ピリオド

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 ふう、と知らず吐き出した息も、体も、ずっしりと重い。慰めるように、鼻をこすりつける使令であるカーバンクルたちに笑みを浮かべてふわふわとした毛並に癒されながらも、その笑みは晴れやかなものではなかった。
 静謐に満ち、神秘に包まれた蓬山には我こそは王であると自負する人間たちが、麒麟を求めて、傅かれることを願って、集まっている。つい先ほどまで、彼らを見定めていた。見定めるとはいうものの、顔を見合わせたことはなく、全て簾を通してのことだった。だから、相手の性別も年恰好も分からない。
(人間とは、なんて醜いのだろう)
 吐き気がした。
 蓬山に至るまでには多くの血が流れる。それを、知っている。だというのに、彼らがその血を踏みしめてきたことに、体に染みついた死の臭いに、嫌悪を抱いた。何食わぬ顔で、我こそは王であると言わんばかり。
 麒麟は、仁の生き物だ。だというのに悪辣な感情を抱いた。自分の中で沸き起こった感情を自覚すれば、己の醜悪さに絶望をした。余程、顔色も悪かったのだろう。疲れたと言えば、本日の裁定は終了となり、今に至る。人の気配の無いこの場所は、唯一、心が安らいだ。木葉の揺らぎ。草花の香り。木漏れ日。身の内の汚れが払われるような心地になる。主人の安らぎを感じ取ったかのように、カーバンクルも無邪気にくるくると遊びだす。その姿に、やっと、心からの笑みを浮かべることが出来た。
 かさり、と木葉を踏みしめる音にはっと振り向く。カーバンクルたちは既に、威嚇体勢に入っていた。毛並がぶわりと逆立っている。
「すまない。道を尋ねたいのだが」
 ほとほと、困り果てたように声を掛けた男が木々の間から顔をのぞかせる。人がいることに、ほっとした様子を見せている。警戒をする赤い瞳が映しだしたのは、白銀の髪に蒼穹の瞳を持つ男だった。そんなものより、目を惹きつけたのは男の容貌だった。美しい、と形容されるであろう顔。けれど、脳裏をよぎったのは、忘れられない記憶。冷ややかな眼差し。届かぬ声。振り払われる手。するりと、傾いた──。
 ひゅっと、呼吸の仕方を忘れた音が、喉を鳴らした。
「どうか、しただろうか?」
「……いや。なんでもないさ。こんなところまで迷い込むなんて、随分と方向音痴なんだな」
 そんなわけが無い。あの御方なわけが無い。だって、おの御方は、自身の目の前でごとりと首を落とされた。伏せられた青い眼は虚ろに、麒麟を責め立てた。半身である麒麟を否定して、孤独に、彼の王は──。絶望に染まった世界を忘れられない。だから、あの御方ではない。別人だ。証拠に、反応を見せなかったことを、気遣う様に、労わる言葉を掛けられる。厭味ったらしい言葉に侮蔑を向けることもなく、すまないと、何も、謝ることなんて無いと言うのに、謝罪の言葉を口にする。どこまでも、良く似た別人だ。
 少しだけ、申しわけない気分になって、内心で、苦い顔をしながら立ち上がると。青年の前を横切る。態々「付いて来い」と言うことは憚られた。何時まで経っても青年の気配が後に現れず、少し待つ。やっと、追いかける気配があった。



 通り慣れた獣道を歩く。麒麟の身を案じるように使令が潜み様子を伺っている。彼らを制しながら、後ろに問いかけた。
「あんたも王になりたいのか」
「まさか」
 青年は即座に応えたから、思わず、振り向いてしまった。彼は、本当に、王になりたいとも自分が王であったならとすら想像もしたことがないようだった。赤い目を確りと見つめている。青い眼に、射抜かれたように、居心地が悪いのに、逸らすことができず、見つめ返すしか出来ない。
「私は、ただ雇われただけの護衛に過ぎない」
「あんたが……?」
 訝しげに問いかければ、男は苦い笑みを浮かべた。
「よく言われるよ」
 そうだろうなと、無言で、同意を示した。男は高価なものを身に着けていない。金があしらわれた鎧でもなければ、名剣を腰に差している訳でもない。だというのに、男からは貴人のような、厳かな雰囲気がある。身分を偽っている、と言われても誰もが納得をする。
「そもそも、私には籍がない。学び舎にも通ったことがない」
 男はなんてことのないように言う。決して珍しいことではない。籍を持たない人間も、学び舎に通うことのない人間も幾らでもいる。けれどまるで自身が責められているように感じた。お前が王を止めなかったからだと、言われているように思えた。前王の悪政から、国の状態は崩壊寸前で、魔物が蔓延り、親の無い子、子を亡くした親、学ぶどころか、生きることに必死になるしかない。麒麟は歯痒く、国を見守ることしかできない。
「けれど、今の暮らしも悪いものでもない」
 顔色を悪くさせれば、男はそう言った。
「私は、護衛としてでなければ、昇山への同行も出来なかっただろう。良い経験が出来たと思っているんだ」
 何も、言葉を返すことが出来なかった。そうかと、ただ感想を言えば終わることもしたくはない。けれど、会話を引き延ばす術を持たない。そっと視線を逸らして、黙々と歩き進める。無言の男が、何を考えているのかわからず、恐ろしかった。獣道を抜け、人の通る道に出る。少し歩けば昇山のために集まった人々の寄合所がある。案内出来るのは、此処までだ。
「ああ、此処までくれば後は分かるよ。ありがとう」
 掛けられた言葉に、息苦しさを覚えた。胸が苦しくて、袂を知らず、握りしめる。言わなければ。土を踏みしめる音がする。言わなければ、ここで、引き留めなければ。
「あんたの、」
 後姿に、声を掛ける。不思議そうに、青年が振り向いた。
「あなたの、名前を」
「私の名前?」
 引き攣りそうになる喉を諦めて、首肯する。
「私はルシフェルという。きみは?」
「おれ、は」
 言いよどむ。麒麟に、名前は無い。王から与えられる麒麟もいるが、彼は与えることはなかった。あるのは国の名を頂いたものだけ。それは、王の悪政を止めることの出来なかった、前王の遺物。
「おれは、エリヤだ」
「エリヤ……。良い名前だね」
 曖昧に笑った。ともすれば、泣き出す間際のような顔をしているのを、ルシフェルは気付かない。
「あなたの話を聞かせてほしい」
「私の話? 私は、其処まで話上手なわけではないが……」
「あなたの見た風景を、体験したことを、聞きたいんだ」
 自己申告をした通り、誰かを楽しませるような会話はルシフェルは得意ではない。けれど、熱心に、請われるものだから、ルシフェルは頷いていた。



 ルシフェルが護衛を務めていた男は、王として、選ばれなかった。雇い主は商家の大旦那だった。人徳があり、多くの人々に慕われている。周囲に言われるがままに昇山をしたとはいえ、彼自身も決して嫌な気持ちではなく、むしろ乗り気であったのだ。昇山は過酷といわれている。けれど、一度だって危機に陥ったことはなかった。だから、自分は王なのではないかと、思っていたのだ。いつしか、自分こそが次代の王であると信じていた。だからこそ、麒麟の言葉が耳から離れない。
「中日までご無事で」
 雇い主は老人のように、憔悴しきっている。溌剌としていたのが嘘のように、しょぼくれて、茫然と、現実を受け容れないでいるようだった。
 ルシフェルには、王になりたいという気持ちが分からない。自分こそが王であると、信じる気持ちが理解出来なかった。
「王とは、それほどなりたいものなのだろうか」
 ぼとぼとと流れ落ちる滝を見つめていた彼が、振り向いた。エリヤと名乗った年若い、少年と青年の狭間の危うい年頃の彼とは出会って以来、時折顔を合わせて、彼が望んだとおりに、ルシフェルの見聞きしたことを話している。エリヤは身形の良い服を身に着けており、手にはささくれの一つもない。貴族、あるいは準じるような身分の子なのだろうと、ルシフェルは推測をしている。だからといって、嫉妬は無い。ルシフェルの話に笑みを浮かべ、はらはらと不安がって、ころころと変わる表情の彼を見ていると、兄弟が居ればこのような感情になるのだろうかと、胸に暖かなものが満ち足りるのを自覚した。
「……やっぱり、あなたは王になりたいとは思わないのか?」
「私が、王?」
 言われて、一寸だけ考えてみる。以前にも問われたことがある。あれやこれやと考えてみるも、矢張りというべきか、想像がつかない。人を従えること、民を導くこと。何もかも。
「想像が出来ないな」
 ぱちりと、目が合う。
 赤い眼は何時も、ゆらゆらと揺れている。一見すれば勝気に見える眦が心細いことを隠そうとする。何を、不安がることがあるのだろうか、何を恐れているのだろうか。ルシフェルには分からない。彼が打ち明けることは、何もない。会って間もないのだから、当然と言えば当然だ。彼の身の上を知らない。けれど、ルシフェルは思ってしまう。彼の不安を払いたい、恐れから守りたい。傲慢だと分かっている。彼本人に、願われたわけではない。助けてと言われた訳ではない。ただ、ルシフェルがしたいと思っただけだ。
 そろそろ、日が暮れる。彼は何処で寝泊まりをしているのだろうかと疑問に思いながら、さようならと言う彼に疑問を投げかけることは出来なかった。



「明日、下山をするよ。雇い主も踏ん切りがついたらしい」
 ルシフェルの言葉に、目を見開いた。零れ落ちるのではないかと開かれた目。そして、思い出す。彼は、ただ護衛として雇われて、同行したにすぎない。この穏やかな時間が続く事は無いのだ。麒麟に否定をされた彼の雇い主は、茫然としてそれから長く蓬山に留まっていた。珍しいことではない。下山をするにしても時期があるため足止めを食らう人間は多くいた。けれど、彼が、ルシフェルが去るということを、考えてもいなかった。
 動揺して、何も言うことが出来ない。ルシフェルが幼い子どもを宥めるように、頭に触れる。くるりとした癖毛を撫でた。触れられることに、恐怖を覚えながらも、それを享受していた。分かっていたことだった。知っていたことだった。気付いていたことだった。この人が、この人こそが。
「エリヤ。どうか健やかで。きみと出会えて、話すことが出来て良かった」
 ルシフェルに掛けられた最後の言葉を思い出す。エリヤに掛けられた言葉。彼に、最後まで嘘を吐いてしまった。エリヤと呼ばれるたびに、罪悪感を覚えた。けれど、呼びかけられれば歓喜を覚えた。覚えている。湧き上がる感情を。この人に必要とされたい、この人と離れたくない。それは、かつてと変わらない。麒麟であるからこそ、求める。
 既に夜は更けている。ルシフェルたちは既に立ち去った後だった。与えられた室の、使い慣れた寝台の上で、布団を被り、丸くなる。軋むような、身を裂かれるような痛みに、ぼろぼろと涙を零す。追いかけなければならない。けれど、王となった彼は、変わってしまうのかもしれない。嘘がばれてしまう。いてもたってもいられないのに、過去が二の足を踏ませる。けれど、どうしようもなく、求めてしまう。あの人が居なくなってしまう。それに、たえられない。
(いやだ。いやだ、いやだいやだいやだ!)
 部屋を抜け出し、駆ける。風の無い夜闇を、しなやかな獣が風を巻き起こした。誰も、見咎めるものはいない。山を下る。険しい山道を駆ける。
(見つけた!)
 突風に、火の番をしていたルシフェルが驚いたように、咄嗟に剣の柄に手を掛けた。そんな彼の変化に、気を配ることはできない。見つけたという喜びが勝る。降り立ち、対峙する獣に、黒麒麟の姿に、ルシフェルが目を丸くしている。本能に従い、頭を垂れる黒麒麟には見えない、気付くことは出来ない。言葉はするりと口に出ていた。
「──天命をもって主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申し上げる」
 すっと、息を呑む音。早く、はやく、許すと仰ってください。逸る気持ちを押さえつける。時間にすれば僅かであっても、永遠のように感じる。時が止まったようにすら思えた。ルシフェルが、口を開いた。
「……許す」
 転化を、人の形に戻る。ルシフェルは、自分の袈裟を差出し、むき出しの肩に掛けた。おずおずと、ルシフェルを、王を見上げれば、彼は優しくほほ笑んで、半身である麒麟を見つめている。青い眼が責め立てる事は無かった。エリヤという、偽りの名も、彼には分かっているのだろう。けれど、それを詰ることはない。優しい、慈しみの瞳を向けられて、とたんに、裸であることに、気恥ずかしさを覚えて、俯いた。
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