ピリオド

  • since 12/06/19
 その横顔があまりにも幸せそうで、優しかったから、サンダルフォンは決意した。決意をしてしまった。薄々と勘付いていたから、ショックは無かった。裏切りだと傷つくこともない。所詮は、親の決めた関係であった。家同士の繋がりを求める婚約だ。サンダルフォンの意思もなければ、ルシフェルの感情もない。ただ、サンダルフォン一人がその関係を、心から、嬉しく思っていただけに過ぎない。それだけのこと。傷つくことは無い、悲しくなんてないと自らに言い聞かせる。何でもないふりをするのは、得意なつもりだ。
 込み上がって来たツンとしたものをのみこんだ。
 サンダルフォンはそっと、その場を離れた。煌びやかな陽射しが注ぐ婚約者様と女生徒は、世界から祝福されているみたいに思えた。ひとり、ぽてぽてと歩く姿の、なんと惨めなことかと、サンダルフォンは自嘲を浮かべた。ぼんやりと歩いているうちに家に着けば、今に限って会いたくもない従兄がサプライズよろしく、連絡もなく当然のように滞在していて、軽薄な笑みで出迎えるのだから嫌になる。
「サンディ、どうした? いじめられたのか」
 ニヤニヤと笑っている従兄に、言い返そうとしたのに言葉は出てこない。ぽたぽたとサンダルフォンの意に反したのように、頬が冷たい。ぎょっとした従兄の顔を珍しいと思いながらサンダルフォンは頬を伝うものを止める術を思い出せずにいた。慌てる従兄がおかしくて、サンダルフォンは笑ってやりたかったのに喉からはしゃくりあげる音しか出てこないでいる。
 好きなのだ。
 認めたところで、空しいだけだ。
 だって、どうして想う人がいる婚約者に振り向いてもらえるというのだ。

 ルシフェルは端正な顔を曇らせていた。きっと意識はしていない。無意識な嘆息に、心配どころか不快感を示したのは兄であるルシファーだ。
「鬱陶しいぞ」
「……すまない」
 謝罪を口にしつつも、またハァと繰り返すのだからたまったものじゃない。別段にルシファーはルシフェルのことを疎ましく思っているわけではない。ただ、ルシフェルの憂鬱の原因に関わりたくないだけである。
 ルシファーはルシフェルとサンダルフォンの婚約を好ましく思っていない。サンダルフォンに、ルシフェルは勿体ない。ルシフェルにはもっと相応し相手がいると考えている。だというのに、ルシフェルときたら、何が良いのか、サンダルフォンに夢中で、他に目も呉れない。元よりサンダルフォンの家には何ら価値はないのだ。釣り合わないのは向こうの家も承知の上で、断ることが出来ない。両親もルシフェルの滅多にないわがままを子どものうちだからと笑っていたというのに、今では笑えないでいる。
「サンダルフォンと予定が合わない……今週は一度も顔を見ていないし声も聴いていない」
「たかが一週間だろう「一週間も、だ」
「……アレも学生だ。試験前で勉強でもしてるんじゃないか」
 ルシファーにとって興味のない存在であるものの、なまじ記憶力が良いだけ、サンダルフォンの成績について覚えがある。成績上位者だと記憶している。
「勉強なら、私が見るのに……」
 愛らしい婚約者を瞼に思い描き、ルシフェルは憂鬱なため息を吐き出した。電話をしても都合があるだろうからと、声を聴きたいと思う気持ちを抑え込んでメールを打つ。彼女が興味を示した珈琲を仕入れている喫茶店を見つけのだ。喜んでくれるといいのだがと思いながら送信をする。

 試験前の休みにサンダルフォンはベッドの中で蹲っていた。勉強に身が入らない。机に向かって、問題集を広げてもぼんやりと文字が浮かび上がっていくだけだった。今回の試験は散々だろうなと諦めている。
 何もかも、どうでも良い気分だった。
 携帯端末が通知を告げる。その通知に、申し訳ないという気持ちと同時に、捨て去りきれない執着染みた嬉しさが隠し切れずに、サンダルフォンは情けなくなる。
 勉強で分からないところはないだろうかと気遣う文面と、以前会話の中で口にした珈琲を取り扱う店があるから一緒に行こうというお誘いだった。
 覚えていてくれたんだと、胸が震える。たった一度だけ、口にしただけだった。そんな、些細なことも記憶していてくださった。

