ピリオド

  • since 12/06/19
「あなたって、ゲイなの?」
 ルシフェルは口に含んでいた珈琲をふき出しそうになり、慌ててのみこんだ。しかし、その所為で気管支に入ってしまい、むせ返るってしまう。ごほごほと、慌てふためく姿に、目の前の恋人は長い睫毛を伏せ、そう……と1人合点がいったように、やっぱりねというように深く、頷いている。丁寧に巻かれたブルネットがゆるりと波打った。
 ルシフェルは彼女に、ゲイではない、なぜそのように思ったのかと問い質したい、なのに、むせ返ってそれどころではない。
「……別に誰にも言わないけど、私たち……別れましょう」
 ごちそうさま。そういって彼女は財布から紙幣を取り出してテーブルに置いた。待ってくれと、視線で追いかけるも、彼女はかつりとヒールを響かせて喫茶店を後にしてしまった。ルシフェルは眉間にしわを寄せ、汗をかいて表面が濡れたガラスコップの水をぐびっと飲み干した。冷たく、喉が冷えていく。
 ちらちらと寄せられる視線が痛い。ルシフェルは立ち上がると会計を済ませる。ひくりと頬をひきつらせた若い店員にも、彼女の声は聞こえていたらしい。
 来週公開される映画が面白そうだという彼女に、言外に誘われているのだろうと、来週の予定を伝えただけだった。休みはある。しかし、その日には先約があったのだ。悪いが予定があると伝えれば彼女は目を細めた。
「それって、一緒に暮らしている?」
「ああ、会ったことがあるだろう?」
「……彼と、約束?」
「ああ、生活品の買い出しだ」
 ふうん、と言って彼女は冒頭の言葉を発したのだ。なぜ、そのように思われたのか、ルシフェルにはまったく以て、女性の思考回路が理解できない。
「先輩……? あれ、お帰り、なさい?」
「うん……。ただいま、サンダルフォン」
 帰宅をしたルシフェルの姿に、サンダルフォンは目をぱちぱちとさせる。デートだというから、夜は遅くなるのだろうと思っていた。それどころか、帰ってこないのだろうと思っていたのだ。ルシフェルの恋人はサンダルフォンも知っている。数回、顔を会わせたことがある。知的な美人だ。ルシフェルの恋人に会う回数は数えていないが、歴代彼女の中でもお似合いだなあとサンダルフォンは思ったのだ。これはもしかしたらなんて思って、ちょっとだけ物件情報をチェックしていた。
 夕飯はいらないと言っていたのに、なにかあったのだろうかと考えて、
「あ……」
 ルシフェルの様子にサンダルフォンは気付いたように、ついうっかり声を漏らしてしまったみたいに、困ったような苦笑を浮かべる。ルシフェルも同じく、苦笑を浮かべる。サンダルフォンはちょっと気遣うように声を掛けた。
「ご飯はどうしますか? 簡単なものなら出来ますけど」
「お願いしても良いだろうか」
「わかりました、その間にお風呂入っちゃってください」
「わかった」
 サンダルフォンは飲んでいた珈琲の入ったカップを置いて、キッチンへと入っていく。その姿を見てから、ルシフェルは浴室に向かい、脱いだ服を洗濯ネットにいれる。洗濯機の中には同じく洗濯ネットがいくつか入っていた。
「サンダルフォン、洗濯機を回さなくてもいいのか?」
 キッチンに向かって声を掛ける。
「明日の朝にまわすので!」
 ならば、このままで良いかとルシフェルは洗濯ネットを放り込んだ。
 シャワーを浴びて、それからまだ温かい浴槽につかる。ひとりで暮らしていた時にはシャワーだけで満足であった。元々湯舟につかるという習慣のない家だった。それどころか浴槽に湯を張ること自体なかったと記憶している。今では、シャワーだけでは物足りない。
(疲れたな……)
 溜息を吐き出した。浴室に小さく反響する。
 家に帰るまでに、彼女と電話をした。彼女はひどく冷静に、ルシフェルの弁解を聞いたものの、最終的にはやはり、別れるということになった。ゲイ疑惑を晴らしたいというルシフェルの弁解の言葉に納得をしたかは電話越しでは分からないでいる。ルシフェルには、なんとなくであるが、納得は出来ていないように思えた。
