ピリオド

  • since 12/06/19
 生まれたばかりの弟を、サンダルフォンは認めることが出来なかった。両親の愛情を奪われるという幼稚で、利己的な嫉妬ではない。サンダルフォンとして、天司として造られて、空の世界を見守り、役割を果たした数千年の記憶を有する命として、ルシファーという存在を優しく迎え入れることが出来なかった。過去を持ち出すつもりはない。しかし、恨みや憎しみが皆無であると言えば、偽りとなる。サンダルフォンにとってルシファーは仇でもある。同時に、敬愛するルシフェルにとって友であることも承知であった。だからこそ、ルシフェルの言葉に耳を傾けていてくれたら、心に寄り添っていたらと、自分のことを棚に上げて考えた。
 ベビーベッドに守られ、白いおくるみに包まられて眠る姿は何も知らない、無垢な赤ん坊にしか見えない。サンダルフォンはベビーベッドの柵の隙間から、つま先立ちになってじっと何も知らないような穏やかな寝顔を見つめる。
「サンちゃん、ファーくんを起こしちゃダメよ」
「うん」
 やっと寝てくれたんだから、と疲れた声の母親に注意をされながらも、視線をそらすことはない。昼夜を問わずに泣いて、自らの意志を伝える術を知らない弟の姿は、研究馬鹿に違いない。サンダルフォンをノイズと切り捨て、不用品、実験台とだけ認識をした男であるのだ。
 くあと空気を吐き出す音に振り変えれば、母親が欠伸をかみ殺せずにいた。弟の世話と家事に追われて睡眠不足であるのだ。生まれた時から、数千年の記憶を有して、手のかからない赤ん坊であったサンダルフォンと違って、ルシファーはどこにでもいる、赤ん坊であった。こちらの事情も理解することなく、問答無用に、お構いなしに自己主張をする。
「ねてていいよ」
「……じゃあ、ちょっとだけ寝ようかな」
 逡巡、疲れを自覚していた母親は、何かあったらすぐに起こすようにと約束をして、ソファーに横たわる。寝室で眠ればいいのにと思った。しかし、自分の姿は三歳児の決して頼りがいがある姿ではないことを思い出した。仕方のないことだと、言い聞かせる。それから、赤ん坊を見る。見れば見るほど、ルシファーである。呑気に閉ざされている瞼の奥には澄んだ蒼の瞳。まだふわふわとしている髪はプラチナブロンド。記憶がないことは、サンダルフォンも分かったのだ。記憶があれば、あの男が赤ん坊という立場であろうとも、下の世話や母乳を易々と受け入れるとは思えない。
 何処にでもいる赤ん坊なのだ。

「おねえちゃんだけずるい!」
 舌足らずにぶすくれて、八つ当たりに地団駄を踏むルシファーにサンダルフォンは仕方ないなと両手で持っていたマグカップを差し出す。にぱっと笑ったルシファーは両手でカップを持って一切の躊躇もなくぐびりと飲んだ。それから、想像していたものと違って吃驚したのかギャンと泣き出す。
「こらサンちゃん。意地悪しないの」
「ルシファーがほしがったからあげただけ。ね、おとうさん」
 サンダルフォンはルシファーの反応を笑って、ぷりぷりと怒る母に言う。父もサンダルフォンの隣で笑って頷いている。母はもう、パパも止めてよと言ってぐずぐずとしているルシファーにミルクを差し出している。ルシファーはえぐえぐと泣きながら飲んでいた。
 サンダルフォンは休日が好きだった。
 普段は珈琲は飲ませてもらえない。飲みすぎると体に悪いからと、母から制限をされている。父といるときだけ用意をしてもらえる。母の淹れる珈琲は、かつて自分が淹れたものとは比べ物にならない。蒸らし方や湯の温度もまちまちで、一度として同じ味にはならない。早く、自分で淹れられるようになりたいと思う反面、雑でも、母の淹れた珈琲を父と一緒に飲むことが好きだった。
