ピリオド

  • since 12/06/19
 サンダルフォンは途方に暮れていた。
 念願かなって記者になったとはいえ、サンダルフォンは情熱を持て余していた。そもそもサンダルフォンは芸能記者になりたいわけではなかった。社会部の記者を志望していたのだ。経験を積むためだと言われても、理解は出来ても納得は出来ない。友人の恋愛にも興味がないというのに、芸能人だなんて他人の恋愛事情になんて微塵も興味はない。
 同じ部署で働く同僚や先輩を、馬鹿にしているわけではないのだ。
 ただ、サンダルフォンに芸能記者が不向きなだけだ。人事の配置ミスだと、サンダルフォンは同期と度々話題にしている。同期はといえば、サンダルフォンと真逆でメディア部門を志望していたというのに、社会部に配置されていた。互いを羨みながら頑張ろうと励まし合うものの、サンダルフォンはいよいよ心が折れそうになる。
 今日も今日とてハゲ頭をさらにハゲ散らかしかねん勢いに喚く上司は、売上部数の伸び悩みを上からちくちくねちねちと突かれたようだった。なぜ自分に言うのだろうかとサンダルフォンは飛び散る唾を不快に思いながらぼんやりと、あと十分で終業だとか、書いている途中の記事の続きを考えていた。そんなサンダルフォンのちっとも堪えてない反応に痺れを切らした上司はといえば
「スクープを作ってこい!」
 だなんてのたまう。サンダルフォンは呆気にとられる。
「今、まさにここにスクープがありますけど」
 と口に仕掛けて慌てて噤んだ。
──マスコミ業界の闇! 現場で起こるパワーハラストメント!
 なんて見出しは使い古されているかと思いながら、サンダルフォンは顔が引き攣るのを感じる。タイミングが良いのか、終業を告げるチャイム音が鳴るとサンダルフォンは「病院の予約があるので」なんて言い訳をして退社をした。
 仕事だ。情熱がない興味が無いだなんて言い訳だ。サンダルフォンも分かっている。決して不真面目に取り組んでいるわけではない。サンダルフォンなりに、真摯に向き合い、記事を書いているつもりだ。
 とぼとぼと歩いているうちに、サンダルフォンが行き着いたのは小さなバーだった。普段であれば通り過ごすような店だ。
 吸い込まれるみたいに扉を開けた。
「あら、いらっしゃい」
 ぴしりと固まったサンダルフォンを、マスター……あるいは、ママというべき存在なのだろう、カウンターの中で巨漢が出迎える。にこにこと愛想の良い笑みで、サンダルフォンは逡巡、帰ろうかと迷ったが、踏み入れた。
「好きなところに座ってね」
 サンダルフォンはちらっと店内を見る。カウンターとテーブル席が三つ。わざわざテーブルというのも気が引けて、カウンターの隅に座った。
 客はまだ入っていない。
 一般的な終業時間を過ぎたくらいだから、当然かとサンダルフォンは思いなおす。
 しっとりとしたレコードが流れている店内は、店主の存在こそ異様に感じて、一瞬ばかり驚いたものの雰囲気が良い。サンダルフォンは落ち着かない。個人的には好きな雰囲気だ。けれど、普段友人と飲みに行くような居酒屋とは雰囲気がまるで違う。比べることこそ、失礼だが。
 オーダーを入れようともして、視界に珈琲が入った。
「……コーヒーベースで頼む」
「成人はしてるわよね?」
「ああ」
 サンダルフォンは苦笑する。ごめんなさいねと謝る彼(あるいは彼女)に対して嫌な気分はない。学生気分がまだ残っているのだろうかと思ってしまうが、確認をされることは珍しくは無かった。
 ふんわりとしたオーダーにそうねえと考え込んでから「ちょっと待っててね」と言うとテキパキと用意をされていく。振られるシェイカーが珍しく、サンダルフォンはつい、子どものようにじっと見てしまっていた。
「エスプレッソマティーニよ」
 覚えのない名前のカクテルは、珈琲の風味が強く、飲みやすかった。それでもアルコールは入っている。聞き上手、ということもあるのだろうがサンダルフォンは口が軽くなったように、ぽつぽつと仕事の愚痴をこぼしてしまっていた。
 客がぽつぽつと入ってきたころには、サンダルフォンはひとりで黙々と飲み進めていた。まだ三杯目で、受け答えもしっかりしている。だが、サンダルフォンは確実にふわふわと夢心地であった。
「こんばんは、隣を良いだろか」
 ぼんやりとしていたサンダルフォンは、それが自分に掛けられた言葉であるだなんて思いもよらない。サンダルフォンが何かを言う前に、声を掛けた男は隣に座った。狭い店とはいえ、まだ余裕はあるのに。距離が近い、なんて思いながらもサンダルフォンは何も言わない。気分が良かったのだ。上司に言われたことや仕事の行き詰まりがアルコールによってなんでもないこと、どうでもいいことみたいになっていた。
「何を飲んでいるんだい?」
「ええと……」