 正直にサンダルフォンとの予定がある、と言わなければ良かったのだろうかと考えるのだが、疚しい事はなにもないのだ。隠す必要性はない。寧ろ隠せばそれこそ彼女が不信感を抱く原因になる。結局、詰み状態ではないか。
 しばらくすると、じんわりとした温かさが、熱いくらいに感じて、風呂を出た。ぽたぽたとしたたる水滴をタオルが吸収していく。着慣れたルームウェアでリビングを覗くルシフェルにサンダルフォンが声を掛けた。
「あ、丁度出来たところですよ」
「ありがとう。……いただきます」
「はい、どうぞ」
 テーブルを挟んで、食事をするルシフェルの前に座ったサンダルフォンは、珈琲を飲みながら報道番組を見ている。食事をしながら、ルシフェルもちらりと番組を見る。スポーツの報道から、天気予報へと切り替わっていた。天気予報士によると、明日の夜から、明後日の朝にかけて雨が降るらしい。
「朝のうちに洗濯をしないとなぁ」
 サンダルフォンがぼんやりと呟いた。
 報道番組が終わりコマーシャルが流れる。
 最近、見かけることの多い女性タレントがにこやかな顔でウエディングドレスを着ている。有名な結婚情報誌のコマーシャルだった。
(結婚、か)
 ルシフェルの身の回りにも多くなっている。年齢的にもそういう時期なのだろう。御目出度いことだと思いながらも、御祝儀を包みながら何とも言えない気持ちになる。実家に帰るたびに恋人はいないのかと言われて別れたと言えば紹介をされるものの、結局続きはしない。いずれ、結婚はするのだろうと考えているが、現時点で、ルシフェルの結婚願望は強くはない。恋人が願うならばと思っているが、その恋人に散々に疑われて、そこまでたどり着けないでいる。
「……私はそんなに、ゲイに見えるのか? 君からみて、どう思う?」
 唐突に切り出したルシフェルに、サンダルフォンは飲んでいた珈琲を慌てて飲み込み、ごほりと咽た。気管支に珈琲が入った。げほげほと背中を丸めて咽るサンダルフォンの姿に、ルシフェルは自分を見ている気分になった。
「な、なんでそれを俺に言うんですか!? 嫌味ですか!?」
 サンダルフォンもまた、つい先日、恋人にゲイなんでしょう? と言われなき嫌疑をかけられた挙げ句に、弁解の余地も与えられず、別れたばかりであった。
 ぽかんとするサンダルフォンに向かって、あのルシフェルって人と出来てるのはわかっているから、と言った彼女とは、その後、連絡も取れないでいる。せめてゲイ疑惑を晴らしたいというのに、手段がなくなっていた。そもそも出来てないというのに、分かっているとは何をわかっているというのか。
 彼女とルシフェルは面識がある、サンダルフォンが紹介をした。良さそうな彼女じゃないかというルシフェルにサンダルフォンは満更でもない気持ちになって笑ったのだ。それがたった数か月で別れることになってしまった。
「いや……そういうつもりはないのだが……そんなに男同士のルームシェアというのはおかしなことなのだろうか……」
「まぁたその偏見ですか!!」
 サンダルフォンはうんざりと声を荒げた。
 この10年──ルームシェアを始めて以来、ルシフェルとサンダルフォンは、恋人が出来るたびにゲイ疑惑を掛けられて一方的に別れを告げられ、破局していた。ルシフェルもサンダルフォンもゲイではない。同性に対して、それは勿論、お互いを含むことなのだが、欲情をすることはない。だというのに、恋人からはゲイと勘違いをされる。
 自分は、本当は、もしかしたら……と思ったのは一度や二度ではない。しかし、その度に矢張り自分は異性愛者だと確信をする。
 ルシフェルとサンダルフォンは大学で知り合って以来の付き合いだ。サークルを通じて、珈琲という趣味を同じとして以来、10年近くの付き合いになる。
 家が裕福なルシフェルは進学の際に学校の近くにマンションの一室を、下宿先として用意されていた。ファミリータイプの、学生が下宿として利用するには持て余していた部屋に、通学時間片道4時間のサンダルフォンはルシフェルの好意により、時折、泊まることがあった。講義が早朝にある日や、夜が遅くなって終電を逃したときなどである。
 サンダルフォンは申し訳ない気持ちで、ならばと泊まる間には家事の一切を引き受けていた。
