ピリオド

  • since 12/06/19
 一目見た瞬間に感じ取ったのだ。電流が流れた、といっても良い。ピン、ときた。相手も感じ取ったのだろう。サンダルフォンを視界に入れて、きっと、サンダルフォンも同じ表情を浮かべて、そして相手も同じことを思った。
──あ、無理。
 サンダルフォンが5つのときだ。相手は8つである。
 互いに、不愉快な言葉を口にした訳でもなければ、礼儀しらずな振る舞いをした訳でもない。大人しくちょこんとそこにいただけだ。ただ、存在そのものが生理的に受け付けないでいた。ざわざわと気が立つ感覚は不愉快で、気分が悪くなる。互いに幼く、幼いが故に隠し切れない。
 そんな子どもを、互いの両親はどう思ったのか、きっとろくでもない勘違いをしたのだろうけれど、素直じゃないなんて言ってうちの息子をよろしく娘をよろしくなんて、とんとん拍子に婚約関係が築かれた。
「運命的だろ?」
 サンダルフォンは婚約者との出会いをしつこく強請ってくる友人に、にやりと笑って言った。友人はといえば、顔を引きつらせて、ごめんと肩を落としている。そんな様子にサンダルフォンはだから言ったのにと、呆れながら注文をした期間限定のフレーバーティーを啜った。
 独身生活の最後にと、友人とのショッピングの途中に立ち寄ったのはチェーン展開するコーヒーショップだった。平日の昼とだけあって人は少ない。普段は美味しくないと思いながら飲んでいるが、最後だからと、これからは簡単には来れないだろうからと味わう。
「サンダルフォンはいいの?」
「いいもなにも、昔から決まっていたことだ。それにもう明後日のことを今更過ぎる」
 明後日に迫った結婚式は身内だけのものだ。その後に、知り合いを招いたパーティーがある。サンダルフォンは夫となったあの男の横で淑女らしい笑みをうかべながらにこやかに来客対応をするのだ。それを考えると憂鬱な気分になる。
 しかし、サンダルフォンはプライドが人一倍に高くできないだとか言えば相手に貸しを作ったみたいになる。そんなの許せない。
「なにより、逃げたら負けたみたいで口惜しいじゃないか」
「そんな理由で……」
 友人に呆れられながらも、サンダルフォンの考えは変わらない。
 ずずずと行儀悪くストローを啜る。
 結婚に、恋だとか、愛だとかを期待するような少女らしさを持ち合わせてはいない。恋心なんてものは、子どもの時から一度も抱いたことがなかった。好きになるってどういうことなのか、流行りの少女漫画を読んでも分からないし、イケメンだと評判のアイドルを見てもなんとも思わない。自分にはきっと恋というものを理解できないのだろう。そもそもサンダルフォンにとって結婚とは家同士の繋がりを確固たるものにする契約であり、手段でしかない。そこに愛も恋も期待していない。
 産まれた家の所為で、なんて思うことはない。サンダルフォンは家族が好きだし、家のためになるなら喜んで結婚をするつもりであるのだ。
 それくらいに割り切れている。
 相手も、同じだ。
 晴れ晴れとした、良い式日和。暑すぎず、寒すぎず。進行をする司会者の本日は御日柄もよく、という言葉がよく似合う日だった。
 結婚に乗り気でないサンダルフォンと、どうでもいいという態度の婚約者に痺れを切らしたみたいに、ドレスを指定したのは兄だった。何十着と試着をしたのか覚えていない。既成でいいのにと言っても、結局、兄が手掛けたデザインになっている。華美な装飾のないシンプルなデザインだ。サンダルフォンのために誂えられた、ドレス。
 似合ってるよと両親や、向こうの親族からも言われてサンダルフォンは少しだけ、嬉しくなった。
 別段にサンダルフォンは向こうの親族が嫌いなわけでもなく、恨んでいるわけでもない。おじ様おば様と呼び、サンダルフォンなりに、彼らを慕っている。彼らの子どもは、男三兄弟で娘がいないからと、幼いときからサンダルフォンのことを可愛がってくれていた。三兄弟とは顔見知りだ。そっくりな兄弟だというのに、ただ、どうしてかその子どもの中でも、彼だけが気に食わず、受け入れられないでいるのだ。申し訳ないと思う気持ちはあった。自分でも不思議なのだがきっと、生理的に本能的に受け付けないのだと諦めている。
 なんせ18年という人生の半分以上、どうしたって拭えずに植え付けられたままの感情だ。
 もう一人の主役である男からは何も言われない。どころか、式が始まっても視線は合わない。
 サンダルフォンはその反応にむっとしてそっちがその心算ならばと、頑なになる。
 どうして自分が折れなきゃならないのか。
 そもそも銀髪でただでさえチカチカとするのに白いタキシードなんて目に痛いったらない。サンダルフォンは男を視界に入れないようにして、粛々と式が早く終わることを願っていた。
