ピリオド

  • since 12/06/19
 麗らかな日差しが木々の葉を照らし、温かな風が舞う。天司も研究員も足を不入れることのない立入禁止である中庭は、ぽつりとしている。喧騒から切り離され、静寂に満ちていた。しんとした静けさは恐ろしいものではない。苦しいものではない。穏やかな時の流れは、いっそ、止まってしまえばいいのにと思ってしまう。
 サンダルフォンは敬愛するルシフェルと二人きりということに緊張と、それから喜びを感じながらおずおずと珈琲に口をつける。白磁に黄金のラインが施されたカップは揃いのものである。珈琲を共にするようになってから、ルシフェル自らが用意をしたものだった。
 ──うん、今日も良い出来だ。
 最近になってやっと味わえるようになり、珈琲の美味しさについて理解できるようになった。ルシフェル様はどうだろうか、好みに合うだろうか。ルシフェル様は苦味や酸味のバランスをどのように好まれるのだろうか。サンダルフォンは静々とルシフェルを見詰める。テーブルをはさんで向かい合って座っているルシフェルは、いつもの用に穏やかだった。穏やかであることは、分かる。ただ、それは常と変わらない様子である。ルシフェルはいつだって穏やかに、凪いでいる。感情を顕わにしない。サンダルフォンだけがこの逢瀬を楽しんでいるのだろうかと、ふとした不安を感じる。いけないことだと思考を掃う。仕方のないことだと自身に言い聞かせた。時間を割いていただいている。それだけで畏れ多いことなのだから、何を期待しているのかと自分に呆れる。ルシフェルは閉じていた瞼を開く。視線に気づいたルシフェルは不意に花束を取り出した。ぎょっとすることはないが、その手慣れた様子に息を呑む。エーテルの操作をして隠し持っていたのだろう。
「サンダルフォン、これを」
 差し出された鮮やかな真紅の花束を恭しく受け取ったサンダルフォンは、きょとりと首をかしげたくなるのを堪えてありがとうございます、大切にしますと礼を告げる。ルシフェルはうん、とそれだけで満足そうに、穏やかな微笑を浮かべるだけだった。
 実のところ──サンダルフォンは、その花束を持て余している。否、それは不敬である。ただ何故贈られるのか不明でならない。
 サンダルフォンがルシフェルに物を贈られることは多くはないが、少なくはない。珈琲の抽出器やティーセットだって贈り物の一つである。其のたびああ気を使わせてしまったなとそのたびにサンダルフォンは、鉛がずっしりと胸に落ちるような息苦しさを覚える。
 そんなにも物欲しそうにしているのだろか。そんなにも浅ましくも強請っていただろうか。そんなにも御手を煩わせてしまっているだろうか。──いつからか、不安が付きまとう。純粋に、喜ぶことが出来ない。サンダルフォンを手にした花束を抱きかかえて、吐き出しかけたため息を慌てて飲み込んだ。
「……嬉しいです」
「そうか」
 嬉しい。嬉しいのだ。自分に言い聞かせる。問いかけを、塗りつぶす。なぜですか。この贈り物は情けですか。これは慰めですか。
 ルシフェルのいなくなった伽藍とした中庭で、サンダルフォンはたまらなく、泣き出したくなった。胸から込み上がるものが悔しさなのか、悲しさなのか、苛立ちなのか分からない。かき混ぜられた感情がサンダルフォンの胸のなかにどろりどろりとたまっていく。美しかった記憶も、感情も全てを塗り替えていくように増していく。
「ルシフェルさま、」
 何も言ってくれない。教えてくれない。
 サンダルフォンが作られて長い時が過ぎた。サンダルフォンが自我を得て、ルシフェルを慕う間にも多くの天司が作られ役割を得て、空を飛んでいく。サンダルフォンはそれをただ、羨ましく思うことしかできなかった。俺にはどのような役割があるのですか。問いかけたことはある。だけど、ルシフェルからは明確な解答は得られなかった。天司長ですら、知らぬ役割があるというのか。何かを隠されているのではないか。俺は本来ならば──。考えを振り払う。
「……大丈夫、きっと。俺にだって役割がある。俺も、ルシフェル様のお役に立てる。大丈夫…………」
