ピリオド

  • since 12/06/19
 毎日、清潔なシーツに取り換えられている寝台に横たわるサンダルフォンの怪我の具合を見て、ルシフェルは口を開いた。
「うん、これなら包帯は巻かないでいた方がいいだろう。暫くは安静に過ごしなさい。いいね? もしも何処かへ行きたいのなら私を呼びなさい。ここに、ベルを置いておく。鳴らしたらすぐに駆けつけよう」
 怖がらせることのないように、怯えさせないようにと努めながら真剣に言い聞かせる。サンダルフォンは、そんなこと出来ない! あなたにこれ以上の面倒を掛けられない!! と、ルシフェルに言おうとしたが、サンダルフォン、いいねと念押しされてしまって、はいとすごすごと頷くしか出来なかった。ルシフェルは満足そうに目を細めた。
 サンダルフォンの骨と皮だけで傷だらけの手足は、少しだけが肉がついていた。しかし、まだまだ寝台で寝返りを打つたびに、サンダルフォンは自身の骨があたる痛みに、目を覚ましてしまう。お陰で寝武装が続き、顔色は良いとは言えない。殊更に、ルシフェルが世話を焼くから、サンダルフォンは申し訳なくなってしまう。
 本来ならば自分は、誰かに世話を焼かれる立場ではない。怪我や病気の治療だって、今までしたことはなかった。自然治癒に任せるしかなかった。だから、現状が居た堪れない。それこそ、自分は屋敷に忍び込んだ立場である。物盗りの目的ではなくても、咎められる立場であり、追い出されても文句なんて言いやしない。だというのに、ルシフェルの態度は客人を持て成すものよりも、優しく丁寧であるから、サンダルフォンは戸惑ってしまう。
 サンダルフォンは、ルシフェルが危惧していたような恐ろしさを、ルシフェルに抱いていない。
 優しさの対価を支払うことが出来ない。何も持っていないのだ。サンダルフォンはルシフェルに問い掛けた。
「……俺、お金なんて、持ってないですし、家も家族もありません。だから、何も、返すことができないんです。薬草だって、食事だって、勿体ないです」
「私は見返りを求めていない。ただ、当たり前のことをしているだけだ」
 サンダルフォンの言葉にルシフェルが苦し気に青い目を歪めた。サンダルフォンは、怒らせてしまったと後悔を覚える。彼の優しさを、踏みにじってしまったと、途方もない罪悪感で、体が震えた。そんなサンダルフォンを見て、ルシフェルもまた、後悔をした。怯えさせてしまったと、寂しくなる。自分の見てくれを思い出す。気持ちの悪い、醜い怪物。人間ではなくなってしまった。だけど、心だけは人間のままでありたいと、独りよがりが過ぎて、結局、身も、心すらも怪物になっていく、恐ろしさ。
 それでも、ルシフェルはサンダルフォンを放り出すことはできない。
 彼の世話をすること、サンダルフォンという存在が、ただ一欠けらの、ルシフェルにとっての最後の良心であるようにすら思っている。



 横になって眠ってばかりでは退屈だろうと、ルシフェルは数冊の本を手にしてサンダルフォンが使用している部屋を訪れた。どこも薄暗い屋敷の中で、唯一といっても良い、日当たりの良い部屋は、窓ガラス越しに、麗らかな陽射しが差し込んでいる。体を起こしていたサンダルフォンの鳶色の髪が柔らかく、温かな色に染まっていた。換気のためにと少しだけ開けた窓からは冷やりと冷たい風が入り込む。陽射しは暖かくとも、体に障るだろうと、そっと閉じてから、
「退屈しのぎに本を持ってきたんだ。私の趣味だから、君が好むものではないのかもしれないが」
 言いながら数冊の本をサンダルフォンに差し出す。
 書庫には多くの本が詰め込まれており、ルシフェルは全てを読破している。中でもとりわけ気に入ったものを選びぬいた。気に入ってくれるだろうかとちらりと期待を込めてサンダルフォンを見詰める。