 祝福を向ける一族に囲まれながら、晴れて正式に夫婦となった男女の心はひどく冷え切り、顔は強張っている。
 気に食わない。
 一緒にいたくない。
 式の間、一度とて視線が合うことは無かった。
「外で男を作っても構わないが、面倒ごとは起こさないでくれ」

 サンダルフォンをちらりと見ることもなく、夫となった男は言い放った。
 式が終わり、それぞれ帰ろうとしたというのに何を言ってるのと、お節介にも両親がとったホテルの一室に投げ込まれた新婚夫婦の空気はとても爽やかなものではない。離婚寸前のギスギスとした雰囲気である。
 結婚おめでとう、なんていうメッセージカードが余計に寒々しい。
「あなたも、お好きにどうぞ。言ってくださったら、離婚だって喜んで致します」
 むっとしながらも、隠して、嫌味たっぷりの笑みを浮かべて言えば相手は不愉快そうに眉を寄せたから気分が良くなる。夫となった男は、自分で別室を取ったらしい。サンダルフォンは新婚なのだからと妙に気を利かせたみたいなダブルベッドを独り占めて快適な眠りについた。
 目が覚めても、結婚をしたという実感が湧くことは無かった。
 朝早くには、夫となった男は既にホテルを出たらしい。確認をするつもりもないサンダルフォンに善意なのだろう、ホテルのスタッフに告げられた。お連れ様は先に出られましたよ、なんて。サンダルフォンはありがとうとにこやかに対応をしたものの興味はない。
 サンダルフォンはホテルの朝食会場でのんびりと、朝食を食べながら、ご苦労なこととどうでもよく、それよりも焼きたてのクロワッサンのふわふわとした食感に感動を覚えた。



 眠ることが好きだった。不安なときでも、朝起きれば、なんでもないように思えた。眠れば、幸せな気持ちで満たされたのだ。
──サンダルフォン、
 呼びかけられて、顔をあげる。
 心がそわそわと弾み、浮き上がった。
 肉体を維持するためにぼんやりと過ごしていた中で、心が死んでいくような日々の中で、その人に名前を呼ばれるだけで、サンダルフォンとして生きることが出来た。サンダルフォンとして、生きることを許された。
 サンダルフォンにとって、唯一無二の、永遠の存在。
「……ルシフェル様、」
 呼びかけた声は、掠れていた。
 目が覚める。
 ああ、そういえばここはもう生まれ育った家でもなければ、「研究所」でもない。嫁いで随分経つのに、いつまでたっても余所余所しい天井を見上げて、体を起こして、ぼんやりと、してしまう。
(久々に、ルシフェル様の夢をみたな)
 懐かしさに目を細める。色褪せることのない存在はサンダルフォンの胸に確かに、刻まれていた。感傷に浸りながらサンダルフォンは笑みをこぼす。それから、妙に、感覚が研ぎ澄まされていく。神経が高ぶっていく。
 自分はサンダルフォンだ。
 サンダルフォンとして、ルシフェル様に作られた。
 スペアとして、不用品として、災厄の邪神として、そして、安寧と慈しまれた。
 思い出す。今まで、何故忘れてしまっていたのだろうと不思議なほどに、するすると記憶が流れ込む。だから、ますます、サンダルフォンは混乱をして、動揺を隠せずに、たらりと冷や汗が米神を伝う。
「奥様、お加減が悪いのですか?」
 扉越しに気遣う声に、なんでもないと、どうにかこたえる。
 サイドテーブルの時計を見れば、いつも起きる時間よりも遅い時刻を示していた。
 まだぐるぐると脳内には記憶が流れ込み、混乱はあるものの、サンダルフォンは着替えて、それから部屋をでると普段と変わらぬ振る舞いで、用意をされた少し、遅くなった朝食を、独りでとった。
「……旦那様は」
 控えていた使用人に声を掛ける。
 少し驚いた素振りを見せたのは、仕方のないことだろう。
「出られましたよ」
「そう」
「何か御用事でもありましたか?」
「いや、なんでもないよ」
 ありがとう、と言ってから食べ進める朝食は今までと変わらない。ただ、サンダルフォンだけが変わってしまったのだ。
 眉間にしわが寄りそうになる。食事を続けて居なければ、無意味にため息をこぼしてしまいそうになる。
──旦那様。
 サンダルフォンが生理的に受け付けずに、以来13年間、嫌悪をし続けて、婚約破棄も出来ないまま結婚をした。名前を呼ぶこともない相手。相手からも呼ばれたことはない。
 白銀の髪に怜悧な青い瞳、端正な顔立ちであることは、嫌悪していた時から、サンダルフォンも認めている。そっくり同じ顔の兄弟が上に二人いるものの、家業は三男である彼が継いでいる。長兄は舞台俳優として、次兄は研究者として、それぞれの分野で活躍をしている。
 あの男と結婚をするくらいなら、長兄か次兄の方がマシだと息巻いて兄に愚痴ったのはサンダルフォンの消したい黒歴史だ。とんでもないことを口にしていた。記憶がないとはおそろしいことだ。
