余りにも苦い苦いとうるさいものだから、サンダルフォンが気を利かせて、こっそりと飲みやすいようにと改良をしたブレンドを飲んでいたグランが目ざとく気づくと、心配をした様子で声を掛ける。
「寝不足?」
「いや睡眠時間は確保している。そもそも、天司に睡眠は不要な行為だがな」
「だけど欠伸してるじゃん」
不適に意地悪な笑みを浮かべて天司マウントを取ったサンダルフォンだったが、グランの容赦のないツッコミに苦い虫を噛んだみたいな顔で閉口した。
サンダルフォンが口にした事は事実だった。
本来は、天司にとって睡眠は不必要な行為だ。再生機能や自浄作用が備え付けられている個体は多い。理由が無い限りは睡眠を取るメリットはなかった。サンダルフォンの場合は、天司長の力を引き継ぎその力を馴染ませるために選んだ行為が睡眠であった。堕天司との戦いを経て、サンダルフォンは天司長としての力を完全に取り込んだ。誰もが、サンダルフォンを天司長として認めている。
故に、睡眠活動は無為であるのだ。
それでも夜通しの見張り当番ではない限り、サンダルフォンも今までと同じく睡眠をとっているのは、騎空団に身を寄せる時間が長くて、感化されたからに過ぎない。おやすみと言われて眠ることが当たり前になっているだけだ。
「悪い夢でも見るの?」
「しつこいな。夢も見てないよ」
詮索をするグランに呆れながら首を振る。
どうして其処迄気に掛けるのだろと疑問に思ったが、グランの性格を考えれば仕方ないことかと納得せざるを得ない。お人よしでお節介焼きなのはサンダルフォンも短いとはいえない付き合いで身をもって知っている。そういえばと、思い出したことが喉元に出かけてから、言うほどでもないかと、飲み込んだ。
グランはサンダルフォンの様子に気付いた素振りは無い。
「次の島まで結構かかるみたいだから疲れが溜まってるんじゃない? 乗り物酔いは大丈夫?」
「怒るぞ」
「ええ心配してるのに!! まあ、何かあったら言ってね」
揶揄いまじりであったけれど、後半の言葉は真面目に心配をしているのだろうと、わかったと首肯する。グランはうんと言って珈琲を口にしてやっぱり、顔をしかめたのでサンダルフォンは少しだけ笑ってしまった。重怠い気持ちも少しだけ軽やかになった気がした。
笑っているサンダルフォンを恨みがましく、グランが見詰めながら、口を尖らせてシュガーポッドを手に取る。
「サンダルフォンは何時からブラックで飲めるようになったの?」
「そんな昔のこと、忘れてしまったよ。そもそも昔は砂糖や牛乳を入れるなんて発想もなかったぞ」
「え!?」
驚いた声を上げるグランにサンダルフォンは可笑しくて笑ってしまった。
甘味料の代替というものはあったが、稀少品であったし、ルシフェルが使用することもなかったからサンダルフォンは最初からブラックしか知らなかった。苦さで顔をしかめてしまいそうになるのを堪えて美味しいですと、何度も口にした。本当に美味しいと思えるようになったのは、果たしていつからだったろうか。明確な日時に覚えはないが、これが珈琲の美味しさかと閃いたときの衝撃は忘れられない。
そんな過去を思い出して切なくなる。
悪夢を見なくなって久しい。
ルシフェルの記憶すら再生されることはない。
眠れば、夢を見ることなく、朝が来る。
絶望を繰り返すだけの悪夢を見なくなって胸を撫でおろしたのは随分と昔のことだった。見なくなったと、ほっとしてから、今では悪夢ですら恋しく思う。
──悪夢でもいいから、
ふと愚かな願いを抱いた自分が腹立たしく、そして無様な気持ちになる。
後悔はなかったのに、ふと、あの時あの場所に留まっていたらと考える。けれど、どうせ自分のことだから、同じように、空の世界に名残を覚えてしまうのだろうと思うと、何時まで経っても、無いものねだりで強欲な自分が嫌になって仕方ない。