 サンダルフォンは今年14になる。3つ年の離れたルシフェルは、サンダルフォンにとって大人だった。とても、意地悪ばかりをしてサンダルフォンを困らせる従兄と同い年とは思えない。初めて会った時から、幼心に憧れていた。憧れの延長のように、ルシフェルの真似をした。サンダルフォンを形作っているのはルシフェルであるといっても過言ではない。
 ルシフェルの真似をして飲み始めた珈琲は、好ましいものになっている。

 ルシフェルとの婚約は10年続いている。サンダルフォンが4つ。ルシフェルが7つの時だ。サンダルフォンの記憶にはいつだってルシフェルがいる。誕生日や記念日、発表会といったイベント。いつだってルシフェルがいて当たり前だった。幼心に、ルシフェルがどこか遠くの存在であるとサンダルフォンも認識していたけれど、それでもルシフェルはそんな立場を気に掛けることなく、サンダルフォンに優しかった。その優しさを、勘違いしてしまったのは、サンダルフォンの落ち度だ。
 サンダルフォンは間違えてしまった。
 ルシフェルの優しさを、自分だけと勘違いをしてしまった。思い上がって、勝手に、恋をして、傷つくだなんて、と己の愚かさにまた胸が締め付けられる。

「馬鹿だなあ、サンディ」
 ベリアルは従妹を気に入っている。分家の娘であるサンダルフォン。その上には優秀な兄であるメタトロンがいる。別段に、サンダルフォンの婚姻関係なんて本家は勿論のこと、ルシフェルの家にだって影響を及ぼさない。デメリットはないが、メリットもない。だというのに、あのルシフェルときたらよちよち歩きだったサンダルフォンをひと目見て気に入ってしまったのだ。その横で同じく7歳ながらのベリアルは生まれて初めて人が恋に落ちる瞬間を目の当たりにしてしまった。それも同い年で面白みのないただただ見た目だけが整った少年が生まれ変わったかのように変化したのだ。
 ベリアルは愉快なことが好きだ。だが、それはそれとして人並み程度には家族愛はある。分家だ本家だと隔てられていても、一人っ子であるベリアルにとってはサンダルフォンは妹も同然の存在だ(その兄であるメタトロンとは年が離れている)
「お前が身を引くことなんてないだろ? どんと構えていたらいいさ」
「だめだ。それじゃ。だって、それじゃ、ルシフェルさまだけが、」
 ルシフェル様、なんて呼ぶほどにサンダルフォンは参っている。ベリアルは天蓋が垂れるベッドの端に座る。サンダルフォンは甘やかされて、箱入りの世間知らずだ。家柄だって、容姿だって身内贔屓を否定できないものの、悪くはない。隣にルシフェルなんていう悍ましく整った男がいるだけで霞がちだが、サンダルフォンは愛らしい容姿をしている。幾らだって我がままになっていいというのに、サンダルフォンときたら卑屈だった。自己肯定力が低くてルシフェルの言葉でも遠慮をする。
「お前はルシフェルが好きなんだろう? なら良いじゃないか」
「だめだ。それじゃあ、ルシフェルさまは幸せになれない」
「お前と結婚するんだから、アイツだって幸せだろ」
「そんなわけない。だってルシフェルさまは心から想っている方がいらっしゃる」
 ベリアルは目を丸くする。布団に包まり丸まったサンダルフォンにはその表情なんて知る由もない。
 まさかそんなはずこそない。
 別段にベリアルはこの婚約にもろ手を挙げて大賛成なんて立場ではない。本家の息子として、次期に当主になるであろう立場であれば賛成なのだろう。ルシフェルの家と繋がることはメリットしかない。しかし立場を抜きにしたら、可愛がっている妹分を嫁がせるにはルシフェルは不安の塊でしかない。真面目の塊。とはいえ、ルシフェルの本気もうんざりするくらいに知っているのだ。あのルシフェルが、浮気だなんてありえない。ベリアルは真っ先にそう思った自分に、気分が悪くなる。ルシフェルの肩を持つつもりは毛頭に無い。だが、それだけは真っ先にないと、ベリアルにすら確信がある。
「思い違いじゃないのか?」
「……お前はルシフェルさまのともだちだもんなっ」
 分家の言葉なんか、信じるわけないよな!ふん、と不貞腐れた様子のサンダルフォンに、ベリアルは頭をがしがしとかきむしる。アイツと友達なんて関係を否定はしたいがサンダルフォンといえば聞く耳すら持たないでいる。整髪剤でまとめていた髪は乱雑に乱れるが気にした素振りはない。