 元々はサンダルフォンも大学近くに下宿をする予定だったのだ。しかし、大学近くの下宿先の家賃や生活費を考えると実家から通った方がむしろ安いくらいになってしまったものだから、サンダルフォンは自宅通学を選んだに過ぎない。朝は早く、夜は遅い生活をしているものだから、自分のことは一通りできるし、家事は嫌いではなかった。それにちょっとは御礼になったかな、という程度に思っていたのだ。
 そんな風に時折、泊まることが増えていた。
「よかったら一緒に暮らさないか?」
 持ち掛けたのはルシフェルだった。サンダルフォンのことを、家事手伝いのように思って、声を掛けたのではない。見返りを求めて泊まっていくようにと招いたことは一度もなかった。
 ただ、サンダルフォンとの暮らしは快適だったのだ。それは、サンダルフォンもだった。先輩と後輩、という関係上、泊まらせてもらっているということがあっても、遠慮はあったが、ルシフェルとの暮らしはサンダルフォンも苦に感じたことは無い。それに矢張り、片道4時間は、徒歩十分を経験していると辛く感じる。
「迷惑じゃありませんか?」
「とんでもない、部屋は余っているしね」
 ルシフェルの誘いに、サンダルフォンはよろしくお願いますと、それから同居生活を始めたのだ。家賃に関して、申し訳なく思い半分は払うといってもルシフェルが気にすることはないよという。だけどと食い下がれば元々所有している物件だからとそもそも発生しないのだと打ち明けた。ぎょっとするサンダルフォンにルシフェルはどうかしたのかと首を傾げた。
 ならばせめてと家事をすると言っても、君と私は同じ立場なのだからと結局半々になった。
 共同生活なのだからねと言われてしまえば、サンダルフォンは甘えるしかない。生活費を折半するくらいの支出は、通学定期よりも安いくらいだったから、サンダルフォンの貯金はたまった。先輩であるルシフェルは、当然、サンダルフォンよりも早くに卒業をする。それまでに貯めて、独り立ちをしないとなと計画をしていた。
「内定をもらったよ」
 夕飯をつついていると、ルシフェルがなんてことないように云うからサンダルフォンもそうですかと、一瞬流してしまってから、うん、内定? と反芻して、慌てた。
「おめでとうございます! え、言ってくれたらお祝いのご飯を用意したのに」
 食卓には普段と変わらない食事が並ぶ。手を抜いたわけではないが、目出度さはない。好物のひとつでも、と思ったがルシフェルは好き嫌いはなく、なんでもぺろりと食べる。しいて言えば珈琲くらいだろうか。自分のことのように喜ぶサンダルフォンの姿にルシフェルは微笑を浮かべる。
「ありがとう、でも、内定をもらっただけだ。これからが、いよいよといったところだ」
「…………」
 サンダルフォンは少しだけ、恥ずかしくなった。就職がゴールだと、思い込んでいる自分に対して、ルシフェルは就職した後のことも考えている。自分が幼稚に思えた。
 それから、将来を考えるようになった。
 安定を求めるのではなく、自分が本当にしたいことを考えるようになった。
 綺麗ごとだと、自覚はしている。なんのために勉強をしていたのかと、自分自身が批難している。有名な学校で、良い成績を収めて、一流の企業に入社する。両親は安心するだろう。けれど、自分は──。
「サンダルフォン?」
「あ、いえ……。でも御目出度いことですから、明日は、先輩の好きなものを用意させてください。何が食べたいですか?」
 サンダルフォンの様子にルシフェルは怪訝に思ったものの、そうだなと考える。サンダルフォンの料理はなんでも舌に合った。迷ってしまった。
 ルシフェルの内定が決まって、いよいよ同居生活も解消になる。今すぐに、ということはないにしろ時間は残されていない。それに、サンダルフォンは将来のことを、卒業後のことを考えて、悩んでいた。このままで良いのか、という疑問を抱いてしまった。
 ひとつだけ、なりたいものがある。
 子どもの頃の夢だった。作文に書いて、発表をすればパチパチと拍手をされるような、そんな頃の夢だ。
 喫茶店を開きたい。