 ルシファーから取り上げたマグカップを、母がサンダルフォンに差し出す。戻ってきたマグカップを両手で持ち、こくりと飲めばやはり、美味しいとは思えない味だった。インスタントを馬鹿にしているわけではないのだが、やはり自分でブレンドして、挽いた美味しさは忘れられない。
「サンダルフォンは珈琲が好きだな」
「うん。だいすき」
「もう6歳だしなあ……。喫茶店デビューするか?」
「する!!」
 鼻息を荒くして即答をしたサンダルフォンに、父は呆気にとられる。長女がここまで興奮をした姿を見せるのは、初めて珈琲を飲んだとき以来だった。席を外した一瞬の隙をついたように、飲みかけだった珈琲を飲んでいた。4歳の頃であった。以来ちびちびと隙を見せると飲むものだから、見かねて用意をされている。
「ちゃんと店で大人しくできるか?」
「出来る! ね、いついく? 今から?」
「今からは無理だよ。来週だな」
「来週……っ!」
 そこまで興奮するようなことだろうかと笑う。
「ファーくんもいく」
「おとなしくできないだろ」
「できる!」
 ルシファーを揶揄うのが楽しくて、つい意地悪を言ってしまうサンダルフォンを母親がたしなめる。意地悪をされても、揶揄われても、自分の後ろをついて回って、真似ばかりをするルシファーが面白くて、可愛くて。

 懐かしい、優しい記憶が呼び起こされる。視線の先には幼い姉弟を連れた母親がいる。会話は聞こえないが、少女が悪戯っぽく笑って弟がむきになっている。母親が静かにしなさいとたしなめてちらりと伺うようにサンダルフォンに視線を向けた。昼のピークを終えて、客はいない。サンダルフォンは大丈夫ですよという意味を込めて笑みを浮かべた。ほっとした母親がぺこりと頭を下げる。サンダルフォンは母親は大変だなと、彼女が少しでも安らげるようにと想いながら珈琲を丁寧に淹れた。オレンジジュースとクリームソーダの準備をする。
「お待たせしました」
 配膳をする。子どもたちがきゃあと黄色い声を挙げた。すいませんと謝る母親の姿にいえと笑って答えた。懐かしいなと、思い出す。生まれてから、初めて訪れた喫茶店は数少ない、家族との思いでの場所だった。喫茶店では、絶対に珈琲を飲むぞと意気込んでいた。だけど、ルシファーが懲りずにおねえちゃんといっしょ、と言って駄々をこねたから、仕方なくクリームソーダを注文した。母と父は笑って、珈琲を注文をして、運ばれてきた母の珈琲と、サンダルフォンの前に置かれたクリームソーダを交換した。今でも珈琲は嫌いなのだろうか。
 サンダルフォンには知る術はない。
「ありがとうございました」
 うとうととしている弟の手を引きながら、振り返った少女が手を振ったので、サンダルフォンも小さく手を振り返した。さて、とサンダルフォンは席を片付ける。零れたアイスクリームに苦い笑いを零してアルコールを吹きかけた。粗方片付けて、さて洗い物を済ませようかとカウンターに戻る。
 カランと鳴るベルに反射的にいらっしゃいませと声を掛ける。それから、顔を上げていつものようにお好きな席にお掛けくださいと言おうとして、声に出たのは
「ルシフェルさま?」
 目を丸くしてサンダルフォンを見詰める青い瞳を間違えるはずがない。いつだってサンダルフォンのことを優しく、見守ってくださった色だ。駆け寄りたい衝動を、抑える。ルシフェルも気づいたようにこくりと頷いた。その顔は相変わらず、優しくて、泣き出したくなる。
「お好きな席にお掛けください」
 どうにか、口にした。青い瞳は店内に視線を巡らせてから、奥のカウンター席に決めたようだった。
「ご注文はお決まりですか?」
「そうだな……ブレンドを」
「かしこまりました」
