ピリオド

  • since 12/06/19
 にがにがしい出来事から三日が経っても、寄る辺なく、余所余所しく、気まずい雰囲気で、二人の縮まっていた距離の間に、透明な壁が出来てしまった。すれ違いでもなくて、ただただお互いに、申し訳ないと、気が咎めてしまう。
 嫌いではないからこそ、傷付けてしまったと、底なし沼のような罪悪に囚われる。
 どんよりと灰色のかかった空に、今日も雪が降るのだろうかと、朝目が覚めて思った。春が近いと話したのは、つい最近のことだった。中庭の雑草を抜き取って、花の種を植えた。何処で手に入れたのか分からず、何が咲くのか分からない。咲くのが楽しみだと口にしたルシフェルに、サンダルフォンも、にこにことして明るい色の花が良いですねと笑って言った。
 赤い花が良いなと、ルシフェルは思って、口に出来なかった。
「傷が残らなくてよかった」
 殆ど完治していて、小さな傷が残っているから、まだ体調は良くないだろうからと先延ばしていた言葉を、ルシフェルは口にした。
 サンダルフォンの健康状態は良好であり、そして怪我も完治している。すらりとした、しなやかな筋肉の付いた手足。パサついていた髪やカサついていた肌には艶がある。ただ、その顔色だけは晴れることはないことを、気づいていながら口に出来ないでいる。
 喜ばしいことだ。だが、ルシフェルの声は静かで、喜びの色はとても見えない。
「……明日、出ていきますね」
「そうか」
 震えそうになる声で、相槌を打ったものの、心は、行かないでほしいと嘆き、叫んでいる。口に出かけるのは、急ぐことは無いだとか、もう少しゆっくりしていっても構わない、中庭の花が咲くまで此処にいてはどうだろうかと、未練がましい、追いすがる言葉ばかりが込み上がる。
「本当に、今までお世話になりました。何も、お返しが出来なくて、申し訳ありません」
「言っただろう? 私は見返りを求めたわけではないよ、サンダルフォン」
 せり上がる言葉を呑み込む。
 恩義を感じるならば、どうか留まってと、決して、優しくはない、彼の未来を阻む言葉ばかりが思い浮かぶ。優しさとは程遠い。自分の気持ちばかりを、願いばかりを押し付けていく、心までもが醜い怪物となっていくと、外道非道に、自嘲した。
 初めて、嫌われたくないと思ったのだ。恐ろしいと、思われたくないと思ったのだ。手放したくないと、思ってしまった。
 サンダルフォンがぎこちなく笑う。笑おうとして失敗したみたいな、歪な、泣き顔のような笑みに、もう、あの日、中庭で笑い合ったような日々には戻ることはできないのだと思うと胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。



 明日には出ていくと言ったものだから、サンダルフォンは屋敷のあちこちを片付けて回った。片付けるものなんて何もないというのに、みみっちく、掃除をした。ルシフェルは、ゆっくりしていれば良いといったけれど、体を動かさなければ負い目を感じて、居ても立ってもいられずにいたのだ。結局、ルシフェルのためではなくて、自分のためでしかない。そして、その所為でルシフェルを傷つけてしまったのだと、また、息苦しさを覚える。
 出ていきたくなんて無いのも、何もかも、サンダルフォンの我がままでしかない。
 迷惑ばかりを掛けて、役にも立てない。なのに、ルシフェルときたらサンダルフォンを責め立てることは一度だってなかった。申し訳なくて、罪悪感でいっぱいになる。ただ、与えられてばかりいることが情けなくて、何も、返すことが出来ない。
 ごろりと、寝返りを打つ。
 あれだけ動き回って、疲れたはずだというのに、気が立ったように、寝付けずにいた。すっかり、我が物顔で使用している寝台に入ってから随分と時間が経っているようだった。明日には、もうこの部屋ともおさらばなのだと思うと、きゅうと胸が切なくなる。
 生まれて初めて、穏やかな時間を過ごした。過去を嘆いたところで、どうしようもないと分かっているけれど、一度知ってしまった幸福を捨て去ることは惜しくて、踏み出せない。出ていくと言ったというのに、サンダルフォンは名残惜しく、感じている。
 曇天のまま、薄暗い空はそのまま夜になり、月明りも見えない。
 自分のことを恐ろしいだろうと言う人のことを、微塵たりとも恐ろしいと思ったことは無い。悲しいくらいに優しい人に、惹かれてしまった。浅ましい想いを抱いてしまった自分が許せなかった。つけ込むような想いを隠して、だけど、特別になりたいと思う気持ちが先走って、迷惑を掛けてしまった。どうしようもない愚かさだ。何よりも。
 サンダルフォンは、首に触れる。
 頑丈に作られた首輪の鍵を持っているのは、商人だけだった。そもそも、首輪をつけていることは奴隷である証であり、外してくれと頼んだところで役所に連れていかれて罰せられる。
 自分は、奴隷なのだ。
 こんなものを身に着けているのだ。言い寄られたところで、また迷惑になる。
 それでも、ただもう一度だけ話がしたいと願う。
 我がままでも、せめて、あの日、中庭で花の種を植えた時のように、穏やかなままさようならをしたいと、その思い出だけで、踏み出せるからと、寝台から立ち上がる。そして、ドアノブに触れて、その熱さに不可解に思いながら開けて、充満している焦げ臭さと熱気に戸惑う。
 その夜、屋敷は取り囲まれ、火がつけられていた。