 朝食を食べ終えるとサンダルフォンは自室に籠ることが日課になっていた。自室で、兄から頼まれた仕事をしたりだとか、招待状のチェックだとかをして、暇になれば時間が許す限り読書をして、退屈を紛らわせていた。
 独りになって、時間をもてあませばあますほど、サンダルフォンは死にたくなるほどの後悔に襲われる。
「どうしよう」
 どうしようもないというのに、つい、言葉にしては、それがさらにサンダルフォンを不安に駆り立てる。
 青ざめる。
 血の気が失せていくのがわかってしまう。
「ルシフェル様に、なんて、不敬なことを……」
 記憶がないから、なんて言い訳だ。寧ろ、どうしてあんなにも大事にしていた記憶を手放してしまったのか。大切にしていた想いを忘れ去ってしまっていたのか。どうして自分は後悔してばかりなのかと唇を噛む。
 だけど、もう、手遅れだ。
「そもそも、嫌われてる、か」
 諦めて、笑うしかない。
 思い出すのは眉間にしわを寄せて不快さを隠し切れないでいる姿だ。視線も合わない。名前も呼ばれない。彼が、穏やかな姿を、サンダルフォンは13年間、見たことが無い。
 嫌い合っていたから、なんてことなく思っていた。そっちがその態度なら、こっちだってとサンダルフォンもつっけんどんに返していた。なのに、今や、彼は、ルシフェルだと確信している。
 記憶があれば、間違えることはない。
 なぜあんな態度をとってしまったのだろう。どうして、せめて隠しきれていれば、なんてことないように、振舞っていたら。もしかしたら、今から、やり直せたかもしれない。
 ありもしない、戻れやしない「たら」と「れば」を繰り返してサンダルフォンは途方に暮れた。
 後悔ばかりなのは今となっても変わらない。
 面と向かって言われたことはないにせよ、それでも勘違いでもなんでもなく、ただでさえ乗り気でない結婚で、どうして、好かれるというのだ。
 どうしたって、嫌われている。
 サンダルフォンを、絶望が殺しに来る。
 永遠の存在に、否定をされた。
 サンダルフォンの13年間は何もかもが裏目になっている。今更、貞淑な妻として付き従ったところで、怪訝に思われるのだろう。何より、サンダルフォンはきっと今更、ルシフェルから嫌悪を向けられることに、耐えることができない。
 慈しまれていた思い出を抱く今だからこそ、冷たい目で、見捨てられることがおそろしくてたまらない。
 結婚をして盛大なパーティーを開いてから、半年が経っている。
 ルシフェルは朝早く、夜遅くに出入りをする。それはサンダルフォンを避けるようであった。ぎゅっと、心臓が痛くなる。
 お互いに関わり合わない。結婚して早々に言われ、言い返した。
(他所に、女の人を囲ってるのかも)
 勝手に祝っている周囲に対して冷え切った関係であった。
 自分で口にしておきながら、今更な後悔に襲われる。何度目のことだと、サンダルフォンは自分に呆れる。盛大に言い返したくせに、いざとなると、心の整理がつかない。
 いっそそれでいいのかもしれない。自分はお飾りの妻。それで、役目を終えたならと考えて、滲んだ視界を乱暴に拭った。



 記憶が戻っても、行動を起こすことができないまま徒に日々が過ぎていく。
 どうにもこうにも、することがない。
 テーブルの上に、行儀が悪いと思いながらも頬杖を付く。
 仕事兼用の携帯端末の連絡ツールに並ぶのは兄と、それから友人だ。教育機関に通うようになって、初めて、サンダルフォンの家柄を抜きにして知り合った。お節介であちこちに首を突っ込む姿は、かつて空の世界においてサンダルフォンが身を寄せて最期を看取った団長によく似ている。もしかしたら、子孫なのかもしれない。
 久々に彼女と話したいなと思ったところで、今は昼だ。家事をしないので主婦と呼ぶのも烏滸がましいだろうが、自分は兎も角として、学生である彼女は授業の真っ最中だろう。
 時間を潰すかと読書を始めたもの、すべて読み終えている。繰り返し読んでいるから頭にも入ってしまった。
(珈琲の研究以外で何をして、過ごしていたっけ)
 肉体を維持し続ける日々の中で、退屈だとか、そんなことは思わなかった。
 サンダルフォンは手持無沙汰に取った本を、また、本棚に戻す。びっしりと隙間なく埋まっている本棚。その分だけ、時間をもてあまし、無為に消費をしているのだと、淋しい人間だと言われている気になる。
「書庫が御座いますよ」
「書庫?」
「ええ、行ってみてはいかがですか?」
 お茶の時間にと用意をされた紅茶を飲みながら、何かやることはないかと聞けばそうですねと悩みながらも提案される。結婚をしてから半年以上が経つというのに、サンダルフォンには馴染みがない。これだけ広い屋敷であるのだから、ありそうだと思う反面、そんな部屋を知らないでいた自分に呆れてしまう。