 なんだったろうかと、すっかり酔いが回った頭では思い出せない。カウンターから口が差し出される。
「エスプレッソマティーニよ。コーヒーベースっていうことだったから」
「なら、私も同じものを」
 男の横顔を見る。涼やかな顔立ちで、バーの暗い照明のなかでも輝いて見えた。じっと見詰めるサンダルフォンに、男は微苦笑を浮かべる。
「……どこかで会ったことがあるか?」
「どうだろうね」
「見覚えがある気がする」
 男は微笑を浮かべて出来上がったカクテルを飲んだ。絵になる。
「珈琲が好きなのかい?」
「うん」
「そうか、なら……」
 そういった男がオーダーを入れたカクテルは、サンダルフォンには聞き馴染みのない名前だった。マスターは呆れた様子で作り始める。
 サンダルフォンはあまり、アルコールには強くはない。自覚している。友人と飲むときですら自制をしているのだ。三杯程度ならば、少し気分が悪くなってくる程度だった。だが良いアルコールを使っているのか、それともコーヒーベースであるからなのか、気分は良いくらいだった。
 ただ確実に酔いは回っている。
 仕事終わりに、慣れないバーという空間。寧ろ、回りやすくすらあった。
「どうぞ」
 白と黒の二層に分かれたカクテルがサンダルフォンに差し出される。不思議に、見返せば「こちらのお客様からよ」なんて呆れた風に言う。
 サンダルフォンが隣の男を見れば、男は楽しそうに笑っていた。
 見た目にも綺麗なカクテルだ。甘くて飲みやすい。
「おいしい」
 たまには生クリームも悪くないななんてふわふわとした頭で思った。



 不意に目を覚まして起き上がろうとしたところで、くらりと倒れる。ぽすりと、柔らかな枕がサンダルフォンを御帰りと言わんばかりに優しく包んだ。ズキズキと痛む頭にサンダルフォンの眉間にしわが寄る。カーテンから差し込む明かりが眩しくて、サンダルフォンは目元を腕で覆った。飲み過ぎた。今は何時だろうかと確認をしようとも、体のあちこちが痛む。ままならない。風邪でも引いたのかと思うくらいに節々──主に下半身が痛くて、サンダルフォンは考えたくもない想像が過ってしまう。
 おそるおそると、腕を下げれば、下着を身に着けていない。すーすーとする。シーツが直にふれているのを改めて感じて、サンダルフォンは顔から血の気が引く。
 散々に兄に対して言ってきたことが、跳ね返ってきたようだった。
 見上げた天井は高い。
 何も考えたくない。
 現実逃避だ。
 考えなくては。
「目が覚めたい? おはよう、サンダルフォン」
 声を掛けられて、その声が男であるから、サンダルフォンは一瞬、ほっとした。聞き覚えがあるような、ないような声だった。バーで一緒に飲んでいたような、気がする。顔は思い出せないが、とにかく美麗な男がこれはどうだろうかと言われて飲んだカクテルがどれも美味しかったのだ。ぼんやりと、思い出して来た。
 酔っ払った自分を介抱してくれたのだろう。何も身に着けていないのは、粗相をしてしまったからだろうかと、初対面の相手に対して迷惑を掛けてしまったのかと不安になった。それから、ふと、違和感を覚える。
「……名前」
 なぜ知っているのだろうか。教えた記憶は無かった。ないだけで、酔っ払って口にした可能性もあり得る。
「──社マスメディア部門、に所属しているサンダルフォン」
 にこやかな声音で淡々とサンダルフォンの身元を告げる男にうすら寒さを覚えた。「ほら、書いている」そういって見知らぬ天井を見上げたままのサンダルフォンに男が見せたのは、サンダルフォンの名刺だったが、渡した記憶は一切ない。
 サンダルフォンは男を睨み上げた。プラチナブロンドが反射して眩しく、それから、ふと思い出せた。なぜ思い出させずにいたのか分からない。
「ルシフェル……」
「知っていたのか」
 ルシフェルは意外そうな顔をするから、サンダルフォンはむっとしてしまう。
「知っているさ。映画祭最優秀主演賞オメデトウゴザイマス」
 疎いとはいえ、芸能記者である。プライドはないとはいえ、情熱は冷めているとはいえ、知識はあるのだ。最新のニュースくらい、頭にいれている。寧ろルシフェルを知らない存在こそ、情報が封鎖されたような場所で暮らている世捨て人くらいだ。
 デビューをしてから興行収入記録を更新し続けている男の私生活は謎に包まれている。インタビューを受けても作品に関わることだけで、私生活に関わる話題は避けられていた。女性関係どころか、交友関係も謎な男だったが、人気は衰えることはない。彼のスキャンダルを狙ったサンダルフォンの先輩が、返り討ちにあい、ネタがない……締め切りが……と嘆いている姿を幾度と見た。
 サンダルフォンにとって、遠い存在だ。
 芸能記者ともいえども、サンダルフォンが関わり合いになれるような存在ではない。あるいは記者だからこそ、警戒をされるべき、関わり合えない存在だ。
