ピリオド

  • since 12/06/19
 集中して見詰めていたモニター画面から、視線をずらす。ちらりと壁に掛けられた時計を確認すれば、最後に確認してから、2時間近く経っていた。どうりで目が疲れるはずだと思い少し休憩を取ろうとマグカップを手に取る。手にしたマグカップはすかっと軽く、無意識に飲み干していたことに驚いた。仕方ないと立ち上がる。周囲の同僚や先輩に声を掛ける。
「コーヒー淹れますけど、飲む人」
 ぞろぞろと手が挙げられる。一人じゃ無理だなあと数えるなかで、ぽつりとしている個所に気付く。
「所長はいりませんか?」
「いらん」
 視線を向けることもなく、眉間にしわを寄せた、相変わらずの不機嫌さと愛想のなさである。配属されてから一年以上経つが、年下である上司の威圧感にはなれることが出来ない。そうですか、と引き下がる。
「所長なら冷蔵庫のポケットにエナジードリンクがあるから、それを持ってきてくれないか? それから俺のはブラックで頼むよ」
 そういって所長付きの秘書にフォローを入れられて、はあと応える。確かに、思い返すと所長がコーヒーを飲んでいる姿は見たことがなかった。給湯室で湯を沸かしながら人数分のカップを用意する。手伝いに来たと言う先輩に礼を言いながら、ふと思いついたことを尋ねた。
「所長ってコーヒー嫌いなんですか?」
「知らなかったのか?」
 常識のように言われてもと乾いた笑いを零すしかない。所長と雑談が出来るのは秘書の彼くらいだ。日常会話なんて一切したことがない。精々研究報告くらいである。パーソナルデータなんて、科学雑誌で取り上げられていた研究分野と出身学校くらいしか知らない。
「所長も可愛いところあるんですね」
 珈琲が嫌いなんて子どもみたいじゃないですか、と言えばまるで怪物でも見るかのような視線を向けられる。心外だ。所長に対して少しだけ親しみが湧いたというのに。
「可愛いなんてものじゃない」
 ぞっとしたように体を震わせて、顔色は心なしか、悪い。本当に、笑い事ではないのかとひやりとしたものが背筋を伝う。やらかしてしまったかとキリキリと胃が痛い。冷蔵庫から取り出したエナジードリンクがいやに重く感じる。
 秘書を務める男は、隠すつもりなんぞ毛頭もなく、不機嫌にキーボードを叩く上司にさてどうやって機嫌を取るべきかと内心で頭を抱える。キーボードを壊さんばかりに叩くものだから、嫌な緊張感が部署全体に走っていた。誰も身動きがとれないなかで、動いたのは張本人であるルシファーだった。がたりと立ち上がると行く先も告げずに部屋を出ていく。ほっと、誰かが安堵の息をついて緊張が和らいだ。
 ルシファーはずんずんと歩く。すれ違いざまにぎょっとした顔を向けられるが気にもしていられない。目的もなく、研究所内を歩いた。不快で吐きそうだった。
 ルシファーは珈琲が嫌いだ。
 大嫌いな女を思い出す。

