ピリオド

  • since 12/06/19
 なぜ、そのような話題になったのかルシフェルには分からないし、問いかけられたサンダルフォンも分からない。天才故にかっとんだ情報処理をするルシファーの思考回路なんて理解できないものだ。
「操でも立てているのか」
 ルシファーの揶揄い混じりの言葉に、サンダルフォンがひどい、苦い虫を噛んだような表情を浮かべる。触れられたくない柔らかな部分を無遠慮に、引っ掻き回される。ルシファーに、遠慮なんて言葉も態度もないのだ。あるのは探求心と、猫をも殺す余計な好奇心だけだ。
 険悪な雰囲気を醸す二人の会話に、ひっそりとコーヒーフレッシュがたっぷりと入った珈琲を啜りながらルシフェルは耳を欹てていた。
 サンダルフォンについてルシフェルが知る事は極僅かだ。兄より一つ年上であること、珈琲を好んでいること、それから卒業した後は進学することなく、祖父母の跡を継ぎ喫茶店を営んでいることだけだ。両親はどうしたのか。なぜ珈琲を好むのか。兄とはどのような経由で友人となったのか──。サンダルフォンの身の回りについてのことは知らない。知ることが出来なかった。聞いてはならないことなのではないか。触れられたくない部分ではないだろうかと考えては二の足を踏んだ。不用意に触れて、彼に嫌われたらと思うと途端、生きた心地がしない。そんなルシフェルの戸惑いも躊躇いも、ルシファーはあっさりと飛び越えていく。
 キュッキュと布巾で洗い終わったカップを吹き終えたサンダルフォンは眦を釣り上げてぴしゃりと、
「お前が、あの御方を語るな」
 吐き捨てた。
 そして、否定はしなかった。その事実がルシフェルに、重く、圧し掛かる。
 サンダルフォンは誰か、「あの御方」という人物を信奉していて、尊敬していて、そして、其の身を捧げることも厭わないでいる。ルシフェルの幼くも、育てられてきた焦げ付くような慕情なんて、入り込む隙間なんてありはしないとでもいうようだった。息苦しさを覚える。サンダルフォン。ルシフェルの初恋。一目見た瞬間に、恋に落ちた。恋。甘くてとろけるような、苦しくて死にたくなる感情。ただ笑っていてくれたらなんて穏やかなものではない。触れたい。触れてほしい。それはまだ十歳にもならない子どもが抱えるにはあまりにも熟成されすぎたものだった。
「どうした? ルシフェル」
「……なんでもないよ。宿題を思い出したから、帰る」
「あ、」
 カウンターの椅子から飛び降りたルシフェルは、振り返ることもなく喫茶店を飛び出していった。その姿を横目でちらりとみながらルシファーは珈琲を啜る。
「ひとりで帰らせて大丈夫か?」
「いざとなったら防犯ブザーを持たせている。それに10分としない距離だろ」
「だけど……」
「そんなに心配なら追いかけたらいいだろう? どうせこの時間に客は来ない」
「うぐ……」
 店主を前にどうどうと閑古鳥であることを告げるルシファーにはサンダルフォンに対する思いやりなんて一切ない。



 サンダルフォンとの出会いによって、ルシフェルの世界は鮮やかに色づいた。それまでくすんだ、濁ったような世界だった。なにをしてもつまらない。なにをしても心が動かされることはない。そんなルシフェルの世界はたった数秒の出会いによって変化した。
 兄と歩いていた。
 学校の帰り道に出会ってそのままぽてぽてと肩を並べて、歩いていた。
 ルシフェルとルシファーは仲の良い兄弟だった。年が離れていることもあって喧嘩をすることもない。好きだ嫌いだと二分することのないルシフェルだが、ルシファーに対しては家族として信頼と親愛を寄せている。そして兄がいるからこそ、ルシフェルは両親にとって異物扱いされることもないのだとも理解していた。ルシフェルは自分が如何に異常であるのか客観的に理解している。子どもらしさの欠片もない。にこりともしない。鉄面皮のような顔。常人であれば少し不快に思うだろう性質をもつ。そんなルシフェルを、両親は異端に思うことは無い。前例があるからだ。ルシファー。魔王というあだ名をあちこちでつけられた問題児である彼を育ててきた両親にとって、ルシフェルは大人しくて手のかからない寧ろ良い子すぎるほどであった。