 知ろうとしないでいた。
「使っても、良いのか?」
「ええ、旦那様から良いと聞いています」
 朗らかに笑う使用人は、サンダルフォンも昔から知るほど長く、家に仕えている。ルシフェルが幼い頃にはぼっちゃんと呼び、サンダルフォンのことをお嬢様と呼んでいた。今では、旦那様、奥様と呼びかける。ルシフェルからの信頼が厚く、サンダルフォンも頼りにしている。彼女が言うならばと、サンダルフォンは有難うといって早速と言わんばかりに書庫へと向かった。
 面と向かって、改めてルシフェルに許可を貰いに行く勇気は無かった。そもそも、結婚をしてからというもの顔を会わせていない。結婚前の方が顔を会わせる頻度が高かった。
 親同士が友人でありお互いの家を行き来して、その度に連れまわされていた。何かと理由をつけては、顔を会わせる機会が設けられていた。忙しい合間をぬってのことだろうにと、毎回、呆れた。
 サンダルフォンの生家にも書庫はあった。しかし、規模はまるで違う。部屋一面に棚があり、また、仕切るように棚が設けられている。その棚にはぎっしりと本がおさめられている。サンダルフォンは圧倒されながらも、本の背表紙をなぞりながら、楽しい気分になっていく。絶版となっている本が紛れ込んでいたり、読もうとしても取り寄せとなっていた本が見つかったりと、宝探しのようだった。
 ぐるりと粗方を見回ったところで、閲覧スペースを見つける。最低限、というように机をはさんでソファが二つ設置されていた。サンダルフォンはソファに座ると、いそいそと、持ち出した本を読み始める。窓から差し込む明かりで十分に明るい。使用人がまめに掃除をしているのだろう、黴臭さやほこりっぽさもなく、快適である。
 集中して読み始めたときには明るかった窓辺は暗く、夕日が差し込み、名残惜しい気持ちがあるものの、サンダルフォンは本を戻すと、また明日もこようと、書庫をあとにした。
 サンダルフォンは日課のように書庫にこもっていた。最初こそ時間を気にかけて、使用人にも書庫にいると行き先を告げていたのが、使用人たちも当たり前になって、何も言わないでもサンダルフォンを探して書庫を確認しにくるようになっている。今日も今日とて本の虫である。
 興味深そうだと思った本は、微妙な位置にあり、サンダルフォンはこれならばと、つま先立ちになり、手を伸ばす。
 背表紙が爪の先に触れる。あと、もうちょっとと、手を伸ばす、と繰り返していく。
──届いた!

 思った瞬間には、同時にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた、取るつもりもないでいた隣の本と、その隣とが、雪崩れて来るのがスローモーションに映る。
「……っ」
 痛みに備えて身構える。ドサドサと落ちる音。呆然と、本が落ちた場所を見つめる。どっどと、心臓が煩くて、それから、はっとする。背中には、ぬくもりがあった。腕には、誰かの手が添えられている。
「怪我は」
「ない、です」
「そうか」
 ほっとしように聞こえたのはきっと、気の所為だろう。引き寄せられていた腕が離れる。それを、淋しいと思っってしまったのはきっと、我儘なのだろう。
「……ありがとうございます」
 サンダルフォンがどうにか口にした言葉に返事はなかった。それがたまらなく、苦しく、そしてどうしようもない、今の関係なのだと思い知らされた。
 呆然とするサンダルフォンを置いて、ルシフェルは部屋を出ていった。
 ぎゅっと、胸の痛みを感じる。
 翌日にも、サンダルフォンが書庫を訪ねれば、そこにはルシフェルがいた。サンダルフォンは、反射的に、自室に戻ろうとする。だって今までの、13年間のサンダルフォンだったら、それが当たり前だった。彼が知るサンダルフォンは、そういう態度を繰り返してきたのだ。一緒の空間で過ごすことなんて、ありえない。
 それを制したのは、ルシフェルだった。
「ここで読んで行けばいいだろう」
 視線は、本に向けられたままだった。
 迷ってから、サンダルフォンは空いているソファに座った。向かい合う。ぴりぴりとした緊張感の流れる空間に、部屋に戻ればよかったと思いながらも、今更、態々戻ることもできない。

「旦那様とはいかがですか?」
 サンダルフォンは曖昧な表情のまま、無言を貫いた。ルシフェルとは、時折、書庫で顔を会わせるものの、お互い本を読むだけだった。会話はない。ただ、以前よりも毒々しい、緊張感のある雰囲気はなくなったように、感じる。
 感覚が麻痺しているだけかもしれないが。
「奥様、毎日楽しそうですよ」
 指摘され、サンダルフォンはたじろぐ。
「そう見えるのか?」