 ルシフェル様をちらりとも疑った自分が許せなくて、言い聞かせる。胸に抱き留めた花束の香りが胸に満ちる。ルシフェル様の好きな花なのだろうか。鮮やかな花だ。だけどルシフェル様のイメージにはあまりに会わない。ルシフェル様に似合うのは、青、白、水色……空が似合う。共に空を飛ぶことが出来たら。サンダルフォンは夢想する。空を飛んだことは、数えるだけだ。飛行性能の確認と訓練も兼ねてたった、数える程度。以降は飛んだことは無い。はるか昔の記憶だ。それでも、サンダルフォンは忘れない。
 これが、あの人の守っている世界。
 果てのない、どこまでも続く青は恐ろしくもあった。広大な空に一人、ぽつねんと置いてけぼりにされたような孤独があった。
 それでも、この世界をあの人は愛しているのだ。
 それだけで、サンダルフォンは空の世界を好ましく思える。好ましく、思うようになった。

 不用品という言葉が、耳から離れない。薄々と気づいていたのだ。ぼんやりと感づいていたのだ。だけど、認めたくなかった。そんなこと、認められるはずがない。そんなもの、認められたくない。なのに。裏切られた。それだけだった。サンダルフォンに価値はない。あの人にとって、天司長にとって、ルシフェルにとって、サンダルフォンは無価値なのだ。胸が痛い。張り裂ける。心が軋む、欠けて、崩れていく。
 好きだった。
 好きという言葉では収まりきらない。
 愛していた。
 愛なんて言葉では足りない。
 恋だ愛だ、なんて俗っぽいものではない。
 ルシフェルという存在は、サンダルフォンにとって掛け替えのない存在だった。期待を、していたのだ。どこかで。きっと、気に掛けていただいているという自負があった。つまらない自尊心があった。だから、あの研究者の言葉に反論をしてくれると、期待を抱いていた。
 淡くて──馬鹿馬鹿しい、つまらない。
 そんなわけないのに。
 天司長なのだ。
 ルシフェル様は、天司長だ。
 今更なことだ。
 空の世界の均衡を保ち、世界の管理者。選択を間違えることはなく。不用なものは切り捨てる。そういう風に、作られている。世界にとっての不用品なんて、あの人にとって、無価値なのだ。役立つものではない。それでも、そんなことを否定したい自分がいる。
「だったらあの時間は何だった? あの贈り物はどういう意味があった? ルシフェルさまが本当に無意味な行動をするのか?」
 天司長として正しい行動を選択をしてきたルシフェル様だ。そんな御方だから、きっと……。それを肯定したいのに。
「不用品だ。時期をもって廃棄する」
 淡々とした言葉が耳朶から離れない。研究者の、ルシファーの言葉が悲しかったのではない。苦しかったのではない。寂しかったのではない。傷つけたのではない。サンダルフォンが傷ついたのは、苦しいのは、悲しいのは、寂しいのは。
「俺は、不用品なのですか……愛玩の価値すらも、ありませんか」
 泣いて枯れた声で、問いかける。答えなんてない。
 だったらあの優しさはなんだったのだ。憐憫ならば、どうして、なんて……残酷なのだろう。不用品であったなら気に掛けることなく、捨て置いてほしかった。半端な優しさがサンダルフォンの柔らかな心臓を抉っていく。
 涙は枯れ果てた。言葉は不要。感情は捨てていく。
 あの人が、あの男が、アイツが作り上げたものはすべて置いていく。憎しみだけを持っていく。憎悪だけを拾い上げる。最初から、そうであったかのように。

 叛乱した天司のなかに、その姿があったと告げた麾下の天司にルシフェルはそんなまさかと思った自身に、驚いていた。なぜ、と思いながら。見間違いだと、信じたくない自分がいた。天司長。呼びかける声に冷静さを思い出しながら冷徹に指示を出す。あり得ない。そう思いたい。根拠のないなにかに縋り付いている。
 だけど、証拠はいくらでもある。その姿かたちをした天司はルシフェル自らが創った彼以外に存在しない。
 不穏な噂はあった。いつからか分からない。中庭のささやかな逢瀬はなくなり、研究所はばたばたと忙しなく、ルシフェル自らが現場に赴いて指示を出すことが増えていった。そのうちに、だんだんと研究所から遠のいていった。違う。遠のかせたのはルシフェル自身に他ならない。ルシフェルは天司を率いる立場であり、ルシフェルに命じることが出来るのは研究所の最高責任者であり創造主であり、友と呼ぶ彼以外に存在しない。その彼はルシフェルを咎めることはあれども禁ずることはなかった。
