スタマイ*短編 | ナノ

槙慶太『数センチメンタル』前編

恋人になったばかりの会社の部下
『答え合わせ』の続編

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そういえば痛いと思って左腕を見ると、数センチだけ傷ができて血が流れていた。多分、避けきれなくて男の持っていたナイフが掠ったのだろうけど、それにしてはそこそこ痛いし、血が止まらない。
(ああ、ミョウジが泣いてるのはこれが原因か)
一緒にいた彼女は道端に座り込んだまま泣いていた。てっきり恐怖で号泣しているのかと思ったけれど、いや、それでも充分か。
「ミョウジが無事でよかった。今日は…家に帰った方がいい」
右手で彼女の頬に伝う涙を拭ってやる。指先が顔に触れた瞬間、彼女はビクリと体を震わせた。ゆっくり目を開けると視線の先には俺の左腕の傷口にあり、また涙を溢れさせる。泣くなら見なければいいのにと思うが、どうしても見てしまうのだろう。
結局彼女は、心配だと病院に同行し、そのあと俺の自宅まで看病に訪れ、そのまま泊まり込みで俺の世話をしてくれた。そんな彼女は健気で愛らしい。そうやって惚れ直す度に、俺の内側に重たい何かが生まれてくるのを感じた。いいや、元々あったものじゃないか。どうして…
どうして忘れていたのだろうか。
こんなつもりじゃなかった。何浮かれてんだ、俺は。
忘れてはいけない。俺の置かれた立場を。この体質を。
これくらいならっていつも探して、距離をはかるのに。
簡単に、距離を詰めてはいけないのに。
傍にいたいと思ってしまうのは、彼女に特別な感情が働いてるから。
だから、絶対に彼女に傷をつけさせない。絶対に守る。
そう決めて、俺は咄嗟に男に立ち向かった。
自分で蒔いた種とは言わないが、きっと俺のこの体質のせいで彼女を危険な目にあわせることになったのだろう。
(もう、これ以上は)
そう思いながら、俺は数センチ離れた隣で、泣きながら眠る彼女を抱きしめてやれずに目を閉じた。



仕事終わりに全フロアを見回りして戸締りを確認すると、俺はエレベーターに乗り込んだ。どこの部屋ももちろん真っ暗で、今日も俺が最後だなと思っていると、下に降りる途中でエレベーターのドアが開いた。
「あ、お疲れ様です、槙さん」
「お、おう、お疲れ」
別に毎日見てる顔なのに、思ってもいないところで会えると嬉しいと感じる。彼女も同じように思ってくれているのか、社交辞令かはわからないが、嬉しそうに笑顔をこちらに向けてくれていて、それがまた可愛い。
彼女が乗ってきて、何を話していいかわからず沈黙が生まれてしまった。下に着くまでそんなにかからないはずなのに、なんだか長く感じる。何か話さなければと思わず口を開いた。
「明日、予定空いてるか?」
何も考えていなかったわけじゃない。ただ、仕事が終わったのに仕事の話をするのもどうかと思い、明日の休みは彼女はどうやって過ごすのか気になって言葉に出たのがこれだった。しかし、デートに誘いたいみたいに聞こえたかもしれない。完全に聞き方を間違えた。
「え…明日は、ちょっと友達と約束してて…」
「あー、そう…だよな。久しぶりの休みだし」
(何を聞いているんだろう俺は…)
そりゃそうだろう、あれから3ヶ月も仕事で時間が合わなかったわけだし、今更デートに誘われても…彼女にそこまでの気持ちは残っていないかもしれない。期待してた自分がいることと、思ってたより断られたダメージがでかくて混乱する。
「あの、でも」
「いや、空いてればと思っただけだから、無理しなくていい」
丁度エレベーターが1階に到着して降りようとしたとき、引き止めるように右手が包まれた。驚いて反射的に彼女の方を向くと思ったより近く、数センチ離れただけの距離に真っ赤な顔があった。
「でも今日なら!このあと、空いてます…」
一瞬、思考が停止するが、じわじわと嬉しさが込み上げてくるのを感じて恥ずかしくなる。
(今、絶対顔赤い)
「あ…!」
エレベーターが閉まりそうになって慌てて彼女の手を取り、エレベーターを降りた。
「大丈夫か?ごめん、ちょっと驚いて」
「私こそ、急に手を掴んでごめんなさい…」
「いや、それもだけど…うーん、なんでもない」
掴んだままの手をやんわり解いて、気づかれないように深呼吸する。パッと彼女の方に振り向いて仕切り直そうと提案した。
「じゃあ、食事でも行くか?」
俺の提案に彼女は嬉しそうに「はい」と答える。その笑顔になんだかこっちも絆されて口元が緩んだ。
二人で車に乗り、近場のレストランに向かう。車の中で他愛も無い世間話をしながら、3ヶ月ほど前の自分達を思い出した。そう、こんな感じだ。こんな感じで全然話せている。いつもくだらない話から、どうしても性格上どちらからともなく仕事の話になってきて、あぁまたって笑い合う。そんな話をよく、まだ俺達が互いの想いを伝える前からしていた。
レストランに入って食事を始めてからも会話は続く。彼女はずっと笑顔で俺を見て話していた。気を使っているのかと思うくらい、なんだか一生懸命に口を動かしていて、ああ、いや違う。互いに心の奥底にある感情に触れないように、喋り続けているんだ。これは、不安を隠すように彼女は笑顔を崩さない。そういう顔だ。
「ワイン、飲むか?」
「え…?」
席について、急に話を遮ったからか驚いた表情で彼女はこっちを見る。他意はない、ただ飲み物でも飲んで口を休めたらと思っただけだ。けれど、車を運転する俺が酒を飲めないのに、彼女には飲ませるっていうのは、彼女自身も気が引けるだろうし、俺は彼女を酔わせてどうするつもりなんだと、言ってから気づく。
(食事だけして帰ろう…そうしないと)
「悪い…なんかずっと喋るから、喉乾いてないかと思って」
「ごめんなさい私…なんか嬉しくてつい」
そう言って彼女は頬を染めてはにかんだ。
結局、彼女もワインは飲まずにノンアルコールカクテルを二人で注文した。食事をしながらも会話は続き、また仕事の話になったりしながら二人で笑う。テンションが高い。ああ、うん、そんな感じだと思う。ノンアルコールなのに酔ってるときみたいに少し声が大きく、リアクションも大きくなる。らしくない。こんなの俺らしくない。そう思うけど、頬は熱い。それは彼女も同じなのか、顔を見ると頬を染めて笑うんだ。
(…可愛い)
本当に酔ってしまいそうになるから、俺は時折窓の外をなるべく見るように食事を進めた。

