ピリオド

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 背を伸ばしても背表紙をなぞることも出来ない。紙魚の餌場のような古書店は翼を広げるには手狭な上に、きょろりと見渡しても脚立は置いていないようだった。店主に声を掛けようかと覗けば、常連客と話に花を咲かせていた。
 さてどうしたものかと、考えてから、もう一度と爪先立ちで精一杯に腕を伸ばしても、一瞬だけ、背表紙に爪が当たっただけだった。
 不意に暗くなる。
「こちらですか?」
 ルシフェルが取ろうとしていた本をひょいと手に取ったサンダルフォンは、ヒールを履いているとはいえ苦心をした様子はない。静かな微笑を浮かべて、手にした本をルシフェルに差し出す。
「声を掛けてくださいね、お取りしますから」
 純度百パーセントの善意である。嫌味なんてちらりともない。わかっている。役に立てましたかと言わんばかりのきらきらと輝く瞳に、子犬の耳と尻尾が見えた気がした。安寧と思う気持ちは変わらぬというのに、ルシフェルは苦いものを噛んだみたいな気持ちになって、曖昧な表情を浮かべてしまった。
 サンダルフォンは戸惑いがちに言葉を掛けた。
「こちらではなかったでしょうか」
「いや、合っているよ。有難うサンダルフォン」
 感謝を口にすればサンダルフォンは頬を色付かせて、にっこりと笑みを浮かべた。対してルシフェルは、どうにか笑みを浮かべようとするものの、ぎこちない。感謝を述べた甲高い声も、自らのものとして中々認識出来ない。
 ルシフェルは不意に、友はこういう気持ちだったのかと二千年越しに理解をした。

 ルシファーは別段、華奢という訳ではない。ある程度の戦闘技術を身に着けていたし、そこいらの刺客ならば一人でボコボコに返り討ちに出来る。デスクワークがメインの研究者であり、そして研究所所長という立場であるから、自らの研究と同時並行しての執務のため、数日間の不眠不休も珍しいことではなかった。とはいえ、体力が有り余っているわけではない。アドレナリンとドーパミンが溢れ出した一種の興奮状態のため、一段落すればぐうすかと眠る。
 つまるところ、ルシファーという男は頭脳こそ突出しているものの、星の民としては平均的、あるいはやや丈夫程度の肉体であった。
 別段ムキムキの筋肉だるまに憧れていたわけではない。寧ろ、むさくるしい、気持ち悪い、美意識に反すると思っている。自らの肉体に不満はないし、筋肉があったところでルシファーには無用の長物である。しかし、男として、筋肉への憧れが皆無という訳ではなかったし、物理的に見下ろす連中には膝から下が複雑骨折をしないだろうかと思う程度に秘めた嫉みがあった。
 というわけで、ルシファーが無意識化に自らを補う存在として造りだしたルシフェルは、全体的な造りとしてルシファーと類似しているものの筋肉や背丈などには、ルシファーの無意識の羨望に等しい男性らしさが詰め込まれている。まさにルシファーの理想の俺である。
 満足な出来である。
 最高傑作である。

 造られてからルシファーの研究や実験の手伝いを務めることは決して珍しいことではなかった。ルシフェルも、手伝いに駆り出されることへの嫌悪はなかった。不意に、手伝いをした際にふと、ルシファーが顔を歪めて、盛大な舌打ちをするのはなぜだろうかと疑問に思うのだ。よくやった、などと褒められたりだとか、感謝を求めたりだとかの行動ではない。そもそも、ルシファーがわざわざ脚立を持ってきて資料を取り出すよりも、ルシフェルがちょっと腕を伸ばして取った方が効率的であるだけのことだ。友であり創造主であるルシファーの性質をルシフェルなりに理解をしているつもりだ。効率性を重んじる。だというのに、なぜだろうと不思議でならない。
 同じく、研究や実験の手伝いをする頻度の多いベリアルに抱いた疑問を口にした。
「なぜ最初から私たちに命じないのだろうか。友よりも私たちが動いた方が時間も短縮出来る。効率的だろう。君もそうは思わないか」
 言葉を聞いたベリアルは驚くよりも、ルシファー本人がいない事に安堵をした。
「自分で動いた方が早いって思ったんだろう? まあ、これからも気付いたときに動けばいいさ。いちいち口にするもんじゃない。君だってファーさんに恩を売りたいわけじゃないんだろ?」
 ルシフェルはそういうものなのだろうか、と思うだけだ。ベリアルの言う通り、別段ルシファーに恩を売りたいわけでもなく、ただの効率化を求めたに過ぎない。ルシフェルが、効率的に動いた結果である。その結果としてルシファーのそんじょそこらの自信過剰家であっても参りましたと言わんばかりのプライドにそこそこの威力のパラダイスロストを打ちこんだ挙句の巻き込み事故を食らい掛けたベリアルはどうにか生きた心地を取り戻す。ルシフェルのことを贔屓しているルシファーが、うっかりと無意識な態度で不快感を表しているというのにルシフェルが気づいていないことが愉快を通り越して不具合じゃないのかと疑ってしまう。
 ルシフェルとルシファーは絶対的に間違えられない。ルシフェルの背中の六枚羽だけではない。ルシフェルと並び立つと顕著に、ルシファーは小柄に感じるのだ。断じて小柄ではなく、寧ろ研究者として机にかじりついている部類としては鍛えられている。だというのに、か細く思われてしまう。
 ルシフェルはあまりにも完成され過ぎていた。
 もっとも、ルシファーの理想のままに造られたルシフェルの知ったことではない。しかし、今になって、なるほど彼は不愉快であったのかと、こういう気持ちであったのかとルシフェルは理解が追い付いた。今ここにルシファーがいたならば、今更だと鼻で嗤ったに違いない。