 中庭にいなくても、探すことは出来た。研究所から遠のく距離であっても、自分には羽があるのだから研究所にはいつだって出入りできた。なのに、なにもしなかった。それは愚かな甘えであり、恐怖だった。
「サンダルフォン、なぜ……」
 おそろしくて仕方がなかった。
 彼に否定をされることが。彼にもう二度と会いたくないといわれることが。
 恐怖だった。
 創造主からして最高傑作と言わしめた天司長が、初めていだいた恐怖はルシフェルを臆病にさせた。
 友に言わせれば不具合と片付けられてしまう。恐怖は不必要だ。臆病は不要だ。わかっている。理解している。それでも、ルシフェルは感情を片付けることができなかった。
 何が、いけなかったのだろう。なにを、するべきだったのだろう。今更過去に戻れるわけではないというのに、ルシフェルは考えてしまう。それが後悔、というものであると気づいたときにはサンダルフォンは憎々しくルシフェルを睨みつけていた。
「サンダルフォン、」
 言葉を紡ごうとしたルシフェルにサンダルフォンは斬りかかる。その目は憎悪と憤怒にそまっていた。胸が張り裂けそうになる。コアが破壊されたのだろうかと思うほどの痛みを感じる。話を聞いてほしい、そういったところで全てが手遅れであるのだと察してしまう。
「天司長!」
 麾下の呼びかけに不意に息を詰まらせる。そうだ。天司長。天司長として、裁きを下す。叛乱したものには罰を与えなければならない。罪には罰を課さなければならない。捕えた叛乱者たちを、罰しなければならない。
「──ルシフェルっ!」
 怨嗟の滲んだ声が耳朶から離れない。
 憎悪に染まった瞳が忘れられない。
 それでも、ルシフェルにとってサンダルフォンは損なうことの出来ない唯一無二の存在だった。天司長として、生温い判断だと、理解をしているのだ。だけど、それでも、ルシフェルには出来ない。憎まれても恨まれても、彼が生きているのならば、それは。

「私は何を間違えてしまったのだろうか」
 がらんとした、かつて中庭であった場所。彼が目を細めて見つめていた鮮やかな緑も麗しい花も、風でそよいでいた緑も何も、なくなっている。うっすらと白く、埃に覆われた机をなぞる。彼と向き合い珈琲を楽しんだ。ルシフェルの見聞きしたものを興味深そうに、頬を赤らめて聞き入る様子は瞼の裏に思い描けた。珈琲を飲んで不意に奇妙な沈黙の後、美味しいですと浮かべた笑み。この淹れ方はどうでしょうか。この味は面白いですね──彼との逢瀬はルシフェルが唯一生きた心地を取り戻せる稀少な時間だった。ルシフェルの心が跳ね、弾み、浮かれる。彼と共にあることはルシフェルの喜びだった。ルシフェルの心が生き返る瞬間だった。
 天司長という立場を重責と感じたことは無い。
 そのように造られている。
 そのように存在している。
 だけど、気づいてしまった。
──ルシフェル様。
 呼びかけられる瞬間に光がはじける。陽だまりに照らされたような温かなものがコアを包み込む。それを安らぎと言わずとして、なんと呼ぶのか。どのような魔法を使っているのだろうかと問いかけたことがある。サンダルフォンは不思議そうに首をかしげて魔法、ですかと言うものだからなんでもないよと言うしかなかった。魔法ではないのだと改めて知った。これは、サンダルフォンだからなのだ。
 他でもない、誰でもない、代わりのないサンダルフォン。
 叛乱は制圧され、裏で糸を引いていたもの─友と呼びかけた彼──も、もはやこの世に存在しない。
 最高責任者のいなくなった研究所の瓦解はゆるやかに、そして一瞬であった。
 彼が築き上げたものは一瞬で消え去り星の民は方々に散り、あるいはこの空の世界から身を引いていった。彼らに造られた生命の多くは既に用途を終えている。天司たちは天司長のもと、その役割を果たしている。
「何が、正しかったのだろうか」
 ただ彼とともに、対等な立場でありたいと、願った。
 彼と同じものを見たい。彼と同じものに喜びたい。彼と同じものを分かち合いたい。悲しみも喜びも、幸いも。彼の悲しみを分かち合いたい、苦しみを分かち合いたい。
 驕っていたのだ。
 彼に信を寄せられていると疑わないでいた。苦悩を打ち明けられているのだと、思いたかった。
 彼の悲鳴に気づきもしないでいた。彼の変化に目を瞑り続けていた。
「おかえりなさい、ルシフェルさま」
