あやまちれんさ やってしまった、やってしまった、やってしまった! 早朝、同心長屋の自室。目を覚ました恋川春菊は頭を抱えた。彼は過ちを犯してしまったのだ。決してやってはならない過ちを。 昨晩、浴びるほどの酒を飲んだ恋川はひどく酔っていた。その日はお勤めに苦労し、機嫌がすこぶる悪かったのだ。行き付けの酒場で気晴らしに通常の倍は超える量を飲んだ彼は、酒場から長屋へ帰るのにも苦労するほど正体をなくしていた。 「なんであんなこと……」 恋川は昨晩の記憶を飛ばすように頭を振った。酔っていたにも関わらず、よりによって記憶だけは鮮明だった。 ぐちゃぐちゃに着崩れた着物のまま部屋を出る。井戸で顔でも洗ってすっきりしよう。そう思い、歩き始めた。 別に、酔ったまでならまだ良かったのだ。しかし問題はその後だった。酔った勢いとはいえ、何故あんな突拍子もないことをしたのか。考えても、答えなど出ない。 「おお、恋川殿ではありませんか!」 「ぎゃあっ!」 突然背後から聞こえた大声に恋川は驚いて振り返った。 「げ!……に、兄ちゃん……」 そこに立っていたのは蟲奉行所同心、月島仁兵衛だった。いつもと変わらぬ全力の笑みである月島を見て恋川は思わず後ずさった。 常ならば、今日も相変わらず元気だな。とでも声を掛けてやったのだが、彼にそんな余裕はなかった。 何故ならば昨晩、恋川が犯してしまったとんでもない過ち。それには他でもない、この月島仁兵衛も深く関わっているからなのである。 「あの、あのな、兄ちゃん。その……昨日は……」 「昨日?……ああ、そういえば挨拶がまだでしたね!」 恋川としては、昨日のことはどうか忘れてくれ。と言いたかったのだが、月島は彼の言葉の途中で何かを思い付いたようだった。 「挨拶?」 「はい!」 首をひねる恋川の手を取り元気良く頷く。そして不意にその手を力いっぱい引っ張った。 「えっ、わ!」 予期せぬ事態に対応できるはずもなく恋川はバランスを崩し月島の方へ倒れ込む。 その際に、彼はしかと感じた。やけに暖かく柔らかいものが唇に触れたのを。 「おはようございます、恋川殿」 間近には眩しい笑顔の月島。恋川は彼の肩を掴み体勢を持ち直す。黙って自身の唇を指でなぞる。先の感触で思い出すのは、昨晩の過ちだ。 「兄ちゃん……お、お前、お前、今……せ、せ、せ……」 「せ?」 「俺に……せ、せ、接吻しやがったな……!」 忘れたかった記憶が鮮明に蘇り、耳まで熱くなるのが分かった。首から上に熱が集まりかっかと顔が火照る。 やってはならない過ち。それは酔った勢いで月島と口吸い、即ち接吻をしてしまったことであった。 そもそも何故そんなことをしてしまったのかは恋川自身分からない、仕掛けたのは彼からなのだが。敢えて理由を挙げるとするならば、酔っていたから。その一点のみ。 酔った勢いというかノリというか。 酒場から何とかして長屋まで戻りあとは部屋へ入り寝るだけ。というところに偶然居合わせてしまったのが自主鍛練中の月島だった。無邪気に声を掛けてくる彼に恋川は笑顔で唇を奪い、おやすみと一言。 酔いが覚めた今となっては後悔しか残らない。過去に戻れるのならばべろべろに酔い潰れた自分を殴り飛ばしてそのまま自室へ放り込んでぐっすり朝まで寝かせてやりたいものだ。 当然とも言えるが月島は昨夜のそれをしっかりと覚えているようだった。今度は月島の方からしてくるとは予想もしていなかったが。 「つ、つーか何でいきなり!」 「何でと言われましても、これは挨拶なのでは?」 「…………は?」 理解をするのには中々の時間を要した。 先程から度々、挨拶、と聞くがもしや月島はこの口吸いが何かの挨拶とでも思っているのだろうか。まさか、そんな。 「あ、挨拶って、さっきのがかよ?」 「はい、昨晩も恋川殿が」 「あああっ、それは言わなくていい!」 愚直であり天然でありガキ臭い月島のことだ、昨夜の行為にひどく戸惑ったことだろう。意味すらよく分からぬまま考えに考え抜いた末、勝手に挨拶というそれっぽい理由付けをして自分の中で納得したのだろう。 