 ルシフェルは兄の異常性も理解しているが、優しさも理解している。だって歩幅を合わせてくれる。そんな兄の傍は居心地が良かった。
「おい、ルシファー。進路調査を出しておけよ。お前がいつまで経っても出さないからこっちに回ってきたんだ」
 苛立ちを隠すことなく、兄に物怖じることなく告げる彼はルシファーと同じ制服を纏っていた。ルシフェルの記憶にある限り、兄に対してあんなにもはきはきと命じる人物はいない。両親ですら兄に対しては諦めてもう好きにしてくれと放任をしている。放任した結果として魔王と呼ばれる傍若無人な人物になったのだがそれはルシフェルのしったことではない。ルシフェルは少し心配になった。なぜ、心配をする必要があるのだろかと不意に思うが、それでもルシファーに命じるような彼が、ルシファーの不興を買ってひどい目にあうのではないかと思うと不安でたまらなくなる。
「兄さん、」
「……弟、か?」
 それまでルシファーに掴みかかる勢いだった彼は、ルシフェルのか細い声を聴いてはっとしたような顔をしてから額を抑えた。それを、ルシファーがにまにまとみている。
「進路調査だったか? 明日、提出をする」
「……わかった。とりあえず期日は守れよ。それから…………まぁ、良い。じゃあな、気を付けて帰れよ」
 そういった彼の横をルシファーが通り過ぎる。ルシフェルもそれに倣い、それから振り返る。彼と目が合う。彼はちょっとだけ驚いたように目を丸くしてから、困ったように笑って、小さく手を振るから、ルシフェルも振り返してみる。心が、ふわふわと弾むよな心地がした。
「彼は?」
「……サンダルフォンのことか?」
「サンダルフォン……」
 名前を、口にする。高揚を覚える。彼に会いたい。彼と話しがしたい。彼に、名前を呼んでほしい。だけどその願いを口にすることがルシフェルに出来なかった。今まで何かをしたいと願ったことがない。どのように実行すればいいのか、分からない。
 振り返ってみた彼を思い出しては、また会いたいとしくしくと胸に痛みを覚えた。



 ぽてぽてと一人で帰る道すがら、彼を探す。わざわざルシファーに伝言を言うためだけにここきたのだろうか。お人よしがすぎるではないか。もしかしたら近くに住んでいるかもしれない。淡い期待を胸に秘めていた。一年間。まるで初めてきたかのようにきょろきょろと周囲を見て回すルシフェルの行動は怪しいものだった。ルシフェルの不審な行動は、彼が十数年後に同じ行動をしていたら通報待ったなしであったが幸いなことに稚い姿であるため微笑ましい程度に見守られていた。一年間。彼を探した。鳶色の髪は珍しいものではない。だけどルシフェルは見間違えることはない。ザクロのような鮮やかな瞳にもう一度映りたい。彼を探す。サンダルフォン。たった、僅かな出会いだった。出会いでもない。声を掛けられたのも、ルシフェルではなくルシファーだった。サンダルフォンの記憶にちらりとも引っ掛からない程度の存在かもしれない。そんな、不安もある。だけど、ルシフェルは会いたかった。サンダルフォンに会いたいだけだ。兄であるルシファーならばサンダルフォンと引き合わせてくれるかもしれない、なんて期待は出来なかった。なんせ兄である。それに兄はサンダルフォンをあまり好ましく思っていない様子だった。だから自分でどうにかするしかないのだと、ルシフェルは意気込んだ。しかし結果は芳しくない。ちらりともサンダルフォンの痕跡はない。もしかしたら本当に伝言を伝えるためだけに態々と思うと苦しくなる。なんだか、兄が特別に扱われているような気がしてならない。サンダルフォンは兄が好きなのだろかと考えたくもない想像が湧き上がって声を上げて駄々をこねたくなる。いやだいやだと泣いて喚いて子どものように暴れたくなる。子どもなのだからしてしまえばいいのに、ルシフェルは出来ない。だって格好悪い。あんなにも綺麗なサンダルフォンなのだから。子どもの格好悪いところなんて、恥ずかしい。だからルシフェルは大人びた振る舞いをする。子どもが大人のふりをしたませた姿であっても、見た目が整っているために様になる。苦い顔をしたのは兄であるルシファー一人だけだった。