 顔を上げた瞬間のサンダルフォンの浮かべた笑みが好ましいと思った。私を待っていたのだと言う顔が、たまらなく、嬉しかった。天司長ではない、ルシフェルとして、サンダルフォンとは向かい合っていた。つもりだった。
 天司長様と恨みがましく詰る声、陽だまりは成りを潜めて冷たい夜のように冷ややかな視線。精神操作をされているわけでもない。あれは、彼の本心だった。憎まれていたのだ。いつからか、分からない。覚ることもできなかった。疑いもしなかった。
「私は、何も知らなかったのだな」
 今更何を言っているのだと詰る自分がいる。

 暗く、冷たい。あの場所とは正反対だと思い嗤笑する。封じられてからどれだけの歳月が経ったのか。朝も夜もない空間では分からない。たった数日かもしれないし、あるいは十年百年千年単位の月日が経ったのかもしれない。パンデモニウムの外、というべきか地上というべきか空の世界の現状も確認をする術はない。共謀されることを懸念してかサンダルフォンは一人、完全に隔離をされているために情報は遮断されている。もしかしたらパンデモニウムには俺一人しかいないのではないかと考えたこともあったが、それはまずない。なんせ天司長自らがパンデモニウムについて説明をなさったのだから!
 サンダルフォンは唇をかむ。
 叛乱に加わったことに、一切の後悔はなかった。
 裏切りだと躊躇うことはなかった。
 最初に裏切っているのは、あちらじゃないか。
 ルシフェルは、与えられた選択肢を否定することも、選択することもなかった。ならば、サンダルフォンの命は使い捨てられる。否、使われることなく処分される危険性もあった。研究所はそういった場所だった。役に立たないものに未来はない。サンダルフォンは役に立つのか。自分でも、それを肯定することが出来ないでいる。目を掛けられていると思っていた。特別な役割を賜るのだとどこかで期待をしていた。
 必要とされたかった。
 たとえ役割がなくても此処にいていいのだと、きみが必要なのだと、ルシフェルに言われたかった。
 結局。
 役割がないとしって、自身のスペアと知ったルシフェルはといえば、興味を一切なくしたのか研究所に近寄ることもなかった。
 その姿に落胆をした。
 与えられた部屋のなか彼から頂いたものだけが色褪せていった。美しいといっていた花束は枯れて、美味しいといっていた珈琲豆は黴て、君の瞳の色だといわれた透き通った石は砕けた。サンダルフォンには何もない。ただ与えられた肉体。それすらも厭わしい。
 与えられるたびに軋んだ胸も何もかもが、煩わしい。
 なにも無くなった自分を、サンダルフォンは笑った。あまりにも身軽で。あまりにも、ちっぽけで。あの男の期待に一切答えることのない自分が、おかしくてしかたのない。
 道化にもなれない。
 結局その程度だったのだ。
「俺には価値なんてない。わかってたさ。殺す価値さえ、ないんだものな」
 せせら笑う。
 対峙したルシフェルは驚きを浮かべることもなく、やむを得ないと悔やむ素振りの一切もなくサンダルフォンという「敵性体」を処分した。いっそ殺してくれれば、いっそ責任を取ってと思ったが結局サンダルフォンはその他大勢と変わらないのだ。その他大勢の没個性。役に立たない。彼の視界に入ることもないちっぽけな命。有象無象の一部。
 サンダルフォンだけだったのだ。
 あの中庭に、優しさに、彼の一挙手一投足に気を配っていたのは、サンダルフォンだけだった。思い上がりだと羞恥が苛む。同時に気付けずにいた自身の鈍間さに嫌気がさす。あんな時間を体験してしまったから。あんな空間を知ってしまったから。
 冷たい床の上、手足は悴む。心は凍てつく。死ぬこともできない。俺ばかりが追いかけている。瞳に映る事なんてないと分かっているのに。追いつくことなんて出来やしないと理解しているのに。それでも止めることのできなかった。
「感情なんて、いらなかった」
 どうしてこんなものを備え付けたのだろう。感情なんてなければ、苦しまないでいられたのに、悲しまないでいられたのに、絶望を知らずにいられたのに、嘆くこともなかったのに。喜びを知らずにいられた、幸福を知らずにいられた、安らぎを知らずにいられた、焦がれることもなかった、恋することもなかった。愛することもなかった!