 出会う訳が無い存在なのだ。だから、バーで知り合って飲んでいた相手がルシフェルだなんて思いもよらない。サンダルフォンは、そう自分に言い聞かせた。別に、すぐにルシフェルだとわからなかった悔しさなんてない。
 サンダルフォンのちっとも心の籠っていない祝辞にもルシフェルときたらにこやかにありがとうと言うだけだった。宇宙人と会話をするってこういうことなのだろうかとサンダルフォンは痛む頭を押さえながら思う。宇宙人なんて存在、信じていないけれど。
「ここは、」
「私の家だよ、覚えてないのかい」
 覚えはなかったが、ルシフェルは特別に残念がる様子はみせなかった。
 一部屋をまるまると寝室に使うなんて、サンダルフォンには考えられないことだ。家賃が高そうだとか、このベッドは一体いくらなんだろうかとか、そんなことばかりが浮かんだ。
 状況を理解しようとしても、中々飲み込めないでいるサンダルフォンにルシフェルが取り出して操作したのは見覚えのある携帯電話だ。忙しさにかまけて、買い替えのタイミングを見失った、二世代は古い機種。なぜ、ルシフェルが操作できるのだろうか。ロックをしていたはずだった。ルシフェルはにこにこと言う。
「指紋認証だったろう?」
「それって、犯罪じゃないのか」
 ルシフェルはおかしそうにくすくすと笑った。
「ほら、よく撮れてるだろう?」
 そういってルシフェルが見せる写真は、雑なコラージュのように思えた。サンダルフォンは訳が分からずじっと見る。理解が追い付かないでいた。ルシフェルはそんなサンダルフォンを置いてけぼりにして画像を次々と表示させる。
 見間違いではない。
 型落ちしているとはいえ、ヒビの一つもはいっていない液晶画面が明瞭に、交じり合う二人を映している。他人の空似、なんてものじゃない。そしてそれは間違えることなく、サンダルフォンと、そしてルシフェルであった。
「私とのことを記事にするといい。売れると思うよ」
 なにいってるんだ、コイツ。
 サンダルフォンはルシフェルを見上げた。煌びやかな微笑を浮かべた男はまさしく、宇宙人であるようにサンダルフォンの理解をこえた存在であるらしい。
 ルシフェルにとって、初のスキャンダルだ。そして、その証拠はサンダルフォンの手の中にある。記者ならば、飛びつくべきだ。寧ろ、これをネタにしてルシフェルを強請る手もある。あるいは、犯罪だと、警察に駆けこむのも手である。どうやらサンダルフォンは犯されたらしい。だというのに、サンダルフォンに一番にわき上がったのは恐怖である。得体の知れなさへの、未知への恐怖。触れたら最期、破滅しか想像ができない。関わりあってはいけないとガンガンと警鐘が鳴る。
 むしろ、こちらが罠に掛けられているのではないかとあまりの都合の良さに考えてしまう。
「安心してくれ、コピーならいくらでもあるよ」
「なぜ安心できると思った」
 理解の出来なさに二日酔いではない頭痛を覚えた。
「……帰る」
「体調は良くないだろう。泊って行けばいい……わかった。服を取ってこよう」
 頑ななサンダルフォンの態度に、ルシフェルは残念そうな顔をした。それは、サンダルフォンにとって意外は反応だった。引き止められるかと思っていた。それがあっさりと解放されたのは拍子抜けする。
 振り返り見上げたマンションの高さに、今更、全部夢だったのではないかと思ったが、踏み出した途端に痛みを訴える股関節に現実を突きつけられた。



 やっと散々な一週間が終わった。上司に八つ当たりをされるだけでもうんざりとするのに、なにより最低な気分にさせたのが、ルシフェルとの出会いだ。あの存在すら、わけのわからない生き物の所為で、遅刻をしてしまった。余計なガソリンになったみたいに、上司からは社会人の自覚が足りないと言われて叱られてしまった。非はサンダルフォンにある。遅刻をしたのも、元はと言えば翌日も仕事があることを把握しておきながらセーブが出来なかったサンダルフォンの責任である。とはいえ、あの男の所為で、なんてつい逆恨んでしまっても、仕方ないことだ。
 体のあちこちの痛みを誤魔化すように薬を飲みながら終えた一週間に、開放的な気分になる。
 今日の夜は何にしようかと考えながら会社を出たところで、サンダルフォンが危険を察知した。くるりと向き直して歩き出そうとしたところを、先回りをされ話し掛けられる。
「やあ、そこの憂鬱な顔をしたお兄さん。これから飲みに行かないかい?」
 サンダルフォンが舌打ちで返せばニヤニヤと笑みを浮かべる男に拉致同様に連れ去られた。軽薄な男は、サンダルフォンにとって反面教師とすべき兄であった。
 何だかんだと、兄の世話になっていることはサンダルフォンも自覚している。こうして食事に誘われたり、いらないからとサンダルフォンのサイズに合わせた服を貰うこともある。だが決して尊敬することはできない兄である。