会計時に一万円札を2枚カルトンの上に置くと、横からスッと手が伸びてきた。1枚を抜き取り、代わりに端数分の千円札と小銭が置かれる。
「いいよ、俺が出すから」
「また、美味しいご飯に連れてってください」
そう言って彼女は笑顔で1万円札を俺の手に握らせた。彼女のその行動を見て、いつもやってるのかと感心する。プライドを傷つけることなく男の負担を減らし、その上、次があると期待させるようなことを言われれば、惚れる男も少なくないだろう。だから感心する反面、ちょっとだけ心配になった。

車に乗り、シートベルトをしめる。彼女の家は知らないが、電車で何駅か離れているだけと以前言っていた気がする。とりあえず、駅の方に迎えばわかりやすいと思い、車を発進させた。
「カーナビに住所入れてもらっていいか?」
前を見ながら彼女に指示する。しかし彼女は車に乗ってから、何故か一言も喋らずに少し俯くような感じで視線を落としていた。
「どうした?」
もしかしたらと思い、一度車を道の脇に停めた。彼女を見ると、何故かそっぽを向かれてしまい、心配になる。
「もしかして、具合悪いのか?だったら」
「あの…帰りたくないって…言ってもいいですか?」
少しここで休んでからと言いかけて、彼女から予想外の言葉が飛んできた。相変わらずそっぽを向いたままではあるが、窓ガラス越しに彼女の思い詰めた表情が見えてドキッとする。
(帰りたくないって…)
彼女はその言葉の意味をわかっているのだろうか。この、恋人と言い難い曖昧な関係でのこの言葉は、どう受け取るのが正解なのかわからない。そして、また期待してしまう自分がいることに俺は気づいていた。
「ごめんなさい。困ってしまいますよね」
何て返事をしようかと迷っていると、沈黙が長かったせいか、彼女は振り返って謝り、ニコリと柔らかい表情をした。そのまま話が続くのかと思いきや、彼女は突然シートベルトを外し鞄を手にとる。ドアに手をかけ、もう一度俺を見て呟くように言った。
「でも…嘘つきたくなくて」
彼女は目に薄らと涙を浮かべて、瞳を揺らしながら俺を見つめる。そして、すぐにニコリとまた笑顔を作った。
「帰ります。駅も近いんでここで大丈夫です。今日は、ありがとうございました」
最後まで笑顔を崩すことなく言い切った彼女は、ドアを開けて降りて行った。突然の行動に呆気にとられ、思考が鈍る。彼女に…彼女にお別れを告げられたような、そんな気分だった。
無言でやり過ごした時間が彼女を傷つけたのは明白だ。きっと彼女もこの先の俺達の未来に期待してくれていたんだろう。少しでも、お互いの気持ちが繋がれたことが、俺だって幸福で、嬉しくて、幸せだった。できることなら、もう一度ちゃんと、彼女を自分の腕の中に。そう思いながら、何かが萎むように俺は落ち着き始めていった。
「はぁ…」
深くため息をついた。
これでいい。これで、彼女を巻き込まなくて済む。何かに巻き込まれて、いつどうなるかわからない俺の人生に彼女を巻き込みたくはない。今日、彼女を抱いたら、もう引き返せなくなる。これでいい。俺達の関係はただの上司と部下に戻るんだ。
そうして、俺は去っていく彼女を見届けようと車を降りる。彼女が歩いて行った方を見ると、声が聞こえそうなほど、顔を何度も手で拭っている彼女の後ろ姿があった。大の大人がそれなりに人通りのある道で泣きながら歩いている。その情けなくて異様な光景が、少しおかしくて目が離せない。そしてこんな時間に夜道を泣きながら歩いていたら、変な男に声をかけられるのではないかと心配になった。
(ああ、もうしょうがねぇな)
その心の呟きは、自分にも言い聞かせるように、重く深く体に浸透する。
「ミョウジ!」
大きな声で彼女を呼ぶと、彼女は俺の声に反応して足を止めた。振り向く前にと思って、俺は数メートル離れた距離を走って彼女の元へ駆け寄る。そして、俺がめちゃくちゃにした彼女の顔ごと腕の中に抱き寄せた。




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