 あんまり見詰めないでほしい。けれど、口に出来ずサンダルフォンは黙々と準備をする。慣れているとはいえ、緊張してしまう。初めて淹れるわけでもないのにと、サンダルフォンは震えそうになる手を叱咤する。
 どうしたって、気になってちらりとルシフェルを見れば、その視線は穏やかで慈しみに満ちていて、子どもを見守るような優しさが込められている。懐かしい視線だ。今日は、懐かしんでばかりだ。

 どうにか淹れた珈琲を飲む姿を、固唾をのんで窺う。呼吸を忘れてしまう。うん、と頷いた姿は変わらぬものだった。
「美味しいよ」
「ありがとうございます」
 カチカチと秒針が刻まれる音がいやに大きく聞こえる。穏やかに珈琲を飲んでいる姿に声を掛けて良いのか、惑う。喫茶店だ。サンダルフォンにとって、勤務場所だ。店員である。ルシフェルは客である。だけど、今は二人きりだ。声を掛けても良いのだろうか。話しかけたい、声をききたい。だけど、とサンダルフォンは二の足を踏み、その先に進めない。
 カチャリとソーサーにカップが置かれて、びくりと肩を震わせてしまった。スーツを着ている。この近くに勤めているのだろうか。たまたま近くを通って、目に入っただけだろうか。声には出せない言葉がサンダルフォンの頭をぐるぐるとめぐり、胸は締め付けられる。
 かたりと、ルシフェルは席を立っていた。会計表を手にしている。ああ、口に出来なかった。言葉に出せなかったと、後悔が滲む。ルシフェルが、くすりと笑う。
「また来るよ」
「っはい! お待ちしています!」
 あまりに元気よく答えてしまってから、はっとして羞恥を覚えた。だっていい年をして、子どものようじゃないか。言われた人だって、目を丸くして、笑うしかないでいるじゃないか。ますます、居た堪れなくなった。
「ありがとうございました……」
 羞恥の色濃く残る声はか細い。カランとベルが鳴って、ルシフェルの後ろ姿は扉の奥に消えていった。サンダルフォンは項垂れる。顔が熱い。また来ると言ってくれた。きっと、また来てくれる。ぱたぱたと足音が響く。ああ、顔を戻さないと。きっとふにゃふにゃとしている。
 バックヤードから慌ただしく休憩から戻ってきたアルバイトの学生が息を切らせている。もう、そんな時間が過ぎていたのかと内心で驚いた。
「休憩ありがとうございました。……店長、なにかいいことでもありました?」
「ん? なにもないが」
「嘘だぁ! だってすっごく機嫌が良いじゃないですか!……あっ、さっき店から出ていった人となにかありました?」
「だから。何もないよ。洗い物が残ってるから頼んだぞ」
 はぁいと不承不承な返事にサンダルフォンは頼んだぞ、と釘をさす。お調子者である彼女だが仕事は真面目だ。勤務態度も良い。他のアルバイトメンバーの中心的な存在で、仕事覚えも良い。ただ少しだけ、調子に乗りやすいところだけが難点である。
 くうと小さく鳴く腹の虫に、空腹を思い出す。バックヤードに入り業務用の端末機を手に取り仕入れを確認してから、持参したランチバッグを広げた。仕事のことを考えたいのに、どうしたってルシフェルが消えてくれない。消すことが出来ない。そして、やっぱり思い出してしまう。

 ルシフェルは言葉通りに、頻繁に喫茶店に顔を出すようになった。決してランチの時間には現れることはない。込み合う時間を避けて現れる。サンダルフォン一人の時が殆どだが、時にはアルバイトもいることがある。アルバイトは何かを察したようににまにまと笑うものだから、サンダルフォンも店長として威厳を保つことが難しい。
