベリアルはにんまりと笑うと、そうだよ、と言う。全然そうじゃない。それだけではないと、訂正をする第三者は不在だった。疑うことを知らないサンダルフォンはといえば、神妙な顔で、そうなのか……と考え込む。
「君なりにファーさんの嫁っていう役割を果たせば良いんじゃないか?」
 欲しかったんだろう? 役割。
 サンダルフォンの目が揺らめいたのを見たベリアルは、にっこりと笑って言った。


 ただ私室に戻るようになった。それだけで、所長とお嫁様の仲は良好であるらしいと勝手に思い込んでいる。元々他者に対しての興味関心は薄い種なのだ。あまりにも娯楽がない環境であるから、所長が結婚をした、嫁が姿を見せないという話題は注目を帯びたのだろう。噂がなくなり、注目がされなくなったルシファーはといえば、研究室と所長室での寝泊まりを再開することはなく、毎夜、私室で休むようになった。
 休めるならば別にどこでも良いと思っていた。寧ろ気絶するように眠っていた具合であるから、こだわりもない。休息よりも研究を優先する。しかし、寝台で休んだあとの研究は寝食を削った時以上に捗り、脳は冴えわたり、屈辱的であるが、作業効率は格段に上がっていた。故に、寝台で休息をとるために私室に戻るだけであり、決してお嫁様との密月を楽しんでいる訳ではない。
「で、本当のところはどうなの?」
 などと分かりきっているくせに、興味津々に言うベリアルの向う脛に、ルシファーは暗器をしまい込んだ、持ち歩いている杖を思い切り打ち当てた。痛みに蹲ったベリアルは恍惚とした顔で見上げるものだから、罰にもならんと、鬱陶しくその背中を蹴る。白い制服にルシファーの足跡がくっきりと浮かんだ。
 少しだけ気持ちが晴れて、スタスタと回廊を歩く。
 夜は更けていた。
 強固な結界が張り巡らされた区画が、ルシファーの居住区である。立ち入りが許されているのはルシファーとベリアル、以前はルシフェルにも許していた。今は取り消されている。代わりに許されているのがサンダルフォンである。
 ルシファーを部屋に送り届けたベリアルは姿を消した。
 戻ったルシファーを見て、サンダルフォンが「お帰りなさいませ」と口にする。ルシファーは変な気持ちになる。不快ではない。むず痒い。何も言わないルシファーを、サンダルフォンは気にも留めない。
 自分ばかりが気に掛けているみたいで、気分が悪い。そんなことを考えている自分が信じられず、疲れているのだと、ルシファーは早く休もうと、それから明日のスケジュールを浮かべる。
 ルシファーは休息のために部屋に戻っている。サンダルフォンとのお喋りを楽しむつもりは毛頭にない。サンダルフォンのことを動く家具だと思い込んでいる。それでも、チラチラと向けられる視線は鬱陶しく感じる。そのくせ、ルシファーが視線を向ければ慌てて逸らす。また、暫くするとチラチラと寄せられる。
 細く頼りない堪忍袋の緒がぷつりと切れるのは容易いことだった。
「言いたいことがあるならば言え」
 早く休みたい一心で、思った以上に低い声で問い掛けていた。サンダルフォンは声音に、恐々としながら言った。
「……嫁という役割は何をすれば良いのですか」
 ルシファーは呆気にとられた。
 それから、言われてみればと考える。考えなくても良いのに、考えてしまった。
 ルシファーの周囲には既婚者はいない。それどころか、研究に明け暮れる連中ばかりである。ルシファーもその連中の一人である。ルシファーにも、親という対象が存在し、彼らは夫婦、夫と妻、旦那と嫁という関係であるが、互いに無関心である。それは決して珍しいことではない。星の民という種族の性質である。
「……知らん」
「ルシファー様にも、知らないことがあるのですね」
 ついうっかりと言うように、思ったことをそのままにサンダルフォンは口にした。ルシファーがぎろりと睨むと、びくりと震えあがっている。言わなきゃいい事をなぜ口にしたのかと、浅慮に呆れた。
