ピリオド

  • since 12/06/19
「サンダルフォン、それ……」
 団長が信じられないものを見たというような顔で、震える声で呟いた。見つかってしまった。他人事のように思いながら、サンダルフォンはそっと、手を隠した。零れ落ちて行く粒子は、夕陽に照らされながら風に乗り上げて、きらきら輝いて、消えていく。サンダルフォンを形作っていたものだった。
「なんで、どうして」
 きっと逃してはくれないのだろうな。サンダルフォンはふうとため息を吐き出して重く、口を開いた。
「役割を果たした時からだ」
 天司長として、ルシファーの遺産を破壊して、空の世界を守った。そして、蘇らせたルシフェルへ天司長の座と力を返還した。それほど、昔のことではない。瞼を閉じれば鮮明に描くことができる。清廉な光が集い、形作る光景。はらりと、輝く程の純白が舞い上がった。おそる、おそると名前を呼びかければ、彼の人は穏やかな笑みを浮かべていた。サンダルフォンは、役割を果たしたのだ。
 空の世界が必要としているのは、代替品ではない。かつて空の世界を滅ぼそうと、空の世界を憎悪していたサンダルフォンではない。求められているのは、公平無私で、空の世界を誰よりも愛しているルシフェルだ。サンダルフォンは空の世界を守ったのではない。贖罪として守ったのではない。ルシフェルの言葉があったから、結果として、守っただけだった。ルシフェルに、託されたから。ルシフェルの、最期の言葉があったから、結果として、サンダルフォンは空の世界を守った。
 サンダルフォンは、空の世界を愛することが出来ない。だから、サンダルフォンはルシフェルを蘇らせた。最期の瞬間になるまで、自分の願いに気付かぬほど、世界を愛していた人だった。
 そこに、サンダルフォンの願いが無いといえば、偽りになる。
 サンダルフォンにとっての世界は、ルシフェルだ。ルシフェルのいる世界が、サンダルフォンの世界だ。どうにも、世界はサンダルフォンを許していないけれど。
 サンダルフォンはくつりと笑った。
「笑いごと、じゃないでしょ」
「怒ることでもない」
 何かを言おうとして、わなわなと唇を震わせた団長は、結局言葉を口にすることは出来ずにいた。その目は恨みがましく、怒りと、悲しみで揺れて、サンダルフォンを睨んでいる。サンダルフォンは、困惑を浮かべた。
「仕方のないことだ」
「仕方なくなんてない! ねぇ、ルシフェルさんは知ってるの!?」
「どうしてルシフェルさまが出てくるんだ」
「だって、」
「……君たちは勘違いをしているな」
 サンダルフォンは、幼い子どもに言い聞かせるように、宥めるように言った。
「あの御方には関係の無いことだ、たかが、役割を果たした天司の末路なんて。この程度の些事で手を煩わせることはない」
「些事なんて、そんなこと、」
 団長の言葉を遮るように、サンダルフォンは息を吐き出した。彼らは、何か、勘違いをしている。今のサンダルフォンは天司ではない。役割を果たして、役割を失った、星晶獣でしかない。それも、とびっきり脆弱な獣だ。その程度のものに、どうして全空を見守る天司長が目を掛けるというのだ。それに、サンダルフォンはルシフェルが望んでいた安寧でもなければ、無垢でもない。見限られて、当然だった。彼の言葉に逆らって、彼の望まぬ選択ばかりをする。彼は言った。空の世界を守るために生きろと言った。天司長として、最後の務めを果たしたあとは、ルシフェルのいない世界で、生きろといったのに、サンダルフォンは出来なかった。焦がれて、惹かれて、求めてしまった。ルシフェルは再顕現を果たして以来、サンダルフォンの前に現れることがない。光に包まれたあの時だけ。最後通牒のように美しい猊は瞳に焼き付けている。サンダルフォンは彼の行方を知らない。そういう、ものだった。何時だって、サンダルフォンは彼を追いかけたくても、出来なかった。
 ああ、自分は彼にとって過去の存在なのかとサンダルフォンはしっくりとしてしまった。天司長は未来を見ている。そこに、サンダルフォンはいない。当然だ。だって、もう、サンダルフォンは消滅するのだから。