 戸惑いながら受け取ったサンダルフォンは、本と、それからルシフェルを見てから、もごもごと口をまごつかせた。差し出されたものが「本」であることは理解している。サンダルフォンの主人であったり、サンダルフォンを商品として取り扱っていた商人が読んでいる姿を見たことがある。だけど、何を読んでいるのか分からない。サンダルフォンにとっては複雑な記号でしかない。
 彼らはお前には勿体無いと笑っていた。今まで気にも留めたことが無い。本とは、価値のあるものだ。奴隷には勿体ないのだろうと思っていた。
 貴重な本を差し出すルシフェルの優しさが痛い程に伝わる。そんな優しさを無碍にするのが忍びない。
 サンダルフォンの反応に、喜んでもらえなかったと、ルシフェルが悲し気に瞳を伏せたから、サンダルフォンは慌ててしまう。本が嫌いなのではない。彼の優しさであると分かっている。退屈をしないようにと、サンダルフォンを想って、選んだのだ。だから、嬉しい。けれど、
「ごめんなさい、俺は、字が読めないんです。だから、」
 サンダルフォンは失望されてしまった、無駄に時間を割かせてしまったと申し訳ない気持ちで目を伏せた。だから、ルシフェルがきょとりと目を丸くしたことも、それからサンダルフォンの様子に残酷なことをしてしまったと落ち込んだことを、知らない。
 どうしたら、彼を元気づけられるのか、ルシフェルは分からず、悩み、それから、
「謝ることはないよ、サンダルフォン。もしよかったら、読み方を教えよう」
 最早動きを止めていた心臓がバクバクと鳴りだしたようだった。震えるような緊張に、上ずりかけた声を平静に保ち提案をする。押し付けではない。
 顔を上げたサンダルフォンが、瞳を輝かせていたからルシフェルはほっとした。



 パチパチと音を立てて暖炉で薪木が燃えている。閉め切った窓から、ツンとした冷ややかな冷気が漏れていた。夕方からしんしんと降り続けている雪は、明日には積もっていることだろう。向かい合い暖炉の灯りに包まれながら、ルシフェルが作った問題を解き終えたサンダルフォンは、本を読んでいたルシフェルに声を掛ける。まだ、サンダルフォンには、さっぱり分からない内容の本であり、そして今のサンダルフォンの目標である。
「先生、出来ました」
 悪戯っぽく先生と呼びかけたサンダルフォンに、ルシフェルは困った顔をして、読んでいた本を閉じる。それから言い聞かせるように、
「私は先生なんて柄ではないよ」
「勉強を教えてくれる人のことを、先生と呼ぶのでしょう?」
「それは、そうだが……」
 間違っていない。教えると言った手前、ルシフェルは教師という役割であり、サンダルフォンは生徒である。先生と呼ばれてくすぐったい気持ちもあるが、それ以上に名前を呼ばれないことに、シュンと、しょげた気持ちになる。
「名前で呼んではくれないだろうか」
 ぱちくりと目を瞬かせたサンダルフォンが、おずおずと呼び掛ける。神聖な言葉であるように、大切に口にする。
「ルシフェル、様?」
 様という敬称だけは断固として譲ることが出来ずに、落ち着いた。ルシフェルはほんの少し不満だったが、ルシフェル様と呼びかけるサンダルフォンを見ると、満足な気持ちになった。人の気配がすること、そして名前を呼ばれることは、此れほどまでに満たされた気持ちになれるのかと思い知る。
 出ていかないで欲しい、ずっと、此処に居てほしいと願うのはルシフェルの我がままだった。口にすることはできない。怪我が、治らなければいいのにと、醜い願いを抱いた自分がいよいよ怪物になっていく恐ろしさに震えた。
「どうかされましたか?」
「いや、何でもないよ。うん。満点だ」
 返された用紙には大きな花丸がついていて、サンダルフォンは頬を染める。
