ピリオド

  • since 12/06/19
 ぶるりと身が竦む寒さであった。庭先には薄紅の花弁がちらちらと舞っている。陽ざしは長閑である。だというのに冷たい風が吹きすさぶ。
 春の訪れをつい先日祝ったばかりだというのに。
 客人を持て成しながらの楽しい一時を思い出して、ルシフェルはもぞりと布団に入り込んだ。良き時間であったと思う。この年にして新たに得た友人を招いての宴の席では、誰もが笑みを浮かべていた。鮮やかで喜びに溢れていた。偏屈な兄ですら表情筋をふと緩めて酒を煽っていたのだ。また開きたいものだなという話を、したばかりであった。
 ぬくぬくとした布団から離れられそうにない。みっともない姿であるが、仕方のないことである。ルシフェルは長い手足を折り曲げてすっぽりと頭まで布団を被る。隙間から入っていた冷たい風が遮断される。息苦しさはあるが、寒さの前には些事である。
「ルシフェルさま、起きてらっしゃいますか?」
 布団越しと言えども明瞭に聞こえる問いかけにルシフェルはああ起きているよと答える。くぐもった声を耳にして、くすりと笑う声。笑われてしまったなあと思いながらも、ルシフェルは布団から出られそうにない。声の主もルシフェルの状態を理解したうえでのことだ。
「……今日は、止めておきますか?」
 逡巡。
「いや、出かけよう」
「でも寒いですよ?」
 気遣う声である。ルシフェルとて、寒さを出されるとついと尻ごみをする。しかし、約束である。数百年前から続く約束である。
「少し待ってくれないか、準備をするから」
「わかりました、本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、問題ないよ」
 あまり大丈夫には思えないなと微苦笑を浮かべて、さてと立ち上がる。クリーニングから帰ってきたばかりであるが、防寒具の準備をしなければならない。寒さが唯一といってもよい弱点であるのだから、無理をすることは無いのにと思うが夫の言葉に逆らう心算はない。それに、美麗で儚いと言われる容貌に反して、一度決めたら貫き通す、意思の固い人であることを知っている。サンダルフォン自身が良く知っていることだ。
 サンダルフォンを嫁にするのだと宣言をしたルシフェルと、その兄との絶縁関係が修復されたのは最近のことである。サンダルフォンの言葉すら聞き届けず、きみは何も心配することはないと言うルシフェルに内心で沸々としたものがこみ上げていた。家族なのに妻なのにというサンダルフォンの矜持であり支えを悉く挫くルシフェルに対していつ三行半を突き付けてやろうかと考えていたのだ。
「あいつらにも感謝しないとな」
 年の離れた友人を思い出せば彼らはへにゃりと笑っている。サンダルフォンはつられるように笑いをこぼしてから、はっとしてルシフェルの冬支度を手に取る。
 もしも彼らと出会わなければ、数百年に及ぶ確執の果てにあちこちを巻き込んでの全面戦争も止む無しであった兄弟喧嘩は勃発の上に、離婚調停も止むを得なしであった。どちらも、ルシフェルが知る由もない、ルシフェルにとっての悪夢であり地獄である。
 もこもこに着膨れしたルシフェルを見てサンダルフォンは本当に、大丈夫だろうかと不安を覚えてしまう。保湿性の高いインナーにタートルネックのカシミア素材のセーター。そのうえからさらにセーターとカーディガンを重ねて最後にダウンジャケット。イヤーマフとマフラー、手袋。完全防寒に見えるがその顔はまだ白く、無理をしていることがわかる。
「うん。行こうか」
「わかりました」
 鞄に仕舞ったエコバッグを確認してから首肯した。
 ぽてぽてと歩く。
 ルシフェルの前では口にしないが、冬場のツンとした張りつめた空気は嫌いではない。キンと痛みを覚える水も、悪いものではない。とはいえ、春の陽気もまた好ましく感じる。緑の芽吹き、土の香りは生命の息吹を感じさせるものがある。
「春ですね、ルシフェルさま……──ルシフェル、さま!?」
 少し肌寒さは感じるが好い天気だと思っていたサンダルフォンがのんびりと問いかけても返事はない。それどころか手をつないでいたというのにその触感はなくなっている。ぶらりと手に残っているのは内素材がボアとなっている黒い手袋だけだ。はっと来た道を振り返ればこんもりとした服の山。サンダルフォンは慌てて駆け寄った。