 むむむ……とサンダルフォンは眉を寄せて考える。自分で考えろと投げ出された嫁という役割を、より明確にしようと、そして役割を全うしてみせようと思ったものの、にっちもさっちもいかないでいる。
 天司とは、進化を司る天司長であるルシフェルを支えるために、役割を与えられ、存在している。そして「嫁」という役割が与えられた自分はどのようにあるべきかと考える。ふざけた役割である。サンダルフォンも、これが正式なものではないと理解している。感情を露にしたルシフェルを誤魔化すための口八丁であったのだ。それでも、自ら口にして、最早それだけしか存在意義がないのだからと、縋るしかない。
 まずは嫁の定義から取り掛かる。旦那の対。旦那を支えるとしても、サンダルフォンにとっての旦那はルシファーになる。ならばルシファーを支える、と考えてさっぱりである。想像できない。どのように支えるというのか。
 嫁……夫人、妻……番……雌雄と考えてふと、自らの肉体を見る。他の女性型天司に比べれば貧相ではある。しかし、ベリアルも口にしていた。そういうことだろうか。
「星の民と天司との間に子どもは作れるのですか?」
 素っ頓狂なことを問い掛けて来るサンダルフォンに、ルシファーは疲れも吹っ飛んで「は?」と気の抜けた声で聞き返していた。サンダルフォンは、真剣な、真面目な顔で淡々と自らの考えを口にする。
「嫁という役割について俺なりに考えたのですが……子どもを産むことではないのですか?」
「……」
「ルシファー様?」
「…………」
「違うのでしょうか」
 散々に悩んで行き着いた案に、サンダルフォンは自信があった。
 ルシファーは頭が痛くなり、額を抑える。
「…………欲しいのか?」
「役割ならば」
 サンダルフォンは神妙な顔で首肯した。
 サンダルフォンの肉体を作り変えたのはルシファーに他ならない。しかし、内部はルシフェルが手掛けたままである、そして知能に至ってもリミッターをかけて制限をした訳ではない。
 見た目は少々異なるものの、中身はスペアとして作られたまま、変わっていないのだ。
 なのに、どうしてこんなにも頭が痛いことを口にするのかとルシファーはため息を零した。自分が研究に明け暮れ部下の後始末とルシフェルに追い回されている間、これは延々と嫁の役割について考えて、その果てに子どもを作るなんて至ったのか。
「寝る」
「……おやすみなさいませ」
 どうやら、子どもを作ることが嫁の役割ではないらしいとサンダルフォンは、役割が不明瞭なことを残念に思いながらエーテルを操作して仄かな灯りをつけた。



 珈琲を飲みながら、サンダルフォンは考える。
 嫁、とは。
 根が真面目であるサンダルフォンは、うんと考え込んでいた。監禁生活での過ごし方である。ああでもないこうでもないと頭を抱えていたサンダルフォンは、ふと感じた、扉越しの気配に思わず立ち上がった。
 まだ真昼だというのに不思議に思いながら、同時に感じた気配になぜ、と疑問が浮かぶ。
 扉が開くなり、ぐったりとしたルシファーと、にこやかな微笑を浮かべるルシフェルの姿に、サンダルフォンは戸惑いを覚えた。もはや、サンダルフォンはルシフェルの麾下ではない。作られたという、ただそれだけの存在だ。なぜ、ルシフェルがここに居るのか分からない。
 困惑を浮かべ、ルシファーに視線を向けた。
「部屋の外には連れ出すなよ」
「わかっている」
 ルシファーはサンダルフォンの視線に気づいた様子は微塵もなく、疲労困憊といった雰囲気で扉を閉めて去って行った。サンダルフォンは途方に暮れた。ルシファーは、相変わらず苦手だ。同じ空間で過ごすようになり、苦手意識は、多少は改善したとはいえ、恐怖は根付いている。それでも、今は、ルシフェルと二人きりにされることへの心細さが上回っていた。それも、ルシファーには通じることなく、部屋に取り残される。