「アイツの所為か……いや、きっかけか……?」
 ぼそぼそと兄の独り言を耳にした。兄は独り言が多い。それは自問自答であり、尋ねるような問いも実際は自分の思考を整理するためのものだ。アイツ、が誰をさすのかは分からない。だけどサンダルフォンがきっかけであることは自覚している。彼の隣にたつ、相応しい人物になりたい。たった一度だけの、たった数秒の出会いがルシフェルを形成する。



 休日の朝。ルシフェルはトーストを焼いてバターを塗り、ホットミルクと共に食べていた。春先でまだ肌寒いが、外は快晴で陽気な日差しが降り注いでいる。
「おい、出かけるぞ」
 リビングに現れた兄にルシフェルは目を丸くした。
 出不精な兄が。休日に出かけることは滅多にない。一日、部屋に引きこもっている。惰眠を貪っていることもあれば、鬼気迫る勢いで机に向かっていることもある。なんせ、出歩くことは好まない。無理矢理連れ出されれば一日中不機嫌なのは当たり前で、1週間は根に持つほどだった。ルシファーが自主的に出歩くことなんて必要に駆られたときだけだ。
「どこに?」
「……さっさと用意をしろ」
「わかった」
 ルシフェルはトーストを急いで食べてホットミルクで流し込んだ。ルシファーはミネラルウォーターを飲むだけだった。本当ならば、一日、サンダルフォンを探すことに費やしたいと思っている。だが出不精な兄が自ら外に出て、剰え自分を誘ったことにきっと、何か理由があるのだろうとも確信を得ていた。ルシファーは無駄を嫌う。故にこれもきっと無駄ではないのだろうと言い聞かせる。
 行く先の説明をされないことに対する不安はないが、どこに行くのだろうという疑問は尽きない。
 ルシファーはこの春。高等部を卒業した。研究者としての将来を描いている彼はそのまま研究の道に進む。ルシフェルもまた、進学をする。かつて兄が在籍した中高一貫の学校だ。サンダルフォンもいるかもしれないという淡い期待もある。この周辺で見つからないのならば学校に行くしかない。
 兄と並んで歩く。
 ああ、サンダルフォンと出会ったのも同じシチュエーションだった。思いを馳せる。彼ともう一度会いたい。美化することもなく、あるがまま、思い描くことができる。彼の瞳に映りたい、名前を呼んでほしい、触れたい。
「此処か」
 歩いて十分もかからない。目指していたのは喫茶店だったらしい。どこにでもある喫茶店のように、ルシフェルには映った。住み慣れた町であるのに、見掛けた覚えがないのは、普段通ることのない道に面しているからか。喫茶店に何か用事があるのかと兄を見上げる。ルシファーは苦々しい顔をしている。忌々しいと言わんばかりに、喫茶店のドアノブを粉砕しかねない勢いで握りしめている。
「全く、いっそ……」
 いっその後は、ルシファーが扉を開けた際に鳴ったカランというベルの音に掻き消えて聞こえなかった。
「いらっしゃいませ」
 待ち望んだ声だった。



 目をぱちくりとさせた弟と、顔をひきつらせた幼馴染の姿を気にも留めることなくルシファーはカウンター席に座る。それからメニューを手に取った。シンプルなメニューが並ぶ。先代からのレシピを引き継いでおり、変わっていない。ルシファーは昔から同じメニューしか注文しない。ブレンドとワッフルだ。特にここの喫茶店のワッフルはお気に入り、である。食事に頓着をしないルシファーがああ、食べたいなと思うのはこの喫茶店のワッフルだけだ。
