ピリオド

  • since 12/06/19
 罪の重さを知っている。腕の中に納まる。すっぽりと、あっけないほどに、持ち上げたその重さをサンダルフォンは忘れることが出来ない。忘れられない。忘れてはならない。胸に、刻み続ける。
 毎夜の悪夢が、罪が、サンダルフォンを包み込む。
 静かな微笑を浮かべた人だった。怒りも、悲しみも見せることはなかった。凪いでいた。だけど、誰よりも愛情深くて、優しい人だった。役割のない天司を気に掛けてくださっていたのだから。憐みであっても、慈しんでくださっていたのだから。優しさと言わず、なんと呼ぶのか。
「ルシフェル、さま」
 か細い声で呼びかける。返事はない。当たり前だ。崩れかけたカナンの神殿で、最期を看取ったのはサンダルフォン自身に他ならない。裏切り続けた。彼の人の言葉を全て無碍にした。彼の人の想いを踏みにじり続けた。何一つとして応えずに、押し付けてきた。押し付けて、応えられなければ、癇癪を起して、身勝手に振舞った。求めてばかりで、応えようとしたことは何一つとして、なかった。役割が欲しかったのは、サンダルフォンがルシフェルの役に立ちたいという願いでしかない。結局、自分のことだけしか考えていない。今更、何もかも遅いのだ。後悔をしたところで、あの場所は遠く、戻れはしない。優しく、温かな、世界は何処にもない。
 全て夢であればいい。
 何もかもが悪い夢で、いつかのようにサンダルフォン、と呼び起こされる。何か悪い夢を見ていたのかいと不安な問いかけに、覚えていないです、ただ少しだけ怖かったような気がしますと、応える。悪い夢。思い出したくもない、悍ましい、悪夢。酷い顔を晒しているのだろう。心配を滲ませて、難しい顔をするあの人に、笑いかける。
「中庭に行きましょう?」
 あの人は、きっと、納得が出来ない顔のまま、それでも、中庭に連れて行ってくださる。与えられた小さな部屋にいるしかなかった存在に、手を差し伸べてくださる。誰にも邪魔をさせられない、静かな空間で向き合って珈琲を前にする。気に入ってくれるだろうか、美味しいと言ってくださるだろうかと憂い、期待を胸に秘める。心臓ともいえる、コアが軋むような痛みを覚えるのだ。
──うん。とても美味しいよ。
「ルシフェルさま」
 頬を伝う冷たいものに、泣いているのだと他人事に自覚する。
 泣いたところで、嘆いたところで、この世界にはあの人はいない。
 今際の言葉だけを胸に、サンダルフォンは明日を生きなければならない。
 かつて憎悪した世界を、滅ぼさんとした世界を、彼の人が愛した世界を、守るために明日を、生きる。約束を果たすために、生きる。