 サンダルフォンはまごまごとしながら、ルシフェルにどのように接すれば良いのか分からない。立ちつくしまま、おどおどとする。
 口を開いたのは、ルシフェルだった。
「サンダルフォン、変わりはないだろうか」
「見た目以外でしたら変わりはありません」
 サンダルフォンの言葉に、ルシフェルは悲愴な表情を浮かべたから、サンダルフォンはちょっとだけ、罰が悪くなった。
 役に立ちたいというサンダルフォンの願いを知りながら、踏みにじったのだと、八つ当たりの怒りを向けていた。しかし、肉体を作り変えられた上に奇天烈な役割を与えられるなどという現状に、ルシフェルに対する複雑な感情はなりを潜めていた。加えて、サンダルフォンの肉体を事前事後承諾無しに作り変えたルシファーに対して怒りを露にしたルシフェルの姿に、なんとなくではあるが、悪い気持ちは無かった。
 彼にとって、サンダルフォンという存在は、ぞんざいに扱われれば不快に、怒りを抱く程度に思い入れのある存在なのだということを確認出来たのは、サンダルフォンにとって意地は悪いが、一つの収穫であった。
 それでも、以前のように素直に接することが出来ないでいる。
「……珈琲か」
「飲まれますか?」
「あぁ」
 頷く姿に、どうしてほっとしたのかサンダルフォンにもわからない。
 椅子とテーブルが欲しいとベリアルに頼んでいて良かったとサンダルフォンは心底思った。ルシファーはなぜこれが必要なのかと不思議そうであったが、問題なく、許可が下りた。用意をされたのは丸テーブルと二脚の椅子だった。使うのは一人なのだから、椅子は二脚も要らないと突っぱねなくて良かったと、サンダルフォンは過去の自分を褒めた。用意をしたベリアルとしては、使うのはルシファーとサンダルフォンだろうと想定していた。まさかルシファーよりも早くにルシフェルが使う事になるとは思わないでいた。
 誰かに飲んでもらう事が久しぶりな事に気付いた時には、ルシフェルはサンダルフォンが淹れた珈琲を飲んで微笑を浮かべて美味しいよと言っていた。ぶっきらぼうに、ありがとうございますと返した。
 それから、視線がさ迷い、稍あってから問われる。
「友との関係で問題は……困っていることはないか?」
 サンダルフォンはきょとりと見上げた。
 サンダルフォンは男性体であったときから、ルシフェルよりも小柄であった。女性体である今は、ルシフェルはより大きな存在に感じる。そんな人が、困ったような顔をして自分を見つめていた。
「……困っていること、ですか」
 ルシファーとの関係は、問題が起きないほどに良好だ。なんせ問題が起きる程の接点がない。夜を共にしてるといっても、ルシファーは眠っているし、サンダルフォンはじっとしているか、たまに同じく眠るくらいだ。会話はない。精々が「いってらっしゃいませ」「おかえりなさいませ」「おはようございます」「おやすみなさいませ」というサンダルフォンからの一方的な挨拶だった。その挨拶もルシファーは不快なのか気難しい顔だけで、返事はない。止めた方がいいのかな、と最近は思っている。
 考え込むサンダルフォンを、ルシフェルは沈痛な面持ちで見詰めると、そうか……と1人納得をして立ち上がった。
「友と話をしてくる」
「は?」
「君が案ずることは無いよ、サンダルフォン。話せてよかった、また来るよ」
 思わず聞き返してしまったサンダルフォンに、ルシフェルは安心をしなさいと言わんばかりに、美しい微笑を浮かべて部屋を出ていった。腰を上げ、追いかけようとするも、部屋を出てはならないことを思い出す。サンダルフォンにとっては不安でしかない言葉の数々を気がかりに思いながらも、中途半端にあげた腰をおとして、椅子に座りなおした。
