ピリオド

  • since 12/06/19
 がたりがたりと舗装のされていない山道を馬車が走っていた。鞭を打つ男は身形が良いものの、走っている馬は痩せ、馬車自体も古い。荷台で膝を抱えていたサンダルフォンは、浮き上がっては叩きつけられるように着地する感覚に、酸っぱいものが喉元まで込み上がる。
 ご機嫌な様子の奴隷商人は「王都ならお前でも売れるだろうさ」と鼻歌混じりに零していた。
 サンダルフォンは抱えていた膝にぎゅっと爪を立てる。伸びっぱなしの爪は肌に食い込み、じわりと血がにじんだ。不意にごろごろと轟く音が聞こえた。雷鳴であるらしい。じっとりと、体にまとわりつく不快な湿気は山道のみが原因でないようだった。
 荷台を覆う幌は防水布としての役割をとっくに失っており目的は精々、荷台の目隠し程度でしかない。雨水が染み渡るまで時間はかからなかった。雷鳴はだんだんと大きくなっており、雨脚も強くなりつつある。
 サンダルフォンは寒さに震える体を小さく縮こまらせて、過ぎ去ることを待つしかない。馬車は速度を増して、比例してがたがたと荷台も大きく振動する。寒さも相まって居心地は過去最悪だ。真夏日にほぼ丸一日押し込められたときとどちらがマシだったろうかと、サンダルフォンは、つい、現実逃避をしてしまう。
「っ!?」
 一瞬の浮遊感。
 目を覚ましたときには上下左右が滅茶苦茶で、体のあちこちが痛い。何が起こったのか分からず、目を白黒とさせた。
 飛び込んだのは曇天だった。
 荷台の中は元々丁寧に整理整頓をされていたわけではないが、しっちゃかめっちゃかに荒れていた。速度を増した結果として、横転をしたようだった。商人や馬はどうしたのだろうかと一瞬考えたが、ふと荷台の鍵が壊れていることに気づいた。キィキィと不快な音を立てて、扉が誘うように、揺れている。だからこうして、曇天も拝めるわけである。
 今なら、ここから出られる。
 きっと、逃げられる。
 サンダルフォンは痛む体をおこして、散乱した荷物に足を掛ける。それから、手を伸ばしかけて、それから躊躇ってとを繰り返して、やがて、意を決して荷台の扉を開けた。
「……ひどいな」
 建付けの悪くなった扉をどうにか開けて、外に出たサンダルフォンは、惨状に、つい、声を出していた。ひくひくと痙攣している馬は生きているのか死んでいるのか分からない。車輪は転がり、サンダルフォンがどうにか脱出をした荷台は、生きているのが奇跡だというほど、放り出されていた。
 商人の姿は見えない。もしかしたら近くにいるのかもしれない。あるいは一人、街の方へと逃げたのかもしれない。どちらにせよ、サンダルフォンにとっては、これ以上にない好機でしかない。
 サンダルフォンは泥濘のなか、駆け出した。



 どれほど、駆けたのか分からない。
 馬車からどれほど離れたのか分からない。
 自分がどこにいるのかすら、把握することはできない。
 見渡す限り木々ばかりが続き、見上げてもただただ暗闇が広がっているだけだった。
 前後左右なにも分からない。
 もしかすると自分は死んでいるのではないのだろか。そんな考えがふと過る。ここは死後の世界なのではないか。果てなんてものは、ないのではないか。この暗闇は永遠に続くのではないか。馬車が横転したときに自分は死んでしまったのではないかと想像しては、そんなわけがないと首を振る。
 だって横転したときにぶつけた部位は腫れている。駆けているうちに木々で切ってしまった切り傷には鋭い痛みがある。この痛みは現実である。自分は生きている。だからきっとこの森も、夜も明ける。
 サンダルフォンは自分に言い聞かせながら、足を止めることはない。
 泥が跳ねる。足がもつれる。
 ただただ、何処かへ、行き先もなく、逃げ出していた。
「こんなところに、やしき……?」
 疲れ朦朧とした意識の中で辿り着いた屋敷に、ふらふらと吸い込まれるように足は向かっていた。
 古い屋敷だった。壁には無数のひびが入り、そして蔦が垂れている。人が住んでいるのかも定かではなく、捨て置かれ廃墟となっている可能性もある。せめて一晩だけでもと、救いを求めてドアノッカーを鳴らし、誰かいませんかと声を掛けても、人の気配は感じられない。
 サンダルフォンは、躊躇いながら、それでもどうせ森をさ迷い、野垂れ死ぬくらいならばと、足を踏み入れた。
 不用心なのか、それとも無人であるからか、屋敷の門にも、扉にも、鍵は掛けられていなかった。誰かいませんかと、再度の声を掛けてもしんと、痛いくらいの沈黙だけがサンダルフォンを出迎える。ざわざわと風が吹いたのか、木々が揺れている。
 扉に背中を預けて、サンダルフォンは詰めていた息を吐き出す。緊張が解けた。やっと安堵できた。痛みを思い出す。それ以上に、どっと疲れが襲い掛かる。体が怠く、瞼が重い。耐えきれず、サンダルフォンはずるずると玄関ホールの硬い床の上で丸まり、瞼を閉じた。
 考えなければいけないことは山ほどある。これからどうしようか。奴隷商の男はどうなったのだろか。
 だけど頭はふわふわとして、何も考えられない。睡魔を払いきれず、重い瞼は開けられずに、サンダルフォンは小さな寝息を立てる。深い眠りだった。他人の気配に気付くことも無く、穏やかな眠りについていた。