「……騒がしい」
 嘆息をもらしたサンダルフォンは、与えられた私室を出る。騎空艇に同乗して、必要とあらば力を貸してはいるが、先立って宣言した通り、あくまでも共闘である。専ら私室に籠り、星の民が残した数少ない現存する資料に目を通し、遠く無い戦いに備えて情報を得ようとしていた。とはいえ、その成果に実りがあるとは言い難い。サンダルフォンが記憶にある研究所は二千年前のものであり当時の資料は残されていなかった。覇空戦争という五百年程前の争いが、星の民の動向では最新であった。
 一時的とはいえアバター、というルシファーの遺産を特異点たちの助力を得て、どうにか退けることは出来た。しかし、根本的な解決には至っていない。ルシフェルの仇を討ててはいない。
 項垂れる。
 サンダルフォン自信が昏い雰囲気であるために、団員たちの浮かれた様子が浮き彫りになる。自室に籠ることの多いサンダルフォンには、なぜ団員たちがこれほどまでに浮かれているのか理由が分からない。サンダルフォンちゃん、どうしたの? と問い掛けられればナルメアが首を傾げていた。決して友好的な態度とは言い難いサンダルフォンを気に掛ける稀有な団員である。暫く前に、演舞を披露しているナルメアを照明係としてサポートすることになって以来、声を掛けられることがあった。
 今日がいったい何の日であるのか知らずにいるサンダルフォンに、ナルメアはくすりと笑う。サンダルオフォンは馬鹿にされているのだろうかと、不快に眉を顰めればあわあわと違うのよと言いながら、
「今日は団長ちゃんの誕生日だから、お祝いをしているの」
「誕生日?」
「サンダルフォンちゃんには、馴染みがないのかな?」
 ナルメアはむむむと難しい顔をした。どのように説明をしようとしているのか悩んでいるようだった。別に説明はいらないと言おうとしてサンダルフォンに、得心のいく説明が思いついたようなナルメアが口を開いた。
「誕生日っていうのは、生まれた日のことだよ」
「それは知っている。だが何故祝うのかが理解できない」
「え? だって、御目出度いことじゃない? え?」
 お姉ちゃん何か間違ってる? とあわあわとしているナルメアを一瞥して、サンダルフォンは頭痛を覚える。誕生日が生まれた日であるということは理解している。祝う意味がわかないし、生まれたことが何故目出度いのかが理解できないのだ。
「……ともかく。今日は特異点の誕生日だから浮かれているんだな」
「う、うん」
 浮かれてる? 首を傾げながらもサンダルフォンの言葉に首肯するナルメアに、状況は理解したとだけ口にしたサンダルフォンは自分には関係が無いとすたすたと背を向けようとした。当初の目的である珈琲を淹れようかと調理室に向かおうとすれば、ぎゅっと握られた腰布に動くことが出来ない。
 サンダルフォンは胡乱な目を向けた。
「なんだ?」
「サンダルフォンちゃんも、団長ちゃんのお誕生をお祝いしましょう? ね?」
 能天気な、平和ボケした言葉にやれやれと歎息を吐き出す。
「なぜ俺が? 俺は災厄の邪神だぞ。そんなもののが祝いだなんて、笑わせてくれる」
「そんなことない。団長ちゃん、きっと喜ぶわ」
 離すもんかと言わんばかりに腰布はぎゅっと握りしめられている。じとりと睨みつけてもひるむ様子はない。ぷんぷんと怒った素振りを見せる姿にやれやれ、仕方ないと諦観を覚える。意地を張って共闘を無かったことにされたらたまったものじゃない。
「……わかった」
 手を離したナルメアはうふふと笑ってから何か分からないことがあればお姉ちゃんに相談してねと言うものだから、俺の方が年上なんだがなと口に仕掛けて口を噤んだ。
 面倒な気配を感じ取ったのだ。