 どこかで爆発音がしたのは、また研究事故だろうかと思ってしまうほどにありふれた日常であった。
「お前アイツに何を言った!?」
 飛び込んできたルシファーにサンダルフォンは、その必死な姿に驚き、それからアイツが誰なのかわからず戸惑う。ただ異常事態であるのだろうことは分かり、駆け寄った。
 静かな声が響く。
「友よ、話は終わっていない」
「くそっ!! おい、アイツを止めろ!!」
 訳が分からずきょとりとするサンダルフォンを盾にするように、その後ろにルシファーは回るとサンダルフォンを押し出す。サンダルフォンはルシフェルと相対する。ルシフェルはサンダルフォンに儚い笑みを向けた。とても、ルシファーを追い込んだ人物には思えない、穏やかな姿であった。
「サンダルフォン、そこを退いてくれないか。友に話がある」
 ルシフェルに言われるとサンダルフォンははい、と頷きそうになる。しかし、ぐいぐいと押される背後の圧に困惑しながら、首をゆるりと振った。険しい顔をしたルシフェルを前にすると、ルシファーを前にした以上の、体が底冷えする恐怖を抱いた。
「……申し訳有りませんが、できません」
「なぜ?」
「…………ルシファー様の、嫁として、です」
 じっと見詰められる。背中の手がなければサンダルフォンは倒れていたかもしれない。たっぷりとした沈黙の後、
「………………わかった」
 食い下がるルシフェルにサンダルフォンはほっとする。ルシファーはといえば、ルシフェルの様子に、初めてサンダルフォンという個体に存在意義を見出した。これは、使える。そんな不穏な思考を読み取ったみたいに、青い視線が鋭く突き刺さった。


 サンダルフォンはきょろりと興味深く、周囲を見渡す。かつてであれば私室と中庭だけ、現在においてはルシファーの部屋だけが行動範囲であるサンダルフォンにとって、何もかもが目新しく、未知の連続であった。そんなサンダルフォンの手を、ルシファーは不承不承と引っ張り歩く。
「おいていくぞ」
 はっとしてから、申し訳ありませんと済まなさそうにするものの、また物珍しそうに視線をさ迷わせるものだから、ルシファーは致し方なく、手を引いてるに過ぎない。
 そんな二人に向かってベリアルは笑い掛けた。
「ラブラブじゃないか」
 睥睨しても無意味である。ラブラブ……と繰り返すサンダルフォンにベリアルは言い聞かせる。
「じゃあサンディ、ファーさんのこと頼んだよ。ほら、よそ見しない。ファーさん、リミッター掛けたの?」
「掛けるか、そんなもの」
「リミッター?」
「サンディは気にしなくていいよ」
 じゃあ行ってくるね、と手を振るベリアルにサンダルフォンはおずおずと振り返して見せる。ちょっとだけ驚いた顔をしたベリアルはにっこりと笑って見せた。
 所長補佐官として片付けなければならない仕事と、ルシファーの視察が重なり、狙ったように護衛を担う下位天司は不在であった。これは何かあるなと思ったベリアルが視察の中止を提案したものの却下される。アレを連れていくとサンダルフォンを指名したのはルシファーである。サンダルフォンの戦闘力はベリアルも知っている。大抵の相手ならば問題はないだろう、と判断されルシファーの護衛として、サンダルフォンは部屋を連れ出されたのである。
 ルシフェルと相対した際に、嫁、というのは身を挺して旦那を守るものらしいと、定義付けた。つまりサンダルフォンの役割はルシファーを守ることだ。やっと、その役割を全うできるのだとサンダルフォンは意気込む。
 女体性であるサンダルフォンと、中庭のサンちゃんを結びつけるのは困難だ。そして、サンダルフォンがルシファーの嫁であると知るものは現在の研究所内に不在だ。難癖をつけられたらテンプレートを流用したとでもいえば良いかと、ルシファーは歩き出す。サンダルフォンはローブの下を心許なく思いながら、慌てて追いかけた。
