3


あれから一言も喋らなかった。鏡の前で放心しているギャモンを見付けた男たち、いや、カイトたちが彼を部屋へ連れ戻しても話し掛けられても、ギャモンは何も答えることができなかった。
後から知ったがギャモンがいたのはどうやら病院のようだった。彼が目を覚ました時にいた女性は看護婦らしい。しかし彼はそう言われるまで病院だとはまるで気がつかなかった。事態が急すぎてあまり周りを気にしていなかったせいもあるが、一番大きかったのは10年前の病院とはまるで違っていたからだった。しかもそれは、病院だけではなかった。
ギャモンが目を覚ました数日後に、当時事故に遭ったにも関わらず健康状態には異常がないと診断されたため彼はミハルと共に自宅へ戻った。ミハルはもう車に乗れる歳になっており、ギャモンを車の後部座席に乗せて家まで向かった。ギャモンは窓から見える景色に目を見開いた。今まで彼が住んでいた街並みはどこにもなかったのだ。見知った家も店もビルも、塗り替えられたのか建て替えられたのかそれとも違う建物に変わってしまったのか、そこはもう違う街に変わっていた。
10年。それだけの時間で、こんなにも変わってしまうものなのか。
ふと前に視線を移すとミハルの後ろ姿が見えた。彼女は黒い髪を肩に流しており立派な大人の女性のように見えた。ギャモンは知らずため息を吐く。
彼女はもう、彼の"妹"などではなくなってしまったように見えた。
そう感じてしまったことが妙に物悲しくて、彼はまた窓越しの世界に視線を逸らした。





ミハルはギャモンを彼の部屋まで連れてくると「私はリビングにいるから」と言って気まずそうに部屋を出ていった。ぱたん、と扉が閉じる音がして彼はそれと同時にベッドに倒れ込んだ。彼の部屋だけは10年前と変わらなかった。きっとミハルはギャモンがいなくなってからずっと、彼が無事に帰ってくるのを信じて待っていたのだろう。
今ごろミハルも複雑な思いを抱えていることだろう。10年ぶりに発見された兄がまさか、いなくなった当時の姿のままで発見されるとは思ってもいなかったはずだ。まあこんなことは誰も予想などしていなかっだろうが。
未だに、全てが信じられなかった。こんな非現実的なことが起こるだなんて。
漫画や何かでよく見るタイムトラベルとこの状況とは少し違う気がする。タイムトラベルとは、ある人物のみが時間の概念から独立して過去や未来へ行き来することを言う。だからもしギャモンがタイムトラベルをしたとしたら、同時に10年後の彼自身も存在しているはずだ。時間から切り離されて独立したのは10年前の彼という存在のみであるから。
しかし、これは違う。あの事故以来、逆之上ギャモンという人物は今までずっと行方不明だったのだ。
ギャモンは半身を起こした。
部屋の中はやはりいつも彼が過ごしていた空間とは変わらない。逆に言えば、ここ以外はギャモンの知らない世界ばかりだった。
立ち上がって室内をぐるりと回ってみる。こうしている間は、周りが10年経っただなんて思いもしないのに。

(いや、周りがおかしいんじゃなくて俺がおかしいのか)

無意識にため息が増える。
病院でカレンダーを見たがやはり年号はギャモンの思っていた年より10年経っていた。これだけ思い知らされては信じるしか、というよりも受け入れる他なかった。確実に、おかしいのは過去のままの姿でこの世界にいる自分自身だった。

「……、……ー…、」

ふと耳を澄ますとリビングの方から話し声が聞こえてくる。ミハルの声だ。
客なんていただろうかと不審に思いギャモンはゆっくりと扉を開けて廊下を覗く。

「……え、…で……はい」

聞こえてくるのはミハルの声のみだった。ということは彼女は電話しているのだろう。
なんとなく気になってギャモンは廊下を歩いてリビングの前まで移動する。

「はい…はい、そうなんです」

ここまで来ると声がよく聞こえるようになる。ギャモンはノブに手を掛けた。

「ええ、今は部屋に。幸い健康には異常ないみたいです」

ミハルの言葉にギャモンの動きが止まる。
言葉の意味から推測する限り、もしや話しているのは自分のことではないかとギャモンは扉を開けるのを躊躇った。

「いえ、そんな。でも…無事に戻ってきてくれて良かったです」

彼女の言葉を聞いてなんだか気恥ずかしくなってきた。ギャモンは何度か躊躇ってからやはり開けるのはやめておこうかと扉に背を向けた。しかし、次の彼女の言葉に彼は驚愕するのだ。

「はい。兄は大丈夫ですから…。心配してくださってありがとうございます、ソウジさん」

最後に出てきた名前を聞いた瞬間、ギャモンはばっとリビングを振り返った。それから先のことも考えず勢いで扉を開けた。ミハルが驚いてそちらを見る。

「…お兄ちゃん…!?」

「……………………………」

ミハルがギャモンを呼ぶのに対して彼は何も反応できずにいた。
ミハルの口から発せられた名前。それを聞いた途端に何も考えられなくなった。気がついたら彼の身体は勝手に動いていたのだ。

「お兄ちゃん?」

ミハルが何も言わないギャモンを見てまた呼び掛ける。すると急に何かに気付いたかのように受話器を持ち上げそこに向けて話し始める。

「あ、す、すみません!……え?あ、いえ…今、兄が…」

ギャモンの頭の中は、ある人の名前で一杯になっていた。事故の直前までずっと考えていた、あの人について。
事故に遭ってから、あの人はどうしていたのだろうか。ミハルと電話していたなんて。もしかして、俺を、心配していてくれた…とか。
色々な感情が混ざりあい体内を駆け巡る。沢山ありすぎて、何を思い感じているかすらわからないくらいに。

「…お兄ちゃん、」

ミハルが伺うようにギャモンに受話器を差し出した。心臓が跳ねる。

「ソウジさんが、お兄ちゃんに代わってくれって」

ミハルの言葉を聞きギャモンは彼女と受話器を交互に見る。口の中が渇いて言葉が出てこない。それでも、受話器に向かって手を伸ばす。
無機質なそれを耳に押し当てた。

「………もしもし」

やっとそれだけ言うのが精一杯だった。たった一言しか言っていないのにもう卒倒してしまいそうだ。

「…ギャモン、くん?」

受話器越しに聞こえた声に思わず受話器を落としそうになる。
ああ、この声だ。
あの時会いに行きたかった人の、声。
軸川ソウジの声だ。








-----------------------------------------
あんまこの先のこと考えてないんでちょっと完結できるか不安になってきました(笑