 仕方のないことだと、寂しさを受け容れている。
 此れが罰なのだ。
 裏切り、災厄をおこし、ルシフェルの遺した言葉に従えなかった自分へ課せられた、唯一の罰だ。
 ルシフェルの瞳には、もう、サンダルフォンは映らない。サンダルフォンは世界からはじき出された。足掻く事は無い。
「きみたちには本当に感謝をしているんだ」
「やめてよ。最期の言葉みたい」
「最期の言葉だからな」
 馬鹿野郎。情けない声の罵倒を、サンダルフォンは笑って受け容れた。自分が消えても、きっと、誰も悲しむことなんて無いと思っていた。けれど、団長は泣いている。それが、少しだけ嬉しいと思ってしまった。こんな、醜い、優越感に浸るなんて、とても、無垢なんかじゃないな。サンダルフォンは、自嘲を浮かべて、視線を逸らした。夕焼けが目に染みた。



 夜にがたがたと震えてながら、朝を迎えられたことに安堵を覚える日々。罰だと受け容れておきながら、覚悟をしておきながら、恐怖は拭えなかった。暗闇に溶け込んでしまうのではないか。もう二度と目覚めることがないのではないか。
 自分は、なんて弱い生き物なのだろう。
 夜闇に混じっていく粒子を見つめて、呆れた。冷たい風が頬を撫でる。サンダルフォンを形造っていくものが零れ落ちてく。希薄になっていく。肉体も、心も、サンダルフォンという存在を、世界が忘れようとしている。お前なんていらないと否定をしているように思えた。唯一残るのは、記録として、災厄を引き起こした忌まわしいサンダルフォンだけだ。珈琲が好きで、生真面目で、意地っ張りな天司がいたなんて、やがて忘れ去られていく。
 天司としての矜持、あの人に造られ、託された。それだけが、サンダルフォンを生かしていた。何もかもが剥がれ落ちて、空っぽになって、サンダルフォンは浅ましい願いに気付いた。自分の宿していた問いを知った。
──役割が欲しい、役に立ちたい、必要とされたい、求められたい。
──なぜ、そう思ったのか。
 それは、あの人がいたから。ルシフェルがいたから。ルシフェルに認められたかった。ルシフェルに、必要とされたかった。他の誰でも無い、天司長でもない。ルシフェルという存在。サンダルフォンの肉体と、心と、全てを造りだした唯一の存在。サンダルフォンの世界。それだけだった。ただ、それだけ。
「もう、何もかも、意味はないけど」
 視界のはしで、ちらりと髪が揺らめいた。
 初めて飲んだ珈琲の味を覚えている。珈琲の味は苦くて、渋くて、酸っぱくて、良さなんてちっとも分らなかった。口いっぱいに広がる泥水のような味に、吐き出しかけて、けれど、どうだろうかと期待するような視線を向けられれば呑みこんで、美味しいですと言うほかなかった。彼がそうかと、胸を撫で下ろしたようにして、また、用意をしようと言われれば、喜ぶしかなかった。美味しいと、本当に思えるようになったとき、初めて、彼の人を知ることが出来た気になっていた。
 冷たい空気を吸い込んだ。
 初めて外の世界に触れた感動を覚えている。土の香りを吸いこんで、朝露を滴らせる緑に触れて、感動を覚えた。体の奥底から名前の知らないものが湧き上がって、心が震えた。振り返って、思ったままのことを伝えた。拙い言葉。笑われるような、言葉を、彼は受け止めてくれた。笑うことなく、馬鹿にすることなく、彼は、良かったとただ一言つぶやいた。
 こつりと鳴らした踵の音。
 履き慣れない頃はバランスを保つことが困難だった。ぐらりと傾いた体をルシフェルに抱き止められたのは両手で数える以上だった。その度に、自身の不出来を恥じた。気にする事は無いと言われるたびに、あなたに造られたのにどうして出来ないのだろうと自分の努力の足りなさを嘆いた。今では飛び跳ねて、走ることだって、なんだって出来る。もう、何処にも行けないけれど。
 夜が明ける。