「……どういうつもりだ?」
 ワッフルとブレンドを用意したサンダルフォンがこっそりと尋ねた。ルシフェルはといえば夢心地のようにぼんやり珈琲の淹れられたカップを手に取っている。ルシファーは出されたワッフルの見た目が変わらぬことに満足しながら、さっくりとナイフで切込みを入れた。
「どういうこともない。休日に、暇を持て余していた弟を連れてきただけだ」
「いつも1人だろ。しかも休日になんて出歩かないお前が? 裏を感じる」
「……いつも? 兄さん、どういうことだろうか」
 現実に引き戻されたようなルシフェルが、語尾を強めてルシファーに問いかける。焦ったようなルシフェルに対して、ルシファーはワッフルを味わいながら咀嚼をする。悶々としているルシフェルを哀れに思ったのかルシファーには分からないが、答えたのはサンダルフォンだった。
「学校帰りの寄り道に毎日来ているんだ」
「……聞いてない、そんなこと…………」
「聞かれていないからな。それに態々報告するようなことでもないだろう」
 飄々というルシファーにルシフェルは沸々とした怒りを感じた。だけど、まさにルシファーの言葉のままだった。聞かれていない。聞いたなら教えてくれていたというころか。
「こいつのことだから聞いたところで教えたかどうかは定かじゃないぞ?」
 サンダルフォンが呆れた様子でいう。その様子に、ルシフェルはきゅっとのどが絞まる息苦しさを覚えた。なんだか、二人の間にはルシフェルが割り込めない硬い、信頼関係のようなものを感じとってしまった。二人が聞けば顔をしかめた上で全力否定をすることだが、ルシフェルには分からない。
「名前を聞いてもいいか?」
 苛々と、悲しみとがやっと落ち着いて出された珈琲に口を突けようとしたルシフェルに、サンダルフォンが問いかける。サンダルフォンは取り繕うにして、
「ええと、まあこいつとは中等部からの知り合いなんだが弟がいたことを知ったのも前に会ったときくらいだからな」
「お前に言う必要性がない」
 むっとしたサンダルフォンは、とりあっても仕方ないと言わんばかりにため息をついた。その姿にちりちりと胸が焦がれる。
「ルシフェル」
「……ルシフェル。良い名前だ」
「…………ありがとう」
 きみの名前のほうが素敵だと、言いたかったけれど、サンダルフォンを前にすると言葉が上手に紡げない。言いたいことの半分どころか1割も口に出来ないもどかしさを、珈琲で流し込む。
 初めて飲んだ珈琲が苦くて顔をしかめてしまったルシフェルに、サンダルフォンはすまないと言いながらコーヒーフレッシュと砂糖を入れ混ぜた。甘くておいしいと笑ったルシフェルに、サンダルフォンが泣きそうな顔でありがとうと言ったのを見ていたのはルシファーだけだった。



 サンダルフォンはとっくに教育機関を卒業していた。ルシファーの一つ上であり、サンダルフォンにとっては7つ年上。サンダルフォンは進学をすることはなく、喫茶店の経営者となった。個人の喫茶店で、常連客とたまに初めてくる客人で成り立つ。祖父母から継いだ喫茶店で、昔から手伝いをしていたということを、ルシフェルは初めて知った。
「近所にいたのか……」
「ん? そうだな。まあこの辺りは子供が少ないからな。それに俺はあまり会話が得意じゃないからもっぱら中の作業だ」
「そうはいってられんだろう」
「……そうだな」
 サンダルフォンが思いつめた様子でルシファーの言葉に同意を示す。どういうことなのだろうかと、ルシフェルの胸中を覚ったようにサンダルフォンが努めて明るい様子で、
「俺は手伝いで、祖父母が経営者だったからな。元々カウンターにたっていたのも祖父母だったんだが、俺に任せるなら身を引くといってな。引退をしてしまったんだ。だから実質、俺の店ということになったんだが……」