 連れてこられた居酒屋の店主と兄は知り合いのようだった。親し気に、奥の個室使うよなんて許可も待たずにすいすいと行く兄に、サンダルフォンは申し訳ない気持ちで頭を下げる。店主は兄の無茶に慣れた様子で、溜息をこぼすだけだった。
 注文を兄に任せて飲み始める。サンダルフォンは次々と運ばれるつまみを食べながらウーロン茶を飲む。
「飲まないのか?」
「飲まない」
 バーでの失態以降、サンダルフォンは一滴たりともアルコールを摂取していない。とはいっても、そこまで間は空いていなかった。なんせ週初めのことだ。
 無類の酒好き、という訳ではないから、飲まなくても支障はない。寧ろ健康的ですらあるのだ。だというのに、兄ときたら、
「ある程度は慣れておけよ。それに酒の勢いも大事だぞ? いざってときに潰れたらダッサいだろ」
 サンダルフォンはウーロン茶を飲みながら、ついとうろたえる。言うか、言うまいか、迷う。
 兄のただれた女性、あるいは男性関係に巻き込まれてあわや殺傷沙汰の被害者にとなりかけたことが多々あり、忘れられない。この泥棒猫!なんて台詞を本当にいう奴がこの世にいるのか、なんて思ったのだ。サンダルフォンは、そんな兄を身近で見てきたお陰で潔癖というべき性質になっている。
「まあ一夜限りの関係っていうのも後腐れがなくて良いもんだよ。……童貞処女のサンディにはわかんないよな〜」
 ニマニマ顔の兄にサンダルフォンはむっとしてしまう。
 確かに、サンダルフォンは童貞処女であった。それを恥ずべきことだと思っていない。名誉のために言えば、モテない訳ではない。告白をされたことはあるし、付き合った経験もある。だが、その後一歩を踏み出せなかった。その理由というのが兄を反面教師とした潔癖であるのだ。性的なものが、気持ち悪い。そう思ってしまった。だというのに、その兄に揶揄われるのは癪である。さらに言えば訂正すべきだった。
「……ない」
「は?」
「だから……処女じゃないって言ったんだよ!!」
 呆気にとられた兄の表情にサンダルフォンは少しだけ気分が晴れた気持ちになる。ふん、なんて強気に笑ったものの失言を思い出して、項垂れた。同時に、思い出してしまった。
 項垂れる弟を揶揄いたい気持ちをのみ込み、問い掛ける。
「……合意か?」
「……酔ってたからわからん」
「酔っ払ってんなら合意じゃないだろ!?」
「なんでお前が怒るんだ」
 一夜の関係について語ってただろとサンダルフォンは呆れる。しかし兄は滅多にない真面目な顔で語気を荒くした。
「そりゃあ可愛い弟の大切な処女が散らされたってんなら怒るさ。……俺が狙ってたのに!!」
 最初だけなら感動的なのになあって思い、残念な気持ちといつもの調子の兄の様子にサンダルフォンは少しだけほっとしながら、ウーロン茶を飲み干した。
「え〜……サンディが……相手の連絡先は? 警察には?」
「……連絡先は消した。警察にはいってない」
 携帯電話で勝手に撮られた写真を消した。それから、心配になって確認をすればルシフェルの個人的な連絡先がいれられていてぞっとしたのだ。サンダルフォンは何も見ていないと携帯から連作先を消去した。その後、なんだか怖くなって知り合いの連絡先を控えて、すべて初期化をした。
 警察には行っていない。
 証拠となる下品なハメ撮り写真はすべて消去していたし、何より関わり合いになりたくなかった。
 サンダルフォンは男に犯されたということを客観的に受け入れていた。証拠は幾らでもあったとはいえ、酔いつぶれて実感がなく、ショックはなかった。潔癖と思っていたが、実際にはこの程度なのかと受け入れていたのだ。
 何よりも、何が間違ってあのルシフェルと一夜の関係を持つという事件が起きるのか。
 いっそルシフェルが言ったように記事にしてやろうかとも思ったのだが、いざ書くとなったところで、ルシフェルの所属している事務所に潰されるのが落ちだ。
 泣き寝入りするしかない。記憶がないということだけがサンダルフォンの救いだった。いつかは、忘れられる。ただルシフェルを見るたびに犯されたのだと思い出させる。忘れたくても忘れられない。あの男は有名人である。どこをみてもルシフェルなのだ。雑誌の表紙。映画の宣伝ポスター。テレビをつけてもコマーシャル。コマーシャル開けのトーク番組に、宣伝としてゲスト出演。どこもかしこもルシフェルだらけという地獄。どうしろというのか。憂鬱になる。
「まあ、サンディが事件にする気がないってなら言わないけどさ」
 心配をしているのあろうけれど、兄の突き放した関係がサンダルフォンには心地よく、そしてこんな話題は兄でなければ口にしなかっただろうなとも思う。尊敬は出来ないし、まったく自慢ではない兄だが、嫌いではない。
「じゃあ今日はサンディの非処女記念ってことで奢るから好きに頼んでくれ」