 白いローブを着て、フードを被っているサンダルフォンは静かにルシファーの傍らに控える。いつもの護衛ではないのだなという程度の認識で、誰も追及はしない。
 視察に連れまわされ、初めて踏み入れる区画や用途が理解できない研究に首を傾げたりしながら、何事もなく、やがて、最後だと言われて研究所の奥の区画に足を踏み入れた。
 一際、残虐で冷酷に繰り返される地獄は、見慣れたものであった。
 サンダルフォンは同胞たちの姿に一瞬、怖気づいた。ルシファーの視線が向けらえる。なんでもないふりをする。サンダルフォンの顔が青白く見えたが、ルシファーは口にしない。
 こちらですと、大型の実験場に案内をされる。
 空の世界で捕獲をしたのだという魔獣をベースにした研究に、サンダルフォンは気分が悪くなった。苦しみ藻掻く大型の獣の、微かな呻きを哀れに思うのは、この場においてサンダルフォンだけだった。
 拘束をされ、本来の姿からかけ離れた、人為的に作り変えられている姿は痛まく感じる。
 星の民は、獣の想いなど知った事かと、ルシファーに研究状況を告げた。この研究が成功すれば更なる戦力増加が見込める、新たに天司を作りだすよりも捕らえて改造を加えた方がコストの削減につながると熱心に、研究の重要性を説く。ルシファーはつまらない顔で聞いていた。やがて聞き飽きて、研究主任の説明に割り込む。
「もういい」
 研究主任が顔をあげた。
「無駄だ、打ち切る」
 ぽかんと、ルシファーを見る。ルシファーは淡々と研究の不足を口にした。自分の研究は完璧だと自負していた研究主任の目が血走っていく。ぷるぷると、震えながらぶつぶつと何かを呟いている。拘束をされている獣があげるうめき声の変化に気付いたのはサンダルフォンだけだった。はっと、声をあげる。
「ルシファー様!!」
 同時に、拘束を振り切った獣が咆哮を上げる。びりびりと肌が粟立つ。腰を抜かしながら逃げ惑う研究者たちのなか、ルシファーはほう……と興味深そうに獣を見ていた。そんなルシファーにはははと笑いながら、研究主任である男がこれでも打ち切りですかと狂気に染まった声で問い掛けた。
 ルシファーは、獣を観察して、その粗末な改造に興味を無くす。視点は良いが、それまでだった。改造してこの程度。知能は獣のまま。なぜ、天司にコストがかかるのか、理解できていない。自律型機構として、脅威を抱くほどに完璧であるのだ。
 これなら研究報告を見て思いつきで、即興で改良をしたルシファーの術式の方が完成度が高い。
「この程度か……つまらん」
 ルシファーの言葉に男がやれとヒステリックに叫んだ。獣が狙いを定める。思考を支配され、獲物を仕留めることだけしか考えていない。咆哮をあげ、今まさに、襲い掛からんとした獣が、宙を舞った。
 心許ない、どころではない。
 白いローブが翻る。
 フードは取れた。紅い目が獣を敵とみなし鋭く、睨みつけている。
 もはや同情はない。
 獣を蹴り飛ばし、そのまま空中で体勢を立て直すや、思い切り上げられた脚が勢いよく振り落とされる。
 獣の脳天に叩きつけられた。
 ぐらりと、獣が傾いた。
 加減をしていない。そんな余裕はない。勢いよく、地面に叩きつけられた獣の衝撃に実験場が揺れた。衝撃に、立ってられる者は天司を除いていなかった。
 砂埃がまう。ルシファーが咳き込むと、サンダルフォンは慌てて駆け寄った。
 倒れ込んだルシファーに、屈み、手を差し出した。
「お怪我はありませんか?」
 きゅんとしたのは気の所為だろう。なんせ、獣が倒れた衝撃ではじけ飛んだがれきが当たった額からは、たらりと血が垂れている。悲鳴をあげたサンダルフォンに横抱きにされて医務室に連行をされたルシファーは遠い目をした。