 三日前に逃げ出した男は、怪物がすぐそこの屋敷に住んでいると近くの町に駆け込んで騒いだために、周囲は怪物狩りだと意気込む人間たちに取り囲まれていた。男が貴族であり、その言葉を無視できないということもある。だたし、元々噂はあった屋敷であり、誰もが不気味に思っていたのだ。男の報告は、実行する機会を与えたに過ぎない。
 付けられた火が屋敷に燃え広がるのには時間は掛からなかった。
 ごうごうと、勢いよく燃えていく。
 サンダルフォンは外の状態は分からない。ただ、この火はきっと人為的なものであると分かっていた。誰かの所為で、それはきっと、自分の所為でと思ったところで、はっと、屋敷を掛けた。轟音を立てて天井が落ちていく。窓ガラスの割れた破片が、飛び散っている。サンダルフォンは外へ逃げることなく、呼びかけた。
「ルシフェル様!! どこですか!?」
 どこにいるのだと、あちこちを探した。ルシフェルの寝室、書庫、暖炉のある部屋。思いついた限りの場所を、煙に咳き込みながら、ルシフェル様と呼び掛けながら探し回る。煙が充満して、息苦しい。それでも、逃げ出すなんて考えは無かった。あとは何処だと、考えて最後に足を運んだのは中庭だった。逃げ場のない場所だ。いてほしくない。願っているのに、
「ルシフェル様!!」
 屋敷と、そして塀に囲まれている中庭に、逃げ場所はない。なのに、ルシフェルはそこにいた。花が気になってしまったから、生憎と焼けこげてしまったけれど、それでも、優しい思い出が詰まっている場所で、最期を迎えるつもりでいた。静かに、死を受け入れようとしていた。
 知識と知恵のあるサンダルフォンならば、一人でも、屋敷を逃げ出せるだろうと、思っていた。だからその姿に驚き、そして湧き上がるのは怒りだった。
「サンダルフォン、なぜ、逃げていないんだ」
 初めて聞いた怒った声にサンダルフォンは首を振り、駆け寄り、ルシフェルに抱き着いた。ルシフェルは受け止め、その小ささと、焼けこげた髪が痛ましく、抱きしめた。
「俺の所為だ! 俺がいたから、だってそうじゃなかったら」
 ごめんなさいとサンダルフォンは嗚咽を漏らす。屋敷をさ迷い、火傷をした喉で必死に謝る。謝っても許されることではない。だけどそれ以上の言葉を知らない。
 ルシフェルは嗚咽を漏らすサンダルフォンを抱きしめる。
 屋根が崩れた屋敷は、もう焼け落ちるのだろう。中庭にも火の手が迫っている。
 火の粉が燃え上がる。



