ピリオド

  • since 12/06/19
 産まれて間もない、と言っても良い時期だった。ルシフェルという偉大なる存在の優しさに包まれていた。役割を告げられないまま、今は学ぶ時期なのだという言葉に従い、彼の言葉に耳を傾けて一言一句を聞き逃すものかと記憶した。文字を学べば、本を読み漁り、知識を蓄えた。滑稽な姿だと嗤う声も知らず、従順にルシフェルの言葉の通りに過ごしていた。
 天司長として多忙であっても、ルシフェルは研究所に立ち寄ることがあればサンダルフォンのもとへ、たとえ、僅かな時間であっても立ち寄った。一言二言だけの時もある。慌ただしく、立ち去る姿に伸ばしかけた手を押さえつけた。もっと一緒にいたい。湧き上がる欲望を、恥じた。そして同時に首を傾げる。なぜこんなことを考えてしまうのだろう。胸の内から湧き上がるものを、サンダルフォンは知らなかった。
「俺は、あなたに恋をしているのでしょうか」
 悶々と調べて辿り着いた恋、という感情を告げる。ルシフェルは何でも知っている。サンダルフォンが持て余していた感情を、仮定した名称に、きっと答えを提示してくれる。
 ルシフェルは青い眼を不意に伏せてから、サンダルフォンを射抜く。真摯な、優しさの欠片もない瞳にサンダルフォンは委縮した。失言だったのだろうかと不安に怯える顔に、ルシフェルは表情を和らげる。
「それは、恋ではないよ」
 呆気なく否定をされた。サンダルフォンはぱちくりと目を瞬かせる。告げられた言葉を理解するのに時間が掛かった。やがて、理解をする。暖かな日差しを受けて黒髪は熱を持っている。手に包むコーヒーカップの中身は淹れ立てだった。なのに、体は凍てついたようだった。呼吸をすることすら忘れていた。
「きみが私に抱いている感情は、子が親を慕うものだ」
「そう、なのですか?」
「ああ。いつか、きっと、君も違うものだったとわかるだろう」
 ルシフェルの言葉に、間違いなんてあるはずがない。これは恋ではないのだ。身の内から湧き上がる渇望。身を焦がす熱。ただ一人だけを欲して、求める心。全て、勘違い。ルシフェルの言葉はサンダルフォンにとって絶対だった。ルシフェルが違うと否定をしたのだから、恋ではないのだ。きっと、親が子を慕う感情なのだ。思い違いに、浅はかな思考であったことを、恥じた。
 恋じゃなかった。なら、恋とはいったい、どのようなおそろしいものなのだろうか。子が親を慕う感情とはこんなにも、苦しいものなのだろうか。ルシフェルに対して疑心を抱くことのないサンダルフォンは、言葉を珈琲と共に呑みこんだ。
「ルシフェルさまは、恋を知っているのですか?」
「……ああ」
 ルシフェルは痛みに耐えるように首肯した。



 ルシファーの遺産を破壊して、空の世界は守られた。同時に、凶刃に倒れたルシフェルは蘇った。これはハッピーエンドだと、ぼろぼろになりながら、現状を理解出来ていないルシフェルに、泣き縋る功労者の姿に特異点は胸を撫で下ろした。その光景を鮮明に思い出すことができる。泣きじゃくり縋りつくサンダルフォンを、ルシフェルは抱き止めていた。優しい横顔は、慈しみで溢れていた。特異点たちに褒美はない。空の世界を守ったといっても、黒幕はとっくにいないし、天司長にたかるなんて出来っこない。怒られる。空の世界を守るといっても、空の世界に生きるものとしては当然といえば当然のことだった。だから友人のその姿こそ、戦いぬいて得た褒賞だった。
 グランサイファーには貴族王族元王子や騎士なんて種族や身分なんて関係無い団員たちがいるのだから、今更天司が増えたところで問題はない。蘇ったルシフェルがグランサイファーに同乗するようになっても団長も、誰も、異議を唱えなかった。真っ先に反論するであろうサンダルフォンが何も言わなかったことに違和を抱きながらも、素直になれるじゃんと呑気に思っていた。けれど、サンダルフォンは分かっていたのだ。
「サンダルフォン、それ、」