「最低な記念を作るな。それと最初からお前の奢りのつもり頼んでる」
 サンダルフォンが言って、好き勝手に注文をすれば、兄はおかしそうにけらけらと笑っているだけだった。
 運ばれてきた揚げ物をつつきながら、お代わりをしたウーロン茶を飲めば、酒なんていらないくらいに上機嫌に、気分が良くなれる。



 築30年になるアパートの住み心地は快適とは言い難い。家賃の安さと二階の角部屋でなければサンダルフォンも選ぶことは無かった。総菜と、作りためるつもりで購入した食材をつめたエコバッグを両手に抱えながら昇る階段が、いつもよりも長く感じる。買いすぎたと後悔を覚えた。肌寒い風が心地よくすらある。
「おかえり、サンダルフォン」
 がさりと、手に持っていたエコバッグを落としてしまった。タマゴを買わないで良かった、なんて現実逃避をしてしまう。
 むしろ、現実離れしていた。
 安アパートがここまで似合わない男がいるのか。ああ、目の前にいたな。
「なんで、いるんだ」
「……おかえり」
「おい」
 名刺で身元を知られているとはいえ、携帯電話の番号と名前、それから会社についてしか書いていなかったはずだ。住所を割り出せるはずがない。あからさまに話題を避けようとするルシフェルに対して、サンダルフォンは怪訝にならざるをえない。
 感動の再会、だなんて、喜ばれると思っていたのか。
 むしろ忘れようと必死になっていたというのに。努力を返して欲しいくらいだった。
「ここは防犯対策がなっていないようだが……」
「誰もがアンタみたいな暮らしができるわけがないだろ」
 ルシフェルの部屋をまじまじと見ていない。それどころではなかった。飛び出すみたいにして後にしたのだ。覚えているのは馬鹿みたいに高い天井と、一部屋をまるまる寝室に使っていたこと。それから揺れを感じないエレベーターに乗りながら数えた階層。数えたといっても、最上階だったから早く降りろとしか思っていなかったけれど。
 サンダルフォンは呆れる。確かにサンダルフォンの住まいは見すぼらしい。家賃の安さと二階の角部屋。それを差し引いても、そろそろ引っ越そうかと考えていた。家賃のお陰というべきか、貯金はたまっているのだ。引越しの手伝いにきた兄からは本当に住むのかと散々に確認をされたうえで、何度となく引っ越しを勧められていた。物件も紹介されている。言われても仕方がない。とはいえ、それを目の前の男に指摘されるとつい、言い返してしまう。
「なら、私の家で暮らせばいい」
「名案みたいに言うな。絶対に嫌だ」
 ルシフェルは残念そうにしょぼくれた。
 部屋の前で言い合いにもならない応酬を繰り返していれば、昼間とはいえ、迷惑になる。何処かの部屋から、うるせぇぞと怒鳴られサンダルフォンはびくりと肩を震わせてしまった。お前の所為だと、ルシフェルを睥睨すれば、ルシフェルは困惑どころか怯みもせずに、にこやかな微笑を浮かべるだけだった。
「叱られてしまったね」
「誰の所為だと思ってるんだ」
 ちっともわかってない男にサンダルフォンは疲れ果てる。
「部屋に入らないのかい」
 帰れと言っても微笑を浮かべて梃子でも動かないでいる男と、今度こそ怒鳴り込んできそうな勢いの住人とを天秤にかけたサンダルフォンは渋々と鍵を開けた。ルシフェルが入り込む前に、閉めてしまおうかと思ったが直ぐ真後ろに立つルシフェルに出来ずに、招き入れる結果となった。
 遠慮もせずに、部屋をきょろきょろとみているルシフェルの後ろ姿をみながら思う。
 コイツと、寝たんだよな。
 そんな人間を部屋にいれるだなんて自分もどうかしているのだろう。別に入れたくていれたわけじゃないにしても、だ。
「面白いものなんて無いだろ」
「そんなことはない。きみのことを知れるのは楽しいよ。本当に、珈琲が好きなんだね」
 片隅に置かれている器具を見ていうルシフェルにサンダルフォンは驚いた。
「……言ったのか?」
 ルシフェルは可笑しそうに「うん、言っていたよ」と笑った。
 サンダルフォンは自分の酒癖の悪さにバツが悪くなる。いよいよ、もしかしたらルシフェルだけが悪いわけではないのかもしれない。被害者はルシフェルだったのではないか。実は無理矢理襲ったのは自分だったのだろうかと、不安になってしまう。写真にしても、ルシフェルなりの誠意だったのかもしれない、とすら思ってしまう。そもそも写真を残すということが頭のおかしな行為なのだけれど、サンダルフォンは申し訳ない気持ちになってしまった。
「……時間は掛かるが、淹れようか」
 良いのかい、と妙に遠慮をする口ぶりではあるが、ルシフェルの顔からは期待が隠し切れないでいた。サンダルフォンはちょっとだけ、笑ってしまった。
 珈琲はサンダルフォンの趣味だった。最近は、あまり淹れることもなくなってしまった。資料集めだなんだと結局、慌ただしく、休みらしい休みは無い日々だった。
