右腕が内側から焼き鏝を押し付けられているかのように熱かった。肘の少し下、だ。指を動かそうとして感覚のない事に気付く。
俺の腕は。
――右腕は切断された、神の力で。
意識が急速に覚醒する。
――天馬星座。
そうだ、分断したシジフォスの矢で魂を貫いた筈の夢神が天馬星座を狙った。俺はそれを阻止すべく飛び込んで。
それで。
それで――。
仰臥していた身体を勢いで横倒しにすると、眩暈と同時に全身に鈍く、長い痛みが走った。息が詰まる。
――止血を。一瞬でも長く剣を振るえるように。
視界までも靄が掛かって使い物にならない。焦燥感を鎮めようと唇を噛んで、必死の思いで右腕を掴む。
不甲斐ない身を丸めて右腕を庇いながら起き上がろうとして。
「……っ…」
ある筈の感触がなく、ない筈の感触がある事に漸く気付いた。
俺は慌てて自身の胸元に左手を置く。やはり、ない。その上空っぽだ。何も感じない。
次いで、『右の掌』を床石についてみた。電流のような細かい痺れと痛み、触感自体は遠く指を動かす事は叶わないが、欠損した筈の右腕の先が、ある。
数回瞬きを繰り返すと視界は色を識別するようになってきた。視線を右腕に向けると確かに冷たい乳白色の床石に俺の右手が置かれている。輪郭は定まらないが、間違えようのない肌の色だ。
膝を引き寄せると布擦れの音がして、それで漸く俺が聖衣の代わりに滑らかな絹の布を纏っているのを自覚した。
動きの鈍い身を漸くの思いで起こして自身の下肢を見れば、乱れた黒い布の合わせから脚が大腿まですっかり露出しているようだ。どうやら殆ど身に巻き付けているだけの、モチーフに彫られた伝説の神々の衣装に似た長衣を着ているらしい。
――一体、何が起こった。
不意打ちで、パチ、パチ、パチ、と断続的な乾いた音が響いた。
誰かが手を打っている。人の気配など少しも感じなかったのに。
「見事な執念だった、戦女神の聖闘士」
一気に全身の皮膚が粟立った。遅れて走る悪寒は背筋を震わせる。顔を上げる事さえ叶わない程の、恐怖とも戦慄とも威圧感ともつかぬ緊張。
伏した視線の先には乳白色の床石ばかりが続いている。
俺は必死に息を吸い込んだ。
天馬星座は無事なのか。四神はどうなったのか。何故右腕があるのか。何故聖衣の装着が解かれているのか。そもそも此処は何処なのか。
緊張した身体に不釣り合いな疑問ばかりが浮いてくるが、呼吸の乱れを整えて動揺を押し込める。
声を発した男、敵ならば斬るのみだ。聖衣がなくとも一人くらいの冥闘士ならば、最悪でも相討ちに持ち込む覚悟はある。力及ばずとも敵戦力を少しでも削って死ねるのならば本望だった。
この聖戦、生き残る選択肢等元よりない。
自由の戻らぬ四肢に気合いを入れ、右腕に意識を集中した。
たちまちに再度自覚する、喪失感。
空気の震えが伝播してくる。嘲笑、数人の。
――他にも居たのか、気配もなく。
「無駄よ、今の聖闘士さんに小宇宙がある筈ないもの」
その声に思わず目を見開いた。物音もなく間合いを詰めた何かに顎を掴まれて無理矢理上向かされる。
ぼんやりと輪郭を取り戻し出した視界、優美に微笑む女は仮象者パンタソス――一度は斬り、二度目は矢に貫かれた筈。
「……貴様、まだ…ッ…」
考えるより先に繰り出した右の手刀は呆気なく女のか細い腕に止められた。
「無駄だと言ったでしょう?それとも、この腕、また私にくれるのかしら?聖闘士さん」
人間の女には有り得ない程の滑らかな指先が右腕を這い回り、その不快感に思わず呼吸を詰めて腕を引いた。
仮象者の言う通りだった。
自身の内にある筈の小宇宙を、今は全く感じる事が出来ない。
「……俺に、何をした…」
みっともなく声は掠れた。
小宇宙がなければ敵を斬る事は不可能だ。肉体頼みの体術で闘える相手ではない。
まして、相手は神。
「此処は大地の遥か下方、タルタロスのとある洞」
また歩む音すらさせず俺の前に立ったのは造形者モルペウス。
「お前ら聖闘士の奸計で我等が主は聖櫃に捕われた」
それはハクレイ様が悲願を達成されたという事だろうか。
しかしタルタロスとは冥府の更に奥、伝承では大神ゼウスがティターン神族を幽閉した奈落で。
「とは言え……魂こそ聖櫃に捕われるが、我等が主の力を完全に封印し切るは不可能。魂の残滓、記憶や夢は何に縛られる事もない。無論我等が神話の時代に過ごした洞のあるタルタロスへも自由に行き来が出来る」
「脆弱な人間の魂の残滓、夢の欠片を捕縛し、此処まで引き込むのは些か骨が折れたがな。何せ人間は全てが脆くていけない」
ゆらりと揺れる影は身を屈め薄笑いを浮かべる。幻夢イケロス。
「理解出来たか?お前は文字通り命を賭して我等夢神を討った。討ったつもりで死んだだろう。だが我等は主の意志により主の傍らに何度でも甦る。お前はもう存在の名残でしかないがな」
切断された筈の右腕を左手で掴む。指が、俺の指が、震えている。
「しかし苦痛の中、悲鳴の一つも上げなかったお前の姿が慈悲深い我等が主の御目に留まった。喜ぶが良い。薄汚い人間よ。神に刃向かった罪を償う機会を得られたのだから」
額に触れた指先は夢神オネイロスのもの。瞳に貫かれたような痛みが走り、視界が一気に鮮明になった。
「これより数百年、我等にとっては大した時間でもないが、ただ眺め思索に耽るのだけでは些か退屈してしまうのでな」
六芒の光。
夢の神々が正面を譲り、静かに跪く。
金糸の髪。金の瞳。
その脚先は神である証明の如く宙に留まっていた。
悪寒が治まらない。
立たねば。立って一太刀でも浴びせなければ。
次代にこいつらが現れるのならば。
心臓は早鐘を打つが頭からは血の気が引き、意志とは無関係に全身が虚脱していくのを自覚した。
俺を見下ろす金の双眸には何の感情も見て取れなかった。
差し延べられた掌が俺の頬を撫でても動く事が出来ない。

――神への生贄、贖罪の山羊。

「お前は選ばれたのだよ」



END



スケープゴート【scapegoat】
1古代ユダヤで、年に一度人々の罪を負って荒野に放たれたヤギ。贖罪(しょくざい)のヤギ。
2責任を転嫁するための身代わり。不満や憎悪を他にそらすための身代わり。



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