 目覚めて初めて見た色を覚えている。何処までも蒼い色だった。それから、美しい銀の色。培養液にまみれて、肉体を支えることもできず、床に這いつくばっていた。培養液で汚れることも厭わず、膝をついた彼に、手を取られた。初めて触れた温度は、暖かくて、陽だまりの温度と同じなのだと暫くして知った。
「サンダルフォン」
 告げられた言葉を理解できなかった。組み込まれた情報にも、サンダルフォンというデータはなかった。反応を示す事の無い天司に、彼は、優しく言葉を掛けた。
「君の名前だよ。おはよう、サンダルフォン」
 何もかもを、忘れられない。忘れることなんて、出来ない。サンダルフォンはルシフェルによって造られた。ルシフェルによって造られている。肉体も、心も、感情も、生きる理由も、すべてがルシフェルに帰結する。
 朝焼けの中を、サンダルフォンを形作るものが舞い上がる。サンダルフォンは静かに視線を注いでいた。かざした手の平はうっすらと透けている。その手が、包み込まれる。暖かな、掌。背中にかかる熱量。振り向けない。まさかと、妄想かと、湧き上がる期待を押さえつける。
「間に合った」
 ほっと吐き出された息が首筋に触れた。妄想ではない、幻覚ではない。サンダルフォンはこわごわと、振り向いた。ルシフェルは、笑みを浮かべていた。臓腑が絞めつけられたように、息苦しさを覚える。瞼の裏が熱を持つ。
「ごめんなさい、ルシフェルさま。ごめんなさい」
 幼子のようにしゃくりあげていた。許してなんて言うことが出来ない、ごめんなさいと、謝り続けた。
「俺は、あなたのいない世界でなんて、生きたくない。あなたのいない世界で、生きられない」
──約束を守れなくてごめんなさい、罰を受け容れられなくて、ごめんなさい。
 ルシフェルの指が、零れ落ちる涙を拭いとる。溢れる涙は枯れることがない、サンダルフォンは止める術をしらない。



「案ずる事は何も無い」
 嫌な記憶が蘇る。サンダルフォンの存在を否定する言葉だった。体が、奥底から冷えあがる。ルシフェルは気付いた素振りをみせない。気付くことができない。早くしなければと、焦っていた。包み込んでいる手は薄く、儚い。希薄になっている。サンダルフォンの纏うものは、剥がれ落ちている。コアは容易く、崩れそうになっている。
「さあ、行こう」
 何処にも、行けないのに。行く場所なんて、どこにもないのに。サンダルフォンの言葉は音になることがなかった。声を上げるまえに、視界一面が眩しいほどの純白に覆われていた。浮遊感が襲う。不快感を伴う、内臓が浮ついたような感覚が一瞬。視界を覆うものが無くなる。目を瞬かせる。きょろりと見渡した。見慣れた、騎空挺の甲板ではなかった。
「ここ、は?」
 地図にない島だった。誰も知らない島。豊かな緑に、穏やかな風。涼やかな空気。人の手が加えられていない島。御伽の国から飛び出してきたような、時間という概念から切り離された幻想の島。誰も、立ち入るのことの出来ない島。
「きみの島だよ」
 サンダルフォンには、理解が出来なかった。何を言っているのだろうと、首を傾げて、ルシフェルを見上げた。ルシフェルは驚きで、涙が止まり、赤くなった眦に触れた。じわりと、痛みを思い出してサンダルフォンは目を細めた。しっとりと濡れた皮膚に、ルシフェルは優しく触れた。
「きみのために造った島だ」
「造った……? なぜ、なにを考えて……?」
「ここには君を傷付けるものは存在しない、きみに害を成すものは存在しない」
「待ってください!」
 サンダルフォンの悲鳴交じりに声を上げた。けれど、ルシフェルがその言葉に応えることはない。
「この島と契約を結ぶんだ」
「なにを、」
「今の君には、必要なことだろう? サンダルフォン、私は怒っているんだ」
 怒っている。サンダルフォンは、ルシフェルの怒りを知らない。怒られたという、記憶がない。困惑と、怯えがサンダルフォンを支配する。不安に駆られる。
「俺が、約束を破ったから。身勝手で、あなたを、再び顕現させたから」
 ルシフェルは首を振った。
「ちがうよ」