寝台の傍らに備え付けられた小さな窓からは星が点々と、輝いていた。サンダルフォンは少しだけ誰かに願いながら、名前を呼んで、眠りにつく。
意識は遠のき、おちていく。
懐かしい気配を覚える。
何も知らない、知ろうとしない。無知だった。ただ、待つだけ。与えられることが当然とでもいうように、求めてやまないだけ。愚かな自分を思い出す。
透明になった感覚だった。
それも、この部屋が原因であるのだろうと乾いた笑いが口から出ていた。
立ち上がる。
慣れているはずだというのに、違和感を覚える足取りで、部屋を見て回る。とはいえ、ただ肉体を維持するだけの部屋であり、娯楽品は皆無である。自分はどのように無為な時間をやり過ごしていたのかすら記憶に定かではない。記憶する価値もない時間であったのだろうかと思いながら、ああこれがあったのだと丁寧に、注意をしながら、器具を手に取る。
部屋の中で大事に置かれていた珈琲を淹れるための道具は、使い古されているとは言い難いが、真新しいとも言い難い。
懐かしさを噛みしめながら、騎空団の喫茶室に置いてあるものとはずいぶんと異なるなと感心をする。利便性を追及して無駄をそぎ落としていく。長い歳月の中で道具も進化をしているのだと改めて気づく。
今でも、使い方は覚えているだろうかと道具に触れながら笑ってしまった。
初めて口にした珈琲は、泥水ではないかと、毒ではないかと思ってしまうほどに苦くて渋くて吐き出しそうになった。とても、美味しいだなんて思えなかった。美味しいと思える日が来るのだろかとすら思った。だというのに、今では好ましく思っていて、そして喫茶店経営を夢見るようになった。
自分のことだというのに、まだ実感が出来ていない。
あまりにも都合が良すぎるけれど、だからこそ現実なのだ。だってただ一人が欠けた世界を夢見ることはありえないのだ。
夢を見るなんて許されないはずだというのに、団員たちに応援をされて、助けられて、なんて恵まれているのだろうと、自分には過ぎたものだと、苦い気持ちを少しだけ覚えた。純粋な好意を、素直に受け止めることが出来ない。いつか、出来るようになるのだろうか。そんな自分は、あまり、想像できないけれど。
今の自分を、ルシフェル様はどのように思うのだろうか。
呆れるだろうかと不安が少しだけあるけれど、あの場所で、応援をしてくださったのだからきっと、大丈夫だと甘い夢を見る。
夢を見たい。
ルシフェル様に、逢いたいのだと実感をしてしまう。
恵まれているのだ。
災厄の邪神でもなく、天司長でもないサンダルフォンとして求められて、必要とされることは嬉しい事なのに、過ぎた幸運であるはずなのに、どうしたって寂しくなる。孤独を思い出す。
二千年の孤独を知っているからこそ、どうしようもない、埋めることのできない悲しい程の虚しさが、抑えきれなくなる。
物思いにふけていると、コンコンという音に思考が遮られた。ああ、と思ってから、そんなまさかと笑い飛ばせない期待がじわりとわき上がる。心が急いて、足がもつれそうになる。
「サンダルフォン」
扉越しの声。
これはなんて、幸せな夢なのだろうか。
コンコンと扉の叩く音と、サンダルフォンと呼びかける声。
戸惑いを覚えて、体を固くさせる。見知らぬ気配であった。周囲を見渡しても、覚えの無い部屋であった。何に使うのか分からない道具と、ぎっしりと詰められた本棚。少なくともサンダルフォンに与えられた部屋ではなかった。
