ピリオド

  • since 12/06/19
 備え付けられた窓から、切り取られた空を見上げる。晴れやかに、澄み切った空。あの御方の瞳の色に似ている。不敬だろうか。これは、どこまでも広がっているのだろう。空の果てには、何があるのだろうか。あるいは、果てはあるのだろうか。彼は知っているのだろうか。浮かんだ疑問は我ながら馬鹿馬鹿しいこと、ナンセンスだと捨て去る。
 与えられた部屋の小さな作業台の上には、珈琲をいれるための器具が丁寧に片付けられている。いつもなら、いただいた器具で珈琲の研究をしている。それ以外にサンダルフォンが出来ることはなかった。許されたことはなかった。それに、唯一といっても良い、共通の話題でもある。研究を報告したとき、彼はいつだって眦を緩やかにしている。サンダルフォンの見当違いでなければ、楽しんでいる、ように思うのだ。サンダルフォン一人がはしゃいで、空回っているわけではないと、信じたい。
 しかし、今は、気分になれない。
 窓に近寄る。
 ガラス窓は強固な素材で出来ている。長く部屋を使用しているが一向に、ひび割れるような気配はない。この窓が割れるのが先だろうか、俺が役割を与えられるのが先だろうか。考えて、振り払った。
 研究所は変化が乏しい。不変である。そんな空間で変化をもたらしくれるのはいつだって、ルシフェルだった。サンダルフォンはルシフェルによって作られ、ルシフェルによって構成される。サンダルフォンは、ルシフェルを敬愛している。だからこそ、役に立ちたいと心がせぐ。だというのに、サンダルフォンはただ待つしか出来ない。
 どこにも行けない。居場所もない。
 扉がノックされることを待っている。
 彼が迎えに来てくれることを待っている。
 数日前、いってらっしゃいませと見送ったルシフェルが多忙であることなんて、重々に承知をしている。天司長だ。本来ならば、自ら手掛けたとはいえ、役割のない天司に会う時間は彼にとって稀少であるのだ。そんな、稀少な時間を割いていただいている。望むなんて、願うなんて、烏滸がましいことだ。承知をしている。わかりきったことだ。ずうずうしい。無礼。厚顔。恥知らず。……それでも、彼と語り合いたい、彼と珈琲を共にしたいと、サンダルフォンの事情なんてお構いなしに、心は求めて止まない。
 残念がる自分の強欲さに呆れた。
 醜い内面を晒すことは出来ず、ただで一人抱え込むことしか出来ない。
 ガラス越しに、青空を見上げていた視線を降ろす。遠い地面。研究施設内のなかでも、人の出入りの少ない場所に位置をしている。代り映えのない光景が広がる。そのなかで、プラチナブロンドに目を奪われた。歓喜を覚える。戻ってこられた、と慌てて珈琲豆を、と準備をしようとして、冷静さを取り戻す。彼は、一人ではなかった。四大天司を伴っていた。
 きゅっとのどの奥が締め付けられる。
 上機嫌で、舞い上がっていた心が一瞬で静かに凪いでいく。
 自分とは違う。
 役割があって、全うしていて、天司長の役に立っている。
「……今日はいらっしゃらないのだな」
 天司長に加えて四大天司。何かあったのかと思うようなメンバーだ。
 零した独り言の悲壮さに、込められた寂しさに、落胆に、サンダルフォンは気付かない。気付きたくない。自分を納得させるように掛けた言葉は、自傷行為のようにサンダルフォンの柔らかな心に引っかき傷を作る。完治をすることもなく、作られ続ける傷は広がり続けている。化膿して、ぼろぼろで、腐りかけた心から、目を背ける。
 本当は、この部屋を飛び出してしまいたい。羽があるのだ。窓から、飛び出して、彼に「おかりなさいませ」と言いたい。だけど、サンダルフォンにはそんな権利はない。行動に移すことは出来ない。どうせ、邪魔にしかならない。
 気に掛けられているだけで、恐れ多く、身に過ぎる。彼が最優先するのは天司長としての務めである。それは、役割がないとはいえ、天司として作られたサンダルフォンも、理解をしている。だから、残念がる自分を、彼と共にある四大天司を羨んだを自分を、恥じた。
 もしも、俺にも役割があったのなら。役割を与えていただけたら。