 サンダルフォンが店長として雇われてから十年になる。学生時代は喫茶店のホールと、ファミリーレストランの厨房を掛け持ちしていた。兎に角、稼がなくてはと必死であった。進路だって、進学なんて考えることもなかった。公務員試験を受けるつもりでいたサンダルフォンに、店長として店を持ってみないかと話を持ち掛けたのは喫茶店のマスターだった。老齢の朗らかな紳士で、おっとりとした夫人と共に、サンダルフォンのことを気に掛けてくれていた。サンダルフォンの事情も知っている。孫のように、可愛がられていたのだとサンダルフォンも自負している。それでも、教育機関を卒業したばかりの小娘に店舗の一つを与えるのはあまりに依怙贔屓が過ぎるのではないか。
「依怙贔屓じゃないの。テナント料はあるし、ノルマもあるわ」
「だったら猶更」
「あなたの真面目さを知っているからこそよ。喫茶店の維持ってね、とても難しいのよ。サンちゃんなら出来ると思ったから、声を掛けたの」
「……少し、考えてもいいですか?」
 ええ。夫人は笑った。
 学友たちは進路を決めている。進学先も、受験勉強を頑張っている。わからなくなる。頼られることは嬉しい。サンダルフォンなら出来ると、信頼を寄せられて喜んでいる。その信頼を、裏切るかもしれないという恐怖が過る。
 ぽてぽてと帰った家は明かりがついていた。ルシファーは既に帰っているらしい。ルシファーも受験生だ。進路について話さなければならない。変に遠慮をするから、もしも金銭面が不安なら問題ないと伝えておこう。学生だが、それなりに貯えはあるつもりだ。
「お帰り、姉さん」
「ただいま。遅くなって悪い。すぐに夕飯の用意をするから」
 適当で良いのに。そう言って不貞腐れる弟にサンダルフォンは大丈夫だからと笑った。優しい弟だ。だから、出来る精一杯を注いだ。母親の愛。父親の愛。寂しくないように、悲しくないようにと。ルシファーのため。大好きな、ルシファーのためならば、頑張れる。
 決心をしたサンダルフォンを、ルシファーが怪訝に見る。
「具合が悪いんじゃないのか?」
「心配性だなあ。なんでもないから、気にしないで良いよ」
 まだ不満気なルシファーにサンダルフォンは安心させるように、笑った。ルシファーは納得をし切れていない様子だったが、ため息を吐くと何かあったらいえとぶっきらぼうに言う。サンダルフォンはうん、と首肯した。優しい、自慢の弟だ。

 マスターに推薦と紹介をされた喫茶店は、オフィスビルの1階に位置していた。ビルの所有者が、マスターだというのだから、出来過ぎていて、やっぱり、依怙贔屓じゃないかと笑ってしまった。テナント料も、ノルマも、あるようで実際のところは無い。どこまでも優しくて、甘すぎる。断っていたのならどうするつもりだったのかと、既に参加費を支払い済みだという講習会や資格の取得について、根回しをされていた。だから、サンダルフォンは彼らの顔に泥を塗るわけにはいかないと精力的に働いた。元より立地条件は良いのだ。リピーターを増やし、客の回転率をあげて、新規の客も取り入れなければ……。
「店長、大丈夫ですか?」
 声を掛けられてはっと顔をあげる。
「今日は一段と忙しかったですもんね」
「ああ、悪いことではないし良いことではあるんだがな……」
「ちゃんと休んでます? マスターも心配してましたよ」
「休んでるよ、今度顔を出すって伝えておいてくれ」
 サンダルフォンが辞めた後の、マスターの喫茶店に新たに入ったアルバイトの少女は時折サンダルフォンの店の手伝いに来てくれる。そろそろ、アルバイトを雇わないとな、とサンダルフォンは今後の予定を立てる。いつまでも、甘えてはいられない。
 我武者羅に働いて三年が過ぎた。あっという間の三年間だった。年齢で侮られたことは両手では数えきれないし、厄介な客に散々に貶された。売上が目標に届かないこともあった。何度も失敗を繰り返した。苦い記憶は幾らでもある。それでも、サンダルフォンが挫けなかったのは、店を任せてくれたマスターたちへの恩義と、常連たちへの感謝、何よりも、ルシファーの存在が大きかった。
