ピリオド

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 ビルの合間から、遠くぽつりと星が見えた。窓ガラス越しに見つめるルシファーの眼の下には色濃いクマが隠せないでいる。重く吐き出した息に、ガラスが曇った。信号待ちをしていた車が動き出す。
 ルシファーが弟の自宅を訪れることは十年ぶりのことだった。啀み合っているわけではない。寧ろ、兄弟仲の良さが売り出しの一つでもある。マスメディアや他人からの評判だなんてものを、ルシファーもルシフェルも気にする性質ではない。しかし当事者が気に掛けようが気に掛けまいが、見た目麗しい兄弟が亡き両親から受け継いだ、傾いた会社を立て直し、大企業に成長させた物語は、美談として大衆は好んだ。
 ルシファーにとってルシフェルは唯一の肉親であり、唯一の理解者である。苦楽を共にしてきた。そしてルシフェルもまた同じであると思っていた。お互いがいればそれでいいではないか。ふたりで完璧になる。それでいいじゃないか。だというのに。ルシフェルにとっての唯一は自分ではなくなった。
 思い出しても腹の中がぐつぐつと煮えたぎる。血管を流れているものがマグマになったかのように錯覚する。視界が赤く染まる。
 今ならば。ルシフェルが不在の今ならば。アレを路頭に放り出すことは容易い。「身の程をわきまえろ」だとか「ルシフェルの負担になっていることに気付かないのか」だとかを囁けば良い。相手の触れられたくないところを、抉り穿ち荒らすことにルシファーは一切の躊躇いなんてない。そうだ。そうしよう。アレはルシフェルを惑わす。悪魔だ。排除しなければ。
 しかし。
 すん、と冷や水を掛けられたかのように、冷静に、冴えわたる。
「そんなことしたら、いよいよ絶縁だろうな……」
「なにか仰いましたか?」
「いや。ここで良い。降ろしてくれ」
 車は静かに横付けをした。

 ひゅるりと冷ややかな風が吹いて、ルシファーは足早に高層マンションのエントランスをくぐる。
 兄弟揃ってプライベートに踏み込まれることを好まない。社交性に欠けていた。ルシファーは生来の気質として。ルシフェルはとある時期をきっかけにして。
 特に自宅というプライベート空間に他人を招き入れることに関しては嫌悪感があった。ルシファーの場合は、それが気ごころがしれた、それは唯一といってもいい弟であるルシフェルと、直属の部下であるベリアルならば時と場合によっては致し方ないと許可をする。しかしルシフェルは一切を拒絶する。
 今日とて。
 ルシファーを自宅に呼んだのも断腸の思い、苦渋の決断があったのだろう。ルシファーは生まれたときから知る弟の見たことのない表情を思い出して憂鬱な気分になる。他人ならば笑い飛ばせるのだが身内となると笑えない。
 理由を知っているとはいえ、その態度にはルシファーも嫌気がさす。
 マンションにはコンシェルジュが二十四時間滞在をしていた。大理石のエントランスを抜けて、エレベーターにカードキーを翳す。エレベーターの階層も、カードキーでのみしか操作できず、カードキーの情報を読み取り、他のフロアは通過する設定となっている。ようやっと目的地である最上階に到着しても、玄関扉を開けるにも再び鍵が必要となるし、暗証番号の入力まで求められる。
 最新鋭のセキュリティーシステムを取り入れているマンションであることは知っており、事前にこの手順でと言われていた。仕事で疲れていたルシファーにとっては何もかもが厳重すぎる上にこんなにも守りを固める価値があるのかと面倒くささが勝る。
(まあ、アイツにとってはあるのか……)
 ルシフェルは自分自身に対しては何ら頓着をしない。オーダーメイドの高級スーツに泥を跳ねられても、珈琲を零されても悲しみに呉れることもなければ、怒りを見せることもない。ああ汚れてしまったねと言ってスーツの手配をするだけだ。その行動は、金にものを言わせるているわけではない。
 最低限のマナーはあれども身形に一切の興味を示さないルシフェルに、部下が人前に出るのだからと、それからスポンサーでもあるのだからと気配りを見せて手配したスーツがブランドなだけである。
(アイツ、毎日こんなことをやっているのか)
 ルシファーならば一日で引っ越しを考える。それ以前にこんなマンションを選ぶことは無い。まどろっこしいったらない。
 玄関扉からはやっとの思いで、カチャリとロックが解除された音が響いた。それから、パタパタとスリッパの音がする。
「いらっしゃいませ。ルシファーさん。お疲れ様です」
「ああ……それにしても、でかくなったな」
「だって十年ぶりですからね」
 くすくすと笑うたびに肩にかかるとび色の髪がふわふわと揺れた。