「あのな兄ちゃん。接吻は挨拶する時にするもんじゃねぇんだよ」 わざわざ説明するのは気が引けたが、もしもこのまま月島を野放しにしていたらかなりまずいことになる。恋川は辺りを見回す。今はまだいい。幸い、自分たち以外は誰もいないのだから。だがここへ、他の人間が来たらどうなるか分からない。ばか正直な月島が間違った挨拶とやらを他人にしないとも言い切れない。いや、むしろやる。必ずやる。そういう奴なのだ月島仁兵衛という男は。 「では、どういう時にするものですか」 剣術の指導を乞う時と同じように真剣な眼差しを向けられて恋川はどきりとする。無知というのは、時に罪深いものだ。 「……こういうのはな、好き合った者同士がするんだよ。分かったな」 周りに誰もいなくて本当に良かった。いたら、見せられたものではない。本来、起き抜けにするような話ではないのだ。 月島が受け取った言葉を呑み込むようにゆっくりと頷く。なんと、なんと。小さくそう声が聞こえる。知らなかった知識を与えられた時に彼がよく言う言葉だ。 「そうでしたか。では、恋川殿は自分を好いていてくださってるのですね!」 「え……あ!」 その時の月島の晴れやかな表情を見た瞬間、恋川の顔色は赤から青へと早変わりする。 これはまた、とんでもない過ちを犯してしまったものだ。 口吸いは好き合う者がするもの。そう言っておきながらまずその行為を仕掛けたのは、誰か。自分だ。恋川は再度頭を抱えた。やってしまった、やってしまった、やってしまった! どうして最初にきっぱりと、あれは酔った勢いでやった間違いなのだ。と言わなかったのか。それ以前に何故、口吸いなどした、というか何故あれほど酔うまで飲んだのだ。全てが悔やまれてならないのだが今更もうどうしようもない。 「そうなんですね、恋川殿!」 月島はやけに楽しそうだ。どうしてそんな顔でいられるのか、恋川には理解不能だった。 「ち、ちげぇよ!絶対違う!そんなこと断じてあり得ねぇ!」 「では何故、恋川殿は昨夜あのようなことを」 「だからそれは、昨日は特別酔っててだな」 「特別酔っていたらあのようなことをしてしまうのですか」 「そうだよ!だから昨日のは間違いだ!もう忘れろ!」 「となると、やはり恋川殿は自分のことを好いて」 「ああ、もうっ!何でそうなるんだよ!」 これでは堂々巡りだ。何度諭しても月島は恋川の思惑通りの解釈はしてくれそうになかった。ここで月島を力いっぱい殴り全治3ヶ月ほどの怪我を負わせてそのまま逃げることができたらどれだけいいだろう。恋川は本気でそう思った。 月島に両手を取られ、恍惚とした表情で顔を寄せられる。近い、と訴えてもそんな言葉は耳に入っていないようだった。 「嬉しいです、恋川殿!まさか、まさか恋川殿がそんな風に思っていらっしゃったとは」 そんな風ってどんな風だ。精一杯月島と距離を取りながら恋川は心の中で吐き捨てた。 月島の手は、熱く、力強い。この手を振りほどくには何と言って解かせるべきなのだろう。まだしばらくの間、彼との問答は続きそうで恋川は深く深くため息をついた。 * その後、必死に月島の誤解を解こうとするのだが。 好き合う者同士というのは俗に言う恋人のことを差すのだと説けば、では自分たちは恋人同士なのですかと問われる始末。逃げ道を潰されているような気がしてならない。 早くどうにか解決せねば。そのうち限界がきて月島の問いかけに、ああもうそれでいい。と頷き、また新たな過ちを犯してしまわぬように。 ----------------------------------------- 春菊さんが「ああもうそれでいい」って言って見事にカップル成立して、あれ何でこんなことになってんだろうと思いつつも幸せな家庭を築くというエンディングパターンBも考えていましたが長くなりそうなので没になりました。 と、↑までをピクシブにだいぶ前にあげました。今見ると文章ぐだってるなぁと思いつつも手直ししてないです。 |