 試験を終えた。ああ散々な結果だろうなとサンダルフォンは憂鬱な息を吐き出す。家族は、サンダルフォンの不調を知っているから小言はないだろう。それどころか休んでも構わないなんて言うのだ。学生なんだからとサンダルフォンは苦く笑って、試験を受けたものの今までに味わったことのない虚無感でいっぱいだった。どうにか解答用紙を埋めたものの、達成感はなく、試験時間があっという間に過ぎてしまった。早く、帰らなければ。優しいあの人は、婚約者の務めを果たしてしまうから。
「良かった、間に合った」
 少し息を切らせた様子のルシフェルに声を掛けられてサンダルフォンは目を丸くする。そして、切なさできゅっと喉を締め付けられる。如何に自分が、彼の負担であるのかを自覚せざるをえない。婚約者としてふるまうこと、周囲に示すこと。サンダルフォンは、恥ずかしいことに、気に掛けたこともない。ただ、ルシフェルの隣にある存在にならなければと意気込んでいただけだった。そんな自分が、恥ずかしくてならない。自分のことばっかり。
「試験終わりだと聞いてね」
 試験の終わりにはいつもルシフェルに招かれて彼の住む屋敷にお邪魔していた。サンダルフォンにとって、試験終わりの御褒美のような時間だった。だけど、今になって、何もかもが、ルシフェルを縛りつける義務でしかなかったのではないかと、後悔を覚える。
 用事があるからと言ってしまえばいいのに、言えない。
 サンダルフォンは意気地のない自分に、欲張りで我がままな自分を不甲斐なく恨めしく思いながらも隣を歩くルシフェルが好きで好きで、諦めきらない想いを自覚する。

 サンダルフォンの家も決して小さくはない。それでもルシフェルの家には遠く及ばない。「こんなに広いと迷っちゃいそうですね」なんて初めて訪れた時には口にした。ルシフェルは目を瞬かせてつまらない冗句にも真剣に「なら私がきみを見つけるよ」なんて答えてくれたっけと、サンダルフォンは懐かしくも、恥ずかしい記憶が呼び起こされてしまった。

 ルシフェル自らが用意をした珈琲と、それからシフォンケーキがガーデンテーブルに並び、ルシフェルとサンダルフォンは向かい合う。思えば十日間も会わないでいた。病気をして会わない日もあった。特に、今でこそ寝込むことは少なくなったとはいえサンダルフォンは体が弱く、幼い時分には入院も珍しくはなかった。それでも、ルシフェルは欠かさず見舞いに来てくれた。
 優しい、人だ。
 立場を理解したうえで、それでも婚約という関係を重んじてくれる。己を、省みることを知らない人。