 ルシファー様をお守りできなかった、怪我をさせてしまったという失態に落ち込むサンダルフォンを慰めながら、研究所内にて大型の事故発生のため至急帰還せよと呼び出されたルシフェルは、砂埃だらけのローブを脱いだ、サンダルフォンのレオタード姿に大いに困惑をしていた。同じく呼び出されたベリアルは、サンダルフォンのむっちりとした太ももをじっくりと観察していた。誰も、ルシファーの怪我を心配してはいなかった。サンダルフォンの様子から、まさかと覚悟してみれば、額の薄皮が切れた程度である。
「いつまでも鬱陶しい」とべそべそとするサンダルフォンに苛立ちながら、ルシファーはベリアルに目くばせをする。察したベリアルは研究主任はどこの所属だったかなとサンダルフォンを慰めながら記憶を呼び起こしていた。



 部屋で待機をしろと命じても、ルシファー様を守るのが俺の役割ですの一点張りで、余程ルシファーに怪我を負わせたことを悔やんでいるらしいサンダルフォンに言ってもきりがないと、ルシファーは監禁を解除した。サンダルフォンはふんすと意気込んでいる。
 ベリアルはサンダルフォンが口にしていたルシファーを守るのが役割、という点に何か勘違いをしているようだが面倒ごとではないだろうと放置した。ルシファーはといえば、ベリアルが訂正するだろうと放置している。サンダルフォンは何も言われないものだから、ますます正しいのだと思い込んでいた。
 サンダルフォンがルシファーに付きっ切りで護衛を担うことに、さしてデメリットはなかった。ルシファーは鬱陶しそうに思っていたものの、作業効率が跳ね上がると何も言わなくなった。サンダルフォンは優秀だった。確かにリミッターは掛けられていないのだなとベリアルは、卒なくルシファーの補佐をしているサンダルフォンを見直した。その視線にどうしたと小首を傾げるサンダルフォンに、なんでもないよとこたえる。
「おい、」「書類でしたらこちらです」
「おい、」「午後からの予定は視察ですね」
「おい、」「珈琲をお持ちしますね」
 ルシフェルは、目をぱちぱちとさせて、二人のやりとりを見ていた。
 サンダルフォンの監禁が解かれてほっとした。長く閉じ込められた上に、つい先日ルシファーを守れなかったと悔やんでいる様子から、塞ぎこんではいないかと心配に思って研究所に帰還すれば、果たしてルシファーの補佐はサンダルフォンであっただろうかと思うほどに、言葉少ないルシファーから、読み取り的確にこたえている。
 これはどうしたことだろうかと、本来の補佐官であるベリアルに視線を向けた。
 ベリアルは可笑しそうにルシフェルに言う。
「つうと言えばってやつじゃない?」
「彼らはそこまで親しかっただろうか」
「まあ俺らが知らない二人だけの時間を過ごしてるからね」
 本当はまっさらな関係であることを知りながら揶揄って言ってみれば、天司長はといえば難しい顔をして腕を組んでじっとサンダルフォンとルシファーを見ている。その顔は不機嫌なルシファーと瓜二つであった。サンダルフォンは「ルシフェル様も、珈琲を飲まれますか?」なんてのん気に声を掛けるので、ルシフェルは難しい顔のまま首肯していた。
「ベリアルは?」
「俺はもう出なきゃだから」
 件の研究主任が所属していた派閥は、反ルシファー派であり、突けば面白い程にボロが出る。もうちょっと泳がせたら大物が釣れるだろうと、サンダルフォンが万全にルシファーを護衛していることもあり、ベリアルは思う存分に姦計を巡らせている。
「じゃあサンディ、後はよろしく」
「任せろ」
 頼もしい限りだとベリアルは笑って所長室を出た。
 つい先日まで重苦しいのが当たり前だった。それは別に嫌いではなかった。今の所長室はといえば、和気藹々とした雰囲気である。部屋を出る時ちょっとだけ淋しい、なんて思ってしまった。こんなはずじゃなかったんだがなぁとベリアルは頭を掻いて、早く終わらせて戻ってこようと回廊を足早に歩いた。