 幸せだった。幸せだったのだ。父はどこにでもいるサラリーマンだったと記憶している。平日はスーツを着て、出社をするときには母の頬にキスをしていた。休日には庭に出てボール遊びをしてくれた。背の高い人だったから、父の肩車は特別に好きだった。母は小柄で、料理が得意だった。母の作るアップルパイが好きで、最後の一切れをめぐって、姉と喧嘩をして、泣かして、泣いて、二人して怒られた。もう作らないわよと言われてやだやだとごねた。姉は三つ上で、父の真似のように珈琲を飲んでいた。憧れて真似をして珈琲を飲めば、その苦さに驚いた。姉は笑っていた。ありきたりな、家族で、日常だった。いつまでも続くものだと、信じて疑うことを知らなかった。
 父がいて、母がいて、喧嘩をしても嫌いにはなれない姉がいて。
 そんな日常はあっけなく、崩れ去った。
 ルシファーが六歳の時だった。
 黒い服を着た大人たちに囲まれて不安でいっぱいだったことを覚えている。ぼんやりと、両親には二度と会えないのだということだけは、理解をしていた。たまらなく、心細さを覚えて、胸が苦しくなった。横にいた姉に、痛いくらいに手を握りしめられた。九歳の子どもの、小さな手だ。だが、ルシファーにとっては大きな手だった。いたいよ、おねえちゃんと口にするよりも姉が口を開くほうが早かった。
「ルシファー、これから、どうしようか。おばちゃんのところに行く?」
 姉の震えた声を聴いたのは後にも先にも、一度きりだった。おばちゃんは優しくていつも可愛がってくれる。大好きだった。だけど、ルシファーは、
「おねえちゃんといっしょにいたい」
 姉は、きゅっと唇を噛みしめた。
 当時はなぜ、そのような事を尋ねられたのかはわからなかった。後になって、引き取り先のことを聞かれていたのだと知った。親戚は皆善人で、しかし、子ども二人を一度に引き取ることもできないからと判断を委ねたという。もしもあのとき、おばちゃんと一緒に暮らすと答えていれば今は変わっていたのだろうかと考えたことがある。
 親戚は不安と心配を色濃く見せながら、まだ両親の死を理解していないルシファーの様子もあって引き下がった。
「何かあったら連絡をしてね、絶対よ」
 そういって姉に連絡先を握らせた。
 それから、四人での思い出がつまった家で二人きりで暮らすようになった。とはいっても、週末や時間のある日は、近くに住む親せきが訪れることが多々あった。様子を見に来ていたのだ。だからこそ、二人になるとしんとした家がおそろしくて仕方がなかった。
「大丈夫、お姉ちゃんがいるから」
 そう言われると、絶対的な安心感があった。
 大好きな姉だった。
 なのに、いつしか、疎ましく、思うようになった。

 十五になったときには、両親の死を理解出来ていた。そして、親戚の気遣いも、優しく見守ってくれていたことも、有難いことだったのだと感謝を覚えた。だというのに、姉に関しては、疎ましさばかりがうまれていく。一挙手一投足、投げかけられる言葉、すべてがルシファーの荒くれだった心を刺激していく。
 姉の通った教育機関にそのまま進学をすれば「大変ね」と憐憫を向けられた。何も知らないくせに何を知っているんだかと幾度となく浅はかな同情に苛立ちを覚えた。分かっているのだ。姉が「大変」であるかなんてこと。ルシファーは一緒に暮らしているのだから、見てきている。毎食の用意に、姉自身の学業、それから両親の遺産はいざというときのためにと手を付けないでアルバイトに明け暮れている。それでも、ルシファーには疲れた顔を見せない。
 ルシファーは記憶力が良い。だからこそ、自身が発した言葉を覚えている。
「おねえちゃんといっしょにいたい」
 自分の言葉には、責任を持たなければならない。姉と一緒にいたい。たった一人の家族。大切な人。自慢の、姉。なのに、今、姉と共にいることが苦痛でならない。胸を掻きむしりたくなる。見えない縄で首を締め付けられた息苦しさ。腹に石を詰められた重苦しさ。全て、姉と共にいるときに感じる。そんな自分が醜く、嫌いで、知られたくなかった。
「姉さん」
「どうかしたか?」
 食器を洗う姉に声を掛けた。姉は十八になる。草臥れたシャツを着た姉は年ごろだというのに化粧っけの一つもない。手も、アルバイトに加えて普段の家事で荒れていることを知っている。興味はないのだろうかと、尋ねることが出来ない。姉の同級生は恋だなんだとキラキラと青春を謳歌している。姉は、どうだろうかと、ルシファーはもやもやとしたものを抱く。
「手伝う」
「いいよ、大丈夫。それよりも、受験生だろ。勉強しておけ」
 三年前。姉だって受験生だった。だが、三年前ルシファーは家事をした記憶はない。ルシファーがしようとすると、姉が「いいよ、大丈夫」と笑って取り上げる。
──なにが、大丈夫なのだ。
 ちらりと過った言葉を、慌てて飲み込んだ。思春期だから反抗期だからと納得をしようとする。身近な存在である姉に反抗をすることで、普段抱え込んでいるやり場のない負の感情をぶつけようとしているのだ。そんなものを、ぶつけたくはない。
──負の感情は全て姉さんの所為なのに?
 違うと、否定をしたいのに。
「ルシファー? どうかしたのか?」
「……なんでもない」
「そう、か? 夜食は?」
「いらない」
 姉の顔を見ることが出来なかった。これ以上、一緒にいれば口にしたくない、傷つけることしか出来ない言葉を吐き出しそうだった。ルシファーは自室に籠り、問題集を広げた。ルシファーの頭脳を以てすれば簡単な問題で、受験勉強なんて不必要だった。教師からもお墨付きである。黙々と問題集を解けば日付は変わっていた。喉の渇きを覚えて階下のキッチンを除けば、おにぎりが皿に乗っていた。添えられたメモには勉強お疲れ様と書かれていて、胸が苦しくなる。一口、頬張る。梅干しの酸っぱさに、鼻の奥がツンとした。