 くたくたに疲れても、嫌なことがあっても、悲しいことがあっても、家で、おかえりと声を掛けてくれるルシファーの存在はサンダルフォンの活力源だった。今日も一日頑張れた、明日も頑張ろうと思えた。たとえ、ルシファーが昔のように笑うことはなくても、いつかまた、笑い合える日がきっとくる。悩みがあるのだったら、打ち明けてくれたら良いのに。会話が減って、顔を会わす頻度が減った。それでも、きっと、いつか。
 伽藍とした部屋の掃除を、サンダルフォンは怠ることはない。子どものとき、部屋で遊んで付けて母に怒られた小さな傷跡、見つかることもなく秘密に描いた落書き。サンダルフォンはなぞり、寂しく、名残惜しんで部屋を後にする。
 独りで暮らすには、広すぎて、思い出が詰まりすぎていた。

「少し、書店に寄っても良いですか?」
 店では、極稀にアルバイトが居合わせることもあるが、殆ど二人だけだった。それでも、店で会うだけでは足りなくて、外でも会うようになった。それでも足りなくて、休みの日にも会うようになった。好きだとか、愛しているだとか。そんな感情では足りなくて、離れがたい。
 構わないよと快諾をするルシフェルに、サンダルフォンはふにゃりと安堵した様子を見せる。
「ありがとうございます。ネットの取り寄せだと時間が何時になるか分からないらしくて」
「マイナーな雑誌かい?」
「そうですね。サイエンス誌なんですけど、弟が載ってるんです」
 書店に入り、フロアの位置を確認して目移りすることなく歩くサンダルフォンの姿に、ルシフェルは内心で驚いた。お互い、家族の話をしたことがなかった。ルシフェルは、サンダルフォンがサンダルフォンであるだけで満足だったし、サンダルフォンもまた、ルシフェルがルシフェルであるならばそれでよかった。それ以外の情報は全く知らなかった。ルシフェルが知っている今のサンダルフォンは、喫茶店の店長を務めていること。サンダルフォンが知っているルシフェルの事情は、今まで支社に勤めていて今年度から本社に勤めることになったということ。それだけであった。
 ルシフェルは、家族のことを誇るサンダルフォンに、ちくりと痛みを覚えた。
「あった!」
 サンダルフォンの声が弾む。その声に顔を上げた。レジカウンター前の、新着雑誌コーナーに平積みされている雑誌を手に取ったサンダルフォンは振り返り、表紙をルシフェルに見せる。表紙の片隅に顔写真が乗せられていた。時代の寵児、研究の第一人者の論文掲載というロゴと共に、不機嫌な顔が映っている。
「ここです。ちっちゃいけど、表紙に載ってるんですよ」
 ルシフェルが目を丸くしていた。どうしたのだろうかと思いながら、ルシフェルの言葉にはっとした。
「友……?」
 サンダルフォンはすっかり、忘れていた。ルシファーなのだ。冷酷で冷徹で、研究馬鹿で、研究所の最高責任者で、天司を造りだし、ルシフェルを造り出した存在。自らの自由意志のために世界を崩壊させようとした男。サンダルフォンにとって仇。恨みも、憎しみも、何もかもが、頭から抜け落ちていた。だって、ルシファーは、サンダルフォンにとって。
 そんなサンダルフォンを見て、ルシフェルは慈しみを込めた視線を注ぐ。
「大切な家族なんだね」
「はいっ!……大切な、自慢の弟です」

 一人で暮らすには広すぎる家に、食器が増えた。歯ブラシが増えた。着替えが増えた。気恥ずかしさを覚える。同時に、躊躇いを覚える。休みの日。二人分の食事を用意をする。美味しいと言って笑って後片付けは私がすると、座らされる。珈琲を淹れた。食後に珈琲を飲む。優しい時間。胸が苦しくなる。