 団長の言葉に、サンダルフォンはなんてことの無いように、遅かったなと他人事のように振る舞う。
 田畑を荒らす魔物の討伐依頼を受けた。特に強い魔物ではなかった。偶然、通りかかったサンダルフォンに声を掛けた。いつものことだった。ルシフェルが蘇る前、共闘であると口を酸っぱくして言っていたサンダルフォンでのグランサイファーでの立ち位置だった。捻くれていて、その癖に生真面目で、面倒見が良い。サンダルフォンは、災厄を引き起こしたけれど、それでも、団員からは、憎まれなかった。
 魔物が暴れて、爪によって裂かれた布地。戦いにおいて負傷は珍しいこともでない。大丈夫かと、口にしかけた言葉の代わりだった。裂かれた箇所から、きらきらと粒子が零れて空に溶けていく。
 団長の顔から血の気が引いて行った。サンダルフォンに迫る。降参だと言わんばかりに仕方なさそうにして。サンダルフォンはただ一言。
「役割を果たしただけにすぎない」
 それだけだった。それだけでは、理解が出来なかった。納得が出来ない。
「どういう、ことなの?」
「そのままの意味だ。俺の役割は、天司長のスペアに過ぎない。一時凌ぎの代替品。そして、正規の天司長であるルシフェルさまは無事に蘇り、天司長の力は無事に全て、彼に返還をされた。俺は役割を終えた。ただ、それだけだ」
「役割を終えた天司は、死んでしまうの?」
 ストレートな物言いに、サンダルフォンはくつりと笑い声をあげた。馬鹿にした笑い方ではない。純粋に、笑っている。こんな時に、見たくなかった。くしゃりと顔を歪ませた団長に、サンダルフォンは罰が悪そうに目を逸らした。
「ルシフェルさんは、知ってるの?」
「……あの御方は、優しいだろう?」
 優しいだろうか。即答が出来ない。答え辛い。サンダルフォンにとってのルシフェルと、特異点にとってのルシフェルは同一人物なのだろうかと思ってしまう。それほど、ルシフェルは対等が違うのだ。特異点に接している対応は、ルシフェルにとって共通で、ただ一人、サンダルフォンに対してだけ特別に、優しい。
「あの御方は、役割を果たして、麾下ですらなくなった俺にも、お慈悲を与えてくださる」
「慈悲なんかじゃないよ」
「慰めなんていらないさ、分かっている」
「ちっとも! 分かってないじゃない!」
「なら、慈悲でなければ、なんだっていうんだ」
「それ、は」
 サンダルフォンのことだ大切だからだよ。ルシフェルの顔を見れば、サンダルフォンにだけ特別な優しさを見れば、考えれば、想像すれば思いつくことだ。けれど、サンダルフォンは見えていない。近すぎる。当たり前になっている。傍から見れば、想い合っていることはわかり切ったことなのに。もどかしさで、腹が立つ。
「ただ、な。団長」
「……なに?」
 不意に声を掛けてきたサンダルフォンは、さっぱりとした様子を見せていた。
「次に見えた島で降ろしてくれ」
「なん、で」
「最期なんだ。我がままを言ってもいいだろう」
「最期なんて言うな!」
 殴りたくても、儚い顔で言われてしまえば、何も言えなくて、拳を痛いほどに握りしめた。鼻の奥がツンと痛み、嗚咽が漏れた。サンダルフォンが困ったように手を彷徨わせてから、溢れるものを拭った。拭ってもぬぐっても、きりがなかった。




 サンダルフォンが次の島で降りるということはすぐさま知れ渡った。残念がる声は、サンダルフォンの矜持を満たす。承認欲求の塊のような生い立ちだった。求められれば、必要とされれば容易く手を貸す。それでも、サンダルフォンは留まる事は出来ない。ルシフェルにも告げた。次の島で、俺は降ります。宣言をすれば、ルシフェルはそうかと呆気ない言葉で、首肯しただけだった。
 言葉通りに、船を降りた。長閑な無人島だ。本当にいいのとしつこく確認をする特異点に呆れながら此処が良いんだと言い切った。人のいない、忘れられた島。

「よろしいのですか?」
 飛び立っていく船を見送りながら、横に立つ人に声を掛ける。
「ああ、きみがいないのであれば、同乗する意味はないからね」