 ぷつりと、何かが切れた。
 何がきっかけであったのか分からない。姉はいつもと変わらぬ様子で、いつものようにルシファーを気遣うのだ。それが、我慢できなくなった。
「煩い! お前は母親じゃないだろ!!」
 爆発してしまった。
 とうとう、口にしてしまった。
 シンとした部屋にどくどくと早鐘を打つ音が煩い。
 はっとした時には、既に遅かった。吐き出した言葉は取り消すことなんて、出来やしない。目を見開いて、わなわなと口を震わせて、何かを言おうとした様子を見せた姉は、そのまま、口を噤んだ。口を開くことはなかった。ふざけるなとも、ごめんとも、何も。
 ピチョンと、蛇口から垂れた滴に、ルシファーは逃げるように自室に駆け込んだ。あのまま、姉の前にいればもっとひどい言葉を口にしそうだった。あのまま居座れば、何が口からでるのか自分でも制御が出来なくなりそうだった。
 駆け込んだ自室に、ずるずると座り込む。
 情けない姿だ。惨め。哀れ。愚か。何処にも寄る辺を見出せない。自ら突き放した。孤独に酔いしれる阿呆。泣いてはならない。泣きたいのは、あの人に違いない。恩を仇で返す。報いることが何も出来ない。彼女の望みも何も知らない。彼女の我がままを知らない。情けない自分に、吐き気。痛憤。眼球の奥が、赤くなる。むしゃくしゃに、頭をかき乱す。傷つけたいわけじゃない。ただ、ただ。
 ルシファーは、分からない。
「ねえ、さん……」
 どうして一緒にいなければならないのか。
 こんなにも苦しい。
 こんなにも悲しい。
 こんなにも、憎い。
 今まで、自身を偽っていた。気づいてしまった。理解をしてしまった。頑丈に厳重に絡んだ心を紐解けば、むき出しになるものは醜い憎悪である。嫌いだ。あの人が、姉としてふるまうあの女が、嫌いで仕方なかったのだ。
 そのまま、朝を迎えた。ぎしりと痛む体を起こす。階下を除けば、姉がキッチンに立っていた。後ろ姿に、謝らなければと思う。嫌いだなんだと思ったのはきっと、混乱をしていたのだ。冷静さを取り戻した頭で、昨日はごめんと言わなければと思うのに、振り返った姉は、ルシファーに気付くと微笑んだ。
「おはよう、ルシファー。朝ご飯すぐに用意するから」
 何を言っても、無駄なのだと、諦めた。
 それから、進路を告げることをせずに、家を出た。保証人は親戚に頭を下げて、姉には言わないでほしいと約束をした。だから、ルシファーは姉が今どこでなにをしているのか知る由もない。最後に見た姉の姿だけはイヤに鮮明に覚えている。ルシファーの卒業を祝って、おめでとうと言って笑う女の姿に、吐き気がした。

