スタマイ*短編 | ナノ

瀬尾鳴海『もう一度』

淑央大学の職員。生物学の新米助教授。
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先日借りた資料を返すため、ミョウジ先生の研究室へ足を運ぶ。ドアをノックして名前を告げると、彼女は明るい声で返事をして笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちは、瀬尾先生。今日はどうかされたんですか?」
「こんにちは。先日借りた資料を返却に。ありがとう、とても面白い内容だったよ」
そう言って資料を返し、少しだけ研究の話をする。彼女が専門としている生物学は俺が研究する心理学との共通点を見出すことができると思い、資料を借りていた。生物のあらゆる働きが、心理とどう直結するのか、とても興味深い。
彼女に追加の資料をお願いして、俺は近くにあったソファに促された。遠慮なくそれに甘えて、少しの間座らせてもらうことにする。ぼんやりとしていたこの後の予定を手帳を開いて確認しながら、ふと外に視線を向けると窓の縁に風鈴がかけられていることに気づいた。冷房の風があたって微かに揺れるそれは、チリリと小さく音をたてている。
「おや?こんなところに風鈴があるんだね」
「ああそれ、私が付けたんです。風鈴、けっこう好きで」
「去年、どこかでこれを見たような気がしたんだけど」
そう言いながら、鞄から去年の手帳を出して開いてみる。パラパラとページを捲り、去年の夏の予定を確認すると、『研究室のみんなでお祭り』と書いてある日があった。
「お祭り…」
「もしかして、風鈴回廊ですか?私も去年、見に行きました」
「ああ、それかもしれない。”色とりどりの風鈴が空と壁の一面に並んでいる”って書いてある」
俺の話を聞いて、彼女はパソコンを操作する手を止めて少し不思議そうな顔を向ける。はたから見たら俺のこの症状は、不思議なものに違いないだろう。
「覚えてないんですか?」
当然、この様な質問がされるわけで、こういう時、俺はなんて答えようか悩んでしまう。俺の体質を説明すると相手が心配したり、距離を置かれてしまう可能性はあるから、当たり障りのない返事をすればいいのだけれど、どうしてだろうかいつも素直に答えてしまうことの方が多い気がする。
「…そうだね。余程、綺麗だったんだろうか、すっぽり消えてしまったみたいだ」
無駄だとわかっているけれど、もう一度頭を巡らせ記憶を辿る。やはり当時のことは何も思い出せず、ただ手帳から得た”お祭りに行って風鈴回廊を見て回った”という情報のみが、頭の中に蘇ってきた。どうして行くことになったのか、確か…それも思い出せない。けれど、少なくとも俺が提案したことではないだろうと、これは研修室のメンバーのそれぞれの性格を考えて思った。
(郁人くんも違うだろうな。郁人くんはああいう場所が、あまり好きではないからね)
手帳のページを捲ると誰と行ったのか、どこを回ったのかがしっかりとした文字で書かれている。そういう出来事の概要だけならそこまで忘れるような内容ではなく、こうやって目印となるキーワードを書いておけば、その時に起こった事を思い出すことが可能だと、少し前からわかっている。問題はページの端に薄らとしたバランスの悪い文字で書かれた覚え書きの様な何かが、いったいなんなのか思い出せない。おそらく、俺がその時に何かを見て思ったことなんだろうと推測はできるけれど、確証はない。そして改めて、どうして忘れてしまったんだろう、忘れたくないのにと思ってしまう。
「私も、忘れられたら良かったな」
資料を印刷するためにパソコンを操作する彼女は、不意にそんなことを呟いた。今この部屋に、同じモノを見て正反対のことを思っている人間がいるのというのは、なかなか興味深い状況だ。俺は手帳を捲る手を止めて彼女に理由を尋ねた。
「…どうして、そう思うのか…聞いてもいいかな?」
以前見たであろう景色を忘れたいのは、彼女にとって嫌なことがあったからだというのは、推測がつく。言いづらいことなら、無理に聞かない方がいいけれど、なんとなく、話してくれそうな気がして、聞かずにはいられなかった。
「去年は、元彼と約束して行ったんですけど…結局、風鈴回廊は一人で見ることになってしまって」
思っていた通り、案外素直に話してくれた彼女は、苦い記憶をわかりやすく言葉を並べて話す。それは彼女の中でそれくらいコンパクトに収めた思い出なのか、はたまた何度も友人や親しい人間に話をしてきたのか、どちらともとれる雰囲気を纏っていた。
「なるほど…」
「不思議ですよね、忘れたいのにこうやって、この部屋の風鈴を見つめては思い出して感傷に浸って」