 ぎしりと噛みしめた唇からは鉄の味がした。
 あの男は鉄の味すらしらない。こんな後悔も知らない。きっと、サンダルフォンという存在すら忘れて天司長として有り続けているのだ。何もかもが気まぐれの憐憫であったのだ。其れを想うと腸が煮えくり返る。マグマのようなどろりとしたものが湧き上がる。

 固く閉ざされていたパンデモニウムの扉が開かれた。サンダルフォンは逡巡、やがて翼を広げて飛翔する。迷う必要なんてどこにあったのだ。この機会を逃すなんてありえない。これがあの男の意志であるはずがないとわかっている。だって忘れ去られているのだ。青空に手を伸ばす。青。焦がれた。惹かれた。恋しかった。
「……あ」
 なんて呆気ないのだろう。こんなにも、あっけない。あれほど、膝を抱えて、痛いほどの寒さを凌いで、その果てに、こんなにもあっけなく空の世界にサンダルフォンは舞い戻る。それが、あまりにも簡単で、だから益々、この程度の存在なのか自分はあの男にとってと憎しみが募っていく。
 隠れながら空の世界の情勢を把握していく。
 あの叛乱から永い時間を経ていた。星の民はとっくに引き上げている。天司なんてものはおとぎ話の存在。星晶獣を使用した覇空戦争。
「なるほど、ね……」
 サンダルフォンはありがとうと、酷薄に笑うとヒューマンの青年から離れる。青年ははっとしたようにしてからきょろりと周囲を見渡してから、納得がしきれていない顔でああそういえば買い物の途中だったんだと慌てて人々の往来が激しいメインストリートの中に溶け込んでいく。サンダルフォンはその様子を詰まらなさそうに見てからこつりと路地裏にヒールを響かせた。
 賑やかなメインストリートに対して、路地裏はじっとりと湿気が満ちて陰惨な空気に満ちていて──居心地が良かった。膝を抱えて丸くなる幼い姿に、うつろな目をしてぶつぶつとつぶやき続けている女、ひっひと笑いながらひたすら酒をあおっている中年の男。メインストリートから響いてくる健全な笑い声とは程遠い。
 サンダルフォンはフードを被り、無言のまま路地裏を後にした。
 同情も憐憫も自分が宿すことは無い。宿してはならない。そんなものが如何に残酷で、おぞましく、心を腐らせるかなんてこと、他らなぬサンダルフォン自身が知っているのだ。だから、手を差し伸べることはない。差し伸べたところで結末なんて知れている。
「見ていろルシフェル」
 お前の愛した世界なんて──俺を愛さない世界、あなたなんて……必要ない。
 サンダルフォンは証明しなければならない。自らの価値を。お前が殺す価値もないと処分をしたサンダルフォンが如何に脅威であるのかを、示さなければならない。
 だから、この世界を壊す。あの男の愛した世界を破壊する。

 パンデモニウムという牢獄から抜け出したサンダルフォンにいち早く気づいたのはルシフェルに他ならない。その姿を追いかけ続けていた。彼が何をしようとしているのか、何をしているのか分からぬほど愚鈍ではない。だからこそ先手を打つ。彼が苦しむことのないように悲しむことのないように嘆くことのないように絶望することのないように。彼の瞳が、濁らぬように。
 対峙した彼は瞳を見開き、細めた。
 四大天司の羽を無理矢理に取り組んだ肉体に、戦闘行為と、無茶を繰り返したコアは軋んでいた。その姿に、ルシフェルは瞳を細める。
 二千年ぶりだった。
 忘れたことはない。
 いつだって、ルシフェルの脳裏には彼の影があった。
 忘れることのない存在。
 ルシフェルにとって変わりのない唯一不変無二の存在である。
「ルシフェル──!」
 それでも、ルシフェルを見上げる瞳は強い意志がある。はっと息を呑み、瞳を閉じる。
──今度こそ、間違えることはない。天司長として正しくあるために。
──今度こそ、間違えることはなく。安寧と慈しんだキミを守るために。
「我がコアで眠れ、サンダルフォン──ッ!」