呆然としたまま、けれど部屋を出る勇気もなく、身を小さくしていればまた扉が叩かれて名前を呼ばれるようになった。「どうしたの?」「起きてる?」という呼びかけに返事が出来ずにいた。サンダルフォンは限られた研究者以外との接触を禁じられている。そのために無言を貫いていれば、「体調が悪いの?」「大丈夫?」という心配になりいよいよ、サンダルフォンは混乱してしまった。
名前を呼ばれることも、気遣われることもあり得ないことだ。
返事をすることが出来ずにいれば、入れ替わり立ち代わりに名前を呼ばれる。状況を理解できずに、サンダルフォンはただ恐怖を覚えながら沈黙を守り続けるしかない。
人のいなくなる気配にほっと一息つくこともできず、コンコンとなる音にまた緊張を覚える。
助けてと願いながら、耳朶をうつ声に顔を上げた。助かったと言わんばかりに、生気を取り戻す。
「サンダルフォン、扉を開けてくれないか」
「っはい!」
その声音にほっと安堵を覚える。緊張が解けて、駆け寄り、扉を開けた。疑いなんて微塵もなく。疑うことを知らない。扉を開けて、その顔を見て無邪気に、無垢に、来訪の喜びが言葉にされずとも伝わる。青い瞳が揺れ動いたことに気付くことはなかった。
「ルシフェルさま……っ!! あの、ここは一体何処なのでしょうか……。研究所の部屋にいたと記憶しているのですが、何かの実験でしょうか? それにこの、揺れはいったい……」
不安を吐露するサンダルフォンの姿に、絶対的な信頼を寄せる姿にちくりと胸に痛みを覚える。動揺を仕舞い込みながら、
「説明をしよう。少し、長くなる」
言いながら部屋に入る。初めて訪れた部屋は、サンダルフォンらしく生真面目に整理整頓がされていた。喫茶室にある程度は移動させたと伝え聞いているが、それでも部屋には幾つも珈琲豆が保管されている。きょろりと、興味深く、見回しそうになるのを堪えながら、サンダルフォンを寝台に座らせてから、自身は少し迷い、立ったままでは威圧的だろうと備え付けられている椅子に座った。
サンダルフォンは所在なく、視線をさ迷わせていた。
さて、どのように伝えたものかと逡巡、口を開く。
扉を開けて、待ち望んだ、期待した人の姿にサンダルフォンは心からの笑みを浮かべる。出迎える瞬間は、特別だった。何も無い部屋が少しだけ特別に感じることが出来た。存在意義が揺らぐほどの不安や孤独、全てを忘れてただひたすらに、幸せで満たされる。
「おかりなさい、ルシフェルさま」
サンダルフォンの言葉にルシフェルは面食らい、言葉を失った。
おかりなさい、という言葉と意味は知っているが、それは知識としてだった。空の民たちの交わす言葉として、情報として記憶している。なぜそれを、サンダルフォンが口にするのだろうかと疑問を抱く。
ふわふわとした笑みを浮かべたサンダルフォンは、ルシフェルの様子に怪訝に思うことはなかった。ルシフェルが存在していることが、嬉しくて仕方なくて、幸せがあふれてしまって、押しとどめる術なんて
ややあってから、迷いながら応える。ルシフェルは、確かと記憶を辿りにしながら、口にした。
「ただいま。サンダルフォン」
くすぐったさを覚える。覚えのない感覚であった。羞恥とは、似て異なる。嫌悪ではなく。不愉快な気持ちではない。感情に戸惑いを覚えながら、そして、にこにことしたサンダルフォンに不可解さを抱いた。
サンダルフォンの研究所内での処遇は決して良いものではない。その状態を、サンダルフォン自身が気に掛けている。不在の間に、何かあったのではないかと嫌な予感が浮かび、不安に駆られる。
「変わりは無かっただろうか」
「なにもありませんよ」
「そうか、何かあれば私に言いなさい」
「はい」
何も無いとはっきりと言い切きるものだから、それ以上の追求が出来ず、困惑を浮かべるルシフェルを、サンダルフォンはいつも浮かべる笑みとは異なる。見覚えのない柔らかな、とろけるような笑みで見つめる。それから、