 ソファに並び、座る。美味しいと頬をほころばせたルシフェルに、サンダルフォンは良かったと笑った。胸が温かくなると同時に、泥濘にずぷずぷと体がはまり、重くなる。幼い声がずるいと糾弾する。
 ルシフェルがなんでもないことのように、告げる。
「ルシファーに会ったよ」
 一瞬だけ、言葉を失った。言葉を探す。
「元気でしたか?」
「ああ。やはり、彼は天才的だ。だが……」
 言いよどむルシフェルにサンダルフォンは察した。いずれ、話すつもりであった。いずれ、言わなくてはならないと思っていた。サンダルフォンは視線をマグカップの揺れる水面に移した。ゆらゆらとした水面にはぼんやりとした女が、所在なさげな顔を晒している。情けない顔だった。叱られる前。後悔を滲ませた顔。後悔。懺悔。後ろめたさ。ずっと、誰にも言えなかった。
「少し、長くなるんですけど。良いですか?」
 ルシファーが生まれた時の戸惑いと違和感。
 両親が亡くなってからの十数年。
 サンダルフォンの主観を交えないようにと淡々と、話すうちに、気付いた。
「ルシファーのためだと、思っていた」
 すべて、ルシファーのためだった。両親の分も、ルシファーに愛情を注いだ。母親であろうとした。父親であろうとした。ルシファーの、ためだった。
 サンダルフォンも、両親を喪って悲しみがあった。だけど、サンダルフォンには天司としての記憶と感情があった。薄情といわれても、別れを、受け止めることが出来た。だけど、ルシファーは違った。幼いルシファーを、守らなければない。サンダルフォンのことを、ついて回って、何も知らない、幼い弟を守れるのは、自分だけなのだ。
 サンダルフォンは自嘲する。
 守ったつもりでいただけだ。
「全部、自己満足だった。なにも、わかってなかった」
 サンダルフォンは、無力を知っていた。無力を嘆き、不甲斐無さに腹立ち、役立ちたいと、願う気持ちを理解できていた。誰よりも知っていた。だというのに、
「お姉ちゃん失格だな」
 声が震える。
 ルシフェルが、サンダルフォンを抱き寄せた。抱き寄せられたサンダルフォンは、そっと、頬を濡らす。嗚咽もない。じわりと、ルシフェルの着ているシャツが滲む。
「私も、かつて、全てきみのためだと思っていた」
「……そうだったんですね」
 因果応報というものだろうか。今になって知る。受け止めきれないほどの優しさは、あまりにも重くて痛くて苦しくて。声を掛けても何も心配をすることはない。大丈夫だ。その言葉が欲しかったのではない。サンダルフォンは連れ出して欲しかった。きっと、ルシファーも同じだった。サンダルフォンの大丈夫だなんて言葉が欲しかったのではない。傷つかないようにと、守り続けることが正しいことではなかった。
「…………きみばかりに語らせてしまうのは不公平かな」
「いえ。勝手に語っただけです。あなたには、知っていて、欲しかった」
「なら私も、きみに知っていてほしい」
 サンダルフォンの肩を抱き寄せていた手が、僅かに震えていた。ルシフェルは、己の出自を恥じるわけではない。ルシフェルも、サンダルフォンと同じく、家族が自慢だ。しかし、世間一般で、一部の人達からはどのように思われているのかも知っている。サンダルフォンが、彼らと同じとは思わない。サンダルフォンの優しさを、誰よりも知っている。
「私は両親を知らない。家族は、血のつながらない兄弟だけだ」
「それ、は」
 育てられないと、施設に預けられてから教育機関を卒業するまで施設で育った。職員は優しく、通っていた教育機関の職員も理解があった。年上からは可愛がられ、年下からも頼りにされた。恵まれた環境であった。やっかみ混じりの、口さがない言葉を投げられては歯噛みした。ルシフェルにとって、自慢の、大切な家族である。
