戒厳令を敷かれていない現在、聖域には安息日が設けられている。
緊急召集が掛かる場合もあるし、安息日は交代制、十二宮の主がこぞって休暇を得る事は当然無かった。
地上侵略を狙う海界、冥界の本格的な動きは未だ確認されていない。
しかし、ひと度任務ともなれば大概の場合、死者が出る。
それは侵略者側の末端であったり、聖闘士最高位の俺の護衛等とほざいて呆気無く死んでいく同胞であったり、巻き込まれただけの力を持たない善良な市民であったりした。
死は簡単に訪れ、俺を通り過ぎようとする。
何を間違っても揺らがない強い力が欲しかった。
俺は死が、本当に怖かったから。


■ ■ ■ ■ ■


十の歳、俺の同年齢であるシュラに、逆賊アイオロスの誅殺命令が下った。
俺は、突然起こってしまった取り返しの付かない事態に何も、何も出来なかった。
憧れて兄のように慕っていたサガにいつものように飛び付き、甘えて縋る事も出来なかった。
サガは俺の敬愛していたサガではなかった。
鮮やかだった髪色自体が鈍く変色し、彼の物ではない教皇の法衣を身に纏い、まるで教皇のような振る舞いで、俺とアフロディーテを跪かせていた。
月の淡い光のように穏やかで優しかったサガは、そのぼんやりとした輪郭と影だけしか残していない。
サガは全てを包み込むような慈愛の人だったから、この絶望的な事態はきっと悪い何かのせいに違いなかった。
悪意ある怨念のような物がサガの温かな良心に付け入って彼を喰ってしまった。教皇シオンもそれに喰い殺されたのだと思った。
俺を守ってくれる人等、もう誰も、何処にも居なかったけれど、つい先迄庇護者だと信じていたサガから離反する事は考えられなかった。
弱い俺はそのくらい、常にサガの手で守られていた。
俺は、罪人が鞭を打たれ血を流し、悲鳴を上げる様にさえ怯え、サガのマントに隠れるような脆弱な子供だった。「目を背けるな」と叱責されてもとても正視出来なかった。
そんな不甲斐無い俺の肩にサガは触れてくれた。
胃の中身が無くなってもまだ吐いて、うずくまって震えて、いつまでも涸れない涙を情けなく零している時に、冷たい水を飲ませてくれたのもサガだった。
――悲鳴、呻き、血の臭い、死臭、腐臭。
聖闘士候補生時代、同胞との熾烈極める鍛練で、自分自身何度も死線をさ迷ったけれど、痛みや恐怖は到底慣れる物では無かった。
それは他人の物であっても同じ――否、尚更。
厳しい環境の中、命を落とした同胞の最期の顔、最期の声の一つ一つが、ずっと俺を苛み続けていた。
師から教えられた技さえ使う事を恐れるこんな臆病な俺が、本当に人を殺せる筈も無かった。なのに神と聖衣は何かを間違えて、聖闘士に成り得ない、成る資格を持たない俺を選んでしまったのだ。
その少し後の突然の誅殺命令。
それは初めての討伐任務だった。
シュラが敵わなければ、きっと必ず命令は俺に下り、俺がアイオロスを討ちに行かなければならないと予感していた。
俺は、アイオロスに何の咎もない事を知っていた。彼は謀叛を起こすような、そんな愚かな人ではない。
彼はサガと並ぶに相応しいアテナの双璧、誇り高き聖闘士の象徴。
優しくて何処か甘やかし上手なサガと、敢えて対になっているかのように厳しい面ばかり見せていたアイオロス。
俺はやはり彼が怖くて、聖闘士最高位の聖衣を授かり聖域に落ち着いてからも、木陰に隠れて遠目に見ている事が多かった。
実弟の幼いアイオリアや隣接宮のシュラに対する態度はやはり厳しかったけれど、例えるのならば太陽――温もりと情熱と絶対的な光、そんな眩しい、真っ直ぐな、決して間違えない人だった。