 チュンチュンと陽気な囀りにサンダルフォンは深い底から意識を浮上させる。ぱちりと目を開く。快適な目覚めであるが同時に違和を覚える。だって昨夜、飛び込んだ屋敷を散策することもせず意識を失うように眠りについた。玄関扉の前で丸くなった。間違っても、ふかふかのベッドの上では眠っていないし温かな毛布にもありつけていないはずである。だというのにサンダルフォンは上質なベッドの上でふわふわとした毛布に包まれていた。自分は知らず夢遊病患者であったのだろうかとサンダルフォンは首をかしげる。毛布を掴んだ手には包帯が巻かれていた。誰かがいるのだろうとサンダルフォンはここは無人ではなかったのかと恥じる。それから役人に突き出されていないことに、ほっとした。奴隷の証である首輪は忌々しいことに外れていない。もしも見つかればサンダルフォンは罰を受ける。死んだほうがましだと言うような、罰である。その仕打ちをサンダルフォンは見たことがある。生き地獄である。奴隷は「物」でしかないのだと、幼いサンダルフォンに意識付けるには十分であった。
 サンダルフォンは手足に施された手当の跡に戸惑いながら、ベッドサイドのチェストに置いてある紙切れを手にした。何かが書かれていることは分かるが、それ以上のことは分からない。サンダルフォンには学が無かった。文字、というものは知っているが読み解く技能はない。何かの模様だろうかと首をかしげてベッドサイドのチェストに戻した。足を床に付ける。じくじくと傷が熱を持つ。ふらつく体を、壁で支えながら部屋を出る。住人がいるのなら、事情を説明しなければならない。役人に突き出される前に、言わなければとサンダルフォンは体に鞭を打つ。
 昼を過ぎていた。部屋を出てすぐの階段の踊り場から、ステンドグラスに陽ざしが降り注いでいた。鮮やかに、きらきらと揺れる光に見惚れてから、ふらりと、手を伸ばした。もしかしたら、掴めるかもしれないと思った。
「あ、」
 掴めるはずもない。半端に手を伸ばして、体を支えるものは何もない。ああ落ちると思ったときにサンダルフォンの薄い腹を逞しい腕が抱き留める。襲い掛かってくるであろう痛みに備えて目を強く瞑り、体を強張らせていたサンダルフォンが、気づくには少しだけ時間が掛かった。片腕に収まる小さな姿に、青い瞳は剣呑に細まる。しかし、小さな姿はその様子に気付かない。腹を抱え込んでいる腕に触れて、
「ちくちくする……」
 そういって、ごわごわとした毛並みの上ですやりと寝息を立て始めた。困惑を覚えながらそっと優しく、傷つかないようにと細心の注意をしながら、小さな体を抱きかかえる。