 ご飯の用意をしましょうか? 少し緊張をした様子のサンダルフォンの言葉にルシファーは頼むと首肯した。コンソメの香りに空腹を思い出した。きゅうと胃が収縮をするのを感じる。空腹を思い出すのは久しぶりのことだった。
 ルシファーがコートを脱げばサンダルフォンはそっと受け取りハンガーに掛けた。ああ、コイツにとっては当たり前なんだなとルシファーは馬鹿らしく感じる。それからサンダルフォンが人間らしくなっていることに驚いた。
 ルシフェルがサンダルフォンを身元引受人として引き取ったのは十年前のことだった。引き取った当時、六歳だったから今は十六ということになる。俺も年を食うわけだなと、一気に老いを感じた気分になりながら、ルシファーはキッチンカウンターでスープを温め直し、サラダを作る少女を見る。
 サンダルフォンは、会社が慈善事業として寄付をしている孤児院出身だった。生後間もなく預けられたため、両親の記憶は皆無である憐れな子どもであった。加えて、物心つく前から接していた孤児院に勤める大人たちからは心無い言葉を浴びせられ、それを見ていた同じ境遇であるはずの子どもたちからは暴力を振るわれていた。スケープゴートだった。大人からは憂さ晴らしに。子どもからお前よりはマシだと言わんばかりに。
「彼女を引き取ることにしたんだ」
 子どもらしからぬ虚ろな眼、人間不信で、怯え、震えていた。まるで野生動物じゃないかとルシファーはぼんやりと思った。そんな少女を隠すように抱きかかえたルシフェルからの報告は全て事後報告だった。ルシファーが否と、拒絶をしたところですべての手続きを終えていたのだから、何を言ったところで無意味だった。
 サンダルフォンを見たのは今に至るまでその一度きりだ。
 ルシファー自身が興味を抱くことがなかったということもある。他者への興味は殆ど皆無といっていい。優先事項は研究が第一で、その次点に弟がくるだろうかという具合である。あのルシフェルに他人の面倒が見れるのかと不安を覚えたものの、自分には関係ないかと吐き捨てていた。面倒なことにならなければいいがと思った程度だ。とはいえ彼女の成長については耳にしていた。耳が痛くなるほどに聞かされ続けていた。やれ彼女が名前を呼んでくれた。笑ってくれた。珈琲を淹れてくれた。どこそこに出かけた。手をつないだ。風邪をひいた。学校に通っている。自転車の練習をした。絵をかいてくれた。父の日におくりものをくれた。子どもが好きでもないし、無関心であるルシファーであったが、サンダルフォンの成長情報だけは豊富であった。引き取った少女を甚く溺愛していることには薄々どころか、確信を得ていた。しかし、ちょっと度が過ぎているのではないかと、今更になって気づく。
「足りなければ言ってくださいね」
「ああ……おい、それはどうした?」
「これ、ですか?」
 スープとサラダ、それからトーストしたバケット、チキンソテーをテーブルに並べるサンダルフォンの左手薬指にきらきらと輝くプラチナリング。正面には宝石が埋め込まれている。良識ある大人ならば、十六歳の少女が身に着けるにはやや大人びた、あるいは高価すぎるのではないかと首をひねる代物だ。もっともルシファーが気になったのは宝石ではない。そのリングそのものだ。覚えがあるのだ。ルシファー自身がそのリングについて、誰よりもしっている。
 そのリングは、販売予定である位置情報把機能及び小型カメラ付きチップが埋め込まれている。ルシフェルが提案し、つい最近完成したチップだ。ルシフェルのプレゼンによれば「ペットの脱走」や「幼い子どもの見守り」をターゲットととした防犯用品であった。ペット用の首輪タイプや子供用のぬいぐるみタイプは既に生産ラインで着々と製造をされている。宣伝効果も上々で既に、予約は目標ラインを余裕で超えている。
 そしてルシファーが顔を引きつらせているリングタイプは云わばプロトタイプというべきか、悪ふざけの具現化ともいうべき存在だ。非売品で、どこまで小型化できるだろうかというルシフェルの言葉にわっしょいわっしょいと乗せられて、ルシファーが趣味で、時間外に、徹夜で作ったものだった。作ってから我に帰って販売にはコストがかかりすぎると気づいたものの、そういえば作ったアレはどこにいったのだろうかと記憶の彼方に捨て置いていた。すべて、このためであったらしい。
「いつもありがとうプレゼントだよって、ルシフェルさんから」
 ちょっと大人っぽすぎますよねとはにかみみながら、困ったように、だけど嬉しさを隠しきれていないサンダルフォンはその指輪の用途を知らないのだろう。真実を告げるべきか。身内であろうともプライバシーの侵害になるのではないかと、ルシファーは一寸悩んだ。その瞬間に、テーブルに置いていた携帯端末が震えた。仕事に関することだろかと、ルシファーはいつもの、一人の時の調子で携帯端末を手に取り開き、戦慄する。
「……どうかしましたか?」
 ただならぬ様子のルシファーにサダルフォンが首をかしげて、不安そうに尋ねた。
「お前はしらなくていい……仕事のことだ」
 お前の無知が羨ましいよ。
 携帯端末からはルシフェルからのショートメールが入っていた。「彼女には秘密で頼む」という「お願い」なのだがルシファーには脅迫に思えてならない。
 六歳から引き取られて十年、ルシフェルの溺愛はよくも続くものだと呆れふと、
「…………お前十六か!?」
「そうですよ?」
 はっと、サンダルフォンの年齢を確認していよいよルシファーは柄にもなく同情をした。それからなんだか馬鹿らしくなる。最初からそのつもりであったのか、ルシファーは分からない。ただまあ本人たちが幸せそうなら他人が口出しすることではないのだろうと、思うのだ。というよりも他人に関わって面倒ごとに巻き込まれるのはごめんである。さっぱり訳が分からない様子のサンダルフォンに気にするなと言ってコンソメスープを掬い口に運ぶ。インスタントやケータリング、栄養食品とサプリメント漬けの肉体に染みわたるきがした。また携帯端末がなった。
「サンダルフォンの手料理は美味しいだろう」
 一気に味気がなくなった。