「あれ? サンダルフォンが一人だなんて珍しい」
 公園のベンチに座る姿に声を掛けた。数年前に植えられた木は満開で、薄紅の塊となっている。サンダルフォンは買い物帰りの休憩なのだろうか、エコバッグを両サイドに置いて缶コーヒーを手にしていた。
「君こそ、姉や彼女と一緒じゃないのは珍しいな」
「シスコンみたいに言わないでくれる? それからルリアはまだ彼女じゃないからね」
「そうか。まだ、なんだな。俺は別にルリアと名指しをしたわけじゃないだがな」
 にんまりと笑うサンダルフォンを前に地団駄を踏んだ。ふふふと、反応に満足をした様子のサンダルフォンは一頻り笑ってからベンチを一人分、ずれた。座れということなのだろうと、お邪魔をしようとして不安を覚える。サンダルフォンの亭主である。恐ろしく美麗な彼に、酷い目にあわされた過去があるわけではないのだが。
「缶コーヒーだが良いか?」
「……ルシフェルさんに怒られない?」
「まさか」
 サンダルフォンには悪いが、信用できない。というよりも、何がルシフェルの逆鱗であるのか分からないからおっかなびっくりなってしまう。姉のように能天気に見えてる地雷原で踊り続ける神経は持ち合わせていない。きょとりとサンダルフォンが目を丸くする。何もわかってない無垢な地雷原に歎息そた。
 サンダルフォンに渡された缶コーヒーは温くなっていた。長くここに居たのだろうと気づいて、ルシフェルがよく許したなと思うのだ。
「万が一だけど、サンダルフォンに何かあったら、ルシフェルさん絶対に暴走するんだからね。大暴れするんじゃない?」
「きみは私のことをそのように思っていたのか」
「へ!?」
 どこからともなく聞こえた声にきょろきょろと周囲を見渡すが人影も気配もない。時間帯もあって公園で遊ぶ子どもや見守る親もいない。何処から!?と騒ぐグランを他所にサンダルフォンは声を掛ける。
「ルシフェルさま、お加減は如何ですか?」
「問題ないよ。サンダルフォン、きみの献身に感謝を」
「当然のことです」
 声の主を探していたグランはサンダルフォンには見えてるのかなと視線を向けてその青い瞳と目が合う。サンダルフォンの細い首筋を這っている白蛇。艶やかな鱗にしゅるしゅると見え隠れする割けた舌。しゅるりしゅるり。グランの額に妙な汗が伝う。
「っもしかして、それ」
「それ、とはなんだ。ルシフェルさまだぞ」
 やっぱり、とがっくしと項垂れるグランにサンダルフォンはおかしなやつだなと呆れる。青い瞳に浮かぶ縦長の瞳孔がじっとグランを見詰めていた。
 ひくりと頬が引き攣る。
「蛇になれるんだね、ルシフェルさん」
「なれる、というのは語弊がある。本来であれば此方が私なのだから」
「ああそっか、蛇神だった」
「今更すぎるぞ……」
 嘆息をもらすサンダルフォンにだってと口を尖らせる。
 だって蛇神であるのは後付けでしかない。友人となったサンダルフォンとルシフェル。その二人が夫婦であり、そしてルシフェルが蛇神である、というのが情報の優先度だった。長い時を生きていることを知っている。サンダルフォンは俺は人だよと言っているが数百年を生きてきて人の括りはどうなのだろうかと考えてしまう。とはいえ、友人であることに変わりはない。
 会話を聞かれていたことに対してやや恐怖を感じたが、悪口の類ではない。うん。寧ろルシフェルの愛情深さをサンダルフォンに説いたのだから、じっとりと何を考えているのか分からない目で見つめないでほしいとグランは蛙の気持ちと珈琲を味わう。ちっとも味がしない。
 珈琲を飲み終えて立ち上がる。もう帰るのかと、引き止められたが青い目にすっかり、怖気づいたグランはうんと首肯する。今度は姉ちゃんとルリアも連れて花見しようねと言うグランに楽しみだなと応える。春の祝いの席では委縮していたようだったから、もっと気心の知れた小さな席を設けたいものだとルシフェルも同意を示した。
 寄り添いながら空を見上げる。ぼんやりと日が落ちて薄暗さが覆えば、いよいと寒気を覚えた。
「帰りましょうか、ルシフェルさま」
 ルシフェルはしゅるりとサンダルフォンの服の中にもぐりこんだ。とくとくと鳴る鼓動と、サンダルフォンから発せられる熱は心地よく、気分が良くなる。寒いのも、少しだけ、悪くはないと思えたのだ。だけどやはり隣に立っていたいから、悩ましいものである。

2020/04/12
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