 サンダルフォンには、思いつかない。裏切ったことも、災厄をおこしたことも、何もかも、彼のなかでは片付けられていることを知っている。ルシフェルは嘘をつかない。サンダルフォンという存在はルシフェルの中で何も残せなかった。だから、それ以上のことが思いつかない。青褪めたまま、唇を閉ざしたサンダルフォンに、ルシフェルは寂しく、語りかける。
「きみは、なぜ何も言わない。独り、抱え込み、選択をするんだ」
 サンダルフォンは、ルシフェルを見上げて、はっと息を呑んだ。カナンの地を思い出していた。息絶えて、目の前のサンダルフォンを認識できず、語りかける思念。最期の瞬間にいたるまで、空の世界のことしか考えていなかったのは、
「それを、あんたが、言うのか」
「…………ああ。そう、だな」
 するりとした頬を撫でる。涙の跡を拭いとる。泣かせてばかりいる。笑っていて欲しかっただけだった。天司長という役割に不満もなにもなかったのに。
「サンダルフォン、きみが私を、ルシフェルにした」
 深い蒼は、揺らめいていた。
「私はもはや、公平無私ではいられない。ルシファーの遺産を破壊した今となっては、天司長という座も、名ばかりだ。サンダルフォン。私はルシフェルだ。ルシフェルとして、君を、失いたくない」
 叛乱の罰としてパンデモニウムに封じて、災厄の罰として自身のコアで眠らせた。すべてルシフェルが下した罰だった。罰でありながら、罰ではなかった。彼が生きている、共にいることが叶わずとも、生きている。それだけで、ルシフェルは良かった。示しがつかない選択を取っていた。
「軽蔑をしても、仕方のないことだ。きみが、命を懸けて蘇らせたルシフェルは、低俗に、きみを想ってなどと言い訳をして、力を、私用しているのだから」
 ルシフェルの言葉にサンダルフォンは目を見開いた。何を言っているのかと、耳を疑う。低俗だというのなら、軽蔑だというのなら、それこそ、サンダルフォンは彼の前から消え入りたくなる。
「サンダルフォン。私は、きみに嫌われてもそれでも、」
「ありえない!」
 声を上げて、否定をした。
「そんなの、絶対にありえない。俺が、あなたを嫌うだなんて、絶対に、何があっても」
 サンダルフォンはそれだけは断言できた。愛しいから憎んだ。憎しみの中に、嫌悪はなかった。造りだされたとき、サンダルフォンは、初めて見た蒼を、差し出された手に、焦がれて、惹かれて、求めていた。
 サンダルフォンの言葉に、ルシフェルは言い聞かせる。
「そう、か。サンダルフォン。ならば、どうか契約を結び、今は、眠りなさい」
 意図は、理解できている。今のサンダルフォンは役割を果たして、天司ではない。翼はない。ただの、星晶獣に過ぎない。力を使い果たして、消滅寸前で、消滅を避けるには、彼のいう通り、島と契約を結び、眠りに就くほかに選択肢は無い。
 嬉しいと、思った。自分のためだと言われて。消えたくないと、思った。失いたくないと言われて。
 サンダルフォンは、さ迷わせた手をルシフェルに伸ばす。伸ばした手を、暖かな手が包み込んだ。
「目覚めたとき、傍に居てくれますか」
「ああ。約束をしよう」
 ふにゃりと、稚けない笑みを零したサンダルフォンは目を伏せた。
「それまで、おやすみ、サンダルフォン」
「おやすみなさい、ルシフェルさま」
 揺らいだ体を抱き止める。腕の中で、サンダルフォンは寝顔を晒している。恐怖に支配されることもない、後悔に苛むことのない、安らかな眠りに就いている。
 島と、サンダルフォンがリンクしている。契約が結ばれている。
 ルシフェルはそっとサンダルフォンの髪を撫でた。
 生い茂る木々から漏れる光が眩しくないように、翼で影をつくった。
 髪を梳いた手はするりと頬にうつる。
「サンダルフォン、良い夢を」
 起きたら、おはようと言おう。それから、いつか、二人で初めて飲んだ珈琲を淹れよう。
 いつになるか分からない未来に、想いを馳せた。
 数百年の眠りが彼にとって幸福なものであることを願う。

2019/02/18
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