 幾つもの奇跡が重なってルシフェルは再び、空の世界に顕現をすることが出来た。
 ルシフェルの肉体は空の民のように栄養を摂取して規則正しい生活を送ったところで成長をする代物ではない。現に、つい一週間前にはサンダルフォンの腰ほどの背丈であったというのに、今では胸に届くか否かという、目を見張るどころではない成長速度である。
「あと何日で僕の身長は抜かれると思う?」
 グランはひやりと汗をかいたがサンダルフォンはふふんと笑った。
 歩き出そうとしてもバランスを取れずにころりと転がることも、持て余した力を扱い切れずに顕現させた羽の勢いでころりと転がることも、やっと歩けたと思ってもよちよちとままならぬことにも、ルシフェルはやきもきとしていた。サンダルフォンの介助が無ければ何も出来なかった肉体も、やっと、少年というくらいの年ごろになったのだ。かつて呼吸をするが如く自由自在であった力の駆使は、殆どが感覚的な操作であり、零からの構築にルシフェルはやや苦心をした。力を取り戻せばその分だけ、肉体的成長を見せた。肉体に力が行き渡る感覚は懐かしくさえあった。
「流石はルシフェル様だ」とサンダルフォンはルシフェル以上に、グランにどうだと言わんばかりに自慢気に得意な様子で報告をして苦笑いをされた。

「この勢いならばすぐに元の体躯に戻れるかもしれませんね」とサンダルフォンはルシフェルの髪を乾かしながら言った。プラチナブロンドが指の間をすり抜けていく。癖のある自分の髪では中々に見られない光景だ。
 湯浴みという行為は天司であった頃には馴染みが無かったが、さっぱりと心地よく、身も心も清められたようで気に入っていた。再顕現をしたばかりの、幼い時分のままに世話を焼こうとするサンダルフォンに戸惑いと困惑がある。隙あらばお世話、と言わんばかりに体を洗おうとしたり髪を洗おうとするサンダルフォンを制止をするものの、サンダルフォンと並んで湯に浸かることや、髪を乾かされることは嫌いではなく、好ましく思っていた。
 こくりと船を漕ぐルシフェルをサンダルフォンは起こさないようにと寝台に押し込めた。むずがる姿はただの子どものようで微笑ましく、サンダルフォンはあやすように、おやすみなさいませと、習慣となっている、額と頬に、口づけを落とした。安心を覚えたようにルシフェルはすやりと寝息を立てる。
 翌日になって、また少しだけ目線が高くなった。サンダルフォンの肩に届くか否かという具合だ。ルシフェルは嬉しくなって、サンダルフォンと二人で珈琲の解禁をした。幼い団員が真似をするからと、ルシフェルはある一定の身長になるまで珈琲を禁止されていた。本来ならば年齢で制限をしているのだが、例外である。久しぶりに飲んだサンダルフォンの珈琲は変わらず美味しくて、何よりもまた二人で飲めるということが幸せでならなかった。
 その翌日、ルシフェルは今日はあまり変化がないなと自覚をしていた。焦っても仕方ないと自分に言い聞かせた。しかし、それからルシフェルの成長速度は途端に落ち着いてしまった。かといって、かつての力が馴染んだわけではなかった。
 ルシフェルには思い当たる節があった。

