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思い出すのは、遠い昔の記憶。


軸川ソウジは走った。夢中だった。こんなに速く走ったのは生まれてから18年間の中できっと初めてだろう。
ある家の前で立ち止まりインターホンも鳴らさずにドアを開けて中へ急ぐ。この家の住人から連絡を受けた後だから何も言わずに入っても大丈夫、というか今はそんなことを言っていられる場合ではなくなったのだ。
ソウジは部屋に入るなり口を開いた。

「……どういうこと」

そこには見知った顔触れが揃っていた。この家の住人である逆之上ミハルだけでなく、大門カイトに井藤ノノハ、キュービック・G、アナ・グラムも神妙な顔付きで部屋の中にいた。ミハルだけはソファーに座り込んでいたが他の面々はその場に立ち尽くしていた。

「軸川先輩、」

「どういうことなんだい!説明してくれ!!」

声をかけてくるカイトを押し退けてソウジは迷わずミハルに詰め寄った。
正確に言えばもうすでに説明は受けていた。どこで、何が、どのようにしてという警察の見解らしきものを先ほどミハルから連絡を受けた際にかなり詳細に聞かされていた、しかし納得できなかった。直接聞かなければ何も信じたくなかった。

「きゃ、」

「やめろよ先輩!!」

ソウジはミハルの肩を掴んで揺さぶった。そんなソウジをカイトが止めようと彼を引き剥がす。

「何やってんだよ、先輩」

「………どこに行ったの…」

「え?」

ミハルからソウジを離すと、彼はそのままふらふらと床にへたりこんでしまった。
小さな呟きが漏れた。

「ギャモンくんは、どこに行ったの」

ソウジの声には覇気がなかった。今にも消えてしまいそうな響き、だがそれでも確かにこの場にいる人間には聞こえた。彼の言葉が。

「事故に遭って、いなくなったって…」

「バイクが…」

ソウジの言葉の後にミハルが話し始める。

「兄のバイクが道に…。凄い衝撃だったみたいで…ばらばら…だったけど…」

「ミハルちゃん…大丈夫?」

言葉が詰まるミハルを見てノノハが彼女の頭を撫でた。よく見ると、彼女もノノハも目が赤く腫れていた。

「いい。俺が話す」

そんな彼女らを見かねてカイトが前へ出す。

「…正確に何が起きたのかは、たぶん誰も分からねぇ」

彼はこう切り出した。

「状況から見て事故が起きたのは間違いないって警察は言ってたけどな」

「けど?」

ソウジが反復する。

「どうしてか目撃者も誰1人としていねぇし、何より事故に遭ったはずの本人がいねぇ」

カイトの言葉を聞きながらソウジは考える。どうして、彼はいなくなってしまったのだと。

「本人がいないって…」

「どこ捜しても見つからねぇんだよ、あいつだけ…」

これだけの人数が広すぎない部屋の中にいるというのにそこは静まり返っていた。誰かの言葉が終わると言い様のない嫌な沈黙がその場を支配するのだ。ソウジはいてもたってもいられなくなった。大抵のことは冷静に対処できるはずの彼でも、こればかりは冷静さを欠いていた。

「誘拐とかは」

「わかんねぇよ」

「…じゃあ自分でどこかへ消えたとでも?」

「………わかんねぇって言ってんだろ…」

カイトは何を尋ねられてもただ首を横に振るだけだった。
そんな彼に焦れて、ソウジは彼の襟首を掴んだ。

「先輩!やめてください!」

いきなりのことにミハルやノノハは息を呑む。キュービックがソウジの腕を引っ張った。しかしソウジは動じずにカイトを睨み付ける。カイトの方も真っ向から彼をにらみ返す。
ただ1人、アナだけが静かに彼らを見つめていた。