 書庫で、ただ同じ空間にいるだけ。会話どころか視線があうこともない。お互いに、主にあちらはいないように扱う。ただ、それだけでも、ルシフェルと共にいられることが、幸せに思えたのだ。


 今でも珈琲を淹れることは出来るのだろうか。
 仮にも、お嬢様として蝶よ花よと育てられ18年。キッチンに立ったことはない。嗜みに、紅茶を入れることが出来る程度だ。思い返せば相当な箱入りである。
 頭では手順を描くことができる。それが、実際に出来るのだろうかと、ふと思い立って、それから、書庫に通い詰めているものの「旦那様」と顔を会わせる頻度はそう多くはないからと、確認がてらに器具を集め出した。
「通販って、こんなに便利なのか」
 かつての苦労は何だったのかと言うほどにポチリと押すだけで翌日には配達をされる現代の恩恵に感嘆しながら、サンダルフォンは取り寄せた器具をいそいそと広げる。根本は変わっていないものの、便利になっている。空の世界の、一つの進化だと思ってふと、笑みを浮かべた。
 今の時代になれば、態々豆を挽いて淹れる手間は不用だ。インスタントでも美味しいものがあちこちにあふれている。それでも、思い入れがあるからこそ、手間を惜しむことは無い。
 少し疲れを感じながらも挽いた豆で、思い出しながら、珈琲を淹れる。やや手間取ったものの、香りは悪くない。おそる、おそると味わう。
「……悪くはない、な。うん」
 久しぶりに淹れて、満足な気持ちになる。それから、やっぱり、珈琲が好きなのだと実感した。珈琲を飲めば、思い出せる。優しい記憶ばかりが、思い起こされる。だから、つらい。だから、求めてしまう。
 これからは趣味として珈琲の研究を再開しようかと、サンダルフォンは貯金額を思い浮かべる。通販で使用したのは、サンダルフォンが自分で働いて貯めたものだ。決して、ルシフェルの懐からではない。共同財産なのだと言われても、どうにも、憚られた。
 珈琲の香りは残りやすい。それも、ほとんど毎日のように飲んでいるから、サンダルフォンが隠してはいないとはいえ、使用人たちも気づいていた。
「旦那様も珈琲を好まれますから、御一緒にいかがですか?」
 使用人に名案とでもいうように声を掛けられる。サンダルフォンの心は浮き上がる。そうか、好まれるのか。変わらないままであることを知って、嬉しくなる。
 淹れたら、飲んでくれるかな。
 美味しいって、言ってくれるかな。
「やめてくれ、迷惑だ」
 冷たい眼差しを、思い出して、心が凍てつく。かつて、決して短いとはいえない歳月のなかで、一度として向けられたことのない冷酷な視線、残酷な言葉。
 きゅっと、胸が痛む。
 簡単に、想像が出来てしまった。
 面と向かって、言われてしまったらと思うと、体が竦んだ。
「……時間が合わないだろうから、やめておくよ」
 使用人はそうですかと、残念そうに呟いた。
 平穏な日々が続いた。
 部屋で珈琲を飲みながら、仕事をするか、書庫で本を読むかの日々だ。ちらりと、視線を向けられることがある。視線が合うことは無い。だが、その視線は、以前感じたような、トゲトゲしたものではないように思えた。
(ルシフェル様も、もしも、思い出したなら)
 そんなことを、願ってしまう都合の良い自分がいた。
 二人で珈琲を飲んで、ささやかな会話をしていた、幸せな日々を思い出す。
 しかし、思い出さないでほしいとも、願っている。
 サンダルフォンがルシフェルに対して働いた不敬は取り返しがつかない。ならばいっそ、罪をひっそりと抱えながらでも、嫌われ続けたままでも、形だけでも、一緒にいることが許されるならばと、考えてしまう。

「やあサンディ、元気だったか?」
「久しぶり。元気だったよ。事前に連絡をくれたら良かったのに」
「近くまで来ただけだからね。ほらお土産。……最近珈琲にはまってるんだろ?」
 ありがとう。そう言いながら、土産を受け取る。電話で話したことを、覚えていたらしい。
 相変らずシャツを着崩している。悔しいが様になっている。サンダルフォンの真面目さとは正反対の軽薄な性質。そのくせ、なんでも卒なくこなしている。家業とは別にファッション関係の事業を興し、実家とは疎遠であるものの、妹のことだけは気に掛けてくれる、良き兄だ。結婚に関しても、祝福ムード一色のなか、唯一難色を示し、反対を続けていた。離婚をしたらうちの会社にこいと結婚を前日にしたサンダルフォンを慰めてくれた。
 天司としての記憶が呼び起こされた今となっては、純粋に慕えるかどうか不安になってしまうが、培われた18年の関係は、確固であるらしく、サンダルフォンは兄を前にして平然と過ごせている。
 早速淹れようとするのを、ちょっとだけ面白くなく見詰める兄の横顔を、サンダルフォンは知らない。
「イベントには来れそうかい?」