「特異点、今日は君が誕生した日なんだろう」
 祝われてほくほく顔の特異点に声を掛ける。気分が台無しになろうが知ったこっちゃない。サンダルオフォンは背中にひしひしと注がれる、心配です見守っていますというお節介なナルメアの視線をうんざりとしながら、特異点を見る。サンダルフォンに会うだなんてと不快に顔を歪めてしまえばいい、と思ってすらいた。まさかサンダルフォンに声を掛けられるだなんて思ってもいなかった特異点はぼうっとしている。やはり不愉快だったんだろうと歎息を漏らしかける。
「サンダルフォンも知ってたの!?」
 喜色いっぱいの顔は、サンダルフォンが想像していたものではない。嬉しさがあふれ出した声は、サンダルフォンの想定していたものではない。想像していたものは、苦い虫を噛んだ顔である。不愉快でならないと、不貞腐れた顔である。特異点の浮かべている顔は、ちらりとも思いつかなかった。
「……なんでも欲しいものを言え」
 少しだけ気まずい気持ちを覚えながら、俺に用意できるものならばなと付け加える。特異点はといえば、ええと……ううんと……どうしようかな……と言いながらうんうんと悩みに悩んでいた。
 サンダルフォンは、呆れてしまう。強欲なことだと。団員たちから散々に祝われたのだろう。おめでとうと言われたのだろう。抱えているプレゼントの量を見れば、彼の誕生日が特別であることが伝わってくる。だというのに、サンダルフォン自身が口にしたこととはいえ、更に、何を望むと言うのか。
「うん、決めた!」
 特異点が声を張り上げた。サンダルフォンは、何を求められるのだろうかと考えていた。サンダルフォンが出来ることは限られている。二千年以上を生きている、天司であるという自負はあれどもその時間の多くは幽閉と軟禁であった。生きてきた経験値は皆無といっても良い。知識はあれども更新はされていない。そんな自分が、何を与えられるというのか。今更になって、自嘲してしまう。
「サンダルフォンの淹れた珈琲が飲みたい!」
 目を丸くして、特異点を見詰める。特異点はダメ? としょぼくれた顔で問い掛けてくるから、サンダルフォンは、戸惑ってしまう。
「そんなことで、良いのか?」
「うん!!」
 勢いよく首肯されては、憎まれ口も叩けなくて、口まごつかせる。逡巡。
「分かった。準備をするから、少し待ってろ」
 やったあとはしゃぐ声を背にすれば、見守っていたナルメアが良かったねと声を掛ける。何が良かったのか、腑に落ちない。サンダルフォンは強請られたまま、調理室で珈琲を淹れた。特別な珈琲豆でもない。何時もと変わらない淹れ方で、いつもの豆だ。
 その様子をにこにこ顔で見守る視線が鬱陶しい。平和ボケをしている人間のくせに、そのくせに、サンダルフォンは彼らに敗れている。
「きみも、物好きだな」
 出来上がった珈琲に口をつける姿に声を掛けた。
「誕生日というのは、空の民にとって記念日なのだろう? こんなものを欲しがるだなんてな」
「サンダルフォンにとってはこんなもの、でも僕には特別だから」
 不意に、脳裏に過る。同じ珈琲豆で、淹れ方であった。
「……誰が淹れたところで、同じものだ」
「違うよ」
「きみに、珈琲の違いを感じられるとは思えないがな」
「もう」
 唇を尖らせた特異点に肩を竦めた。義理という名分になれども、誕生日祝いというものをしたのだ。後から、あれやこれやと言われる筋合いはない。義務は果たしたと、サンダルフォンは部屋を後にしようとした。
「ねえ、サンダルフォンの誕生日はいつなの?」
 特異点がにこにこと問い掛ける。サンダルフォンは、言葉を失った。
「次はサンダルフォンの誕生日をお祝いするからさ」
「……二千年以上の前のことを、覚えているわけないだろう」
 しまったといわんばかりの特異点に呆れる。
「災厄の邪神を祝うだなんて、君も酔狂だな」
 ひねくれてるんだからと言う特異点にサンダルフォンは酷薄な笑みを浮かべて、部屋を後にした。 生まれたところで、御目出度い存在ではなかったのだ。無価値な命に、無意味な存在の誕生を誰が祝うのだかと呆れる。

 誕生日という概念は天司にない。造られた瞬間であるのか、孵化の瞬間であるのか、役割を得て稼働した瞬間であるのか、どの時点をもって誕生という概念を得られるのかすら不明瞭である。そもそも、誕生日を祝うべき記念としているのは空の民の習慣である。だから、あり得ないのだ。辻褄が合わない。理解できない。あるはずがない。でも、もしかしたら、なんてことを考える。
「そんなはず、ない」
 赤い花だった。
 赤い宝石だった。
 赤い、珈琲豆だった。
 もう、手元には何も残っていなかったけれど。
 贈られる日の規則性に気付いたのは何時だったのか覚えていない。変化の乏しい研究所にいたからこそ、与えられたものは特別で、記憶に刻まれていた。それが、唯一、研究所に居場所のない自身を気に掛けてくれる存在からであるならば、猶の事。忘れたくても、忘れられなかった。忌々しいと棄て去ることのできなかった、脆弱な、甘え。憎んでおきながら、恨んでおきながら、縋っていた。
 サンダルフォンと名前を呼ばれて、手渡されたものを受け取り、戸惑いを覚えながらも、胸には確かな喜びがあった。歓喜があった。嬉々として、こみ上げるものが確かにあった。それらを、伝える術を持っていなかった。困惑と戸惑いが先立っていた。なにか理由があるのだろうかと考えて、解答は得られなかった。
 裏切っておきながら、憎悪を抱きながら、サンダルフォンはルシフェルが死ぬなんてことを、世界から喪われるだなんてことを、一度として考えたことが無かった。想像すらしたことがなかった。永遠なのだと、信じて止まなかった。永遠なんて、どこにもないのに。愚直さに、笑えもしない。
 最期を看取っておきながら、死を、未だに信じられない自身がいる。
 ルシフェルの最期を、サンダルフォンは誰にも告げていない。告げることが出来なかった。四大天司はただ、サンダルフォンの背中に宿った羽と、そしてエーテルの変化を以て、ルシフェルの死を理解していた。誰も、サンダルフォンを責め立てることは無かった。なぜおまえが生きているのかと、なぜあのお方が死んだのかと、詰ってくれれば、責め立ててくれればサンダルフォンは甘んじて、喜んで、仕方ないから、その怒りを受け止めるのに。誰も、口にしない。
 誰もが思っているのだ。
 サンダルフォン自身が、一番に、思っているのだ。
──どうして、この世界にあの御方がいないのだろう。
──どうして、俺は生きているのだろう。
 無性に苦しくて叫びだしたくなる夜を一人、震えて過ごした。