「こいつの話下手は根っからだ。客商売なんて無理だと思うがな。マスターたちも、店をつぶしたい様子だ」
「ぐ──っ否定が出来ん」
 サンダルフォンはがっくしと項垂れる。そんなサンダルフォンを見て、ルシフェルは、首を傾げた。話下手? そんなことはない。だってルシフェルは、惚れているという贔屓目があったとしてもサンダルフォンとの会話は楽しいものだと思った。それに珈琲が苦いと、口に出来なかったルシフェルにサンダルフォンは砂糖とミルクを淹れてくれた。作ったものを味わうことが出来なかったことを不快に思う様子もなくこれなら飲めると思うがと心配そうに言う姿に、また、彼が好きになった。それにルシファーと昔ながらの仲とはいえ軽口を叩いている。いや、ルシファー相手に付き合っているのだ。
「……大丈夫だよ」
 言い合っていた(というよりもルシファーがサンダルフォンを揶揄っていた)ふたりが顔を上げる。二人して、何がだろうかと言いたげだった。ルシフェルは確信している。
「サンダルフォンなら、絶対に、大丈夫だよ」
 根拠はと言われても示すことはできない。だってルシフェルとサンダルフォンは出会ってやっと数時間という間柄である。だけどルシフェルにはサンダルフォンならばきっと、出来るという確信を得ていた。
「あー……うん。あなたが言うなら、大丈夫な気がする」
 サンダルフォンはへらりと、笑って言った。ルシファーはつまらなそうにしならがワッフルの最後のひとくちを食べきった。



 走って走って家に駆け込み、自室のベッドに飛び込んだ。はっはと酸素を求めて呼吸が浅くなる。しんとした、休日の昼下がり。麗らかな陽気もなにもかもが、今のルシフェルは正反対だった。心が荒む。ごうごうと心が台風でかき混ぜられる。ぐちゃぐちゃになっていく。
 ルシフェルの言った通りだった。サンダルフォンの喫茶店は潰れることは無く、常連たちの憩いの場所として有り続けている。マスターが若い男性に、それも見た目美しい青年となったからか客の年齢層も若返りつつある様子で、それが、ルシフェルには少しだけ、不快だった。彼の見た目だけに集まる彼らが不快で、そんな彼らを出迎えるサンダルフォンが、許せないでいた。仕事だと分かっているのに。サンダルフォンは珈琲を振舞うことが好きなのだ。分かっているのに。感情の区切りがつけられない。そんな中で兄が操だなんだというものだから、そして、サンダルフォンが否定もなにもしないものだから。興味がない。ただその一言であれば、ルシフェルは諦めることはできない。いや、諦めたくない。だって可能性が僅かにでもあるのだから。だけど、彼は、心に決めた人がいる。彼自身が否定することなく、認め、そしてそれを揶揄うルシファーを糾弾した。サンダルフォンはきっと、大切な人がいて、その人の立場を、ルシフェルはどうあっても、奪い取れない。ルシフェルは自身の、数年の間育ててきた恋心に見切りをつけるしかできない。諦めてしまえ。捨ててしまえ。実らぬのだ。不用だ。だというのに、
「……サンダルフォン、」
 声に出した。
 きみが、憎いよ。どうして。こんなにも好きなのに。こんなにも想っているのに。
 わかっているのだ。彼の感情は彼のものだ。ルシフェルが恋をしただけ。一方的に、恋焦がれ慕っていただけ。彼がそれを返す義務はない。義務や義理で恋をしているわけではない。ルシフェルは愛されたいから恋をしたのではないのだ。サンダルフォンだからだ。彼が、愛しくて恋しくて、仕方なくなった。だというのに、
「……ふっぐ……う、ぁ……」
 押し殺せない感情が、ほろほろと零れる。
「いたいよ。くるしいよ」
 嫌いになりたい。なのに、なれない。憎み切りたい。自分をちっとも見てくれない。なのに、甘やかに彼は笑うのだ。逆恨みだ。わかっている。彼が幸せなら、それでいいじゃないか。そう思いたくても出来ない。だって、ルシフェルはまだ12歳だった。子どもだった。子どもが抱くには、ルシフェルの恋心はあまりにも、育てちすぎていた。