 何を、言えばいいのだろう。どのように切り出せばいいのだろう。自分から、切り出していいのだろうか。今になって不安を覚える。自分ごときが、この人の痂疲になるとは思えない。
 言葉を紡ごうとして、声が乗らない。終わりたくない。終わらせたくないなんて、わがまま。ずっとこのまま、この人にとっての唯一でありつづけたい。でも、ダメだ。これ以上は。
「ルシフェル様に、御願いがあります」
「御願い? なんだい?」
「婚約を、解消してください」
 するりと、ルシフェルから表情が消える。サンダルフォンは一瞬だけひるみながらも、ぎゅっと、掌を握りしめる。緊張で、冷たくなった手がじんわりと汗ばむ。
「なぜ?」
 威圧されたサンダルフォンは想定していた問い掛けに応じた解答を用意していた。どうにか、震える声になりながらも伝える。
「貴方には、もっと相応しいひとがいます」
「……誰かに、言われたのかい?」
 ルシフェルが、それまでも威圧的な態度が嘘のように気遣うように問い掛ける。サンダルフォンは金縛りからとけたみたいに、首を振れば、ルシフェルが怪訝に眉を寄せた。サンダルフォンはやっと、息が出来るような気持だった。
「誰に言われたわけでもありません。自分の意思です」
 悲しくなる。情けなくなる。どう足掻いても、サンダルフォンはルシフェルにはふさわしくはない。
「……それに、10年ですよ?」
 10年があれば、取り巻く環境は変わっていく。ルシフェルは顕著だった。人形のように愛らしい容姿から見た目麗しい姿に成長をして、そして分け隔てのない優れた人格者。彼を慕う人間は多い。容姿だけでなく、家柄、才覚。
 サンダルフォンは柔らかく守られていた胸に付けられた幾つもの傷跡を思い出す。釣り合わないということは、サンダルフォン自身が誰よりも自覚をしていた。なぜ自分なのだろうかと不思議に思ったのは数えればきりがない。
「私が、今も、いや……10年前から想っているのはきみだけだよ。サンダルフォン」
 甘く囁かれて悲しくなる。嘘をつく必要なんてない。これ以上、自らを犠牲にしなくたっていい。サンダルフォンが別に捨てられたって恨んだりしない。憎んだりしない。だって今の今までルシフェルはサンダルフォンのことを「婚約者」として正当に扱ってくれた。その恩を、仇で返したりなんてしない。
「あなたに、幸せになってほしいんです」
「君といることが私の幸せだ」
 サンダルフォンは首を振る。そんなわけない。だって、知らなかった。サンダルフォンは10年の間みたことがなかった。あんなにも優しさでいっぱいのルシフェルの横顔を、サンダルフォンは知らない。嬉しさを隠しきれていない、感情を、溢れさせる姿を見たことが無い。いつだってルシフェルは紳士的であった。それは、婚約者であるから。立場であるから。関係であるから。サンダルフォンは幸せだった。10年間。ルシフェルに愛されている、大切にされていると、勘違いでも、思い違いでも、幸せに扱われた。
「どうしたら、信じてくれる?」
 ルシフェルなりに、大切にしてきた。何もかも、ルシフェルの我ままであると承知の上で、それでも彼女が、サンダルフォンが自分以外の誰かの隣にいることを許せないでいる。
 嫌われてはいないと、自負をしていたつもりだった。嫌われたりなんてしたら、生きていけないことはルシフェルは知っていた。兄であるルシファーが聞けば何を言っているんだと呆れるだろうが、だけど、本気だった。ルシフェルの心臓は、サンダルフォンだ。サンダルフォンがいるから、ルシフェルは生きていられる。そんな彼女に否定されることは恐ろしくてならない。
 4歳のサンダルフォンと目が合って、にっこりと笑う姿に心奪われたのはルシフェルだった。両親を説き伏せて、兄に呆れられても、それでもルシフェルの生きてきて初めての我ままだった。
 成長してもサンダルフォンの存在はルシフェルの中で揺らぐことのない存在として根付いていた。

「私との婚姻が、嫌なのか?」

 冷たい声音だった。ぞっとするような、声にサンダルフォンは怯みながら、それでも、どうにか、首肯する。
 嘘をついた。
 はじめて、背いた。
「そうか」
 ルシフェルの言葉、一つ、呼吸、一つがサンダルフォンの心臓を締め付ける。不安なのか、悲しいのか、苦しいのか分からない。途方もなく、さ迷う気持ちだった。
 納得をしたような声音。
「……私は、君の願いならなんでも叶えるつもりだ」
 知っている。ルシフェルはいつだって優しく、サンダルフォンの我ままを聞いてくれていた。
「だけど、それは叶えられない」
 サンダルフォンはびくりと肩を揺らす。
「サンダルフォン、私は君を手放すつもりはない。たとえ、君が私を憎悪しても、嫌悪しても、だ」
「な、ぜ」
 震える声は絶望を帯びていた。
「なぜ? 言っただろう。君の事が好きだからだよ。愛しいから。それだけだよ」
 我がままな子どもに言い聞かせるみたいに、優しく囁くルシフェルにサンダルフォンはぽたりと我慢しきれずに涙があふれたから。嬉しいから、じゃない。悲しいから、じゃない。ただただ、ルシフェルという存在に、恐怖を覚えた。憎悪しても、嫌悪しても、だなんて。そんなの、愛なんかじゃない。

 サンダルフォンは、知らない。
 優しく、守られてきたから。
 残酷に、囲われていたから。
 サンダルフォンはいつだって、愛されていたのだ。
 ルシフェルの残酷なまでに深く重い愛を、サンダルフォンは知らないまま、気づかないでいただけだ。

 ルシフェルは優しく微笑む。もはや、取り繕うことはない。怖がらせぬようにと、律するつもりはない。気づかないでいた、知らないでいた彼女に如何に自分がサンダルフォンというただ一人の女を求めているのかを、知らしめなければならない。

Title:うばら
2020/07/30
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