 継承をした天司長の力が馴染んだのか、ルシフェルの記憶がサンダルフォンに流れ込むことが増えていた。映像記録を、サンダルフォンは不思議な気持ちで見つめていた。天司長として振舞るルシフェルはサンダルフォンの記憶には無かった。ルシフェルが天司長であることはサンダルフォンも知っていることである。しかし、それは情報として、知識としてであった。実際には居合わせたことはなかった。だから、目の前で再生される過去の記録の中の彼を、ルシフェルと認識出来ても、己の知るルシフェルとは異なるものだから、違和感が拭えなかった。
 冷徹に指示をする様子は、サンダルフォンに穏やかに笑い掛ける姿とは真逆で、冷酷に命じる様はサンダルフォンを中庭に連れ出してくださる御方と同じ人かと不思議に思った。天司長として振舞う姿は、いっそ彼の人の創造主であるルシファーと酷似していた。
 その考えを、振り払う。
 あの御方の優しさを誰よりも知っていながら、ルシファーと比べるだなんてと、己の浅ましい思慮を捨て去った。
「あれに何を貢いでいる」
「友よ、貢とは?」
「それだ」
 サンダルフォンの訪れたことのない部屋は、所長室であるらしい。ルシファーに声を掛けられたルシフェルは首を傾げている。やれ、と呆れたルシファーに手元を指摘されてから、ああと声を和らげた。ルシフェルは加工された宝石を手にしていた。
「似合わないだろうか」
「さてな。俺の知ったことではあるまいよ。あまり構いすぎるなよ、麾下が嫉妬をする」
「……そうか」
 揶揄うようなルシファーの言葉に、ふむとルシフェルが考え込んだ。わかった、配慮しようとルシファーに言うや、場面は切り替わる。瞬いた次には、長い回廊が続いていた。見覚えのある。中庭に続く道。ルシフェルの後ろに続き、歩いた。こつりと、回廊を歩く音。サンダルフォンは振り返る。ルシフェルが思いつめた顔をして、歩いていた。
 不意に、ルシフェルが歩みを止める。何か、あったのだろうかとサンダルフォンはこれが記憶の再生であるにも関わらず、体が動いていた。
「…………気に入って、くれるだろうか」
 何を、気に掛ける必要があるのですか。不安になる理由なんてありません。天司長が施されるものならば、あなたに与えられるものを、誰が拒むというのですか。
「うん、やはりサンダルフォンに似合うと思う、のだが……」
 不安混じりに願う声に、悲鳴を上げた。止めてくれ、そんなことを。覚えている。忘れるはずがない。耳飾りに、サンダルフォンはどうしたらよいのだろうと戸惑いを覚えた。赤く、煌びやかな輝きは美しいものだった。有難うございますと受け取っておきながら、それを身に着ける勇気はなかった。後悔。懺悔。罪悪。知らなかった。言われなかった。言い訳だ。
 あの美しい赤い耳飾りは、どこにもない。

 お前はいらないと言われればどれだけ心が楽になっただろう。不用品だと言い切られていれば、どれだけ諦められていただろう。サンダルフォンは、知りたくなかった。何も。今更になって、何もかもが遅いのだ。だというのに、甘やかで優しく、残酷な迄に思い知らされる。
「私は、中庭に──いや」
 認めよう。認めるさ。思いたくなかった。そんなはずがないと言い聞かせ続けていた。
 あの人は一度だって蔑ろにしていなかったのだ。慰みではなかった。同情ではなかった。憐憫ではなかった。不信に、疑っていたのは自分だけだった。あの人は、何一つとして変わらない想いで寄り添おうとしてくれていた。
「ルシフェル、さま」
 苦しい。胸がいたい。コアが軋む。腕の中で、罪を抱き留めたときとも、最期の言葉を聞いたときとも異なる。約束を胸に刻みつけた痛みとも比べ物にならない。苦しみで体がさけるのでないか、身の内からずたずたに切り刻まれている。痛みで嗚咽が漏れる。
 それでも、朝は来るのだ。
 小さな窓から差し込む日差しに、眦を伝う冷たいものに泣いていたのだと気づいた。悪夢ではない。悪夢であるならば、どれだけよかったか。こんなにも胸が苦しくなる幸福を、喜びを、サンダルフォンは知らない。寂しくて苦しい、切ない。伽藍洞の虚しさ。
「─────さま」
 声なき声に応じるはずもない。サンダルフォンは嗤笑を浮かべる。ああ、これは罰なのだと今更になって知る。あなたがいないのだ。どこにも、いない。