「サンダルフォン、どうかしたのか」
ルシフェルの声に焦りがあった。どうしたのだろうかと小首を傾げたサンダルフォンは、視界がじわりと滲んで、頬が冷たいことに、やっと、自分が涙をこぼしていることに気付いた。ああ、泣いているんだと他人事のように思いながら、ほろりと零れおちていく涙は止め処なく溢れていく。
サンダルフォンの涙をルシフェルが指で掬い、怪訝に柳眉を潜めた。
「やはり、何かあったのではないか?」
「なんでもありませんよ。ほんとうに」
声までみっともないくらいに震えてしまってサンダルフォンは情けないさと恥ずかしさを覚える。だけど同時に緩む口元が抑えきれない。
「ただ、幸せだなあって思っただけなんです」
ルシフェルはさっぱり分からないというような表情を浮かべるものだから、サンダルフォンはまた場違いに幸せが溢れて、笑みを浮かべてしまう。
日が昇っても、いつまで経っても姿を見せないサンダルフォンのもとへ、サンちゃんのことでしたらお任せくださいといやに自信満々な様子で出向いたルシオに、正直なところ期待は一切していなかった。なんせ対ルシオへのサンダルフォンの反応は、とてもではないが、友好的とは言い難いものである。アウギュステでの騒動を経て、以前に比べれば、ルシオに対しての刺々しさは抜けたものの、それでも好意的ではない。そんなルシオに任せてもな……と、内心で思いながらも、こうなれば全員当たって砕けてしまえ!! 考えるのは後からだ!! と任せてみれば、意外なことにサンダルフォン自らが快く扉を開けて、ルシオを招いた様子だからそっと状況を見守っていた団員たちは拍子抜けした。
団員の中でとりわけ仲の良いグランや、ルリア、ビィの呼びかけにも一切の反応を見せることがなかったというのに。どうしてルシオは良かったのだろうと疑問に思いながら、それ以上にサンダルフォンが病気や怪我をしていないか気が気でならず、ルシオが部屋から出てくるのを今か今かと待ち構える。そんな三人に落ち着けと言いながらもカタリナやラカムも、同じく心配で、不安で堪らずにサンダルフォンの部屋の前をうろうろと、無意味に歩いていた。
カチャリと扉の開く音に、真っ先に詰め寄ったのはグランだった。
「サンダルフォンの様子はどうなの?」
詰めよればルシオはきょとりと目を丸くしてから微苦笑を浮かべて、説明をしますから皆さんもどうぞと言うものだから、何処に集まったものかと考えながら、談話室と化している空き部屋で、団員たちは不安を浮かべて、やきもきと、ルシオを取り囲んだ。部屋に入りきらない団員たちも、入口の傍でそわそわとしている。ルシオはといえばおや圧巻だと、臆することなく、呑気に構えていた。
「最初に言っておきますと、今のサンちゃんに騎空団での記憶はありません」
「記憶喪失、ということか?」
「いえ記憶喪失とも違います」
カタリナが示した状態には否定をする。あくまでも、抜け落ちたのは騎空団で過ごした記憶であり、思い出である。今のサンダルフォンにとって、団員たちは等しく他人であり空の民、あるいは覚えのない星晶獣である。
彼らにとっては中々に衝撃だろうと言葉を努めて、選んだものの伝達としては不適切であるようだった。
「混乱を招いてしまいましたか」
「ああ……。悪いが詳しくわかりやすく説明してくれ」
「おやそれは難題だ」
理解できない状態への苛立ちを沸々と言葉に込めたラカムにルシオはにっこりと笑いながら応える。煽っているのかと溜め込んだうっ憤が破裂しそうになったが、こいつはこういう奴なのだと思い出せば諦めで、体から力が抜ける。
「あのっ! サンダルフォンさんは、何処か悪いんでしょうか? 怪我をしてるんですか?」