 珈琲を淹れていたサンダルフォンは突き刺さすような視線を感じて、困ってしまう。ちらりと見れば、ルシフェルがじっとこちらを見ている。何か、仕出かしただろうかと考えるも、思い当たる節が多すぎる。
 ルシフェルはサンダルフォンの後ろ姿を見ながら、書類に決裁印を押しているルシファーに声を掛ける。
「友よ、サンダルフォンには私が見立てた服があったはずだが」
「お前が用意したものは男物だろう。今のアレは女だ」
 白い軍服のようなデザインはベリアルと似ていた。違いがあるとすれば、ひざ丈の白のタイトスカートである。スカートから覗く脚は、黒いタイツと赤いハイヒールに包まれていた。女性体ならばとルシファーが適当に選んだレオタードを隠すようにもそもそとローブを着こむサンダルフォンのために、ベリアルが善意と趣味で用意をした一点物だった。肌の露出を恥じて、レオタードでないならばと身に着けたは良いが、可笑しくは無いかと不安がるサンダルフォンに、ルシファーは何も言わなかったものの、内心では悪くは無いなと思った。
「お待たせしました……ルシフェル様?」
「いや、なんでもないよ。ありがとう、サンダルフォン」
 どうかしたのだろうかと不思議に思いながらも、ルシフェルは何も言わないからサンダルフォンも追及しない。それから、どうぞ、とルシファーの机に珈琲を置くと、決済印を押し終えた書類をまとめる。
 サンダルフォンは生き生きとしていた。
 女性体に変えられた、とはいえ能力に変化はない。当初に比べれば柔軟に受け入れることが出来ている。何より、出まかせでも役割が与えられ、そして役立てることが嬉しい。感謝をされることはない。ルシファーに対して求めていない。それでも、無為に時間を過ごすだけの日々に比べれば雲泥の差であった。
 そんなサンダルフォンの様子をルシフェルは眩しく見つめ、喜ばしい事だと、嬉しい事だと思うと同時に、寂寥感を抱いた。
 珈琲を口にする。ほろ苦く感じた。
「サンダルフォン、友との関係で問題は……困っていることはないか?」
 本人を前にしてよく言うなとルシファーは思った。サンダルフォンはまたその質問か、と同時にこの人、神経図太いなって不敬を承知で思ってしまった。
「そう、ですね……食事をしっかりと摂ってほしいです」
「とってるだろう」
「ビタミン剤でしょう?」
 それは食事とは言いません、とサンダルフォンがきっぱりと言い切る。ルシファーが不快な様子を見せても、怯みもしない。竦みもしない。
──天司が食事を説くな。天司でも食事はします、それに今飲んでる珈琲だって天司がいれたものですからね。お前たちに栄養は不用だろうが。星の民には必要でしょう。俺の体だぞ俺の勝手だ。ルシファー様おひとりの体ではありません。
 遠慮の欠片もなく言い合う二人に、ルシフェルは目を丸くする。
「俺は嫁として、ルシファー様を守るのが役割ですが流石に内臓疾患からは守れませんからね」
「……友を守るのは護衛の役割であって嫁の役割ではないだろう」
 思わず、割って入ったルシフェルの言葉にサンダルフォンは目をぱちぱちとさせた。
「…………ならば嫁の役割って……?」
 サンダルフォンは呆然自失というように呟いた。はあとルシファーはため息を零す。やっと、勘違いが続いていたことに気付いた。嫁の役割ならばとうに全うしているだろうにとルシファーは思いながらも態々口にはせずに、項垂れるサンダルフォンを見つめる。呆れながら向ける視線は、優しい。
──どうやら、自分の心配はいらないようだ。
 ルシフェルは、これが嫁に出す気持ちというものかとしみじみと淋しさを感じながら、珈琲を啜った。

おまけ(健全)


おまけ(やや不健全)


Title:馬鹿の生まれ変わり
2020/10/31
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