 残りたいという気持ちがあった。ルシファーとの死闘の最中においてまで、サンダルフォンは胸に刻んだ、ルシフェルの最期の言葉を、約束を果たし終えたあとは、ルシフェルの元へと考えていた。裏切っておきながら、迷惑を掛けておきながら、恩を仇で返し続けておきながら。それでも、再びルシフェルと共にありたいと、願っていた。
 生きろ、とは命じられていなかったから。空の世界で生きる意味も見いだせないから。覚悟をしていたのだ。命を軽んじているつもりはない。それでも、だからこそ、命に替えても約束を果たすことに、空の世界を守ることに躊躇いは、無かった。
 この世界でならば、ルシフェルの傍にいられる。
 あれほどまでに願ったこと。烏滸がましくも、夢を見たこと。
 だけど、サンダルフォンは願ってしまった。
 闘いの最中で、孤独ではなかったことを知ってしまった。必要としてくれる人がいた。自分のことで、怒ってくれるひとがいる。悲しんでくれる人がいる。彼らと一緒に、生きたいと、明日を歩みたいと、生きたいと、願ってしまった。
 空の世界に、あなたはどこにも、いないけど。
 それでも。
 名残惜しむ。行かなければと思う気持ちはある。戻らなければと、名前を呼ぶ声に、帰らなければと思うのに、二の足を踏んでしまう。行きたいのに、行きたくない。帰らなければならないのに、此処に居たい。
 声が細くなる。行かなければ。足を踏み出せば、不意に息を呑んだ音がした。
 だけど、決めたのだ。
 誰かの所為にして理由付けてではない。ただの命として、サンダルフォンとして、決意をしたのだ。
「そうだ」
 決心に、揺るぎはないのに、情けなくも言葉を紡いでしまった。
「うん?」
「ルシフェルさま、ずっと、言い出せなかったのですが」
「……なんだろうか」
 固唾を飲んだ様子におかしくなる。そんなに重要なことではない。少しだけ、こんな時に似つかわしくないけど、ずうずうしいことだと分かってるけど、言い逃げするくらいなら許されるのではないか。
「俺は、赤よりも青の方が好ましく思います」
「そう、だったのか」
 ぽかんとしている姿は初めて見る姿だった。おかしくて笑ってしまった。
「だってルシフェルさまの色ですから!!」
 言ってきます!! そう言って、飛び切りの笑みを浮かべたサンダルフォンにルシフェルは物悲しい、泣き出しそうな微笑を浮かべて見送った。かつて、天司長として絶対的な力を以て空の世界を見守り続けた姿とは程遠い。そうだったのか、としょぼくれた声音でひとり呟いてから、