 子どもが言えば微笑ましいことだ。今の自分がいえば、世間知らずと言われるだろうか。だけど、沸々と子どもの時のような気持ちがわきあがる。そんな子どもの我ままを冷静な今の自分が諫めている。なんのために大学に入った? なんのために、今まで頑張ってきたんだ? いい大学を出て、良い企業に就職をする。不満があるのか。不満はない、だけど、満たされない。先輩に憧れ過ぎて自己評価を忘れているのか。先輩は特別なんだ、お前はそうじゃない。喫茶店なんて、開けるわけがない。それでも、だけど。
 サンダルフォンはため息を零した。
 浴室に響く。
 ぽちゃりと、蛇口からの水滴が波紋を描く。広い浴槽にサンダルフォンは湯水を張る。シャワーだけで済ませるというルシフェルに驚いたものだったが、今ではルシフェルも湯舟につかる。それに入浴剤を買ってくることもある。
 就職活動が始まる。まだ、悩んでいる。このまま、描いた未来予想図の通りに進めばいい。それに、喫茶店が開きたいなら、また、老後にでも開いたらいいじゃないか。言い聞かせる。なのに、そんなの嫌だと聞き分けの悪い子どもがまだ叫んでいる。
 また就職活動とは別に、引っ越しもしなければと考える。思えば共同生活で一度も喧嘩をすることはなかった。ルシフェルとサンダルフォンは相性が良いのだ。それこそ、家族以上に良い。長期休暇に実家に帰省する度に、お互いに気疲れをする。慣れ親しんだ家であるにも関わらず、窮屈に感じる。それが、今暮らしている家に戻ると解放されたみたいな気持ちになる。距離感が心地よかった。
 名残惜しい気持ちと、これからどうしようと不安がいっぱいになって、つい、溜息をこぼした。
 風呂から上がるとまだルシフェルは帰宅していなかった。
 サンダルフォンはタオルで頭をふきながら、住宅情報誌と、アルバイト情報誌を鞄から取り出す。くまなく確認をして、条件が合いそうな物件にはチェックをつけていく。家賃や通学距離。アルバイトは時間帯と自給、それから仕事内容。ふと、サンダルフォンの手が止まる。
 喫茶店の店員募集だった。自給は最低賃金。大学からは遠い。といっても今の環境からの話だった。引越しを考えれば、だけど通学時間がとうんうんと考えているうちに、サンダルフォンはその喫茶店にチェックを入れていた。
 ガチャリという音にサンダルフォンは情報誌を置いた。
「おかえりなさい、先輩」
「ただいま」
 スーツを着たルシフェルは、同性のサンダルフォンから見てもモデルのようだった。似合っている。格好いい、羨ましいなあと思う。サンダルフォンはどうにも、スーツというものが似合わない。着せられていると、自分でも感じてしまう。
「引っ越しか……」
「まあ、そうですね」
 それきり無言になってしまう。
 ルシフェルもまた、引っ越しをと考えていたとはいえ、サンダルフォンが持つ情報誌に淋しさを覚える。3年弱になる同居生活だった。他人に対してパーソナルスペースが広いと自負しているルシフェルにとって、サンダルフォンは特別だった。家族以上の、親しみすら抱いている。しかし、社会人になるルシフェルは、生活環境もがらりと変わるのだ。
 ここが、はなれ際だった。
 きまずい沈黙の中で、ふとルシフェルはサンダルフォンが開いていたもう一つの情報誌が目に入る。
「アルバイトも?」
「はい……。今のバイト先がちょっと……」
 濁した言い方をする。
 現在のアルバイトの仕事内容に不満はない。給料も中々に良い。しかし、人間関係に疲れた。正直なところを言えば巻き込まれている。サンダルフォンとしては全く興味が無いのだが、新しく入った女性スタッフにやたらと構われ、そしてそのスタッフに懸想している男性社員からのあたりが厳しい。
 どうして黙々と仕事が出来ないのか、仕事だけを真面目にしないのかとサンダルフォンは頭が痛くなる。それに見て見ぬふりをしている周囲の人間に対しても失望してしまった。そこそこに、仲が良いと思っていたのだが、裏切られたみたいに感じてしまった。
 非のない自分が辞めることは大変に不快だが、この機会だからと辞めることを決めている。この日に辞めますと、伝えているから、サンダルフォンはとくに、次のアルバイト探しには躍起になっていた。