 長く淹れないでいたとはいえ覚えているものだった。
 久しぶりに淹れた珈琲を、均一ショップで買ったカップに注ぎルシフェルに差し出す。ルシフェルは一口飲むと、
「美味しいよ。お店が出せるんじゃないかな」
「どーも」
 大袈裟なお世辞だと分かっていても、美味しそうに飲む姿は嬉しいものがあった。自身でも単純だと嫌になる。久しぶりに淹れた珈琲を口にすれば、悪くはない味だった。
 穏やかな時間に、つい、忘れそうになっていた。
「連絡を待っていたのだけれど」
「するわけないだろう」
「そのようだね」
 そもそも勝手に入れられた連絡先だ。サンダルフォンはとっくに消している。
「だから会いに来た。会えなければ会社にいくつもりだったよ」
 ルシフェルはなんてことないように、楽しそうに言う。言われたサンダルフォンはといえば、何を言っているのかと理解できず、そして言葉を理解してしまい、青ざめた。ルシフェルは、有言実行するだろう。
「頼むから、やめろ」
「君が言うなら」
「俺が言うならって……なら俺の事も忘れろ。俺も忘れるから」
「それは出来ないね」
 考える素振りも見せずに即答される。ルシフェルときたら真剣な顔で言うのだ。真剣になる要素なんてどこにもないというのに、サンダルフォンはいっそ、戸惑い、困惑を浮かべてしまう。
「君のことは忘れない、君にも忘れられたくない」
「……安心しろ、忘れたくてもアンタを忘れられなかった」
 嫌味だ。どこもかしこもルシフェルだらけだったから忘れられずにいるだけのことだ。だというのに、ルシフェルはそうかと心底、嬉しそうに笑っていた。子どもみたいに、嬉しそうに笑うものだから、サンダルフォンは呆気にとられてしまう。
 珈琲を口にするルシフェルの横顔は、安アパートの色褪せた壁紙が、似合っていなかった。



 きっかけが体の関係とはいえ、あれ以来ルシフェルと肉体関係を持っていない。サンダルフォンが何を言っても、どれだけ無愛想に接しても、ルシフェルはふらりとサンダルフォンの家の前で待ちぼうけている。それからサンダルフォンを連れて、おすすめのコーヒーショップだとか、美味しいレストランだとか、遊び歩くのだ。
 ルシフェルの選ぶ店を最初は胡散臭く思っていたけれど、隠れ家のように落ち着いた店の雰囲気や味には、罪はない。
 何もかも順調だった。
 ルシフェルが何を思い、どんな理由でサンダルフォンに付きまとうのかは理解できないが、サンダルフォンにとってルシフェルという存在はテレビの中の存在から自分を犯した男となり、今では友人と、数えていい人間になっていた。
 テレビ番組に出ているルシフェルと、自分の淹れた珈琲を飲んでいるルシフェルは別人となっていた。
 ルシフェルの傍は、心地が良かったのだ。最初こそ、警戒をしていたけれど、警戒をするのも馬鹿みたいに思えていた。それこそ、ルシフェルの手の内だったのかもしれない。それでも、ルシフェルと遊びに行くのも、珈琲を飲むのも、サンダルフォンはいつしか、楽しんでいた。
 だから、すっかり忘れていた。
 ルシフェルの熱愛報道が駆け巡っていたとき、サンダルフォンは今季のドラマ特集の記事を書いていた。報道を知ったのは随分と、後になってからだった。
 お相手は映画で共演をしていた女優だった。
 前々から仲が良いと噂されていた、らしい。
 興味がないことだ。
「サンダルフォン、顔色悪いけど大丈夫?」
「近年稀に見る体調の良さだ。きみの勘違いだろう」
 体調はすこぶる良かった。会社の仮眠室での2時間睡眠でもばっちりと、脳は冴えわたっている。締め切り前に提出をした記事も、無事にチェックを通過した。
「あ、ねえ。携帯は見つかったの?」
「いや、まだ見つかっていない」
「困るでしょ。新しいの買ったら?」
 携帯電話を無くした。ピロピロと着信が鳴り続けるのが鬱陶しくて、なくしたのだ。結果的には、なくしたのだから、同じ事だ。過程が、偶然か、それとも故意であるのかの違いに過ぎない。思い入れがあるとはいえ、二世代も前の機種だ。
「そうだな、新しいのを買おうか」
 今が、買い換えるべきタイミングなのかもしれない。
 丁度異動となったのだ。
 サンダルフォンが熱望していた社会部だ。記者の一人が退職をするらしく、穴埋めとして一時的な異動だ。それでも、サンダルフォンは嬉しかった。有難かった。
「なあ、この前言っていた部屋ってまだ大丈夫か?」
 異動祝いとして兄に奢らせた食事をとりながら尋ねれば、兄は驚いた顔をしながらもやっと引っ越す気になったのかと嬉しそうにしていた。
 さっさと、引っ越しをすればよかった。持っていくものは、パソコンだけでいい。服は全部捨てよう、珈琲を淹れるための器具も、カップももったいないけど、買い換えよう。全部、新しくしよう。