「またなんか無茶しやがったのかよぉ」
不安でいっぱいのルリアと、心配そうに憎まれ口を叩いたビィの問い掛けに、ルシオは目をぱちぱちと瞬かせる。どうなんですかと詰め寄る視線とあちこちから、誰か気づいてなかったのかとか、呪いの類かしらとかいう声が上がる。
「大丈夫です。少し、時間が掛かるかもしれませんが、私にお任せください」
自信たっぷりなルシオは、安心させるように笑みを浮かべた。大丈夫かなと不安を覚えるが、状況を最も把握して、そして記憶が無いというサンダルフォンが心を許しているのはルシオ以外に存在しないから、任せる以外に他はない。
「ルシフェルさま、俺は一体なにをすれば良いでしょうか?」
現状にちらりとも不満や不審を抱いた様子のない視線が向けられ、眩しさに目を細めた。爛々とした瞳が、反応の鈍さに、不安に揺れる。
「ルシフェルさま? どうか、なさいましたか?」
「──いや。サンダルフォン、きみには空の民と触れ合ってほしい」
「それ、は」
良いのだろうかとサンダルフォンは躊躇う。星の民である研修者ですら、そして同族である天司との交流すら良い顔がされない。それどころか、咎められている身である。創造主の言葉といえども、サンダルフォンは素直に頷くことはできない。
好奇心はある。興味はある。
持ち込まれた空の民の文化、進化の片鱗を楽しそうに話す姿に、憧れがなかったといえば、嘘になる。だけど、サンダルフォンに二の足を踏ませる恐怖があった。
「来なさい、サンダルフォン」
有無を言わせない言葉に、少しだけ違和感を覚えながら、サンダルフォンはおずおずとその後ろに続いた。
騎空艇という、星の民の技術を用いて空の民が造ったという乗り物の浮遊感は少しだけ不快であった。飛行経験も数度で、流れていく空が不思議で、きょろりとしてしまう。説明をされる施設名を覚えながら、揺れる通路を歩くなかで、すれ違う空の民たちが好意的にサンダルフォンに接してくる。どのように対応するべきなのか分からないでいる。調子はどうだ、気分はどうだと言葉を投げかけられるたびに、言葉は出ずに、寄る辺を求めて、唯一の味方である彼の傍から、離れられずにいた。
ふふと笑う声に、怯えて、幼稚な自分を恥じて、俯いた。
「サンダルフォンさん!!」
ここは喫茶室だねと言われながら案内をされた部屋に入った瞬間に名前を呼ばれてどきりとした。その声音が喜んでいるようだったから、不思議で、理解が出来なかった。はっとしたように、照れ笑いを浮かべたルリアが駆け寄る。
後ずさりを仕掛けたサンダルフォンを、許さないとでもいうように、扉が閉められた。
「珈琲を淹れませんか?」
「え?」
「道具ならありますから!! こっちです!」
ずいずいと話を進めるルリアのことを、サンダルフォンは知らない。彼女の存在は、サンダルフォンにとっては見知らぬ、こわいくらいに友好的な、空の民である。さ迷わせた視線が青い瞳と交わる。
「淹れてくれないだろうか」
そう、言われてしまえば、淹れないという選択肢は消えてしまう。
案内をされて、わくわくとした視線を感じながら、ぎこちない、たどたどしい手つきで道具に触れた。どのように使うのだろうかと、不安になりながら、この形状であるならばと推測で淹れる姿はルリアが知るものではなかった。
サンダルフォンは苦心して淹れた珈琲を前にして、躊躇う。
ちらっと視線を向ければニコニコ顔のルリアと、穏やかな顔がサンダルフォンを見詰めていたから、出来なかったとは言えずに、
「できました」