「──ッ!」
 サンダルフォンは目を見開き、その瞳が揺らいだ。どうして、あなたは。わなわなと震える唇が紡ぐ。その問いかけに応えようとして言葉は空を舞う。
 胸の内のなか。コアで眠りについたサンダルフォンの存在にルシフェルはほっと胸を撫でおろす。今は眠ると良い。きっと、起きたときには。きっと、眠りから覚めたときには、なにもかも。
「きみたちの旅路に幸運があらんことを」
 特異点たちを見下ろしルシフェルは顕現を解く。
 彼を早く、治療しなければならない。
 四大天司といえども容易には立ち入ることのできない領域。カナンの神殿の奥深く。ルシフェルは揺りかごを形成する。ぼんやりと熱を持つ揺りかごのなか。
 今は傷を癒すと良い。今度こそ、話し合おう。憎まれている。わかっている。そんなこと。それでもルシフェルにとって失うことは出来ない存在だった。私たちはきっと、言葉が足りなかったのだ。かつてのような微笑みを期待なんて、虫の良いことは云わない。ただ、これ以上傷つかないで欲しい。それだけだった。
「おやすみ、サンダルフォン」
 どうか、よい夢を。



 新たな花だった。新種であった。美しい命が生まれた。文化が発展した。なくなっていった花がある。命がある。種族がある。文化がある。空の世界の進化は目覚ましいものだった。それはルシフェルの心を動かすものではなかった。空の世界はルシフェルにとって美しいもので満ちている。懸命に生きてゆく空の民はルシフェルにとって守るべき存在であり、彼らを守ることに躊躇いはなかった。たとえ彼らに認識されずとも問題はない。
「きみの瞳の色だね、」
 自然交配のなかで新たに作られた花を手に取る。小さく、愛らしい花だった。赤い花びら。鮮やかな赤。ルシフェルの口角が僅かに上がる。
 ──年目の祝いに。
「うん……」
 随分と久しぶりに淹れた珈琲は不味くはない。ただ物足りなさがある。何がいけないのだろうかと珈琲の黒い水面を見詰める。情けない顔が映っているだけで、解答は浮かばないでいた。久しぶりに淹れたとはいえ、手順は間違えていない。間違えるわけがない。
「珈琲豆自体が以前と異なっているの、だろうか」
 最後に飲んでから随分と時間が経っている、その間に珈琲豆自体が進化をしていてもなんら不思議ではない。空の民たちはエーテルの操作なんてものはしない。長い時間のなかで、もっと飲みやすいように、育ちやすいように、その土地に相応しいようにと品種改良を加えている。それは彼らの進化であり──彼はこの進化をどのように思うのだろうか。
 ────年目の祝いに。
 切り取られた空のような色をした宝石だった。彼は空を好んでいた。研究所では羽を広げることは好ましいこととされない。役割がなければ、猶の事逃亡と勘違いをされることがある。故に彼は空を見上げていた。飛行訓練に付き合ったことがある。とはいえ研究所から数メートルの距離であり、長く空を飛び続けることがあるルシフェルには大した距離ではない。たった数メートル。ルシフェルがサンダルフォンの飛行訓練のためと長距離にしてくれと友に掛け合おうかと逡巡、考えた。けれど、サンダルフォンの顔を見て踏みとどまった。高揚した瞳、興奮に紅潮する頬、忙しなく感動を伝える言葉。野暮なこと、というのだろう。
「すごい、すごいですルシフェルさま!」
 稚くはしゃぐ様子のサンダルフォンは珍しくて、そしてよりいっそうに愛らしく感じた。この子は私が守らなければ。斯様に稚く、無邪気に、無垢な心を、誰が守ると言うのだ。結局、守れはしなかったというのに。
 私が言うべきだったこと、きみに伝えるべきだったこと。
「……きみの生誕に喜びと祝福を」


「願わくばもういちど、きみと、中庭で」

2020/03/23
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