 育ち切った感情を持て余して10年が経った。初恋を抱いたまま22歳になった。あれ以来、恋を知らないルシフェルは感情の上書きを何度も試みた。恋じゃないと言い聞かせた。だけどダメだった。彼以外に、ルシフェルの心が動かされることはない。彼以外に、ルシフェルが美しいと思う存在はない。そのたび、死にたくなる。恋を捨てたくなる。忘れたくなる。だけど、忘れられなくて。忘れたいからと、掛けられる言葉に乗り、体の関係を築いたのも一度や二度ではない。そのたびに彼を探す自分に嫌気がさす。そのたびに、彼を汚しているような自分に腹が立つ。そのたびに、虚しさを覚える。
「あなたは可哀想な人ね」
 体を繋げた女性は心底憐れんでいった。どうして。きみたちこそ。そう口にした覚えない。気怠そうに体を起こした彼女はシーツを引き寄せながら、言った。
「諦められるもの。私は。ううん。私たちは。手に入れられる、なんて思ってないの。そうね、思い出つくりよ。たった一度でいいって言ったじゃない。それがあなたは受け入れてしまうんだもの。だけど思い上がらないわ。女って感情には敏感なのよ。この人は私を好きじゃない、なんてわかるの。同情よね。あなたのものって。だから、諦められるの。だけどあなたはそんなこと出来ない。だからこうして、何度だって後悔しているんでしょ?」
 否定できない。名前も知らない彼女はふふんと得意気に鼻を鳴らした。ホテルの一室は情事の後でありながら、その余韻は掻き消えている。
「罪悪感を抱くのも私じゃなくて、想っている人に対してでしょう?」
 確信しているのだろう。彼女はルシフェルの内情を詳らかに、本人以上に抉っていく。
「やめておきなさいよ。あなた、向いてないわ。こういうこと。こういう関係を割り切れないでいる。誰かを求めるくらいなら、やめておいた方がいい」
「止められるなら、とっくに止めているさ」
 そうだ。止められるなら。忘れられるなら。ルシフェルはとっくに止めている。好きでもない人間の肌に触れるのは、得意じゃない。それでもこの行為の間だけ、ルシフェルは錯覚してしまう。愛されていると思ってしまう。そして気づいてしまう。ああ、全部思い込みだ。だって愛されたいのはサンダルフォンただ一人なのだ。薬物のようだ。
 シャワーの音を遠く聞きながら、ルシフェルは罪悪感で死にたくなった。
 すまない。
 誰に対しての謝罪なのか。わかりきっている。サンダルフォン。決して恋してくれない彼のように、操でも立てるべきなのか。ルシフェルは自嘲を浮かべた。



 薄暗い夜明けのなか、ルシフェルはコートのポケットに両手を入れて冷たい風を浴びながら歩いていた。静まり返った町は世界でただ一人のような錯覚になる。いっそ一人になってしまえばいいのに。幾度とないことを考えため息を吐き出せば、白い吐息は掻き消えた。
 こつりとコンクリートに足音が響く。
 住み慣れた町を飛び出して四年が経つ。両親や兄とは連絡を時折している。特に兄とは研究内容のことで意見を求める。だが実家へは理由をつけて帰らないでいた。遠ざけていた。それが、たまたま、研究発表の近くで通り、そのままホテルで声を掛けられた女性と体を重ねた。ホテルで身を休めることも出来ず、実家へと身を寄せるつもりだった。
 どうして、体が勝手に動くのだろう。ルシフェルの意志に反したように足が動く。そっちじゃない。そっちでいい。いるわけないじゃないか。もしかしたら。
「あ、」
 箒と塵取りを手に取った青年が声を上げた。ルシフェルはたまらなく、逃げ出したくなった。会いたくなかった。会いたかった。見られたくなかった。気づいてほしかった。混ぜこぜの感情がどろりと体を這う。
「おはよう、ルシフェル。寒いだろ。珈琲でも飲んでいくか?」