その腕に抱かれている赤子が本当にアテナならば、アイオロスは必ず刺客を、俺を討つ――俺を殺してでも、彼自身が命を落としても、アテナを護り切る。
悪はどちらか、護るべき対象は何か、討つべきは誰か、真に死ぬべきは誰か、判り切った答えだった。
けれど、俺は庇護者だったサガの元を離れられなかった。もしかしたらサガはまた俺を守ってくれるかもしれないと、脆弱な心が幻影に縋っていた。
正義であるアイオロスに拳を向ける事も出来なかった。善人の傷付け方を俺は習っていなかったし、あの輝かしい太陽の光を浴びれば俺のような矮少な存在は直ぐに掻き消えてしまうだろうと思った。
死ぬのは怖い。
殺すのも怖い。
死にたくない。
殺したくない。
誰も、傷付いて欲しくない。
――シュラが、シュラが、どうにか上手くしてくれないか。
巡る思考で気が狂いそうだった。
傍らに居たアフロディーテとも何も言葉は交わせなかった。
アフロディーテは彼自身の透き通るような白い指先を綺麗に整えられた爪で何度も何度も引っ掻いていた。
その美しかった指先は徐々に醜く腫れ上がり、終いには赤い絨毯と同じ色の血を滴らせていたけれど、アフロディーテは、飽きもせず、痛がりもせず、泣きもせず、表情無く沈黙して俯いたまま、ただずっと同じ所作を繰り返し続けた。
みっともなく怯え震えていた俺と対極に、ひっそりとしていた。
俺達はそのまま一晩を明かした。
夜明けと共に、シュラは破れ掛け、赤く染まったマントと聖衣で帰還した。
血飛沫を浴びた虚ろなその顔は酷く青褪めていて、シュラが死人なのではないかと思った程。
俺は掛ける言葉さえ持たなかった。
アイオロスを本当に殺してしまったのは間違いなかった。
人を殺したシュラが、怖かった。恐ろしかった。憎かった。恨めしかった。
同時に、俺がシュラに背負わせた罪の大きさを知ってしまった。
シュラは俺がサガにそうしていたように、アイオロスを良く慕っていた。
そのシュラが、俺の庇護者であるサガの恐ろしい命令を上手く片付けてくれれば良いと、俺は一晩中願ってしまった。
――シュラに縋り付いた結果が、この赤と虚無と死。
俺は頼って縋るばかりで何も出来なかった。本当に何もしなかったのだ。
サガはシュラの姿を眺め遣ったのみで教皇の座を離れ、当たり前のように無言で、影と共に奥へ消えた。


■ ■ ■ ■ ■


外は逆賊を討ちアテナを救った英雄の話題で持ち切りだった。
最高位の聖衣を剥奪され、手錠を嵌められた姿を衆目に曝した俺より幼い獅子座の聖闘士は、涙を堪えて唇を噛み締め、言い訳も泣き言も口にせず、連行された。
行き場所はきっと、罪人が鞭打たれているあの血生臭い牢獄。
けれど、その凜とした立ち姿は誇りを失う事無く、黄金の獅子のたてがみはやはり眩しく俺の目には映った。
――何もしなかった俺は偽りの聖闘士だ。
黄金聖闘士というだけで、俺を褒めて甘やかしてくれていた全ての侍従を教皇宮へ返した。
ただ独り守護宮に閉じ篭り、ぼんやりと模索する日が続いた。
忠誠を誓うアテナは最早居ない。教皇さえ偽物。
ならば俺は何に誓い、何をすれば良いのか、必死に頭を巡らせていた。
聖域が実質崩壊していようが、俺にその資格がなかろうが、アテナの聖闘士の名を賜る以上、いつか必ず何かの為に命を懸けて闘わなければならない敵が現れる。
人を、殺す。
殺さなければ、死ぬ。



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