おずおずと、カップに注がれた珈琲を二人は手に取った。サンダルフォンは待ってと制止をすることも出来ず、見守ることしか出来ない。何度か、練習をした通りに淹れた。とはいえ、まだ自信はない。サンダルフォン自身が、珈琲を美味しいと思ったことは無かった。見様見真似で淹れた珈琲は苦くてなぜこれを美味しいとルシフェル様は仰るのだろうかと不敬にも疑問を抱いて、自らの味覚の不具合を疑った。
「どうでしょうか?」
「美味しいよ」
良かった。肩の力を抜いたサンダルフォンに、きゅっと喉が締め付けられた。
ルリアはちびりと飲んだ珈琲に、ぎゅっと顔をしかめてから、驚いた。今までにない、舌が痺れるような苦味だった。あまり、珈琲は得意ではない。何時もは珈琲牛乳にして飲んでいる。飲み比べが出来るほど珈琲の知識や覚えがあるわけではないから、不味いなんて断定もできない。ちらり、と横を見る美味しいよと笑う彼が無理をしている様子はなかった。
だから、ルリアはまだ自分の味覚がまだまだ子どもなのかなと思うしかない。
ずっと、この時間が続けばいいのに。
目覚めたくないと、願ってしまう。
穏やかで、優しくて悲しくなる時間が過ぎ去っていくことが、狂おしい程に切ない。
──この夢を永遠にしてしまえばいい。
囁く声は大きくなっていく。そうだなと、同意を示しながらもサンダルフォンを思い留ませるのは、いってらっしゃいと見送りの言葉を掛けてくださった優しい笑みだった。今更かもしれない。清算にもならない。だけど、裏切れない。掛けられた言葉を、無碍にすることはできない。
「ルシフェルさま、」
澄み切った蒼穹がサンダルフォンを見詰めた。どうして、あんなにも恐ろしいと思ったのか、憎いと思ったのか今となっては思い出せない。こんなにも優しさが溢れているのに。
やっぱり、ここに居たいとごねたくなる。
本当は、自分は死んでしまったのだろうかとちらっと考えた。中庭で、向かい合い珈琲を手に取る光景は、いつか、未来でと描いたものだったから。あの時に、置き去りにした優しい記憶だったから。
なんて残酷なのだろうかと、非道な仕打ちだと怒ればいいのか、泣けばいいのか分からない。
「空の世界は、」
声が震える。
静かに続きを待つ姿につっかえた言葉がどうにか、口に出た。
「空の世界は、美しいのですね」
「──うん。きみもきっと、好きになるよ」
「はい! きっと、好きになります!!」
空の世界の美しさと、残酷な迄の優しさをサンダルフォンは知っている。ルシフェルが好きになった世界を、サンダルフォンは好きになって、生きたいと願った。
サンダルフォンの無邪気な言葉にルシフェルが笑い珈琲を啜る。その所作に憧れながら、サンダルフォンも珈琲と口にすれば、目を見開いて、驚き、口の中いっぱいに広がる不快感に、咳き込んだ。パニックになりかけたサンダルフォンを、ルシフェルが背中摩りながら問いかける。
「どうか、したのかい?」
サンダルフォンは少しだけ迷ってから、意を決したように、告げる。夢であってもそれはあまりにもな言葉で、今までのサンダルフォンの努力を無にする言葉だけれど、細やかなサンダルフォンの自己満足だった。嘘をついてきた。告白だった。懺悔だった。
「……苦くて」
言ってしまった。口にしてしまったと、コアが飛び出しそうなほどに跳ねている。恐怖か、緊張か震えがやまない。
か細い声にルシフェルが、ああと失念していたというように声を上げた。
「すまない」
「ルシフェルさまが謝ることなんて、」
「いや。私の押し付けになってしまっていた。君にも、珈琲を好ましく思ってほしかったのだが……」
「嫌いじゃないです! 俺は、ルシフェル様が好まれるものを知りたいし、好きになりたいです」
嬉しい言葉ばかりが優しく耳朶をうつものだから、ルシフェルは困ってしまう。サンダルフォンは悪戯っぽく笑った。
過去の自分だというのに、理解できない。
