サイドテーブルに置かれたグラス、氷が涼やかな音を立てた。
水は紺碧の男の唇に含まれる。
覆い被さる上体を押し退ける力はなかった。
何の疚しさも無く、唇は重なる。
それなのに、その行為そのものに思ってしまう感情は、後悔。
――酷い裏切りだ。
干からびた喉に落ちる冷水に新たな涙が零れた。


■ ■ ■ ■ ■


火山灰が多く降る日は窓を閉じるのだと男は教えてくれたが、手枷は相も変わらず俺をベッドに拘束していて、見張られておらずとも動き回れる範囲は極限られていた。
昨晩の熱は随分引いている。元々頑丈な身体、そう簡単に床に伏せったりはしない。
男の出で立ちも変化は無かった。黒いローブのフードを目深に被り、気味の悪い仮面もそのままだ。
「おい、これを外せ」
今となっては判る。これは戦女神の加護を受けている特別な鎖と枷、神の力さえ封じるそれに俺如きの力が敵う筈もなかった。
「治る迄は外すなと言われている」
恐らくはセージ様が準備されたのであろう。全く何処までも読まれている。
背中を枕に預けた姿勢のまま苦々しく舌打ちをして腕を振れば煩わしい鎖が鳴った。
「……もう治った」
「そうか、また腹に一発欲しいか」
赤銅色の右の素手が拳を作り左の掌を打つのに顰め面を作るしかない。俺がごねれば本気で喰らわせてくるであろう事は想像に容易かった。
けれど、ただ無為にベッドの上に座っているだけではどうにも落ち着かない。
暇を見付けては鍛練か、次代を担う後進の指導に明け暮れていた日々だ。気力が空回りしてしまう。
――俺は、焦っている。
「……では何をすれば良い」
「養生だ」
「……養生しながら出来る事は何だ」
「読書」
頭にデジェルの澄まし顔が浮かび、あれにより此処に送り込まれた事を考えたら頭が痛くなった。
「読書以外」
「編み物」
「それ以外だ」
「繕い物」
「それ以外」
「絵」
「それ以外」
「煩い」
先に痺れを切らしたのは男の方、やはり気が短いようで俺の傷めている左大腿を狙ってしたたかに打って来た。
「……っ…!お前…」
「任務が続いていたのだろう?お前は阿呆だから自覚が足らんのだろうが顔色が最悪だ。大人しくしていろ」
確かそれは最初に言われた台詞だった。
自然肩が落ちる。左手の甲で頬を摩ってみるが、鏡も無く顔色なぞ判る筈も無い。
「……夢を」
引き起こされた現実が、俺を焦らせている。
もっと強く、己を磨かねばならないと。
――何もかもが足りない。
「夢を、見た」
男は一瞬肩を揺らしたが、特に何を言うでも無くベッドに腰を下ろした。
「アスプロスの、夢。本当は生きているんじゃないかと……そうあって欲しいと、思った」
「……あの男は慕われていたからな。お前もその一人だったという訳か」
たっぷりと間を置いて発せられた男の声は何処か冷めた響きを含んでいて、強いて形容するならば、敵意、そんな物すら感じた。
強い違和感、否、不快感を覚える。
「彼を慕わない者等聖域には居ないだろう」
「ああ、その通りだな」
少しも同調等していないようなのに言葉ばかりは賛同する。
――慕っていた主、師ではないのか。
まるで自分自身を否定されたような心持ちになった。
黄金の翼が信じた紺碧の空は、その対に見合う人物だった。それを蔑ろにするのは、対を蔑ろにするも同然。
「……凶星の、あの男が唆したのではないのか」
考えるより先に口にしてしまった下衆な邪推は、言葉になった傍から惨めな後悔を伴ったけれど止められなかった。
――制御の出来ない、暴力。
「アスプロスが道を違える筈は無い。あの凶星がアスプロスに罪を着せて双子座に取って代わろうと企んだのではないのか」
男は中空を見据えたまま何も答えない。堪らずその肩を掴んだ。
止めて欲しい――止めないで欲しい。
そうだと頷いて欲しい。
「何か聞いていないのか。傍に仕えていたのだろう。主が、師が……アスプロスが、逆徒の汚名を着せられたままで良いのか」
俺は悪魔のように汚れた呪詛を口走っている。
凶星、そう呼ばれた男、俺はその人物の本当のところは何も知らない。
ただ、暗く気持ちの悪い、邪悪のような奴だと回りの言っていた通りに見ていただけ。
本当に邪悪かどうか等知る機会は無かった。
その男は存在自体が秘匿されていた。
俺自身、知りたいとも思わなかった。
判っている。判っていたけれど、知らないからこそ、あの災いの星こそがアスプロスを陥れたのだと思いたかった。
男は項垂れ、細く長く息を吐き出した。
「……煩い」
小さく漏らされた台詞は聞き捨てならない物、黒衣の肩に爪を立てると布が引き攣れ、フードから落ちる顔の影が更に濃くなった。
「奸計だ。あの凶星こそが逆徒、纂奪者に決まっている」
――そうでなければ。
「……アスプロスの名誉の為に、か」
男が顔を向けた。その唇は影帯びる仮面の目と同じように歪に釣り上がり、尖った牙を覗かせていた。
唐突に伸びた腕は俺の首を鷲掴み、そのまま力任せにベッドに引き倒す。喉は直ぐに解放されたが、勢い咳込んでしまう。
「悪くない筋書き、暇潰しには持ってこいの実に良く出来た喜劇だ。だが……」
肩を突かれて身体を仰向けに転がされた。のし掛かる男の影が落ちる。
まるで憎悪を吐き捨てるかのように。
「煩い」


■ ■ ■ ■ ■


鎖が耳障りな音を立てていた。
無理矢理重ねられた唇は殆ど噛み付かれているようなもので、言葉どころか呼吸迄奪われた。
尖る牙が唇を切り鉄の味が口内に広がる。逃げる舌を強引に搦め捕られ、舌腹が擦れ合った。
口内を蹂躙する熱い舌に頭の芯が痺れる。
怒りか、憎しみか――俺の愚かで浅はかで卑しく醜い願望が彼に何かの激情を齎したのは間違いなかった。
軽蔑されても当然だった。
視界が涙で滲む。
――俺では足りないから。
一つでも、欠片でも、誰かを身代わりに貶めても、俺自身を投げ打ってでも、取り返せる物が僅かでもあるのなら、それが欲しかった。
罰するかのように包帯越しの大腿の傷を引っ掻かれ内股が痛みに震える。
「……狂っていたんだ、アスプロスは」
顎が引かれ解放された唇に熱い吐息が掠める。
「……何を……違う、有り得ない……っ…」
俺は未だに悪魔に縋り、祈り続ける。
「俺が影となっていたが為に奴は狂った」
残酷な告白が唇越しに伝えられた。
「だから奪った。壊した。命も、名誉も、地位も、光も、全て」
「……やめろ…!」
必死に押し退けようと伸ばした右腕が鎖を派手に鳴らし、男の髪を隠すフードを引っ掻けて布が後方に落とされる。
長い髪が頬に舞い落ちた。
紺碧の空、金色の翼に相応しい、その鮮やかで美しい髪。
「俺は光に成り代わった。恨めば良い。殺したければ殺せ。その権利は奴を真に信じて慕った全ての者に在る」
手加減も無く胸からの傷を掌に圧迫され、漸く再生を始めていた薄皮から血が滲み出した。
――シジフォスの傷付いた翼。



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