「そろそろお風呂に入りましょうか」
 食べ終わった頃合いに食後の珈琲がでた。出てからサンダルフォンはあっ、と一寸だけ声を上げてから珈琲でよかったしょうかと尋ねてきたからルシファーはなんだか惚気られているのだろかと胃が持たれた気分になって、構わないと珈琲を受け取った。珈琲の美味しさやまずさは二の次で、カフェイン摂取が主目的であるルシファーが淡々と珈琲を飲んでいたときに、サンダルフォンがさっきの言葉を掛けた。
 首肯すればサンダルフォンは用意しますねとにこりと笑った。
 珈琲を飲み終えた頃合いに用意出来ましたよと声を掛けられる。通されたバスルームは広々としていた。バスタブには湯が張られている。
 ルシファーは体を洗う流すと、ちょっと熱いくらいの湯舟につかった。独り身であるとついシャワーだけで済ましてしまう。湯舟にゆったりと浸かるのはいつ以来だろうか。らしくもない気疲れもあったのだろう、ついうとうとと微睡む。入浴剤が入れられているためか乳白色の湯からは心地安らぐ香りがした。
「御着替えおいておきますね」
「……ああ」
 夢心地にぼんやりと応えたルシファーだったがカチャリと開いた扉と流れ込んだ冷気にぱちりと目が覚めた。
「はっ!?」
「?」
 まるで、こちらがおかしいかのように、どうかしたのだろうかと言わんばかりにこてん、と小首を傾げたサンダルフォンに、ルシファーは自分がおかしいのだろかと、ちょっとだけ、思ってしまった。だけど、やっぱり、どうあってもダメだろう。おかしいだろう。いけないことだろう。別にルシファーは道徳とか、倫理とか、そういうものに沿うべきだなんて主張するような真人間ではない。どちらかといえば道徳に背くし倫理を冒涜する類の研究者である。だけど、これは、なんだか、いけないだろ。ダメだろ。
「あ、入浴剤は大丈夫でしたか?」
「……ああ」
 本当に、疲れる。
「まさかと思うが、ルシフェルと、一緒に入っているのか?」
「? お風呂は一緒に入るものでしょう?」
 額を抑えた。
 サンダルフォンはそんなルシファーをどうしたのだろうと不思議に思いながらシャワー浴びて体を洗い流していた。裸身であることへの一切の羞恥なんてないようで、やっぱりまだ野生動物なのだろうかとルシファーはすっかり、呆れて目を瞑った。リビングにおいてある携帯端末は鳴りっぱなしなのだろうなとうすら寒くなる。
 ちゃぷりと湯が揺れる。
 湯気と入浴剤のおかげでサンダルフォンの姿がぼんやりとしていたことは幸いだった。サンダルフォンが膝をかかえているから肉体がふれることもない。広い浴槽にこれほど感謝をしたことはない。
 まあ唯一、安堵を覚えたことといえばサンダルフォンの左手薬指にきらりと光るものがなかったところだろうか。

title:うばら
2020/01/22
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