 勘違いしそうになるから、止めてほしい。分かっている。彼は優しい、天司長だ。サンダルフォンが再び道を踏み外すことのないように、監視をしているのだ。二度も裏切っているのだから、仕方のない反応だ。けれど、嬉しいと思ってしまう。当然のように、共に船を降りてくれたことが、嬉しくて、仕方がない。サンダルフォンは、おそるおそると、隣に立つ人の手に触れた。触れた手を、そっと握りしめられる。サンダルフォンの手よりも大きく、広く、厚みのある手。喜びが身体中を駆けた。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。この時間が、永遠に続けばいいのに。
 横顔を見上げれば、視線が混じる。胸の奥底から湧き上がる。へにゃりと、溶けるような笑みを浮かべた。

 穏やかな時間だった。
 研究所でも、中庭での逢瀬の時でも抱いたことのない、心の安らぎを覚える。役割もない、役に立ちたいという願いも叶った。しがらみが無くなった心はあまりにも軽く、心のままに、ルシフェルを求めた。眠りにつく前にお休みと言って、起きればおはようと言う。ルシフェルと言葉を交わし、珈琲を飲むだけ。それだけで満たされていく。幸せすぎて、良いのだろうか。夜闇に溶けていく体を見て、苦い笑いを浮かべた。
「もう、保てないな」
 自分でも驚いていた。怯えながらも、優しさを享受して、いつ形を保つことが出来なくなっても仕方ないと思っていた。我が事ながら、執着心に呆れた。
「頃合いだろうな」
 世界にとって必要なひとを、独占し続けることはできない。ルシフェルは天司長だ。役割を空の民に還すと言ったとはいえ、まだ、彼は必要とされている。世界が彼を必要としている。そんなルシフェルを、サンダルフォンの我がままで引き留め続けることはできない。
「幸せだったなあ」
 防具を外して空にかざした手から、夜空が透けて見えた。星明りと優しい月の光。届かないと知りながら、手を伸ばした。



 深い森を歩いていた。無人島とだけあって、人の手が触れることのないまま、手つかずの原生。ぼこぼことした整えられていない道を歩くには、サンダルフォンの履き慣れた靴は不向きだった。高いヒールは足を取られて、初めて履いたときのように不格好になる。いっそ脱いでしまおうかと思ったところで、ルシフェルが差し出した手に、覚られることに不安を抱きながら、その手を拒むことは出来ず、己の手を重ねた。
「ルシフェルさま」
 暖かな日差しを受けた銀の髪はきらきらと輝いている。なんだい? 穏やかな、優しい声。言わなければならない。覚悟をしていたのに、蒼穹を前にして、戸惑いが生まれた。言葉が喉に引っかかる。言わなければならない。告げると決めていた。重ねていた手をそっと離して、決意を込めるように力を入れた手は、泥団子が崩れていくような感覚で、サンダルフォンは焦りを覚える。
「ごめんなさい、ルシフェルさま」
 陽光が煌めいた。
「俺はもう、貴方が願う安寧ではいられない。無垢なんかじゃない」
 ルシフェルの言葉を、サンダルフォンは忘れない。彼が何気なく発した、きっと、ルシフェル自身も覚えていないであろう言葉のひとつも、サンダルフォンは忘れることができない。ルシフェルが慈しんだ安寧も、無垢だと言い表したサンダルフォンも、何処にもいない。
「貴方が望むサンダルフォンでいられない」
 純真にルシフェルを慕うサンダルフォンを殺したのは、サンダルフォン自身だ。過ぎた願いを抱き、欲望に駆られて罪を犯した。
「俺はいつだってあなたのことしか考えていない。あなたに必要とされたくて、求められたくて。……そうでないなら、憎まれたかった。あなたに殺されれば本望だった」
 サンダルフォンを、手に掛けるだなんて、ルシフェルには想像もつかない。想像も、したくないことだった。叛乱に加担した時ですら、パンデモニウムに収監した。四大天司を襲い、災厄を引き起こした時ですら、自身のコアに吸収をした。天司長としては、あまりにも生温い罰。だが、ルシフェルにとっては身を引き裂かれるような思いで下した罰だった。