 手足の怪我は殆ど治っていて、歩き回ることにも支障はなくなっていた。滋養のある料理によって肉付きも良くなり、夜中に目を覚ますこともない。何もせずにいることは申し訳なくて、体力をつけるためと、屋敷の掃除をするようになった。健康に近づくたびに、思ってしまう。
 もっとルシフェル様と一緒にいたい。
 優しくて何でも知っているルシフェルに、甘えてばかりはいられない。迷惑を掛けることはできない。逃げ出した身だ。
 密やかに願い、告げることは出来ない。
 パチリと火の粉が弾けた。


 荒れ放題だった屋敷はサンダルフォンの手によって人の気配を感じられる屋敷へと変貌していった。外観の蔦やひび割れはどうにもならない。しかし、屋敷の内部は暖かな気配に包まれている。
 今まで屋敷に閉じこもってばかりいたルシフェルは、サンダルフォンの手によって蘇った中庭で過ごすことを好んだ。サンダルフォンと共に植えた花が咲くまでが待ち遠しく、そしてその時に、サンダルフォンがいてくれればいいのにと願った。
「君は私のことを恐れないね」
 何を言っているのだろうと、サンダルフォンは怪訝に、それから自虐的なルシフェルが不満で口を尖らせる。幼い仕草を、ルシフェルは可愛らしいとのんびりと思う。
 文字の読み方を教えてから、サンダルフォンは本を読み漁った。最初は絵本をルシフェルと共に読んでいたが、今では一人で大衆小説を読むに至っている。そして同時に抜け落ちていた、奪われ続けていた教養を身に着けた。
 ルシフェルは喜ばしくあり、恐ろしくあった。
 知識が無いからこそ、サンダルフォンは恐れないのではないかと、異端であることを知らないのではないかと、だからこそ、知識を得て教養を身に着けたサンダルフォンに拒絶をされることが恐ろしかった。それも、空回った被害妄想である。
「ちっとも恐くなんてありません。あなたが恐ろしいというのなら、俺はもっともっと、恐ろしいものを知っています」
 サンダルフォンは自身の境遇を打ち明けたことはないし、ルシフェルも聞いたことはない。それでもルシフェルは、サンダルフォンが奴隷という身分であり、そしてその身分故に理不尽な過去を引きずっているのだと理解はしていた。だから、思い出させてしまったことが悲しく、不甲斐無くなる。
 しまったと、サンダルフォンは言葉を間違えたことを察して、明るく、付け加える。
「それに、恐ろしいというのなら俺の方が気持ち悪いでしょう? 赤い目なんて、悪魔みたいじゃないですか。災いを呼ぶ、なんて触れ込みなんですよ? 現に今まで、俺を買った人間は死んじゃいましたからね」
 精一杯の冗談のつもりだったけども、ルシフェルの顔色は晴れない。やはり、まだ勉強不足なのかと一人落ち込んだサンダルフォンにルシフェルは真剣な声音で言う。
「巡り合わせというものがある。君には、不快に思うかもしれないが、亡くなったのは運が悪かったのだろう。私は、悪魔を見たことが無いし、知っていても、君を不気味に思うことは無い。君の目は朝焼けのように煌めいていて、美しいと思う」
 しれっと言うものだからサンダルフォンは何を言っているのだろうと理解出来なかった。けれど、やっと脳が機能しだして意味を理解すると顔を真っ赤に、内心で悶える。
 同情が欲しかったわけではない。ただルシフェルの慰めになればと口にしたのだ。
「兎に角、ルシフェル様のことを恐ろしいなんて思いません!!」
 サンダルフォンが勢いよく宣言をしたので、ルシフェルは可笑しくて笑ってしまった。笑ってしまってすまない、と言うものの嬉しさからか、喜びからか、笑いが込み上がってしまう。
 サンダルフォンはルシフェルのことを敬愛して、そしてルシフェルもまたサンダルフォンと共にいることが長年の孤独を癒し、安らぎを覚える。



