俺は血に塗れたシュラに心底戦慄した瞬間を何度も何度も思い返していた。
――人の死を、屍を乗り越えないと真の聖闘士にはなれない。
小さな脳味噌で漸く思い付いた方法は、まずは人の死に慣れる事だった。
殺された数多の浮かばれない人間の魂を俺自身に縛り付ける、至極身勝手な、非道。
その鬼畜にも劣る行為は俺のこの指先一つで容易く出来てしまう事だった。
死の境界線に立つ覚悟を決めた時、顔も知らない親から貰った名前を捨てた。
もう思い出す事はしない。きっと思い出すだけで罰当たりだろうから、その名前を汚さない内に葬り去る事は俺の出来得る最後の鎮魂の儀式でもあった。
討伐任務、最初の人殺しは自分で覚悟していたより余程呆気無いものだった。
俺が師から授かった闘技は魂への直接攻撃。
魂の行き先は冥界へと落ちる亡者の列、血も流れず悲鳴を聞く間も無く終わってしまう。
死んだのか、眠ったのかさえ俺には判らなかった。
その魂を冥界の穴に落ちる前に捕縛し、守護宮に死に顔として飾り付けてみたが、それでもやはり死の実感は希薄だった。
仕方無く彼等の顔を何度も何度も踏み付けて悲鳴を上げさせ続けた。
その醜く歪む顔と悲痛な声は、俺と共に研鑽しながらも短い命を散らしていった同胞の最期の瞬間に良く似ていて、漸く俺は死を手に入れる事が出来たと思った。
任務の度に死人は増える。
死は、常に俺を取り囲むようになった。
俺の呼称もいつの間にかデスマスクになっていた。誰が呼び出したのかは知らないが、名前は無かったから何と呼ばれても構わなかったし、寧ろ呼称が出来た事は有り難かった。
もう大分、気が狂ってきていたのだと思う。
聖衣は主の記憶を蓄積すると伝え聞くけれど、俺は先代の声も形も知らない。縋って耳を澄ませてみても聖衣は沈黙し、俺に応えようとはしなかった。
死人の顔を剥ぐ俺の纏う聖衣は俺の代で汚れて切ってしまうのかもしれない。いつかの時代、未来の蟹座が惨い宿命を背負う事になるのだろうか。
或いは、俺の以前、ずっと昔の蟹座の聖闘士が大罪を犯したが為に、俺がこの宿命を背負ったのだろうか。
それとも――これはもっとちっぽけな、聖衣の記憶の末端にも留まらない瑣末な事か。
時の流れでしか証されない、漠として曖昧な物だったが、既に聖衣の主になってしまっている俺には全てが今更だった。
俺はとにかく強くなければならなかった。
アテナの聖闘士は究極的には人殺しだ。
アテナの聖闘士が常に正義であったのなら、人を殺めた数だけ正義へと天秤が傾いたという事。
そうなるように装置を作り、誰かが引き金を引いてしまったのだ。
死人の顔は着実に増えて行く。
目に見える正義を集めればサガも気付いてくれるかもしれなかった。
死人に混じる俺の悲鳴と鳴咽に。
サガはあんなに、あんなに、優しかったのだから。