 兄が企画しているファッションイベントだった。開催日は祝日だ。祝日であれば、彼は殆ど家にいる様子だ。だから、どうやって断ろうかと考えてしまう。
「もしもアイツが何か言ってきたら俺が言うよ?」
「それは大丈夫。そもそもこっちになんて興味ないだろうし」
 言っておきながら、チクチクと胸が痛くなる。
 兄が不快そうに眉を寄せたから、サンダルフォンは苦笑する。
「心配性」
「当たり前だろう? 可愛い妹のことが心配なんだよ。まあ、思ったよりは元気そうで安心した」
 平然という兄にサンダルフォンは気恥ずかしくなる。何も言わずに、淹れたての珈琲を差し出した。兄はと言えば差し出された珈琲を不思議そうに見て、それから口にする。サンダルフォンはじっと、その様子を見つめるから、視線に、兄は苦笑をこぼした。
「美味いよ」
 ほっとして、それから、自慢気に笑った。
「初めて誰かに飲んでもらった」
「初めて? アイツには淹れないのか?」
「飲むわけないのに、淹れたりしない」
「なんだ……。アイツの為に珈琲なんてものを趣味にしたのかと思ったんだが」
「……別に、暇だから始めただけだ」
 そういうことにしておくよ。そういって珈琲を飲み干した兄が立ち上がる。サンダルフォンは、もう、帰るのか? なんて、縋るみたいに言ってしまった。
「そろそろアイツも帰ってくるだろうし、顔を会わせる前に帰るよ。サンディ、愛してるよ」
「はいはい、愛してる──、」
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもない。勘違いだったみたい。玄関まで見送る」
 気の所為だろう、それでなくても、帰ってくるような時間ではない。そもそも仮に帰って来たとしても、隠れる必要なんてない。
 久しぶりに誰かのために、それがまさか、あの兄のために淹れたとはいえ、褒められて、認められたみたいな気分になって、浮かれていた。少しだけ、自信が湧いた。
 淹れてみようかな。
 玄関を出て兄を見送りながら、そんな風に、前向きに考えることが出来ていた。



 忙しい様子だった。
 書庫で顔を会わせることは無くなり、帰宅も遅く、すれ違う日々。つい半年前は、それが当たり前であったというのに、無償に淋しくなる。自分勝手だなと思いながらも、面影を探す。
 結婚をしてから1年が経って、半年の間に、変わってしまった。変わったのだろうか、戻ったのだろうか。
 仕事で何かあったのだろうか、力になれないだろうかと、余計なことと言われるかもしれないと思いながらも、会社の状況を調べても、忙しい理由は見つからない。
──他所に、良い人を作ったのだろうか。
 自分で口にした、言い返した言葉が、こんなにも自分を苦しめるのだから、ざまぁないったらない。
 自嘲を浮かべ、珈琲を飲んだ。
 飲んでほしいと思いながら淹れた珈琲を、自分で飲む日々の惨めさに孤独を思い出す。
 淋しくて、哀しくて、たまらない。
 待ち焦がれる日々を、思い出す。

「話があるから、来てほしい」
 久しぶりに顔を会わせて、顔色の悪さを心配して声を掛けようとするも、遮られる。言われたままに着いて、初めて書斎に足を踏み入れた。ざわざわと、嫌な予感に握りしめた手は汗ばむ。
 整理された机の引き出しを開錠して、一枚の用紙が取り出される。何も言われない。ただ、手渡される。離婚届。
 どうして、なんで。
 なんて、頭では疑問がわきあがるのに、心は妙に、冷静だった。
「……わかりました」
 声は、震えていなかった。
 なんてことないように振舞うのは、昔から得意だった。平気な振りは得意だ。変わらない。ちっとも平気じゃないのに。
 震えそうになる手を、抑えてサインをした。
 ほっとしたように、吐息がもれたのをサンダルフォンは耳にした。それが、無性に、哀しくて、胸が痛い。嫌われていることを、実感してしまう。全部、今までサンダルフォンが思い込んでいただけで、変わってなんていなかった。
「恋人がいるようだが、心配をすることはない」
「は? 恋人……? なんのことを……」
「隠すことは無い。当初に言った通りだ。男を作ろうが知ったことではないと。それに、結婚といっても、もはや意味はない。結婚をせずとも、家に不都合がないことは君も知っているだろう。1年も『我慢』をしたのだから、義理は通した」
 ぎゅっと、頬の肉を噛んだ。
 1年が経っていて、なにも、変わっていない。変わらない。
「恋人なんて、いない。そもそも、恋人がいるのはアンタじゃないのか。邪魔ならいってくれたらいい。変に勘違いされるのは、不愉快だ」
 むっとした顔になった。
「そんなものはいない」
「どうだか」
 サンダルフォンの口は、不敬だと止まることなく、勝手に言葉を紡いでいた。どうせ嫌われているのだと思うと、自棄になっていた。どうせ、彼にとってのサンダルフォンは面倒臭い、鬱陶しい、義務として突き合わされた女でしかないのだ。