 サンダルフォンに断りを入れてぱらりとページをめくる。ルシフェルは初めて目にする求人情報誌を興味深く見ていた。チェックをしている傾向から、接客よりも裏方の業務を探しているらしいなかで、一際目立っていた。
「喫茶店?」
「あ、」
 しまったというように声が上がる。
「喫茶店か……いいんじゃないか? 君は細かなことに気が付くし、料理も得意だろう」
「得意っていうわけじゃないですけど……それに、接客なんてやったことないですし」
「皆、初めはそういうものだ」
 ああ、そうだな──とサンダルフォンは思った。初めてなのだから、やるだけやけやってみようか。考えて、次の日に、サンダルフォンは緊張をしながら電話をいれていた。しわがれた声に心臓が痛いくらいにはねた。
──求人情報誌を見てお電話しました。
 少し驚いた声で返事がかえってくる。面接日を取り決めて、それから履歴書を用意した。証明写真の自分は口角だけがあがって、睨みつけるように見つめてくる。悪い顔をしているなと、我ながら思う。
 電車で5駅の距離にある。駅近くの小さな喫茶店で、働くことになった。夫婦経営の小さな店だ。サンダルフォンが面接のために訪れた時間帯には常連客が数人、居座っていた。興味深そうに探られるような視線を感じた。
 オフィスビルが立ち並ぶ地域で交通の便は悪くない。ひとまずは、新たなアルバイト先が決まったことにほっとした。あとは、家を、どうするかと考える。通学時間は、今に比べると掛かるだろうが、それでも実家から通うよりは断然に短い。
 アルバイトが決まったことを報告すれば、ルシフェルはそうかと喜んでから、なにか、考え込んしまう。
「どうかしたんですか?」
 何か言いたげなルシフェルにサンダルフォンは問いかける。
「勤務地が決まったんだ。…………その、決して、都合を合わせようという魂胆ではないのだが……」
 珍しく、歯切れ悪く、言いよどむルシフェルにサンダルフォンは小首を傾げる。同居生活が終わることは悲しいことだが、いずれは……と考えていた。仕方のないことだ。しかし何を言おうとしているのか、分からないでいる。
 ルシフェルも、人事担当に入社後の勤務地を伝えられるまで想像すらしていなかった。だから、まあという具合である。
 きょとりと、サンダルフォンはルシフェルを見詰めた。
 ルシフェルの勤務地は、サンダルフォンがアルバイトとして働く予定の喫茶店から、目と鼻の先にある、オフィスビルだった。ぎょっとした。ああだから他意はないと、あんなにも言っていたのかと思い至る。
 現在住んでいるマンションから通えない距離ではない。
 なんせ5駅程度だ。
「このまま、暮らさないか?」
 断る理由は無い。新しいアルバイトが決まったとはいえ、収入は減る。かといって、引っ越しやら生活で支出はある。卒業まで、ぎりぎりといったところに、願ったり、である。サンダルフォンが良いのですかと確認をすれば、君さえよければとルシフェルは言った。それから、ルシフェルが無事に卒業をしても変わらない暮らしであった。それどころか、サンダルフォンのアルバイト先にルシフェルが寄ることもあったくらいだ。
 働く姿を見られることに気恥ずかしさを覚えながらも、珈琲を趣味とするルシフェルのことを、店主も気に入ったようだった。サンダルフォンは時折、店で珈琲を入れさせてもらった。お金をもらう代物じゃない、といっても店主から業務のうちだ、覚えろと言われた。自分が淹れた珈琲を提供する。客から、美味しかったよと言われてサンダルフォンの胸の中で、温かなものが注がれ、芽吹いていった。
 学ぶことの多い職場だった。初めての接客業はどちらかといえば、精神的疲労が濃く失敗もあった。けれど、遣り甲斐はあった。自分の店を持ちたいと、おもうようになって、それを店主にぽつりと零した。