 姉のことを忘れるために、研究の道を突き進んだ。現在、在籍している研究所から声を掛けられ、研究に邁進していれば気が付けば所長という地位を与えられていた。ルシファーは地位も名誉も不要であった。無価値であった。ただ、研究が出来ればよかった。何もかも忘れてしまいたかった。
 しかし、マスメディアはルシファーの事情なんて知ったことではない。まだ未開である研究分野の第一人者として、若手研究者としてサイエンス誌に取り上げられたルシファーは、研究内容以上に、そのビジュアルが認知され、メディアに取り上げられるようになった。なぜ俺でなければならないのかとルシファーが不快に拒絶をする取材が増えた。ルシファーの学術分野とは全くことなる、ただのエンタメ雑誌からの取材すらあった。しかし、研究費のためだと上部のものに命じられれば渋々とインタビューに答えた。インタビューの効果もあってか、研究に協賛する企業が増えた。結果としてルシファーの研究室に与えられる研究費は増加したので、納得をするしかない。
 研究所所長という立場であるとはいえ、なぜ自分が出向く必要があるのかとルシファーは相変わらず納得が出来ないでいる。交渉ならば営業や広報が応じればいい。何のために存在しているのかと、資料を眺めながら内心で零す。
 共同研究を持ち掛けられている。研究の7割の費用を負担するという破格の提示であった。あまりにも旨過ぎる話だ。裏があるに決まっている。
「所長、いらっしゃいました」
 部下の一人が豊かなブロンドを揺らして扉を開ける。現れた姿を見て、らしくもなく、驚いた。白髪に近い銀の髪に、青い瞳。顔立ちも何もかもが、鏡写しのようであった。世の中には他人の空似があるとはいえ、あまりにも似ていた。
 気持ちが悪いだとか、不気味だとかいうおぞましさはなかった。交渉の席に着けば、自分と同等の頭の回転に舌を巻いた。馬が合う、というのだろうか。古い、昔からの友人であるかのように会話が弾んだ。裏があると思っていた契約内容も納得がいくものであった。
「では今後ともよろしく頼む」
「ああ」
 不貞腐れて挑んだ交渉の席であったが、得たものは多い。ルシファーは久方ぶりに胸を躍らせた。今後の予定を決めなければならないと考えていたところを、引き止められる。
「姉はいないだろうか?」
 ルシファーは即答できずにいた。なぜ、そのような問いかけを投げられるのかも、分からないでいた。声を失ったルシファーに、頬をほころばせている。
「彼女から、きみのことを自慢の弟だと聞いていた」
 ちくちくと胸が痛んだ。忘れていた、忘れていたつもりであった記憶が追いかけてくる。逃げだすことなんて許さない、忘れることなんて許さないと遠い過去が糾弾してくる。
「俺に、姉はいない」
 吐き捨ててルシファーは、顔も見ずに立ち去った。

 研究の進捗状況について、二回目に顔を合わせる折りに、警戒をしたルシファーに反して、ルシフェルは「姉」の話題を取り上げることはなかった。その話題さえなければ、ルシフェルという男はルシファーにとって気の合う、数少ない友人に数えることができた。頭の回転が速く、話題も合う。話していて気楽であった。
 常ならば飲み会なんてくだらないと断っているルシファーだったが、珍しく、飲み会に参加をした。ルシフェルから君もどうかと誘われたのだ。飲み会に姿を見せたルシファーに部下たちは嘘でしょ本当に所長ですかと言わんばかりの顔であったが、今ではすっかり、ルシファーがいることを忘れたようにどんちゃん騒ぎをしている。部下たちに呆れながら、ちびちびとアルコールを口にするルシファーは、隣に座るルシフェルの薬指がきらりと輝いていることに気付いた。以前、顔を合わせたときには付けていなかったと記憶している。
「結婚をしたのか?」
「つい先日、籍を入れたんだ」
「そうか。めでたいな。……式はどうするんだ?」
「開く予定だ。とはいえ、今はこの研究があるからまだ先になる。良かったらきみも来てくれないか?」
 幸せを抑えきれないようなルシフェルに、ルシファーは肩肘をつきながら、アルコールには強いはずなのにあてられたのか、らしくもないと分かっているのに、
「気が向いたらな」
 答えていた。酒の席の戯言だ。アルコールと共に、蒸発をしていく。確かな約束ではない。口約束。誰も証明できやしない。だというのにルシフェルという男はどうしようもなく、律儀であるらしい。そうかと朗らかに笑ったのをぼんやりと覚えている。招待状が届いたのは、研究に終わりが見え始めたころだった。仕事中の慎重さとは打って変わったような、気の早い男だなと呆れながら開いた招待状の、新郎新婦の名前に言葉を失う。印字された文字。ルシフェルと、サンダルフォンと書かれている。
 偶然だと片付けるには、無理がある。
 ルシフェルは最初から知っていて近づいてきたのか。アイツに頼まれでもしたのか。
 考え出すと、不審でキリがない。
 招待状は、ゴミ箱に放り込んだ。
 行くつもりなんて、微塵もない。
 後日、顔を合わせたルシフェルは招待状や式について、話題にすることはなかった。元より、友人関係を築く以前に、仕事上の取引相手なのだ。一時の感情で研究を蔑ろにする無責任さはルシファーにはない。研究さえ終わってしまえば、そのまま。ルシファーの心を乱すものはいなくなる。それまでの辛抱である。