■ ■ ■ ■ ■


死人の顔を眺め、悲痛な叫びに聴き入る日常に漸く感情が麻痺して来た頃には、俺はもう十七になっていた。
朝の鍛練は七時からが慣例だが、俺は弟子も居ないし侍従も置いていないから、怠惰な睡眠を邪魔する者は居ない。
今朝も目覚めたのは十一時より少し前。糞真面目な他の連中はきっと鍛練の真っ最中だ。
俺の鍛練は夜、聖域が寝静まり死人の悲鳴が良く響くようになってから。
もう泣く事は無かったが、俺はやはり何かしらの声を発していた。
特に新たな死人を捕えた晩、月の光が穏やかな夜、俺の口は感情の無いまま勝手に何かを喚き散らしてしまう。
まだきっと何かが足りない。欠けていた。けれど後少しのようにも思えた。
だから通常の鍛練では足りなかった。安息日も任務から帰還した日も、夜は独り、守護宮に立った。
それに気付く人間等在りはしないのをこの七年で嫌という程に判ってはいたが、こうなってみると最早俺の奇声等醜態でしか無く、そんな無様を他人に曝したくはなかった。
もう少し眠ってから、村に降りて聖闘士最高位の肩書で適当に食料を巻き上げて来ようかと考える。
人の飯は必要最低限で良い。俺には腐った死肉が分相応、死人に囲まれていれば空腹すら感じない。
ぼんやりと混濁した意識の中で、俺の守護宮に近付く気配を感じ取る。
アルデバランではない。彼は先日、教皇宮に任務を報告したばかり。今はまたジャミールに遣いに行っている。
投獄された暫く後に慈悲深い偽物の教皇から恩赦を受けたアイオリアは、俺の守護宮を通過する前に、以前俺の元に仕えていた侍従――逆賊の実弟の監視の名目で俺が送り込んだ、アイオリアはそれと知らない彼――を遣わせる。
他の侍従もアイオリア自身も俺を疎んで避けているから、幼少期を知るが為に俺に抵抗感の少ない彼は遣いには適任だった。
――では、誰。
睡魔の誘惑に漸く打ち勝ち、寝台から身を起こした。眠い目を擦りながら未だ遠い気配に集中する。
――懐かしい、張り詰めた糸のような気配。
俺は慌てて寝台から下りた。
あれが来ると何等かんらとぶつぶつ小言を喰らって面倒臭い。他人との関わり合いは避けている癖に、根が真面目で頑固な性質だから、目に余ると口を出して来る。
守護宮に隣接する居住区は、ただ一室を除き完全に手入れを怠っているせいで、使っている執務室と寝室を含めた生活に最低限な場所さえも荒れ放題。
使っていない場所に至っては埃塗れで蜘蛛の巣さえ張っている。
園庭も野生の草花、要は雑草が無秩序に栄えている有様だ。
今から片付けてもどうせ間に合いはしないが、せめて起きていた風を装わなければ、彼は盛大に顔を顰めるかもしれない。
裸足で洗面所へ駆け込み、冷水で顔を洗って寝ぼけ眼を開眼させる事に成功した。
ついでに歯磨きを済ませ、寝乱れた髪は濡れた手で後ろへ撫で付ける。常より前髪が落ちてはいるが、やらないよりは幾分かマシだろう。
次に服。聖域で着用されている服は結び目が多くて正直余り好かない。かと言って一人異質な格好をするのも滑稽だ。
クローゼットを漁って取り敢えずその中でも着易い紺色のシャツとズボンを選んで、さっさと着替え、夜間着にしていた服は寝台に放った。
装飾的なベルトの革紐に手こずっている間にとうとう邸宅前に辿り着いてしまった気配、大扉からベルの音が響いた。
思念で呼び掛けないのは、敢えて耳障りな音で俺を目覚めさせようと企んだせいかもしれない。
彼は悪気無くそんな厭味を平然とする奴だった。
俺は紐を括らないままサンダルを突っ掛けて急ぎ扉を開けに行く。客人の訪問は滅多に無いが、こういう時ばかりは侍従が欲しくなる。全く我儘なものだ。
大扉を開くとそこに佇んで居たのはやはり、シュラ。
聖衣こそ纏っていないが、革ベルトを胸前で交差させ肩当てを留めている、聖域住人として模範的な出で立ちだった。
この時間、俺を訪れるからには恐らく安息日だろうに生真面目な事だ。
「寝起きか」
シュラは白けた顔で低く問い掛ける。
「いや。早く入れ」
俺は直ぐにばれる嘘を吐いてシュラの腕を引き半ば強引に中へと導いた。周囲に人影の無かった事を確かめてから扉を閉める。
俺の守護宮や居住区近辺に余りシュラを近寄らせたくはなかった。



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