 卒業後、サンダルフォンは、アルバイト先の店主の知り合いの店に弟子入りをした。結局、喫茶店を開くという夢を選んだ。バリスタの退会に出場したこともある経験豊富なマスターのもとで、しごかれる日々を送っている。趣味で淹れていたという珈琲は鼻で嗤われ、口惜しさと羞恥を覚えた。しかし、師匠となった男の淹れた珈琲を飲んで、笑われて当然だと思った。同じ珈琲豆で淹れたのに、まるで違う。尊敬すべき、憧れであり、いつか超えたいと、美味しいと唸らせてやろうと内心で抱いている。
 マスターから学んだ技術で淹れられた珈琲は、今までとはまるで違う。サンダルフォンの淹れた珈琲を長年飲んでいるルシフェルは、彼の成長が自分のことのように嬉しく思うのだ。
「さすが、プロだな」
「俺なんてまだまだですよ」
「いや……君に飲ませるには、私の淹れた珈琲は、恥ずかしいものだ」
「そんなことはありません! 先輩の淹れる珈琲は落ち着く味で、俺は一番好きです!」
「……そう、か」
「はい!! それに、珈琲の味は勿論大切ですけれど、誰と飲むか、というのが大事なんですから。……マスターからの、受け売りですけどね?」
 そういってサンダルフォンは笑って珈琲を飲んだ。雑味のないすっきりとした味わいである。深みは、薄い。まだまだ、勉強が足りないなと思ってしまう。
 ルシフェルも、カップを手に取り珈琲を口にした。
「うん、美味しい」
 幸せな悩みというもので、インスタントコーヒーでは物足りなくなってしまったルシフェルは、毎朝、タンブラーに珈琲を用意してもらっている。美味しい珈琲を口にすれば、脳が冴えわたる気がして仕事が捗る。
 結局10年近く、一緒に暮らしている。
 離れるタイミングはあったのだが、なんだかんだと、お互いの距離感の居心地がよく、実の家族以上に、互いに対して遠慮はなくなっていた。
 ルシフェルが本社務めになって、引っ越しをせざるをえなくなった時が、潮時だったのだろう。互いに、ひとり暮らしをする機会だった。なのに、結局家賃の7割をルシフェルが負担するという形で、ルシフェルに合わせた立地条件の部屋を借りてルームシェアが続いている。
 元々収入の格差はあった。大手企業に勤めるルシフェルに対して、サンダルフォンはしがない喫茶店員だ。ルシフェルの選んだマンションの部屋は半分の家賃でも、サンダルフォンは厳しいと思ってしまう。しかし、殆ど養われている形になるのが不満で、ならばとサンダルフォンは自ら家事を勝って出た。
 繰り返すほどに怪しく感じられるが、互いに特別な感情は持ち合わせていない。強いて言うならば親愛や、家族愛に近い。あるいは、兄弟愛。友人、と位置するには近すぎる関係だった。友人という言葉だけでは片づけられない結びつきがある。
 互いに恋人が出来たときにはおめでとうと心から喜びあえる。真っ先に互いに紹介する。家に恋人を招くこともあるだろうからと、ルームシェアをする上でのマナーだった。恋人が宿泊するとなったときにはゲストルームを案内していた。暮らしているうえで、流石に、きまずさを覚える。男女の行為に対して不埒だとか言うことは無い。しかし、いい年をしているとはいえ、と不文律のルールとなっていた。
 ごちそうさまでしたと食べ終えたルシフェル。テレビはバラエティ番組に切り替わっていた。食器をさげようとしたルシフェルにやりますよと、サンダルフォンは声を掛ける。
「食後の珈琲を淹れましょうか?」
「ああ。一杯だけ……ブランデーを入れたものを作ってくれないか」
「……そうですね、今日は飲んじゃいましょうか。付き合いますよ」
「うん。ありがとう、サンダルフォン」
 微笑を浮かべるルシフェルは、やはり、ルームシェアをしていてよかったと、サンダルフォンと暮らしていてよかったと心底思うのだ。もっとも、飲みたい気分になってしまう恋人との別れはサンダルフォンとの関係を邪推されたものであるのだが。
 どうぞと渡されたカップを手に取った。
 明日は早起きしないとなので1杯だけですけどねとサンダルフォンは悪戯っぽく笑って、ルシフェルもそうだったなと笑う。明日は朝のうちに、洗濯をしなければならないのだった。
 珈琲の香ばしい匂いのなかに、くらりとアルコールを感じた。

2020/10/25
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -