ピリオド

  • since 12/06/19
 鉛色をした分厚い雲が空を覆い尽くしている。今日も、来ないのだろうと、待つことを諦めて、座り心地の良い椅子から立ち上がった。庭へと続く扉を開けると、ツンとした、冷ややかな空気が身を包んだ。吐き出す頃合いを見失い、溜めこんでしまった息を吐き出せば、白く、やがて溶けていく。そろそろ、雪が降り出す季節なのだということを、サンダルフォンに思い出させる。庭の片隅では、冬の凍てついた風に晒された花が揺れていた。サンダルフォンはふらふらと、魅せられたように、花に惹きつけられていた。触れようと、手を伸ばしたとき、白く、小さな花弁は、強い風が吹き付けると、簡単に散っていった。
「あ」
 小さな声が零れていた。花弁を取り戻そうと、手を伸ばす。サンダルフォンが植えて、育てた花ではない。それどころか、名前も知らない花だ。偶然、目に触れただけに過ぎない。偶然、サンダルフォンに与えられた庭で、花を咲かせたに過ぎない。なのに、サンダルフォンはその花を失うことが許せないでいた。幼子のような執着だと自身でも呆れるほどの、つまらない、縄張り意識でしかない。
 花弁は、サンダルフォンの指先を悪戯にかすめて、するりと、高く、空へと舞い上がっていく。伸ばした手は、虚しく、空を切った。



 薄紅の花弁がちらちらと降りつもる。そよ風が花弁を巻き上げて、それから、頬を撫でる。日差しを受けた赤味のある黒髪はじんわりと熱を宿していた。隣で同じ景色を見ている王を、ちらりと横目で伺えば、視線に気付いたのか、視線が交わった。サンダルフォンは視線を不意に逸らした。そして、思い切ったように尋ねた。
「俺に、何かすることはありませんか」
 王や官吏が忙しくしている。民が国に戻り、栄えると同時に生じる問題に追われている。サンダルフォンはその解決に向けた法の整備に携わることが許されていなかった。麒麟は仁の生き物であるが故に、厳しい裁定を下せない。サンダルフォン自身は務めて冷静に判断をしようとしても、最後は、人からすれば、甘さが出てしまう。傍に侍るだけの毎日を繰り返している。ルシフェルには何も言われない。呆れもされない。弱音を零すことも無い。苛立ちもぶつけられない。官吏と王の議論に加わることも出来ず、浮かび上がった言葉を飲みこむ。サンダルフォンは、自分は何故ここにいるのだろうと、見放されたように寂しさを覚える。
 王が忙しい時間を割いて、サンダルフォンの為だけに時間を作ることに変わりはない。その時間を恋しく思っていたことを塗り替えるように、今では罪悪感を抱きながら過ごしている。
 サンダルフォンの言葉を噛みしめるようにして、言葉を探すようにルシフェルが目を伏せた。サンダルフォンは生きた心地のしないまま、言葉を待つ。
「サンダルフォン、きみは何もしなくていい」
──何を、言っているのだろうか。
 サンダルフォンは首を傾げて、ルシフェルを見上げた。ルシフェルの言葉を、サンダルフォンは正しく理解をすることが出来なかった。耳に入ってきた言葉を、脳が正しく処理をすることが出来なかった。拾い上げた音が、言葉が、脳に届かない。聞き慣れない専門用語を口にしたのだろうかと、サンダルフォンは思わず聞き返しても、ルシフェルの言葉は変わらない。
「きみは、何も気に掛けることはない」
「どういうことですか」
「此処にいてくれるだけで、それだけで良いんだ」
 怪訝に意図を探るサンダルフォンに、ルシフェルは、優しく言い聞かせる。懇願でありながら、しかし、それは命令だった。サンダルフォンが嫌だと言ったところでルシフェルは聞き入れることはない。サンダルフォンが何を言ったところで、ルシフェルは言葉を取り消すことはない。ルシフェルの手がサンダルフォンの頬を包む。サンダルフォンの存在を確認するように。蒼い眼は優しい色をして、サンダルフォンを見つめる。その目を見つめ返しながら、サンダルフォンは、
「俺は、不要ですか」
 喉までせり上がった言葉を、口にすることは出来なかった。首肯されたらと、過る想像が気持ちが悪いほど鮮明で、実際に言われたのではないかと錯覚しそうになる。もしも、現実に、この優しい王に言われたら、サンダルフォンは耐えることができない。
「何か気に障ることをしましたか」
 改めるから、もう二度とあなたの意に背くことはしないから。縋りつくサンダルフォンに、ルシフェルは穏やかな顔で否定をする。
「そんなことはしていないよ。サンダルフォン」
「なら!」
 なぜ。
 サンダルフォンの問いかけに、ルシフェルは答えることはなかった。ルシフェルに、サンダルフォンの悲しみは伝わらない、苦しみは理解できない。この選択が、サンダルフォンのためだと信じている。サンダルフォンを守るための唯一の方法であると願っている。
 かつて寵姫のために建てられた離宮で、サンダルフォンはひとり、ルシフェルを待つだけの日々を繰り返す。心細さに気が狂いそうになりながら、サンダルフォンと呼びかけるたった一人を待っている。



 ルシフェルの治世は二千年になる。それは他に前例のない在位期間だった。民は賑わい、実りは豊かに、国は栄えている。完璧で完全な、理想の国。前王の悪政も歴史の彼方で、思い出す者はいない。ルシフェルは一度として道を間違えることもなく、正しく民を導き、国を成り立たせた。
 ルシフェルは、理想の王である。
 国の状態は麒麟に反映される。サンダルフォンの肉体はかつてのように苦しみを覚えることはない。床に臥せることはない。異変が起きる兆しは見えない。けれど、心は同じ痛みを訴える。その痛みに蓋をして、ルシフェルを出迎えた。
「サンダルフォン、変わりはないだろうか」
「ありませんよ」
「そうか」
 ルシフェルが胸を撫で下ろす様子に、悪辣な感情を抱く。変わりなんて、あるはずがないのに。何を毎度のことを問いかけてくるのだろうか。ルシフェルにその意識は無いと分かっている。けれど、詰られているように感じ取ってしまう。どうして、いつまでここに、なぜ、俺は。湧き上がる疑心を、曝け出すことが出来ない。サンダルフォンは、ルシフェルに、王に捨てられたのではないと、信じたかった。彼がサンダルフォンを訪れる、それだけが、捨てられてはいない証左であると、願っていた。
「今年の茶葉の品質はとても良いらしい。きみが気に入ればいいのだが」
 名産となっている茶葉の価値をサンダルフォンは知らない。
 世界の情勢を、国の状態をルシフェルから知らされることはない。ルシフェルはサンダルフォンが国に関わることを、言葉にも態度にも出す事は無いが、許さなかった。だからサンダルフォンはルシフェルに言わぬまま、使令を遣わせて国の状態を見ている。使令が持ち寄る情報には偏りがある。詳細までは分からない。けれど、何も知らないことを望んでいるようなルシフェルのことを騙しているようで、裏切っているようで胸が傷んだ。
 サンダルフォンが手渡された茶葉に、慣れた手順で、湯を注げば、強い香りが立ち込めた。
 自分は、何をしているのだろうと、虚しさが生まれる。
 彼が持ち寄る全てが、与えられたもの全てが、サンダルフォンを責め立てる。何もしていないくせに、おめおめと生きている。生きる理由を奪われて、生かされている。あなたのために生きたい。あなたと共に生きたい。サンダルフォンの想いが届く事は無い。サンダルフォンは、ルシフェルに、自分は、必要ではないと、理解していた。
「また来るよ」
「はい、お待ちしています」
 ルシフェルの背中を惨めに見つめた。
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