「グラン」
 声を掛ければ、少しだけまろみが無くなり、凛々しくなった顔が上げられた。背も、出会った当時よりも伸びているように感じる。抜かされるのも遠い未来ではない予感がした。人の子の成長の速さには、目を見張るものがあった。だけど、まだまだ子どもの部分も残っている。証拠に、珈琲はブラックでは飲めずに、どぽどぽと砂糖を入れている。珈琲の苦味は十分に消えただろうとサンダルフォンは思うのだが、まだ足りないというように牛乳を追加されている。最初から珈琲牛乳を注文しておけと苦言を漏らしても、挑戦をしたいんだと言われてしまえば何も言えなくなる。それが格好付けだと知っていても、大人に憧れる子どもらしさであっても、サンダルフォンが微笑ましいと思う程度には、グランという存在を好ましく感じていた。
「なあに、サンダルフォン」
 首を傾げるグランは、覚えているだろうかと僅かに憂色を浮かばせた。自分だけが、忘れられないでいるのなら、記憶に留めていて、彼にとってはただの世間話程度ならば、思い上がりの、自意識過剰も甚だしいことだ。忘れていたならば、それだけでもいい。ただ、サンダルフォンが自慢をしたいのだ。身勝手に、自己満足に付き合わせるだけだ。
「以前言っていただろう、俺の誕生日について」
「思い出した?」
 がばりと食いついたグランに、サンダルフォンは驚きながらも、よかった覚えていたと内心でほっと息を吐き出した。わくわくと期待をしているグランにサンダルフォンは微苦笑を浮かべる。それから、コーヒーカップを視界に入れた。白地に、紫のラインが淹れられた既視感のあるカップはとある島を訪れた際に購入したものだ。手を取っていた。喫茶室で珈琲を出す際には使用しない。
 使った形跡のないカップは大切な、宝物だった。
「いや、正確な日付は分からない。ただ、こんな俺でも、誕生を祝福し続けてくれる人がいたということを、伝えたかっただけだ」
 そっかと、グランの少ない相槌の中に年に似つかわしくない慈しみを感じてサンダルフォンは少し居た堪れなさを覚える。居心地の悪い、それは、まだ慣れていないからだ。
「それだけだ。時間を取らせた。それから、誕生日を楽しみにしておけ」
 近々、グランの誕生日であることをサンダルフォンは覚えていた。旅をして、既に1年以上共にすればグランが好ましく思っているものはそれなりに、知ったつもりだ。
 きょとりとしてから、グランはにかりと笑った。
「楽しみにしてる!」

 朝も夜もない空間が続いている。心象風景なのか、精巧に記憶の通りに再現をされた中庭で独り、珈琲を淹れて飲む。ほっとした安らぎを覚えると同時に、虚しさを覚える。ここに、彼がいたならばと考えて、どうにもならないこと、過ぎたことと、何度目になるのか分からないような自問自答を繰り返しては、自分を誤魔化し切れずに、嘆くみたいなため息を零した。
 彼のアドバイスの通りに、育てた珈琲の木はすくすくと、問題なく育っている。収穫をした実で淹れた珈琲にはまだ改良の余地があった。
 いつか、彼が命を終えたときに、ただいまと帰ってきたときに、珈琲を振舞うつもりでいる。それが近い未来なのか、遠い未来なのか分からない。早く会いたいと思う気持ちはある。二千年越しに、穏やかな時間を共にして、強欲にも求めてやまない。いってきますと、言った彼に行かないでくれと口に仕掛けた言葉をどうにか飲み込んだ。言ってしまえば、サンダルフォンは優しい子だから、苦しい決断を迫ることになっていた。私がすべきだったことは、笑顔で、見送ることだった。だというのに、情けないったらない。
 同時に、彼には空の世界で長く生きて欲しいと願ってしまう。
 空の世界を選んだ彼が、誇らしくあった。空の世界で生きていこうとする姿は、苦悩に揺らぎ、進化と成長を続ける姿は、眩しくすらあった。
 天司長として空の世界で生きていたときでも、サンダルフォンのことを忘れたことは一度として無かった。気に掛けていた。独りになれば、彼のことばかりを考えてしまう。
 青が好きなのだと、得意に、胸を張って言った顔を思い出して、ルシフェルは頬を緩むのを感じる。そうだったのか。知らなかったと、少しだけ残念な気持ちになる。思い返せば、サンダルフォンへ似合うだろうと贈った品は、どれも赤いものばかりであった。
 赤い花は、気高く美しいものだった。
 赤い宝石は、きらきらと輝き美しいものだった。
 悩みながら選び、贈ったものを好ましいと思っていたのは私自身であったのかと、私自身が赤を好ましいと思っていたのかと少しだけ、笑う。
 青いものを贈ろうと考える。何が良いだろうか──それから、私の色かと、サンダルフォンの言葉に、寂しさを忘れて、思い出し笑う。
 世界中から憎まれても、世界中の人々に疎まれても、ルシフェルはサンダルフォンの存在を安寧と慈しみ続ける。彼の、ただいまと帰るべき場所に、戻る場所として待ち続ける。
「きみの生に、誕生に、未来に」

どうか幸いがあらんことを。


2020/04/23
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