 魔物の討伐依頼へと同行をしたサンダルフォンをもどかしく見送った。そんなルシフェルに声を掛けても、「ああ」だとか「そうか」だとか気もそぞろな空返事だけで、居残った団員たちは微苦笑を浮かべた。ルシフェルは決してサンダルフォンのことをか弱いだと思っていない。それどころか、天司長を任せるに値する強さを宿していると信頼を寄せている。とはいえ、どうにも落ち着かない。甲板をそわそわと行ったり来たりを繰り返している。
 依頼内容は魔物の討伐依頼といかめしいが、数は多くはない。しかし油断は禁物、万が一にと気を引き締めていた。依頼を引き受けたグランも、それから同行メンバーにも、気の緩みは無かった。森の奥深くが湿地帯になっていて、足を取られるのは予想外であったが、天司であり、空を飛べるサンダルフォンには不利な状況ではない。サンダルフォンにとっては、だ。空から魔物の動きを見ていたサンダルフォンは気付くと、声を掛けるよりも、体を動かしてしまった。後悔はない。空の民よりも丈夫であるし、治癒機能にも自信があった。
 帰ってきた一行をいち早く出迎えたのはルシフェルだった。一行といっても、目的はサンダルフォンであることを団員たちは知っている。帰ってきたサンダルフォンに頬を綻ばせかけてから、ルシフェルは険しく、眉を寄せた。
 サンダルフォンからは鉄錆の臭いがした。
 肉体の損傷は自動修復であっても、衣類に関してはその対象ではない。これが原因だろうなとサンダルフォンは察知した。
「もう治りましたよ?」
 サンダルフォンが言っても、ルシフェルは自分の目で確認をしなければ安心を出来なかった。気が済まなかった。サンダルフォンを引きずるように、二人で使用している部屋に連れてから隅々まで確認をしてやっと、無事だと安堵を覚えたのだ。
「傷ついたことに変わりはない」
 以前と変わらぬ姿で、以前と同じく力を揮えたならばグランもルシフェルのことを戦闘員として依頼に同行させただろうかと考える。もしも同行したならば、サンダルフォンにこのような怪我をさせなかったのにと、歯痒くてならない。
 まるで自分が傷ついたみたいにしょぼくれて、苦し気なルシフェルの旋毛を見詰めた。不自然な沈黙に居心地が悪くなる。サンダルフォンは話題を逸らした。
「夕食までに時間がありますし、珈琲を淹れましょうか?」
「……今日はやめておくよ」
 サンダルフォンは寂しく目を伏せて、その表情を、俯いていたルシフェルは気付くことは無かった。

 栄養や睡眠が自身の成長速度に関与しないことはルシフェル自身が理解をしている。かつてと変わらぬ飲食を不要とする肉体である。力を馴染ませるために睡眠という手段を取っているものの、代替案があるならば切り替えることも可能だ。しかし、今のところ有用な案は無かった。故にルシフェルにとって、睡眠は力を馴染ませる手段として最善策であった。
 ちらっと話を聞いてしまった。
──珈琲を飲むと身長が伸びないらしい。
 都市伝説である。珈琲の成分にそのような副作用はない。精々覚醒作用のために、眠れなくなるだけだ。……いやはやそんなまさかとルシフェルは否定をしたが、もしもと考えるとそんな気持ちになってくる。
 丁度、珈琲を解禁してからルシフェルの成長速度は落ちていた。夜更かしも増えていた。サンダルフォンが歩んだ、旅の話を聞く時間は至福であったのだ。ルシフェルの知らないサンダルフォンの姿にちくりと胸が痛んだが、空の世界の美しさを語る横顔にルシフェルは胸がいっぱいになった。
 これはいよいよ珈琲が原因ではないかと考えた。実際に、珈琲を飲まずに早々に眠りつに就いた翌日には力が馴染んでいたから、ルシフェルは原因が分かったことにほっとして、そして原因に何とも言えない気持ちになった。
「珈琲が嫌いになった訳ではないよ」
 ルシフェルは寂しい横顔に声を掛けた。ルシフェルは珈琲牛乳は飲んでいる。サンダルフォンが研究に研究を重ねて追及した珈琲の味わいを残しつつもマイルドに仕上げた、現時点での最高の珈琲牛乳である。珈琲の成分が少ないからか睡眠に支障はない。ルシフェルはすっかり愛飲している。珈琲牛乳も悪くはないと思うようになっていた。
「ならどうして飲まないんですか?」と口に仕掛けたサンダルフォンは「あ」と声を上げた。
 ルシフェルはどうしたのだろうと首を傾げて、様子を見る。
「身長が伸びましたね」
 ほら、そういってサンダルフォンがルシフェルの横に並んだ。確かに、つい三日前には肩を少し追い越しただろうかという背丈であったが今では殆ど変わらない。「そうだろうか」なんて言いながらも、ルシフェルはじわじわと嬉しさを噛みしめて、だけど、それを表立って口にすることは恥ずかしくて、何でもないふりをした。
 サンダルフォンはちょっとだけ、残念だった。
 どのような姿であってもルシフェル様であるならば何だって受け入れるという想いに変化はない。しかし、くるりとした旋毛を見下ろすのは新鮮で、見上げられる視線に少しだけ頼られたみたいな気持ちになって誇らしく思っていたのは、ルシフェルには秘密だった。

Title:約30の嘘
2020/05/20
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