いつだって、手を差し伸べてくれていて、待っていてくれる人だった。どうして、勇気を持てなかったのかどうして、と繰り返してから、全て過去のことだと諦める。だけど、夢だから、今だけはと甘えだけは許されたい。目が覚めたら、また、生きるから。
珈琲を用意を淹れたあと、ルリアと会話をするようになったサンダルフォンは、旺盛な好奇心が隠せないようで、騎空艇のあちこちを歩き回ってはあれはなんだこれはなんだと子どものようにはしゃいでいた。そんなサンダルフォンは誰も見たことのない姿で、そしてあまりにも無邪気であるものだから、団員たちはサンダルフォンを揶揄うことなんて出来なかった。
記憶が無いことを、幼児退行のような状態だとルシオが説明すれば納得をしたようだった。厳密に言えば異なるが、分かりやすく簡単に言えばその状態が最も近い。
サンダルフォンが優しいことを団員たちは知っている。それでも、意地っ張りで生意気な言葉ばかりを口にする姿が幻であるかのように、きらきらと瞳を輝かせる姿は、いつもは子ども扱いをしているイオよりも幼いくらいである。イオは得意げにサンダルフォンの問い掛けにこれはねと説明をした。サンダルフォンも、そんなイオを馬鹿にすることもなく、素直にすごいなと感想を零して笑った。だから、イオは無性に怒りたくなった。そんなの、サンダルフォンじゃない、いつものサンダルフォンなら、とわきあがった言葉を呑み込んで、浮かび上がった涙を乱暴に拭った。
そんな、酷いことを口にしそうになった、思ってしまった自分が情けなくて、ロゼッタに慰められたイオの姿を、サンダルフォンは知らない。
「ルシフェル様が空の世界を気に掛けられている理由が少しだけ分かった気がします」
サンダルフォンは騎空艇での生活を楽しんでいた。当初の警戒心は嘘のように形を潜めて、少しだけ緊張をしながら、団員たちに挨拶ができるようになった。ルシフェル以外から名前を呼ばれることが新鮮で、心は浮かれていた。
「どうか、また視察にご一緒させてくださいね」
希望を胸に抱いて、期待を込めた言葉に、返事に迷った。
視察も、一緒にもなんて、そんなことは、
「……あぁ。いつか。きっと」
嘘だ。
あり得ないことだ。
サンダルフォンは決して、ルシフェルと共に空の世界で暮らすことはない。空の世界で共に歩むことはない。彼らはその世界において対峙する。別つ未来は確定されている。変化は、歪みとなる。主の世界を害する要因となる。あってはならない。
「サンダルフォン、疲れただろう。横になって、休みなさい」
「横になって、ですか?」
「ああ、空の民の、営みだよ」
敬愛し、信頼する者の言葉にサンダルフォンはそうなんですねと感心をしたように首肯してから、言われた通りに寝台に横になり、目を閉じた。ふわふわと、浮き上がる感覚。羽での飛行とも異なる感覚は不思議だった。
「サンちゃん、ごめんなさい」
呼びかける声は、情けなく震えていた。
ルシオはサンダルフォンに触れた。鳶色の髪は見た目通りにやわらかい。
騎空艇で、ころころと表情を変えるサンダルフォンは稚く、ああこれが類型が安寧と呼び慈しん存在なのかと理解が出来てしまった。だからこそ、心苦しい。彼の喜びを、奪うことに、胸が張り裂けるそうな痛みを覚える。
「全く、情けない」
自身への呆れに歎息を零す。広々とした甲板に人の気配はない。夜通しの見張り番がちらとサンダルフォンたちを視界に入れたようだった。後で、珈琲でも差し入れようかと考えながら。甲板の手すりにもたれて、声を掛ける。
なんでお前が俺の部屋にいるんだと騒いだのはつい先ほどのことだった。まぁまぁと夜中ですからと静かにと言われてそれから、そんな馬鹿な話があるかと揶揄うのもいい加減にしろと口にした後に、それが真実であり、実際に、日付は随分と経っていたからサンダルフォンはならばあれはと、考えて息を吐き出した。