 思い出して、つらい。
 引っ越しの手続きをするために、一度戻る必要があった。いっそ業者に全て任せて処分してもらおうかと考えたものの、貴重品がある。何より立ち会わなければならない。それならばいっそ全部自分一人でと考えて、サンダルフォンは仕方なしに有休をとった。
 いつもは、週末であったから、あるいは、夜であったから、いるはずがないと、思っていた。
 カツン、とヒールが甲高い音を奏でる。夜間には気を付けて昇るようにしているが、今は昼間だからと気にせずにいた。
「あ、」
 蹲っていた人影が、のろのろと顔をあげた。憔悴しきった顔が、サンダルフォンを見つめる。
「まってくれ!」
 その声があまりにも悲痛だったから、サンダルフォンは一瞬、駆けおりようとした階段から、こつりと、静かにヒールを鳴らして、部屋の前に立つ。蹲っていた男にサンダルフォンの影が落ちる。
 見下ろした男はひどく、小さく見えた。
 一体、いつから居たのだろうか。顔色の悪さにサンダルフォンは心配になって、その心配を振り払う。知らない、心配なんてしていないと、言い聞かせる。
「電話を、掛けたのだけれど」
「……無くした」
 素っ気なくサダルフォンは返した。ルシフェルは泣き出しそうな顔で、サンダルフォンを見上げている。演技だ。全部。こいつは、俳優だ。それこそ、世界規模で活躍している。騙されるな。それから、頭を振る。意固地になって、馬鹿みたいだ。だって、ただの友達。友達なのだ。悔しいだけだ。何も、知らされていないのが。ただ、それだけ。だから関係ない。
「言ってくれたら良かったのに」
 サンダルフォンはなんてことないように声に出していた。
「なにを」
「付き合ってるってこと。別に、記事になんてしないさ」
「付き合ってなんていない、彼女とは仕事仲間だ」
「どうだろうな」
「サンダルフォン、どうか、信じてほしい」
 泣き縋られて、サンダルフォンは天を仰いだ。部屋番号のかかれたプレートは、よく見たらあちこち欠けていることに初めて気づく。
「どうしたら、信じてもらえる?」
「なぜそうまでして信じてもらいたいんだ。アンタの恋愛なんて」
 どうでもいい。そう口にしようとして声が出ずにいた。苦しい。いくつもの水滴が頬を伝う。雨が降っているのか。そんなわけない。廊下とはいえ、屋根がある。だから、この水滴は、
「なぜ、泣いているんだい」
 ぎょっとしたルシフェルが、慌てて立ち上がると、長く寒空の下で待ちぼうけていた、氷のほうが温かいのではないかと思う手がサンダルフォンの涙をぬぐう。
 久しぶりに涙を流した。泣き方を忘れている。泣き止み方なんて思い出せない。サンダルフォンは情けなさと恥ずかしさで、顔を覆う。湧き出たみたいに、壊れたみたいに涙があふれる。
 友達だ。そうだ。友達の恋愛事情になんて興味はない。彼に恋人が出来たといっても、遊ぶ頻度が減るくらいだ。その程度だ。だから、サンダルフォンは言い聞かせる。言い聞かせなければ、気づいてしまう。必死に、気づかないふりをしていた、隠していたのに。
「泣かないでほしい……どうしたら、泣き止んでくれる?」
 おろおろとするルシフェルを、サンダルフォンは見つめる。
「だったらここでキスして」
 出来っこない。呆れて、軽蔑して、それで、もう二度と会うことはない。ルシフェルは目を丸くしている。ああ、さようならだ。
 もう、友達になれない。
 戻れない。
 終わりだ。



 キスが降る。
 額に、眦に、瞼に、鼻先に、唇に、降り注ぐ。
 するはずがないと、たかをくくっていたサンダルフォンは、目を丸くしてしまう。ルシフェルは、笑みを浮かべている。
「泣き止んだ」
 見上げたルシフェルは、きらきらとしていた。だから、サンダルフォンは認めてしまう。
 好きだ。
 この、人の心を理解できない怪物が、好きなのだ。
 自分勝手で、ちっとも、サンダルフォンの都合を考えない。
 気づきたくなかった。認めたくなかった。だって、気づいたところで虚しさだけしか残らないでいる。サンダルフォンが恋しいと思ったところで、実ることはない。ただ、腐るだけでしかない。
 じくじくと、痛みがあふれ出す。
 ずきずきと、苦しみが声をあげる。
 ほろほろと、零れる涙を、ルシフェルが悲しそうに拭った。
 体から始まったのだから抵抗感なんてないのだろう。スキンシップを好んでいた。触れたがるところがあった。キスなんて、ルシフェルにとっては特別でも、なんでもない行為だ。
 浮かれた気持ちが一瞬で、沈んでいく。
「好きって言って」
「……好きだよ、サンダルフォン」
 言いなれていると、思ってしまった。
 当然だ。相手は俳優だ。幾つもの、ラブロマンスにも出演している。美しい女優を前にしても愛してると、泣きながらに、台詞を口にする男だ。演技を評価されて、受賞もしているのだ。そんなの、分かりきっていたことだ。