 ちくりとしたルシフェルの硬い毛が、サンダルフォンの火傷を負った肌に突き刺さるが、それでもサンダルフォンはルシフェルに抱き着いて離れない。ルシフェルもまた、離すことが出来ない。
 だけど、離さなければならない。
 ルシフェルは、怪物である。
 醜悪な、天に逆らう角と裂けた口、ぞっとしない青い瞳をした怪物であり、今や心すらも怪物である。
 ただ一人に執着をして求めて止まなくなっている。変質していく。何にも興味はなかった。書庫も、花も、何もかもが無価値だったのに。彼が触れたからというだけで、特別になる。
 怪物は人間によって殺され、そして独りで死ぬのだ。だから、人間であるサンダルフォンはここで死ぬことはあってはならない。
「きみの所為ではない。いつか、こうなる運命だった。きみを、巻き込みたくはなかった。きみの優しさに甘えて、君を引き留めて、そして、巻き込んでしまった」
「ちがう!! 俺の所為だ、俺がいたから、貴方の存在を、だから、こんな、」
 ルシフェルはあの日の男の所為だろうと予想をしていた。このような大規模な方法をとるのだ。身形や威圧的な様子から、身分を予想をしていたものの、強硬手段をとるとは想定外だった。故に、これはサンダルフォンの所為ではなく、ルシフェルの落ち度である。説明をしても、サンダルフォンは違うと首を振る。招いたのは俺だと言ってほろほろと涙をこぼす。
「俺はやっぱり、不吉なんだ、いるべきじゃなかった」
「君が不吉であるものか。不吉たるは、災厄たるは、醜悪な怪物である私なのだから」
「あなたが怪物であるものか!! ならあいつらは悪魔じゃないか!! あなたは何もしていない!」
 悲鳴のような言葉にルシフェルは笑う。何度となく、どうしてルシフェル様は俺に優しくしてくれるのかと問い掛けたサンダルフォンに、当たり前のことと答えた。本当は、サンダルフォンの無垢な瞳を求めていた。
 恐ろしい怪物であるルシフェルも、本来のルシフェルも知らないサンダルフォンの言葉は飾られることなく、素直に、ルシフェルの胸に響いて、そして手放しがたくなっていた。サンダルフォンこそが優しい。
「怪物とは、存在自体が、罪であり、悪だ。サンダルフォン、怪物は孤独に死ぬものだ。サンダルフォン、生きなさい。早く、もう、君を縛るものはなにも無いのだから」
 ルシフェルは言い終わるや、サンダルフォンを戒め続けていた首輪に破壊する。ぱきりと、音を立てて転がる首輪を見て、ルシフェルは笑った。
「怪物としての力だが……最期は役に立てた」



 朦朧とする意識で、どうにか立っていたルシフェルだったが、力を使い果たしたとでもいうように、徐々に力が抜けていく。立つこともできずに、ずるずると体は倒れゆき、ふらつくルシフェルの巨体をサンダルフォンが支えようと手を伸ばした。
 ルシフェルもまた、中庭にくるまでに煙を吸い込んでいた。
 サンダルフォンを前にして、恰好を付けたものの、体力も気力も限界であった。
 だけど、最期を迎えるならば、せめて思い出の詰まった中庭でと、這いつくばりながら辿り着いたのだ。サンダルフォンとの思い出があれば、悔いはない。新たな門出を心から祝うことが出来ずに、さようならを言えなかったことが寂しいと思うが、サンダルフォンならばきっと、これから先も生きていける。教師としてサンダルフォンに知識を授けて生きる知恵を与えたルシフェルは、贔屓目ではなく、サンダルフォンは優秀であると確信をしている。
 己を不吉だと蔑むサンダルフォンに、サンダルフォンと出会えたことこそが、怪物に成り果てた上でも至上の幸福であったと薄れゆく意識で思う。その果てが死であっても、後悔はない。
「ルシフェル様、ルシフェル様っ!!」
 ルシフェルを支える力も残っていないサンダルフォンは、横たわるルシフェルを抱きしめるしか出来ない。せめて火の粉が当たらないようにと必死で抱きしめる。その腕はいくつもの火傷が出来ている。
 名前を呼んでもどうしたんだいと応える声は何処からも聞こえない。
 ぽたぽたと頬を伝っていく涙をぬぐうこともせずに、ルシフェルを抱きしめた。
 頬を伝い、やがてルシフェルの裂けた口の中に落ちていく。
 抱きしめていたごわごわとした毛が、抜け落ちていき、強風に煽られて飛び散る。サンダルフォンは思わず、目を瞑り、そしてルシフェルを抱きしめる手に力を入れた。
 腕の中には、プラチナブロンドの美丈夫がいた。サンダルフォンは、目を丸くした。そんなまさかと思いながら、呼び掛ける。
「ルシフェル様……?」
 瞼がひくひくと、痙攣をして、そっと開かれる。遙かな蒼穹が、サンダルフォンを見上げて細まる。
「ああ、やはり君の瞳は美しい朝の色をしている」
 音を立てながら、焼け落ちる屋敷に囲まれても、二人には死の恐怖はなく、抱きしめあっていた。
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