 昼食を摂り微睡みに欠伸を噛みしめたルシフェルは、カンカンと鳴らされたドアノッカーの音に動きを止めた。今まで散々に怯えられて、そのたびに自身が怪物であることを思い知らされる。今でこそ、サンダルフォンという自らを怯えない、恐れることのない存在に、勘違いをしそうになるが、磨き上げられたガラス窓に映るのは醜い怪物でしかない。
 憂いを浮かべるルシフェルに、サンダルフォンは俺が確認してきますと申し出る。少しでも、役に立ちたい、彼の優しさへ恩返しがしたいと、願っての言葉だった。だが、ルシフェルは渋い顔で首肯することはない。
「ルシフェル様のお役に立ちたいんです」
「私は、君にそんなことを求めていない」
 カンカンと、再びドアノッカーの音が響いた。急かせる音が、続けざまに鳴る。もしかすると怪我をしているのではないかと、至急の手当が必要なのではないかとサンダルフォンが心配を口にすればルシフェルは渋々と、様子を見てきてくれないかとサンダルフォンの言葉に首肯した。
「怪我をしているようなら治療を。ただし、私のことを問われたら不在だと伝えてくれ」
 お任せくださいと意気揚々と、ルシフェルに任されたことが嬉しくて、サンダルフォンは玄関へと駆けていく。その後ろを、ルシフェルは不安な顔で見つめた。
 苛立たし気に、ドアノッカーを叩いていた男にサンダルフォンは眉をひそめた。サンダルフォンに気付いた男がやっと出てきたかと不遜な、傲慢な態度なものだから、ちょっとだけ気分が悪くなる。
「屋敷の主はどうした?」
「主は不在です」
 サンダルフォンを見下しながら、その言葉を鼻で嗤う。ルシフェルのことを馬鹿にしているようで、不快で苛々としそうになるのをぐっと耐える。サンダルフォンの様子を気に留めることもなく、男たちは休む場所を提供しろと言うものだから、サンダルフォンはいよいよ、何様のつもりだと口にしそうになって口を閉じた。
「主不在のため、どうかお引き取りください」
 繰り返してばかりのサンダルフォンに、逆上した男が掴みかかった。ちらりと、見えてしまった奴隷の証である首輪が、男を付け上がらせている。
「奴隷の分際でっ!!」
 サンダルフォンはぎゅっと瞼を閉じて、頭を手で庇う。痛みが来るのを待つ。慣れていても、恐怖はある。だけども、いつまで経っても、衝撃が襲い掛かることはない。おそる、おそると瞼を開ければ、其処に居たのは毛むくじゃらの巨体と、そして、へろへろと腰を抜かした、今まで威張り散らかしていた姿なんてどこにもない情けない男の姿だった。
 ひぃと悲鳴を上げた男が見たのはごわごわと毛を逆立たせてぎろりと睥睨する青い目。天を逆立つような二本の角と、裂けた口から覗く、鋭い牙。伸びた鋭い爪に裂かれればひとたまりもない。
「ば、ばけものっ!」
 ぐうううううと鈍い獣の鳴らす音に、男が後ずさり、ひぃと声を上げて逃げ出した。そのまま姿が見えなくなる。
「……ごめんなさい、役に立ちたいといったくせに、貴方を傷つけてしまった」
「いいや。傷ついてなんていないよ。君が、傷つかないで良かった」
 ばけものと音を聞いた瞬間に、ルシフェルの動きが止まったことをサンダルフォンは見ていた。恐ろしくないのかと問い掛けて、自分のことを怪物だと言うルシフェルこそが、怪物であることを何より悲しんでいる。サンダルフォンは、気づいていた。だからこそ、非道い言葉が掛けられた状況を作り出してしまった自分が不甲斐無い。
 しょげるサンダルフォンを、慰めようとしたルシフェルは、長い爪と荒れた毛は、サンダルフォンを傷つけてしまうと、そっと、腕を降ろした。
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