 俳優であるルシフェルを知っている。
 主演本人と共に見たスクリーンのルシフェル。手が届かない存在。本来は、そんな、相手なのだ。
 アパートなんて似合わない。
 女優と共に高級レストランで撮られるのが当たり前みたいな、存在なのだ。
 サンダルフォンは、悲しくなった。
 ルシフェルは、泣き止ませたいだけなのだ。サンダルフォンが言ったから、ただ実行しているだけ。サンダルフォンの抱いている想いと、ルシフェルの抱く想いは違うのだということを、実感してしまう。
 痛くて、悲しくて、苦しくて、つらい。
 こんな想いに気付かなければよかった。
 友達としてふるまっていれば、良かった。
「抱きしめてもいいかい」
 嫌だと言う前に、抱きしめられる。人の話を聞かない。聞いても、聞いてくれない。どうしてこんな男を好きなんだろう。違う。好きなんかじゃない。絆されただけだ。ただ、名残惜しいだけだ。有名人だから、そんな相手と関係を築けて、得意になっているだけだ。
 こんなのは恋なんかじゃない、勘違いだと、言い聞かせているのに、言い聞かせたいのに、ルシフェルはそんなサンダルフォンの努力を踏みにじる。
「サンダルフォン、好きだよ」
 言わせているのだと思うと、なんて薄っぺらいのだろう。
 抱き寄せられる。
「っ」
 うるさいくらいの鼓動は、ともすれば、破裂しそうな勢いだった。ドクドクと、伝わってくる。壊れてしまうのではないかと、心配になる。サンダルフォンは、おずおずと、ルシフェルを見上げた。
 ルシフェルは目を伏せていた。なんでもないような、いつもの、すました顔だった。すました顔のくせ、心臓は、ばかみたいに、うるさい。サンダルフォンはそっとルシフェルの胸に、顔を寄せた。
 やはり、うるさい。
「サンダルフォン、やめてくれ」
「抱きしめたいと言ったのは、アンタじゃないか」
「そう、なのだけれど」
 ルシフェルはやめてくれ、なんて言うくせにサンダルフォンを突き放したりしない。抱きしめたままだった。だから、サンダルフォンはちょっとだけ、少しだけと、言い訳をする。
「……嬉しくて、死んでしまう」
「嬉しい?」
 サンダルフォンは期待交じりになってしまう自分が隠せないでいる。そうだったら、良いのになんて、期待ばかりが込み上がってしまう。期待すればするほどに、勝手に落ち込んで不貞腐れると分かっているのに、それでも、隠し切れない。
「君を抱きしめられて、嬉しいんだよ」
「どうして?」
「サンダルフォン……」
 勘弁してほしいというように、情けない声を出したルシフェルにサンダルフォンはちょっとだけ悪戯な気持ちがわき上がっていた。
 散々に振り回されたのだから、なんて意地悪な気持ちと、それから知りたい。
 涙なんて、すっかり、引っ込んでしまった。
「言わなきゃわからない」
「……きみのことが、好きだからだよ」
 心臓が、また一段と、跳ねた。
「初めて、触れたいと思った」
 サンダルフォンは何も言わないまま、鼓動に耳を傾ける。
「初めて、欲しいと思った」
 自分の心臓の音も、聞こえているのだろうか。
「初めて、恋をした」
 思い出したみたいにどくどくと煩く、跳ねている心臓は、このまま壊れてしまっても、きっと本望だ。
「好きだ、サンダルフォン」
 嘘。
 もうちょっと、幸せを噛みしめていたい。
「サンダルフォン、きみは?」
「……俺は、男相手にキスなんてねだらない」
「言わなきゃわからないから」
 ルシフェルが悪戯っぽく言う。
 自分がついさっき、口にした言葉を返されて、サンダルフォンは唸る。それから、
「好きだから。ルシフェル、アンタのことが好きだからだよ」
 うん。ルシフェルは、喜んでいるのかよく分からない風に、なんでもないみたいに、首肯した。抱きしめられる力が強くなって、サンダルフォンは息苦しさを覚える。だけど、離れたくなくて、カンカンと、階段を上がってくる音に気付いて慌てて、離れた。
 離れて顔を見合わせて、馬鹿みたいに笑ってしまった。
 怪訝な顔をする、名前の知らない、顔だけは知っている住人から逃げるみたいに部屋に入って、また笑って、それから、キスをした。
 良く晴れた、真昼のことだった。
 何日も空けていた所為で部屋は黴臭さがある。そんな空気も気にならずに、何度も繰り返し、キスをする。
 確かめ合うみたいに触れる。
 冷たいはずの手は熱をもって、汗ばんでいた。
 ルシフェルの心臓も、サンダルフォンの心臓も相変わらずうるさかった。
 サンダルフォンが見上げたルシフェルはやっぱり、色褪せた壁紙と低い天井の似合わない、優しい顔をしていた。

Title:馬鹿の生まれ変わり
2020/09/28
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