 サンダルフォンは何気なく、口にする。何もなかったように。今までの空白期間を流すように。十年間。ルシフェルはサンダルフォンを避け続けてきた。簡単だった。喫茶店に行かなければ、サンダルフォンと出会うことはないのだ。実家に近寄らなければ遠ざけることができた。十年間。会いたいと思う自我を押さえつけてきた。なのに。酷い。
「うん」
「わかった。ほら寒いだろ。入れ」
 ずるい。ずるいよ、君は。断れるわけないじゃないか。好きなのだ。ルシフェルはサンダルフォンが好きなのだ。十年以上好きなのだ。子どもの初恋なんてと微笑ましいものではない。大人でも抱くことのない思慕を一人、育て続けてきた。殺すこともできず、腐るようにただ執着となっていく恋慕。
 喫茶店はちっとも変っていなかった。木目調のテーブルに色褪せたソファ。アンティークのレコードプレイヤー。飾られるだけではない。売り物としても上等なコーヒー豆は、少し増えたように思う。好きだった。この場所が。嫌いだった。この空間が。だってこの空間にはあまりにもサンダルフォンが濃いから。
「こっちに帰ってきていたんだな」
「うん。研究発表があってね」
「そっか──おかえり、ルシフェル」「おかえりなさい、ルシフェルさま」



 膨大な、覚えのない映像が流れ込む。知らない。知っている。覚えのない。忘れていただけ。研究所。中庭。天司。役割。天司長。叛乱。災厄。カナン。揺りかご。頭が割れる。痛いなんてものじゃない。脳が握りしめられ、つぶされる。瞳の奥に焼け付くような映像。違う。記憶の奥底にあったものだ。なぜだ。なぜ私は──。
 はっはと呼吸を乱しながら、ルシフェルはよろめいて、咄嗟にテーブルに手をついたから、倒れることはなかった。
「ルシフェル!?」
 慌てふためく、サンダルフォン。そうだ。サンダルフォン。変わらない存在だ。ルシフェルにとって慈しむべき存在。ルシフェルの心が安らぎを覚える、唯一の光。
「サンダルフォン、」
 顔をあげて、名前を呼ぶ。
 そうだ。サンダルフォン。ルシフェルが求めてやまなかった。空の世界を守り続けた天司長の役割ではなく、ただの生物として、ルシフェルとして必要とした。愛しい存在。
 サンダルフォンの瞳がゆらゆらと不安に揺れる。震える声が呼びかける。
「ルシフェル、さま?」
「うん。サンダルフォン、ただいま」
 ゆらゆらと揺れていた瞳から、ぽたりと零れ落ちる。ぽたりぽたり。はっとしてから、サンダルフォンがそれを止めようとする。だけど止まらない。サンダルフォンは何度も、なんども止めようとするが、壊れたようにあふれ出す。
 幼い彼と出会ったとき。サンダルフォンは直感した。ルシフェル様であると理解したのだ。だけど、サンダルフォンを見て口をもごもごとさせて小さく手を振った姿に、サンダルフォンは勝手に落胆をした。かつて天司長であり、天司であったサンダルフォンの記憶を持ち合わせていない。それは、サンダルフォンの身勝手な落胆であったから、また、落ち込んだ。あの人にはなんの咎もない。そもそも、記憶を引き継ぐことは輪廻の法則を乱しているのだ。自分と、ルシファーが異端であるのだ。
 サンダルフォンはルシフェルのすべてを愛しく思っている。だから、ではないけれど記憶がなくても彼が彼であるならばサンダルフォンはその命の果てまで、実り豊かであることを望む。サンダルフォンも同じく人の身となっておきながら、記憶があるがゆえに抜けきらない天司の目線であった。
 サンダルフォンは線引きをしていた。サンダルフォンが濃い慕うルシフェルは、愛した故に災厄を引き起こすほどに世界を滅ぼしても厭わぬほどに憎んだ天司である。サンダルフォンの創造主である。