背筋が冷えた。
なぜそのような現象が起きたのだろうかと考えてみても、分からない。
前後に異常は無かったと記憶している。
ただ、願っただけでそんなことが起こりえるものかと跳躍した理論に首を傾げたが、結果はサンダルフォン自身が身をもって知っている。
「きみにも迷惑を掛けたな」
「迷惑だなんて、とんでもない。サンちゃんは手のかからない良い子でしたからね。役得でした」
にこにこ顔のルシオに、不敬だぞなんだその締まりのない顔はと口に仕掛けて噤んだ。今ばかりは、サンダルフォンとて申し訳ないと思っているのだ。ルシオの演技を見抜けなかった過去の自分はとんだ節穴であるらしい。
踏み出せば飲み込まれてしまいそうな闇が広がっていた。
「……ただ、もう一度だけ、逢いたかった」
その顔を見たら満足で、欲を言えば名前を呼んでいただければ良かった。
あの場所から飛び立ち、空の世界で生きることを選んだのは他でもないサンダルフォン自身だ。誰に言われたわけでもないし、命じられたわけでもない。約束のためでも贖罪でもなく、命に代えても守りたいと思った世界で、サンダルフォンは生きたいと願った。少しだけ、ルシフェルが好ましく思ったからという想いは、スパイス程度にあるかもしれないけれど。
「私では、ルシフェルさんの代わりにはなりませんか?」
ルシオの言葉にサンダルフォンはやれやれと、呆れてしまう。何度言わせれば気が済むのか。ルシオに視線を向ければ、真剣な顔をしていて、ふと、似ているなと思った自分に嫌気がさす。似ていても違うのだ。ルシオはどうしたってルシオだ。ただ、似ているだけ。
「ルシフェル様の代わりなんて、存在するわけがないだろ」
何を当たり前のことを笑ったサンダルフォンは美しかったのに、ルシオは寂寥感を覚える。ただ一人取り残されたように、サンダルフォンを遠くに感じた。
サンダルフォンはそうだなと言葉をつづけた。
「詫びと言っては何だが、珈琲でも淹れてやろう」
ふっと、ルシオは笑みをこぼした。やっぱり似てないじゃないかとサンダルフォンが確信を抱く、しまりのない顔だった。
「とびっきり美味しいものをお願いしますね」
「きみに珈琲の旨さがわかるのか?」
「そうですね……。苦いのはごめんです」
なんだそれはとサンダルフォンが笑う姿にルシオはああ何時ものサンダルフォンだと、グランサイファーに乗るサンちゃんなのだと言い知れぬ、安らぎを覚える。
長い宵が、明けようとしていた。
「さみしい」
口にしてから、奇妙さ、首を傾げた。
何時もと変わらぬ光景であり、サンダルフォンにとっての日常である。ルシフェル以外が訪れることのない部屋で、ただ肉体を維持する。変化の乏しい研究所での。サンダルフォンにとっての代わり映えのない日々。
虚しさを覚えて、遣る背の無い孤独がサンダルフォンをずるずると包み込む。
言いようのない、覚えのない孤独に寒気がしてぶるりと震える。
まだ珈琲は苦手だ。苦くて渋くてとても美味しいなんて本心では思えない。だけど美味しいと言わなければ失望されてしまうから、無理をして飲みこむ。 最近では珈琲を淹れることに慣れようと四苦八苦しているが成果は自身では分からない。
苦痛だけど、恋しくてしかなない。孤独から救いだしてほしい、温かな場所に連れ出して欲しい。
「ルシフェルさま、今日は来られないのかな」
慣れない踵の高い靴で、こつりと床を踏みしめればバランスを崩してよろけて、そのまま転んだ。鈍い痛みに情けなさを覚えながら見上げた、四角に切り取られた青は遠かった。
2020/04/28