 つけ込むような、言い方である。悪辣な手段であると、自負している。だけど、手放したくないのだ。温かな食卓に、静かに寄り添う安寧。ルシフェルが、無意識に、無自覚に、求め続けたものだった。
「私の、家族になってくれないか」
 震えを抑えた声がサンダルフォンの耳朶を打つ。

 招待状は、1枚を除いて出欠の確認が出来た。サンダルフォンは、胸の中に風穴があいた虚しさを抱く。結婚式は、開くつもりだった。小さな会場で、ルシフェルの家族たちと、サンダルフォンが世話になった人々を招いた小さな式だった。幼い頃から面倒を見てくれて、心配を掛けてきた親戚に、ルシフェルを紹介したときにはルシファーにそっくりなことに驚きながらも、幸せになってねと涙混じりに痛いくらいの抱擁をされた。喫茶店のマスターにも紹介をした。驚きながらもそうかとしみじみと言ってとっておきだという珈琲を淹れて祝ってくれた。優しくて、良い人たちに、見守られていたのだと、改めて知る。だから、過ぎるのはたった一人のこと。
 控室でルシフェルの幼い家族がきらきらとした瞳で見つめてくるものだから、サンダルフォンは戸惑い、躊躇う。幸せになってしまう。ルシフェルの隣が、慈しみと安らぎに満ちていることを、サンダルフォンは誰よりも知っている。曇り顔になる思案にふけるサンダルフォンに子どもたちの中でも少しだけ大人びた少女が声を掛ける。
「写真をとってもいい?」
「構わないよ」
 断る理由も思い浮かべずにサンダルフォンは曖昧な笑みを浮かべる。パシャリとシャッターが切られる。子ども向けのデジタルカメラながら、高性能であることが評判になっていたなと思い出す。
「これね、ルシフェルに貰ったんだ」
「ちがうよ。みんなで使いなさいって言ってたんだよ」
 子どもたちの小さな諍いを見守りながら、サンダルフォンの心は深く、沈んでいく。カーテンが揺れる。そよそよと緑がさざめいて、青空が覗く。
 長雨続きで、数日前までは雨の予報になっていた。しかし当日になればすっきりと快晴が広がっている。サンダルフォンは目を細める。
 良いのかな。ずるい。ダメだよな。心が鈍く、重く、苦しい。
 深い、思惑の海に浸かっていたサンダルフォンの視界が白く塗りつぶされる。甘い香りと、かさりとした重みに、それが花束であることに気付いたのは手にしてからだった。驚いて目を丸くしたサンダルフォンに、驚かせた夫となった人は笑うだけだった。なんだろうと不審に思いながら、花束を見る。白い花束。青いリボンでまとめられている。ルシフェルが作ったのだろか。ブーケならば用意をしているが。誰からのものだろうか、と聞こうにもルシフェルはただ穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
 ふと、カードが差し込まれていることに気付く。開けば、ただ一言だけが書かれている。差出人の名前は書かれていない。だが、分かってしまう。字をなぞる。
──幸せになれ。
 ふき出してしまった。お願いなんかじゃない。命令である。これで、記憶がないのだ。これが、サンダルフォンの弟なのだ。
「……変わってないな。昔っから、分かりづらいけど、優しくていい子なんです」
 サンダルフォンは花束を抱きしめる。
「自慢の弟です」
 サンダルフォンは一番の笑みを浮かべた。パシャリと、シャッターの音。そういえばと、子どもたちがいたのだと思い出してサンダルフォンは照れてしまう。ルシフェルはふと、シャッターを押した子どもに声を掛けた。怒られるのかと不安な顔を見せる家族に、笑ってカメラを預かりデータをコピーする。コピーした画像データを、友人に送った。

 
そろそろ時間だ。

2020/04/04
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