「そもそも君は私のことが嫌いなのだから、離婚に精々しただろう?」
「っ、ああ! 精々している、アンタだってそうだろう!? そっくりそのまま、返してやるさ」
 人の気持ちを考えない。言葉が足りない。コミュ障。と、散々に悪態をついた。思い返したら自身の言動に憤死しかねない。ルシフェルは苛立たし気に眉間にしわを寄せ、目を閉じるだけで、言い返しなんてしない。
 そのうちに、ばか。あほ。どんかん。わからずや。と、いよいよ、ただでさえ豊富とは言い難い罵倒が尽きていく。やがて、鼻を啜るような音と、それから、嗚咽に、ルシフェルは困惑して、目を開けて、ぎょっとした。
「泣いているのか」
「目が悪いんじゃないか?」
「いや、だが」
「泣いてないってるだろ!」
 子どもみたいに、泣いてることは明らかなのに、違うと言い張りながら、ルシフェルを睨み上げる。ちっとも怖くはないものの、戸惑いを浮かべる。
 サンダルフォンは一度だって、ルシフェルの前で泣いたことはない。
 ただの一度も。
 ルシフェルは、サンダルフォンが泣いている姿を、知らない。
「どうか、泣かないでくれ」
 困惑した声は、あまりにも優しいから、苦しくなる。変わらない優しさが、痛い。嫌われているのに、疎まれているのに、それは自業自得でも、それでも苦しくて、生きていけない。
「最後だ」
 呼吸の仕方を忘れた。
「もう、きみと、会うことは無い」
 ぐっと胸が重くなる。
 仕方のない、ことだ。離婚をするということは、そういうことだ。
 ルシフェルの言う通り、離婚をしたとしても家には影響はない。家業には、多少はあるだろうが、それでも小さな擦り傷にもならない。両親は残念がるだろうが、その程度。だから、これで本当に、さようならだ。
「だから」
 何を言われるのだろうと怖くなる。
 責め立てられるのだろうか、人生の汚点と、詰られるのだろうか。
「謝らせて欲しい、訳が分からなくても、自己満足だと責めてくれても、いい」
 何を言っているのか、なぜ、謝ることがあるのかと理解できずに、ただ泣くことも忘れて、見上げる。見上げた蒼には静かな、後悔が浮かんでいた。
「きみのことを許すと言って、安寧と言っておきながら、傷付けて、振り回してしまった私の身勝手を、謝らせてほしい」
 許すと言ったのも、安寧といったのも、かつて中庭で共にした、
「ルシフェル、様」

 漏らした言葉にルシフェルが目を見開き、端正な顔が何かを堪えるみたいに、歪む。それから、誤魔化すみたいな微笑を浮かべた。
「ああ、サンダルフォン。私はきみの幸せを願っている。だから、」
「だったら、一緒にいてください」
 縋った。
「俺の幸せは、あなた無くして成り立たないんです」
 ずるいことを言っている。散々な態度で振舞って、何をいまさらと言われても、サンダルフォンは永遠の存在を、二度と失いたくないと、身勝手を口にしてしまう。そんなサンダルフォンを、ルシフェルは見詰めて、口を開いた。
「……今の私たちなら、良い夫婦になれると思う」
「そう、思いますか」
 泣き腫らした目を、ルシフェルが覗き込む。
「……思いたい、ですけど」
 ずるいなあと思って、笑った。


「ファーさん、これサンディ達から」
 ベリアルはそういって、デスクに堆く積まれた書類の上に、紙袋を置いた。知らぬものはいない名店の、お取り寄せ不可、本店限定販売の焼き菓子の詰め合わせである。ルシファーは、ちらりと確認した様子で、また液晶画面に向き合う。キーボードを叩く速度が少しだけ上がっているのは、気の所為ではないだろう。
「結婚してからどれだけ経って、って話だよ。まったく。今更新婚旅行だぜ?」
 呆れながら言って、ベリアルは肩を竦める。
 仕事関係以外での連絡を珍しいと思えば、旅行に行くから何か欲しいものはないか、という。仲の良い女友達がいたなと思い、彼女だろうかと思っていれば、それが旦那であるというのだからベリアルは、思わず空虚な、宇宙を背負ったような気持ちになってしまった。
 近くを寄ったついでに顔を見た時には参っている様子だった。これはいよいよ離婚も近いかと思ったというのに。実家には帰りづらいだろうから、暫くはうちで過ごしながら、正式にスタッフとして雇い入れて、自立していけばいいなんて、帰りには考えていた。
 それがどうしてこんな展開になるのか。さっぱり経緯が分からないでいる。
「あーぁ。離婚すると思ってたんだけどな」
「最初からわかりきっていた結果だろう。何をいまさら」
 ベリアルの不満を、ルシファーが鼻で嗤った。そうだけどさぁと同意を示しつつも、ベリアルは矢張り不満顔で、口をへの字に曲げる。
