だが美味い。人の手が俺の為に作る飯は格別に美味い。
「野菜も食えよ」
「それは草食のお前の主食だろう」
「阿呆。俺は雑食だ」
シュラの返しは微妙にポイントがずれる。いつもの事だがこのテンポ、悪くは無かった。
オシンコという付け合わせの胡瓜と茄子、大根はピクルスに少し似ているが甘く無い。僅かな酸味と塩気が効いていて中々に美味かった。
もう一つのニギリメシは酢を塗したかのように酸っぱいしわしわの梅が入っていたが、慣れるとその酸味が結構癖になる。酒の共にも出来そうだった。
仕上げは瓶に詰めた冷えた緑茶、これをまた丁寧に持参してくれたグラスに注ぎ、ひと心地着く。
白銀聖闘士、鷲座の魔鈴が日本人という情報も得られたので、揶揄ついで、近い内に日本食のレシピの幾つかを聞き出してみる気になった。
確か魔鈴はアイオリアと懇意にしていた筈、丁度良い。
「ご馳走様」
満腹は俺を人間に戻してくれる夢心地の時間だ。どうしても唇が緩む。
「……大丈夫か」
不意打ちの囁くような問い掛けが何を表しているのか、咄嗟には判らなかった。
「ああ……美味かったぜ、凄く」
漸く真意を掴み、正直な感想を述べてみた。
アフロディーテもシュラも、何等かんらと気遣ってくれている。俺なんぞには勿体ない思い遣りだ。
「いや、その」
シュラは緑茶のグラスを揺らしながらその視線を波紋へと落とす。
「些か、無理をしているのではないかと」
「……何の話だ?」
何やら俺の返答は見当違いだったらしい。
シュラは細く長く息を吐き出してゆっくりと顔を上げた。
女のような細い柳眉、人相の悪い三白眼だが、その分目尻の長い睫毛が際立つ。髪も瞳も黒の艶が濃いせいか、光の加減で深い濃緑にも見える。
普段の顰め面や厭味たらしい笑みを止めれば、それだけで大分穏やかな印象に変わるだろうに勿体ないと思う。
シュラは実直だ。太陽の下が似合う人間――月影の元に居る俺達三人でも、彼はやはり異質だった。
抱えている物から逃避する事もせず、沈黙の罪に加担しながらも磨き続けられるその剣に禍々しい死臭や毒気は無かった。
アイオロスが認めた才はこの黄道に相応しい輝きなのだろう。
羨ましい。そんな風に思う。
恨めしい。そんな風にも思う。
その彼に、力こそ正義だと耳元で囁き続けた俺は、引き金を引いた誰かよりも、今はきっと罪深い。
「飯は、食え」
シュラは漸く声を発した。
「夜更かしも、控えろ」
「やっぱり来たか、必殺お小言」
俺はけたたましく笑っていた。
多分今は泣きたかったのに、もう随分前に泣き過ぎてしまっていたから肝心な時に涙が出なかった。
「仕方が無いだろう。死人は夜に慟哭して俺を呼ぶのだから」
「その夜がいけない」
シュラは毅然とした態度で否定する。
夜でなければ慟哭に紛れる事は出来ない。
静かで穏やかな月影を思う事も出来ない。
彼はそんな俺の気持ち等少しも知り得ない。
「夜の、何が、悪い」
厭味をたっぷりと含ませ、テーブルに上体を預けるようにして乗り出し右の人差し指を揺らしてやった。
俺の指先には青白い燐光が灯っている。
死人を弄ぶこの禍々しい淡い光しか、俺は持ち得なかった。
本当の太陽の下に出てしまったらたちまちの内に掻き消えてしまうであろう微かな、ちっぽけな光。
「……判らない」
シュラは途端声を落とした。
「何だ、それ」
俺はまた笑って、少し安堵した。
あんなに気付いて欲しいと願っていた俺の鳴咽が悲鳴が、今となってはただの奇声が、シュラには届いていない。
――良かった。届いていなくて本当に良かった。
何故そう思ってしまうようになったのかは俺自身、本当のところは良く判らなかった。
落ちこぼれの精一杯の見栄なのかもしれない。
俺の心根の脆弱を、寂漠を、絶望を、醜態を、大罪を、黒い小箱に閉じ込めて、彼の真っ直ぐな眼差しから隠しておきたかったのかもしれない。
――その蓋を開く可能性のある人は、きっとただ一人しか居ないのだろう。
俺はその人を半ば諦めながらも、この広い邸宅の内たった一室を整え、死人を数えながら、未だ夜にぽつんと待ち続けている。
しかし、その小箱にも後少しで鍵が掛けられそうだ。
ひと度鍵が掛かってしまえば、それは二度と開かなくなる。
完全に葬り去る事が出来る。
少し。ほんの少しの何かの差。何かが足りないだけだった。
――全く絵に描いたような喜劇だ。
「……判らなくても、夜はいけない」
俺に笑われながらシュラはぽつりと繰り返した。
「時折、お前が酷く遠くなる」
奇声に近い俺の笑い声が、突然喉から消えてしまった。
「不意に消えてしまいそうで、きっと夜が悪いのだと思った」
不器用な言葉を重ねて彼は何を言いたいのだろう。
真実のところは何も交信出来ていない筈だ。俺すら俺がもう判らなくなっているのだから、他人に俺の真実が見える由もない。
なのに、気付けばこうして俺の前に居る。
来るなと何度言い聞かせても迷い込んだように現れる。
俺も――否、俺が、会いたくなる。
彼ならば俺を陽の下へ導いてくれるのではないかと。
けれど、それは俺と月の消滅を表している。
月の光も俺の燐光も、太陽の前では余りにか弱い。
――ああ、やはり俺は弱い。縋ってばかりで、何も変わっていない。何も出来ない。
青白い燐光は俺が指を拳の形に折り畳んだだけで消えてしまった。
「俺は此処に居るじゃないか」
手を頬杖に変えて双眼を向ける。視線が交差した。
「今は、居る。けれど消えてしまいそうだ」
真に消えるべき存在は、あの何もしなかった一夜から既に決まっていた。
今もし、惜しんでくれる者が居るとしたら、恐らくシュラとアフロディーテだけ。
それさえも時の流れが風化してしまうのだろう。
「……消えて……しまうか」
俺が陽の光に掻き消えたらどうなるのだろうか。
夜の月は本当に独りぼっちになってしまうのではないか。
それとも初めから俺は必要とされていないか。
やはりもう、とっくに忘れられたか。
それほど迄に、俺の存在は、瑣末か。
「……デスマスク」
通り名を呼ばれた瞬間、俺は正気に戻って再び狂い出したように笑い出していた。
「ハイハイ、とにかく飯を食って夜遊びを止めれば良いんだな、判った、お前の説教は良ーく判った」
「おい」
「帰れ。俺は寝直す」
俺は勢いを付けて立ち上がった。
弾みで床に転がっていた玩具の戦闘機を踏み潰し、派手な音が鳴る。何の感慨も湧かなかったのが酷く哀しかった。
シュラはその音に肩を揺らし、俺より遥かに動揺をして直ぐに俺の足元を見るようにして立ち上がり、壊れたのであろう戦闘機を認めると自分が傷付いたかのように顔を歪めた。
そして、まるで引き留めるかのように俺の腕を掴む。
「違う、お前は違うだろう、駄目だ」
「何が違うって言うんだ、何が駄目なんだ」
「判らない」
「判らないなら離せ」
「嫌だ、駄目だ」
全く噛み合わない応酬。
その掌は月のあの人程優しくはない。いっそ熱くて酷いくらいだった。



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