 命を終えたサンダルフォンを迎え抱きしめて、おかえりと囁いたルシフェルの姿をサンダルフォンは色褪せることなく描くことができる。命の果ての場所で、二人向かい合って珈琲を飲んだ。それからサンダルフォンの見てきた空の世界について、語った。人々の愚かさと、美しさを、ルシフェルに語った。ルシフェルはうん、と愛しい様子で、頷いていた。それから話し終わって二人で、どちらからともなく、たちあがり、歩いた。ああ。次の命になる。ルシフェルとサンダルフォンの、天司としての生命は既に終わっていた。だから、新たな命に。
 口にすることは出来なかった。だけど少しだけ願ったのだ。生まれ変わっても、あなたの隣にいたい。あなたに造られた存在でなくなっても、あなたともう一度と願った。
 生まれたときから記憶を得ていて、出会ったルシファーが記憶を宿していたからサンダルフォンは少しだけ期待していた。結局は、期待外れであった。だけど、彼は人として生きている。それだけで、満足するべきだった。記憶がなくても愛することは出来ても、恋は出来ない。彼が新たな生命として、人としての生を歩むのなら、サンダルフォンはその生に介入することはしない。つきつきと胸が痛むけれど、その痛みを抑えて、サンダルフォンは祝福が出来る。彼の幸福が永遠であれと祈る。その有様があまりにも残酷でルシファーは嗤笑を浮かべる。残酷な優しさがルシフェルを苦しめる。いっそ拒絶をすればいいのにサンダルフォンは、それだけは出来ない。もはや本能のようにサンダルフォンを求めて止まないルシフェルにとってはこれ以上ないほどに冷酷で凶悪で残忍な仕打ちであった。
 本当は、いやだった。
 知らない女性とルシフェルが肩を並べて歩ている姿を何度か見かけたことがある。仕方のないことだ。ああルシフェルに恋人ができたのだ。喜ばなければ。良いことだ。ああ、幸せなんだろうな。お似合いじゃないか。うん。そう、言い聞かせた。
 ルシフェルはルシフェルじゃない。ルシフェルはサンダルフォンを作り出した天司長ではない。別の命であると理解してなお、ルシフェルという至上の人に選ばれることがない。ルシフェルに愛されない。必要とされない。求められない。そんなこと、耐えられるはずがない。だから、線引きをした。守るためだ。保身である。そうでなければ、だって。サンダルフォンの柔らかで守られてばかりだった心はじくじくと傷つき膿み、腐り果てていくから。
 だから。
「泣かないでほしい、サンダルフォン」
「ごめっな、さ……でも、とま……っら、なっ」
 しゃくりあげながらサンダルフォンは両手で顔を覆う。嬉しい。あなたがいある。それだけで良かったのに。だけど、ルシフェルは違う。ルシフェルは自己嫌悪しかない。
 涙は収まることはない。だけど落ち着いたようにぬぐいながら、ルシフェルを見てサンダルフォンはぎょっとした。拍子に泣き止んだ。
「……きみを忘れていた自分が、許せない」
 サンダルフォンが見たこともない、怒りを自分自身に向けるルシフェルは、ともすればそのまま自傷するのではないかという様子だった。サンダルフォンはそんなことはない。させないと、その手を取った。人として生きてきたルシフェルの手は厚く、かさついていた。
「でも、思い出してくれました」
「だがきみを泣かせた」
「それでも、あなたは名前を呼んでくれました」
「……きみは、どうして私を許すんだ」
 くすりと、サンダルフォンが笑う。
「あなたが、あなただからです。あなたが俺の光だからです。言ったら、お相子でしょう?」
 サンダルフォンの言葉にルシフェルはくしゃりと顔を歪ませる。自身の手を握る手は、乾燥していてアカギレだらけで、彼が生きていることを、伝える。ああ、生きている。
「サンダルフォン、きみの淹れた珈琲が飲みたい」
「……はい」
「ブラックが飲みたい」
「…………はいっ!」
 ああ、私たちは生きている。

2020/03/07
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