 目を覚ます。見慣れないが、見覚えのある天井に、体を包み込むふかふかとしたベッド。夢じゃないんだと、サンダルフォンはまだ夢心地でぼんやりと呟いた。喉がイガイガとしている。ベッドサイドには水と、紙切れが置かれていた。よくわからない紙切れを横目に、飲んで良いのだろうかと思いながら、ちくちくとする痛みが不快で手を伸ばした。思えば眠りにつくまえから、ろくに飲み食いはしていない。どうにか雨水を舐めた程度であった。体中に染みわたるのを感じながらサンダルフォンは最後の一滴まで飲み干した。さてと、サンダルフォンは立ち上がる。一歩踏み出すたびにずきずきと汗がにじむ。息が上がった。
「また、階段から落ちてしまうよ」
 声を掛けられて、赤い目は真ん丸に見開かれる。
 苦い記憶が呼び起こされる。
 恵まれた環境であった。王子という立場。とはいえ、弟であり、兄は優秀であり王位は望めたものではない。望んだこともなかった。将来は兄の右腕として共に国のために生きるのだろうと、穏やかで優しい日々が明日も続くのだと信じていた。そんな未来はとうの昔に消え失せて久しい。呪いが掛けられるや否や、それまでの態度は一変した。お労しいと口では言いながら、視線は醜悪なものを見る目であった。裏では醜い化け物と罵っているのを知っている。日に日に、今まで身の回りにいた者たちはいなくなってあとには何も残らないでいた。仕方のないことだと、思っている。彼らを詰るつもりはない。自身であっても、姿見に映った姿になんどぞっとしたのか数えることも出来ない。
「これ、あなたが?」
 手足の包帯を指しながら問いかける声に、首肯する。
「そっか……。ありがとう」
 歪な、作りなれていないのだろう笑みを浮かべた姿に呆気にとられた。まさか、そんな言葉を掛けられるとは夢にも思わないでいた。
「違った?」
 自分の言葉に不安を覚えたのか、戸惑いながら問いかけられる。そっと、首を振りいやと言葉を濁す。
「きみは私が恐ろしくはないのか?」
「どうして?」
 きょとりと柘榴色の目はまるく見上げる。稚い眼に映る自分の姿はやはり、どうみたって怪物だ。悍ましく背筋も凍り誰もが視線を逸らす。
「私は、見ての通りの……醜い怪物だ」
「でも、治療をしてくれたし、それに温かい寝床も貸してくれただろう?」
 しかしと言いかけて、その首を締め付けているものに気付くと何も言えなくなる。言葉を呑み込んだ屋敷の主にどうしたのだろうと首を傾げた。



 両親の顔は覚えていないが、両親の言葉だけは覚えている。
「気持ちが悪い」
「どうしてこんな子が……」
 ああそうか、気持ちが悪いのだと幼心に刻まれた呪いが解けることはない。
 赤目の不吉な子どもとして捨てられ、奴隷商人に買われてから各地を転々とした。奴隷商人にとっては赤目は不吉であるよりも物珍しさが勝っていたようだった。商人にとってサンダルフォンは商品である。故に見た目を損なうような暴力を振るわれることはなかった。逆に言えば言葉による暴力は幾らでもあったのだ。サンダルフォンはその言葉を理解は出来なかった。商人は笑った。馬鹿にしているのだと分かった。反抗する気力もなくただぼんやりとその言葉を聞いた。ニュアンスで、忌々しいといっていることだけは理解できるようになっていった。
 十数年を奴隷として売られたサンダルフォンは幾度か買われたことがある。奴隷を買うような人間なのだ。得てして後ろ暗い過去がある。今度こそ死ぬかもしれないなと何度覚悟をしたか分からない。命を玩具のように弄ぶ類の人間は多かった。そのたびに震えた。あるいは、慈善事業として買われたこともある。与えられるのは憐憫だけ。可哀想に可哀想に、何もしなくていいのよと閉じ込められるだけの日々。あらあの子はどうなさったの。実はね奴隷として売られていたのよとても可哀想で。まあそんな酷いことが。ええひどいわよねという貴族の世間話をサンダルフォンは歯噛みして聞いていた。生き地獄。自分は、可哀想な境遇なのだろう。哀れな人生を歩んでいるのだろう。だけどただ無意味に生かされるのでは、それは人ではない。家畜。愛玩。無様。やがて善意の押し売りであった偽善者でしかなかった主が亡くなり、所有権は相続人に移された。サンダルフォンを前にして男は、気持ち悪い目をしている、母を惑わした悪魔だと罵り、またサンダルフォンの所有権は奴隷商人へと渡った。転々とし続けてもはや分からなくなっていた。売られて買われて捨てられて。生きているのだろうか。奴隷だ。持ち物でしかない。権利なんてない。心臓は動いている。思考も出来ている。だが、これは生きていると言えるのか。首輪に繋がれ命じるままに行動をするしかない。意思を持つことは許されず認められない。許可が下りなければ何もできない。人形と変わらぬ。家畜と変わらぬ。サンダルフォンはがたがたと揺れる馬車の荷台に押し込められ、掛けられた襤褸の隙間から見上げた、憧れたのは、
「どうかしたのかい、サンダルフォン」
 ああ、同じ色をしている。
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