彼女の風鈴を眺める横顔を見ると、薄らと涙を浮かべているように見えた。太陽の光の反射で、潤んだ瞳が揺れているのがわかる。今彼女が言ったように、”感傷に浸っている”最中なのだろう。過去の思い出を振り返り、感情を思い起こして浸るなんて、俺にはできない。きっと、ほとんどの人間がこれをやることができるのだろうけど、俺には難しいと思いながら、彼女を見て俺はメモを走らせる。また消えてしまいそうな気がして。
「それは、少し違うんじゃないかな」
「え?」
「君は、多分忘れたいなんて思っていない。どうしようか悩んでいるんだと思うよ。だから、何度も風鈴を見つめては思い出す」
忘れたいと思っていても、忘れられない。そこに何かを残す行為は、それを忘れたくないから。いつでも思い出せるように目印としてそれを置く。それは、今俺の手の中にある手帳のように。
「心理学的に見て、そうだということですか?」
「心理学は関係ないよ。覚えていれば、何か行動を起こすことができる 。相手との関係に可能性が増えるという話だよ。だから…」
(忘れない方が絶対にいい。なんてはっきり言うのは、不躾だろうか。いや、俺が言いたくないだけだな)
残しておけば、記憶が消えてもその後どうすればいいのかがわかる。郁人くんが、仕事の引き継ぎ内容をメモしておいてくれているのと同じで、俺のこの手帳の役割はそういう過去と今と未来を繋ぐための報連相に近い。事務的に言ってしまうと少し寂しいと感じるかもしれないけれど、あの風鈴だって彼女にとっては過去と今と未来を繋ぐために付けられたのだろう。その”元彼”とどうなりたいのか…忘れてしまえば選ぶことすらできない。
「可能性が増える…ですか」
俺の言葉を聞いて、彼女はイマイチ分からないといった様子だった。具体例を挙げるべきだろうかとも思ったけれど、それはなんとなく嫌だなと何故か感じる。それはきっともう少し、今の彼女を見ていたいのだろうと客観的に思った。
彼女はもう一度ゆっくりと風鈴に視線を向けて、少し首を傾げている。その悩ましい表情が、人間らしくてとてもいい顔をするなと、俺は口元を緩めた。こういう気持ちをなんて言うのか。
(愛おしい…とか)
また自然と、手帳にペンを走らせる。胸の内に込み上げる感情の正しい捉え方が分からず、少しばかりぎこちない表現の曖昧な言葉を並べた。
「今年もやるのかな?」
「え…っと、そうですね。確か、今年も8月中旬だったような」
彼女は慣れた手つきでパソコンを操作して調べてくれる。数秒で画面には彩やかなお祭りのホームページが表示され、スクロールすると”風鈴回廊”の文字がうつった。
「もしよければ、付き合ってもらえないだろうか?」
「え…?」
「どんな景色だったか、もう一度見たくてね」
もう一度、記憶を辿るように同じ場所へみんなと行けたらと正直な想いを口にする。俺の言葉に、彼女は何かを懐かしむようにふわりと笑っていた。その笑顔になんだか心が揺さぶられる感覚に陥る。そして、ぽろぽろと不思議な想いを乗せた言葉が落ちてきた。
「忘れる必要はないよ」
それは何か大切なものを守るように、自分の声帯から温度の高い声となって出てくる。
「ただ…今年こそ、思いっきり楽しんだらいいんじゃないかな」
彼女に届ける声と一緒に、手がまた手帳を開いてさらさらと文字を書き始めた。何度も思い出せるように綴る。そして俺の手帳は、こうやって書き込みが増えていく。
「そうですね…。楽しい思い出、作りたいです」
彼女は明るめのトーンで答えたのとは裏腹に、今度は困ったように微笑んだ。でもやっぱり思考は前向きで、俺の誘いを引き受けてくれた様子。それに対して「ありがとう」と答えると、彼女からも何故か「ありがとうございます」とお礼の言葉が返ってきた。
ホームページの日時を見ながら、日程を組み立て、後で研究室のみんなにも予定を確認しようと思い、手帳に予定を書き込む。書き終えて、しおりの紐を挟んでいたページを開くと、『愛おしい』と読めるバランスの悪い文字が書いてある。おそらく今さっき書いたものだけれど、何を見てそう思ったのか、俺はもう覚えていない。けれど、風鈴を見て何か思い出せそうな気がする。それから、今新しく予定を入れた8月中旬のカレンダーをもう一度見つめると、彼女の名前と『風鈴回廊』の文字があることから、きっと彼女が関係しているのだろうと推測ができた。
(この日になればもう一度見られるだろうか)
ぼんやりとそんなことを考える。この感情の原因はわからないけれど、俺は窓に付けられた風鈴を見て、段々と当日が楽しみになってきた。彼女もまた、風鈴を見つめている。その横顔は、薄らと涙を浮かべているように瞳が揺れて、それにつられて俺も胸の内に何かが込み上げて、揺れている。
風鈴の音が響く部屋で暫く、俺たちは沈黙したまま、資料が印刷されるのを待つのだった。



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