「ねえ、ルシフェルさま」
 言葉を失ったままのルシフェルに、サンダルフォンは紡ぐ。きゅっと握りしめていた拳には既に感覚はない。さりげなく、隠すように、手を後ろに回した。胸を張るようにして、口にした言葉はなんとも情けない、サンダルフォンの醜い本心だった。
「俺は、貴方に託された言葉があったから、結果として、空の世界を守ったにすぎないのです。あなたの言葉が無ければ、空の世界が滅びようがどうだって、良かったんです」
 誰よりも、空の世界を愛している人だと知っていた。だから、かつて滅んでしまえとすら、憎悪した世界を守ったに過ぎない。自分勝手だと百も承知で、かつて空の底に突き落とそうとした特異点に共闘を持ちかけた。矜持も何もかもを捨て去った。
 貴方の為と言えば、恩着せがましい。けれど、ルシフェルの言葉が無ければサンダルフォンは空の世界を見捨てていた。それどころか、あのぞっとしない空間で一人、朽ちても良かった。
 自嘲を浮かべる。
「ね? 俺は、身勝手でしょう? 無垢なんかじゃない、安寧なんかじゃない」
 告白にルシフェルは何も言わない。言うことが出来ない。何を言えば良いのか、分からない。悲しみではない。怒りなんてない。それどころか、湧き上がったのは、歓喜に他ならない。彼は、サンダルフォンは天司長の言葉に従ったのではなかった。天司長の代行だからではなかった。ルシフェルが残した言葉が、彼を突き動かした。
 サンダルフォンは開きかけた口を、閉じて、また開いてから、言いよどみ、やがて観念したように続けた。
「俺は、あなたに造られました」
 頭からつま先まで、髪の一本に至るまで、サンダルフォンの全てはルシフェルによって造られた。ルシフェルが好ましいと思い、美しいと感じたものを選び、詰め込み、祈りを込めて、造り上げられた唯一の存在。ルシフェルの安らぎの具現。
「俺は、あなたに育てられました」
 役割が無いと嘆き、知らされていなかった天司を厭うことなく、無知であったサンダルフォンに知識を与えた。馬鹿らしい質問に呆れたことはただの一度も無かった。愚かな答えを叱りつけることはなかった。ルシフェルだけがサンダルフォンを認めてくれた。名前を呼んでくれた。ルシフェルによって、生かされていた。
「俺を形作る全てはあなただけれど、あなたを想う心は、俺が、初めて自分で生み出して、育ててきたものです」
 歪な感情だと自覚がある。空の民が囁き合う美しい形をしていない。独りよがりで秘めつづけきた二千年越えの感情は、きっと、おぞましい。
「ルシフェルさま。貴方はいつだって正しかった。間違ってなんかいなかった。あれは、恋じゃなかった。俺は、いつも、いつだって、貴方が愛しかった」
 裏切り、二千年の果て、決別の果てに、サンダルフォンは理解をした。自覚をして、けれど失ってしまった人に、抱いていた感情を知って、絶望をした。絶望を乗り越えて、こうして、愛した人がいる。サンダルフォンの拙い告白に眉をひそめることなく、真摯に耳を傾けている。
「愛していたから憎んだ。嫌いになんてなれなかった」
 一度だって、嫌いになったことはない。憎しみだった。愛していたから、憎しみが生まれた。愛した量がそのままに憎しみになって、彼に愛されている世界を憎んだ。逆恨みだとわかっている。逆恨みに巻き込まれた空の民たちには、天司たちには申し訳ないことをしたと思っているのだ。これでも。
「こんなものを、受け取ってほしいだなんて、烏滸がましいことを願いません。拾い上げなくてもいい、捨てたっていい。けれど、どうか、否定をしないでください。俺が、サンダルフォンであることを。貴方を想っていること、俺を形作っている貴方への想いを、どうか、貴方だけは、否定しないで」