 あの輪に、加わることができるのだろうか。
 そっと、窓から離れた。
 ルシフェルはふと視線を感じて、見上げた。研究施設とは用途が異なる建物が数棟建てられている。。幾つか窓ガラスが確認できる。窓越しに、ちらりととび色が視界のなかに僅かに入り、心が弾んで、消えた。
 その窓が位置するのは、サンダルフォンの部屋であると把握している。だから、さきほどちらりと覗いたものを見間違えるはずがない。
「どうかなさいましたか?」
「……問題はない」
 副官であるミカエルが声を掛ける。ルシフェルはあやふやな気がかりを覚えながら、ミカエルに報告の続きを促した。ルシフェルの様子に違和を覚えたのはミカエルだけではない。共に控えていたガブリエルもまたルシフェルの態度を不審に感じたのだ。
(問題はない、とは思えないのだけれど)
 思ったものの、口にはできない。天司長の言葉を否定できる立場ではないし、ルシフェル自身が真実、そう思っているのだから、口に出すことは無意味であった。問いかけたミカエルも、何か言いたげであったが言われたままに、報告を続けるしか出来ない。
 ガブリエルはルシフェルが一瞬だけ、視線を向けた建物をみる。禁止区域の一角であり、四大天司すら踏み込むことの許されない区域であった。立ち入れるのは最高責任者である所長と、極僅かな星の民、それから、天司長だけであったと記憶している。何を取り扱っているのかすら知らされてもいない。しかし、天司長がその区域に頻繁に立ち寄っていることはよく知っていた。所長の研究補助をしているのかしら。珍しいことではない。しかし、区域に通う天司長の様子は義務や任務としてではないように、映った。それどころか、天司長の自らの意志であるようだった。

 かつて抱いた疑問を思い出した。空の果て。彼は、知っているのだろうか。ちらりと横目で、見上げた彼は、優しい顔で白磁の陶器を手にして、通り過ぎていく青を眺めている。あまりに、その横顔を見詰めすぎたのだろう。視線が絡む。視線を態々逸らすことも出来ないし、逸らす必要もない。
「どうかしたのかい?」
「……なんでもないです。珈琲、どうでしょうか? ルシフェルさまが普段飲まれているものよりも、甘すぎると思うのですが……」
 抱いた疑問は、口にして問いかけるには幼すぎるものだ。思い返しても、耳が赤くなる。夢想的過ぎる。話題をそらして、珈琲を引き合いに出す。
 団長がいつもお世話になっている団員へと、購入したというマシュマロは、団長の発注ミスによって大量に届き、男女含めた団員全員に配っても余っていた。余りまくっていた。しかし空を旅をするなかで稀少な食料だ。処分をするのは勿体ない。かといって黙々と食べ続けるには苦しい。新手の拷問である。余りまくったマシュマロは、主調理室だけではあふれ出して、助けてくださいという団長渾身の土下座と共に、ファスティバが管理を任されている副調理室であるラードゥガと、サンダルフォンが管理をしている喫茶室にまで回ってきた。豊富なレシピを持っているファスティバも困りながらどうにか消費をしている。対してレシピをあまり持っていないサンダルフォンは、どうしたものかと頭を抱えて、結局注文された珈琲に添えたり、マシュマロトーストにしたりとどうにかせっせと消費をしている。それでも、注文だけでは到底消費出来ないから、私的に飲む珈琲にも浮かべたりとしている。サンダルフォンが自分で飲む分だけに浮かべていたのだが、ルシフェルに「私もキミと同じものを飲みたい」と言われたので「甘いですよ、これ」と断ったうえで同じものを用意して、飲んでいる。
 何時だったかの夏の騒動の時。思い返しても頭の痛くなる騒動に巻き込まれながら、喫茶店修行として経営を任された海の家で使用した長椅子は騎空艇にそのまま持ち込まれた。邪魔になるだろうと思っていたというのに、使用しているのは自分たちばかりな気がしてならない。かつての中庭のように向かい合った席を作ることも出来たけど、サンダルフォンはしなかった。ルシフェルに言われれば用意をするつもでいる。だけど、言われないから。もう少し、このまま隣り合っていたいと、思うのだ。
「美味しいよ。ただ、甘いね」