「…………どうしてっ…」

カイトを掴む手が震える。声もわなないた。膝が笑って崩れ落ちそうだったがなんとか耐える。

「どうしてそんな…」

「ソウジ」

ソウジが震える口を無理矢理動かして言葉を並べている時に、長い間沈黙を守り続けていたアナが彼に向けて口を開いた。

「ソウジの気持ち、すごくよく分かるよ」

突然入ってきた彼に皆、驚き思わず彼の方を見てしまう。

「でもね、みんな悲しいの。認めちゃった訳じゃない、諦めちゃった訳でもない。ただみんな、ギャモンに会えなくてちょっと寂しくなっちゃっただけ」

その言葉にソウジははっと目を見開いて、それからじわじわと眉を寄せる。口を開くが言葉が出ない。力強く引き結んでからもう一度開いた。

「……ごめん」

それだけ言うとソウジはカイトを解放しふらふらと部屋を出て逆之上家を後にする。もうあの家にいたくなかった。あの部屋の空気すら吸いたくなかった。
思い返すだけで身震いする。
どうしてだと、何度でも思う。何だあの空気は。カイトやノノハたちのあの空気は。アナはああ言ってはいたが。どうしてだ、まるでもう……諦めてしまったかのような空気は。諦めてしまったのだろうか、彼は、ギャモンはもう戻ってこないかもしれないと。
ソウジは自宅へ帰ろうと踏み出しそして立ち止まった。彼が歩いていこうとしているのは、紛れもなく事故が起きた場所の方角だ。ソウジはすぐさま向きを変えた。ここへ来るときも事故現場付近は避けて通ってきた。ソウジはその方角の反対側に向けて歩き始めた。
歩きながらどうしてだろうとソウジは思った。涙が、出ないなんてとミハルやノノハの姿を思い出しながら。






事故から実に2週間が経って、ソウジはあれからぼんやりと日々を過ごしていた。その内に本当に気が付いてしまった。
例えば朝、学校で。いつも言うおはようの数が1つ少なかったり。例えば帰り道、いつもは隣に彼がいたのに、もうずっと両側が空いている日々が続いているとか。そういえば最近、バイクにも乗ってないなぁなんて思ったりどこかへ出掛けることもしていないなぁなんて。思い始めたらきりがない。浮わついた意識のまま足が向いた方へただ歩いていく。
カイトたちはそんなソウジの様子を見て心配するように何度か声をかけた。しばらく休んだらどうかとも提案したが、ソウジはただ力ない笑みを浮かべるだけであった。
ずっと無意識に歩き続けていたソウジは不意に自分がある場所で立ち止まっていたことに気付いて我に返る。そこはあの、彼がいなくなった場所だった。
ソウジは事故以降、初めてこの場所に来た。事故の痕跡なんてものはもうほとんど残っておらずそこは以前と変わりない場所だった。
じっと道路を見つめる。車が走っていく合間に、路面のブレーキ痕が見える。これはきっと彼のだとソウジは悟った。

(あれ……)

そこでソウジはあることに気付いた。

(この道…。ギャモンくんが家に帰るならこの道をまっすぐ行くのに)

ミハルに聞いた話だと、時間からしてパズル雑誌の会社から家に帰る途中での事故だということらしかったが、これでは家に帰るには遠回りをしてしまう。ギャモンの家へは通りを曲がらず直進する、しかし事故が実際に起きたのは通りを右に曲がったところだ。

「え…………」

瞬間的に血の気が引いて彼は青ざめた。気付いたのだ、ギャモンが角を曲がった意味に。
まさか、と口が無意識に動いた。けれど、そんな。ソウジは否定するように首を振った。

(この道の先に何があるかなんて…)

ギャモンが遠回りをしてでも立ち寄ろうとするところなどこの道の先には1つしかない。

「僕の、家に……」

言葉にした途端に、何かが切れた。
ソウジは歩道の真ん中に崩れ落ちた。
彼が立ち寄りそうな場所。正直それしか浮かばない、けれど今まで彼が仕事帰りに寄り道をして家に来たことなんてなかった。でも。それじゃあ。どうしてあの日。
たまたま、寄ってみようとでも思ったのか。それとも会いたいと思ってくれたのか。
彼は、あの日、ソウジの家へ向かおうとしたのだ。