 例外であるルシフェルを除き、他人への興味を一切持たないルシファーですら見抜いていた感情に振り回されていた二人は、どうやら、やっと、くっ付いたらしい。それも、思い出さずにいれば良かったであろう記憶すら戻っているのだから、ベリアルは遣る瀬無い。
 久しぶりに会った妹の、本人は平静に振舞っているつもりなのだろうが、余所余所しい態度に、億尾にも出さずともベリアルはちょっとだけ傷ついたのだ。
「シスコンめ」
「いやあ、否定するつもりはないけど、ファーさんのブラコンには負けると思うよ?」
 無言を肯定とみなし、ベリアルはにやにやと思わず、笑ってしまう。
 以前から、サンダルフォンのことは気に入っていたのだ。面白い存在を好ましく思うのはきっとどうしようもない、ベリアルとしての性質だった。そして、相変わらず、面白いくらいに空回って生きているサンダルフォンが愉快でならなかった。ただそこに家族愛なんていう厄介なものが生まれてしまって、それが決して不快でないからベリアルも少しだけ困ってしまったものの、生まれてしまったものはどうしようもなかった。らしくない、なんて思いながらも、あのルシフェルにはサンダルフォンを幸せに出来るわけがないと思うと、つい、ちょっとした嫌がらせと、意地悪であったのだが、無意味に終わってしまった。発破をかけた結果で終わってしまった。
「寧ろ俺ってキューピッドじゃない?」
 なんて茶化して言えばルシファーは愈々反応を示すことは無い。これは呆れられているなと、これ以上ふざけたことを言えば締め出されかねない。
 今も昔も、引き際は心得ている。
 あれだけお互いを意識しあって、あからさまだというのに、どうして嫌いだなんて思い込むのか。周囲のお膳立てをお節介だと言って勘違いして、それこそ自分たちの振る舞いにも気付かずにいるのだから。まったく、二人して手が掛かる。
 ベリアルは土産を渡すために訪れた妹と、そして着いてきた義弟の仲睦まじい様子を思い出して、溜息を零した。

「お待たせしましたっ!」
 スカートが揺れた。
 使用人たちに見つかると、散々に、着せ替え人形のように扱われた。近くに買い物に行くだけだからと言っても聞く耳を持たない。ドレスコードも不要な店だと言って、洒落込む必要はないと言っても、普段、出かけることのないサンダルフォンを着飾る機会を、使用人たちは虎視眈々と狙っていたようだった。
 サンダルフォンのせめてパンツが良いという願いは呆気なくにこにこといい笑顔で却下をされた。
 白いワンピースなんて似合わない。サンダルフォンが言っても似合います、旦那様もメロメロですよ、なんて調子のよい言葉が返ってくるだけだ。そんなわけない、と着替えると言ってもお時間ですよ、旦那様が待ってますよと言って放り出されてしまった。
 時計を見れば出掛けようと話していた時間に近く、そのまま生暖かい視線を向けられながら、玄関へと続く階段を駆け下りたのだ。
 何も言わないルシフェルの視線が痛くて、気まずく、視線をさ迷わせる。
 やっぱり似合っていないのだろう。恥ずかしくなる。居た堪れなさに、サンダルフォンはうつむいた。それから、
「あの、これは俺の趣味ではなくて、使用人たちが折角だからと用意をしてくれて、ですから」
「可愛いよ」
 へ、と間抜けな声が漏れた。
 言い訳を遮って、続けられた。独り言みたいに、つい、漏れてしまったみたいに。
「可愛い、似合っている。……うん」
 サンダルフォンは、顔をあげた。ルシフェルの顔が、赤くなっているように見えた。伝染ったように、サンダルフォンも、顔が熱を持つのを感じる。
 胸がざわめく。
 ああ、懐かしいと思ってしまう。
 いつだって、この騒めきは胸にあった。焦がれて仕方なく、求めてやまない。
 数千年抱き続けたのは、人には抱えきれない重さで、人には理解されない感情だった。
 このざわめきが、気持ち悪くて、嫌いだったのだ。相手の所為にして、目を背け続けていた気持ちは、なんてことはない、どこにでもありふれた、ありきたりの想いだ。
「そろそろ、出ようか」
 照れ隠しのように、ルシフェルが言葉を掛ける。
 玄関を開けると、涼やかな風が頬を撫でた。温かな陽射しが降り注ぐ。振り返ったルシフェルが眩しくて、サンダルフォンは目を細めた。
 ふと、気づく。
 手が伸ばされている。サンダルフォンは、ぱちぱちと目を瞬かせてから、ルシフェルを見上げた。
 ルシフェルは何も言わない。
 サンダルフォンが、おずおずと、手を重ねれば、優しく、しっかりと握り返された。
 ありふれて、ありきたりの想いが募っていく。

Title:約30の嘘
2020/10/06
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