 場違いに、サンダルフォンは微笑んだ。愛しさでたまらないというように、溢れる感情を隠すことが出来ていない。それは、ルシフェルが慈しんだ笑みに他ならない。安寧と、安らぎを覚えた表情。認めよう。知っている。ルシフェルは、恋を知っている。愛を知っている。全て、覚えがある。



 公平無私である天司長にあるまじき独占欲だった。無私無偏として存在すべき天司長にあるまじき感情だった。公明正大であることを求められる天司長には、不必要な欲望だった。
 二千年前どころか、それよりも、サンダルフォンを造ったときから抱き続けてきた。天司長だからではなく、ルシフェルという存在を必要とされたかった。サンダルフォンの言葉はいつだって、ルシフェルの心を満たし、ルシフェルの存在を肯定していた。サンダルフォンには気づかれたくない。ルシフェルは、サンダルフォンが慕うような人格者ではないと自覚していた。全てに対して平等になんて、出来なかった。サンダルフォンが、無垢に、全幅の信頼を寄せるには、ルシフェルは浅ましい感情に捕らわれていた。
 サンダルフォンに慕われることに、不快感は無い。喜びを覚える。覚えては、いけなかった。宿しては、ならない想いだった。秘めつづけなければならなかったのに。サンダルフォンを前にして容易く、吐露された。違うと、否定することが出来ないでいる。彼の世界は、ルシフェルだけで完結をしていた。小さな世界だった。打ち明けられた恋を否定したのに、愛を否定できない。世界をしった彼が辿り着いた答えを、手放せない。清らかな笑みを浮かべて、告げる言葉に、歓喜している自分を、偽れない。二度と失いたくない、手放したくない。湧き上がる感情を、抑えられない。
「ああ、そうか。そうだね、恋じゃない。覚えがある。サンダルフォン、それは愛に他ならない」
 やっぱり! 稚い顔で、満足をしながら、きらきらとサンダルフォンを形造っているものが、零れ落ちていく。蒼穹が見開かれる。伸ばした手が触れる頬の輪郭も、砂上のように崩れていく。
 サンダルフォンは目を伏せて、いつか、記憶の中で触れられた温もりを思い出す。春の日差しのように優しい温もりは、火傷をするほどの熱をサンダルフォンに与えた。なのに、もっと触れてほしいと願ってしまった。愛しいから、求めてしまう。
「な、ぜ」
「あなたも、驚くことがあるんですね」
「サンダルフォン、なぜ、笑っていられるんだ。なぜ、言わなかった」
「どうして、でしょうか」
 ふふふとサンダルフォンは笑っていた。笑っていられるのは、嬉しいからだ。彼の心を乱す存在になっている。自分のために、必死になっている姿に、欣快の情が湧き上がる。悪辣な優越感だった。
「いやだ、サンダルフォン」
 安堵を覚えて、張り詰めていた緊張が解けた体はもう、サンダルフォンの意思を受け付けない。ほろほろと零れていく。形成する全てが空に溶けていく。零れていく。ルシフェルがエーテルを流し込んでも、受け入れる器がないのだから、無意味だった。無意味だとわかっていても、ルシフェルは縋りついて、注ぎ込んでいく。零れる粒子をかき集める。必死に、らしくもない姿を晒す。みっともなく、縋りついている。
 足が無くなって、崩れた体を抱き止める。土で汚れることも厭わず膝をついて、重みの無くなっていく体を抱きしめる。温もりが離れていくことが許せないでいる。
「いくな」
 それは、サンダルフォンが向けられた初めての「命令」だった。
「ごめんなさい、ルシフェルさま。その命令は、受け付けることができません」
 光の粒子がルシフェルの手から零れていく。逃すものかと、閉じ込める腕、引き留める手から零れていく光は、残酷なほどに美しい。
「貴方の愛する、空の世界の一部に、なれるなら、嬉しいな」
 消え入りそうな声が耳朶をうつ。待ってくれ。掻き抱く瞬間から、サンダルフォンは形を失って、やがて、
「あ、あぁ……あぁ!!!!!」
 慟哭の声を上げた男が一人、残された。

2019/02/17
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