「でしょう? だから、言ったじゃないですか」
 ほらやっぱり。くすくすと笑っていたサンダルフォンと、そんなサンダルフォンを優しく見ていたルシフェルが不意に顔をあげる。顔をあげた先にいたのは特異点だ。特異点は気まずそうにして、どう声を掛けたら良いものかと気を回している。
「どうかしたのか、団長」
「何か問題でもあったのだろうか」
 だから、二人から声を掛けた。特異点は声を掛けられたことに助かったと思うものの、二人の時間を邪魔することに申し訳なくて居心地が悪い。穏やかに、二人が並びあって珈琲を飲む光景は、特異点自身も夢見た光景である。サンダルフォンの小さな願いを聞いて、穏やかな二人を夢見た。その光景に割り込む自分の不甲斐無さに凹んでしまう。そんな特異点の姿に、サンダルフォンとルシフェルは深刻な問題が発生したのだろうかと不安を覚える。
「ごめん……ルシフェルをちょっとだけいい……? すぐに終わるから……。意見が聞きたいんだ……」
 普段のはきはきとした声からは程遠いか細い声の特異点に二人は肩透かしを食らう。なんだ、そんなこと。ルシフェルはサンダルフォンの様子をうかがう。サンダルフォンは特異点の様子に呆れているだけだった。
「すぐに戻るよ」
「はい」
 二人の時間で過ごす時間を名残惜しく思いながら、腰を上げようとした。しかし、立ち上がりきらない。くっと、腰巻が引っ張られる。長椅子に、巻き込まれたのだろうかとその先をみて、目を丸くする。そんなルシフェルを、サンダルフォンは不思議そうにしていた。それから、さっきまではあんなにもしおらしい素振りをしていたというのに、今やニヤニヤと笑っている特異点の不気味さにサンダルフォンは訝しむ。特異点はニヨニヨとしたままサンダルフォンに意味ありげな視線を向ける。なんなんだ。固まったままのルシフェルを見上げる。
「ルシフェルさま?」
「……うん」
「どうかなさいましたか?」
「いや、うん」
 ルシフェルは口元を覆い、何かをかみ殺している。本当に、何なのだ。サンダルフォンはさっぱり分かっていない。心底不思議そうにしている。
 無自覚だからこその、本音。
 サンダルフォンの、願い。
「特異点すまないが、後でもいいだろか」
「うん。ごめん、やっぱり今はいいや。用事を思い出しちゃった」
「本当に良いのか? 何なら俺でも問題ないなら構わないが」
「うん。大丈夫、お邪魔しました!」
 用事なんてうそっぱちであるのだが、あんな風に見せつけられたら割り込むなんて出来ない。ルシフェルの意見を聞きたかったのはあるが、自分たちなりにまとめてから、意見を仰いでも問題はない。寧ろそうするべきだ。いつまでも頼りっぱなしではいけない。
「なんだったんだ。忙しいやつですね」
 サンダルフォンはそっと手を離した。はて、何を離したのか。自分は、何を掴んでいたのか。掴んでいた先。しわになった腰布。うん、なぜしわになっているのか。いやはや。それは自分が掴んでいたからだ。うん。掴んでいた。
 それから、特異点のあのにんまりとした、意味ありげな視線と、ルシフェルの様子を思い出して、サンダルフォンの顔は羞恥で染まる。鳶色の髪から除く小さな耳まで瞳と同じ色に染まっている。
「……もうしけありません」
 動揺で震える声。うつむいたまま謝るだなんて、不敬だと、自覚がある。けれど、顔があげられない。どういう顔をしていいのか、分からない。だって、特異点の要望を、彼は断った。それは、自分が邪魔をしたからだ。引き止めてしまった。だけど、彼は咎めなかった。手を離しなさいとも言わなかった。ただ、サンダルフォンを選んでくれた。これは都合の良い夢だろうかと思ったが、痛いくらいに早鐘をうつ心臓もじんわりと汗ばんだ手も、何もかもが現実だ。ルシフェルは、長椅子に、サンダルフォンの隣に腰を下ろした。俯いたサンダルフォンの旋毛をみつめて、ルシフェルは緩みそうになる口元に力を籠める。幸せがあふれて止まない。
 空の世界は今日も平和である。

2020/03/28
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