 最終調整のための会議を終えて研究所を出たルシファーは視線の先に、ルシフェルと人影を視界に認めた。日は暮れて、街灯がぼんやりと周囲を照らしている。互いに社会人であるから仕事に支障をもたらさない程度に、仲違いをしていた。ルシファーが一方的に、といっても過言ではない。声を掛けることもないと、早々に立ち去ろうとして、人影が見知ったものであると気づく。最後に顔を見たのは十年近く前のこととはいえ、間違えるはずはない。しかし、花が開いたように笑う姿は、見たことがなかった。
 いつだって見てきたものは、静かな笑みを浮かべた姿だった。怒る姿を知っている。悲しむ姿もみた。けれど、ルシファーは、気づいた。なぜ、自分が苛立っていたのか。腹を立てていたのか。
 姉が、嫌いであったのか。
 苦しいならば、苦しいと。悲しいからば、悲しいと。寂しいならば、寂しいと。打ち明けてほしかった。抱え込まないで欲しかった。
 ルシファーの幼い感情を、姉は受け止めた。ルシファー自身すら、理解できない苦しみを、悲しみを文句の一つも零さずに抱き留めた。大丈夫だとお姉ちゃんがいると、そういって名前の付けられない感情に支配されたルシファーを包み込んでくれた。だからルシファーもまた、姉の感情を受け止めたかった。たった二人きりの家族なのだから。苦しみも、悲しみも、分かち合いたかった。
 姉は、ただ一人で、抱え込んでいた。
 部活動もせずにアルバイトに明け暮れて、勉強をして、目の下にクマを作りながら食事の用意をするくらいなら、出来合いにものでも良かった。なのに、何を言っても聞いてくれない。栄養が偏るだろと言って、大丈夫だからとルシファーに笑いかける。
 進学なら心配をするなと言う姉は、きっと、優しさで言ったのだ。心配を掛けまいとしたのだと、理解をしていた。両親がいないことへの劣等感と、偏見は何時までも纏わりついていた。姉自身がそれを体験しているから、安心させるために、告げたのだ。だけど、納得は出来なかった。
 姉は、母ではない。父ではない。親ではない。
 ルシファーの、姉だ。
 たった三つしか変わらない。同世代よりも華奢で小さな、女性。
 だから、腹立たしかった。
 ルシフェルの隣に並ぶ姉の横顔に、気づいてしまった。
 嫌いなんて嘘だ。傷つけたくなんてなかった。姉のお荷物になりたくなかった。昔から、変わらず、大切な人だ。誰よりも幸せになってほしい人。幸せにならなければならない人。それは、ルシファーには出来ない。
「おねえちゃん」
 久しぶりに呼びかけた。聞こえるはずもない。遠く、言葉を交わしていた二人は並んで歩きだした。その背中を見送る。遠く、消えていく背中。見えなくなってから、帰路を辿った。

──今日は1日、青空が続き晴れやかな日となるでしょう。
 気象予報士の言葉の通り、開け放した窓からは爽やかな風がカーテンを揺らし、陽ざしがちかちかと注ぎ込んだ。雲一つない青空が広がっている。門出に、相応しい日だと、柄にもなく思った自身に笑った。
 共同研究はとっくに終えてルシファーの出る幕は最早ない。あとは営業に任せている。ルシフェルとは連絡先を交換しているが、至急の要件もないので連絡を取っていない。ルシフェルは何も言わない。ルシファーが知っていることを知った上で、何も口にしないのだと、ルシファーも承知の上で、何も言わないでいた。
 ルシフェルは信頼に値する人間だ。誠実で、真面目で、融通が利かないところはあるが、許容範囲である。評価付けをしながら、俺が今更何を言っているんだかと可笑しくなる。それから、もしもこれからルシフェルと会うとなると、義兄となるのかと少し笑った。
 初めて、花屋を訪れた。
 何が良いのか分からないまま、店員のアドバイスのもと、殆ど店員の手によって作られた花束は受け取られたのだろうか。差出人の名を添えなかった。不気味だ、危険だと処分されたならそれまでのこと。捨てられたならば、それで構わない。許されたいとも思っていない。姉を傷つけたことに変わりはない。だから、会うことはできない。彼女の幸せを壊したくない。どこまでも自己満足だ。
「結婚おめでとう、姉さん」
 ルシファーは珈琲を飲んだ。
 十数年ぶりに飲んだ珈琲は苦くて、優しくて、懐かしい味がした。

2020/04/02
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