「ぁ……う、っ…」

うまく言葉にできなくて嗚咽ともとれるような声が空しく宙へ転がった。喉元に手をやる、苦しい。
何故だろう、今までそんなことしてくれなかったくせに。どうしてよりによってあの日に、立ち寄ろうだなんて思ってしまったのだ。
あの日、ソウジに会おうだなんて思わなければギャモンは事故になんて遭わなかったというのに。
その事実を受け止めた瞬間にぴた、と頬に水滴が這う。
雨だった。
ソウジは空を見上げる。降りだしてくる雨に、丁度良いと思って彼は笑った。可笑しいことなど何もないのに、それはそれは驚くほど自然に笑顔を浮かべることができた。

「……ねぇ……僕、待ってるから」

突然降りだしてきた雨に人々が慌ただしく道を駆けていく。
ソウジは頭の隅でぼんやり考えた。もしこんな状態の僕を彼が見付けたらどうなるだろうか。すごい形相で僕の方へ走ってきて、馬鹿かって言って殴って。それから傘を差し出して僕の腕を引いて、並んで歩いて、それから。……それから。
濃い意識の霧の向こうへ、彼は消えて行った。

「ずっと待ってる。だから…………」

事故が起きてから今まで、泣くことなんかなかったのに。冷たい雨の中、頬に一筋熱い滴が伝った。喉が震えた。

「だから……ちゃんと僕に会いに来てよ」

今まで恐らく無意識に泣くことを拒否していた。それはやはり泣いてしまったら、ギャモンがいないという事実をどこかで受け入れてしまうことになるからだ。
でも、今なら。空が泣いている今だけは、僕が泣いていることに誰も気付かないんじゃないか。と、昔どこかの詩人が言っていたことを思い出しながらソウジは静かに涙した。
そしてその日、彼は決めた。ギャモンが帰ってくるまではもう泣かないと。認めることなどしないと。彼はただ、ひたすらに待ち続けるのだ。
雨は一層、激しさを増していた。






「ずっと待ってる、か…………」

現在、28歳となったソウジは無意識に呟いた。
今でも鮮明に覚えている。途方もない暗い感情に押しつぶされそうになっていたあの頃。それでもソウジはあの日以来、一度も泣かずにここまで来た。
ソウジはスーツの袖を捲り時計を見た、そろそろだ。
妙に緊張した。まるでこれから初デートでもするかのような面持ちだ。

『もしもし』

受話器から聞こえてきた声にうち震えた。あれから10年だ。けれど、忘れるはずなどない。ふと空を仰いだ。今日は、快晴だ。雨が降る気配すらない。
ソウジは顔を上げた。

「今日は…泣けるかな」

陽射しが眩しくて目を細める。
あの日以来、ソウジはこの10年間一度も泣いていなかった。泣かずにここまで来た。
実に、長かった。会えない日々が。けれどそれは、すぐに終わるのだ。
あれほど待ち望んでいた時が、目の前にあるだなんて実感が湧かない。

『もしもし』

『ギャモン、くん?』

『…………せん、ぱい……』

『……………………』

『………………や、あの、』

『ギャモンくん』

『……はい?』

『……これから、会えるかな』

待ち合わせの時間は、もうすぐそこまで来ていた。
けれど。
ソウジの胸には喜びの感情とはまた別の、とある感情が重たく渦巻いていた。

「……ごめんね」

耐えきれずに溢れた言葉は、彼以外が聞くことはなかった。











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ギャモンがいなくなった後のソウジのお話もちょろちょろ出せたらなとか思ったので今回は過去編でした。
そして最後が謎な感じですがそれはまた次回あたりに分かるんじゃないかなとか思います。予定は未定ですww