洗い場は石を敷き詰めて平らにする細工を施し、屋根も設えてあるが、風呂そのものは岩で囲われた湯溜まりといった形容が相応しい。
「火山のお陰でな、湯には困らん」
さらりと口にして木製の小椅子に座るよう示された。
火山という事はやはりカノン島――岩山の向こう、火山灰に曇る空、遠くはあるものの白煙を上げる高い山影が薄らと見えた。
「……此処は村か」
促されるまま小椅子に腰を下ろしながら問い掛けると男は首を横に振り、桶に湯を掬った。
「いや、村は山向こう、反対だ。こちら側に集落は無い。道が険しい。断崖のお陰で船を停泊させる場所も無い。普通の人間ではまず立ち入れない」
右足に温かな湯が掛かり、蓄積された疲労をじわりと意識した。
「……お前は一人か」
傷に触れぬよう丁寧に湯を掛けてくれるのが些か意外で、何と無く気恥ずかしくなると共に、敵を人質として捕えた割には些か善意的過ぎるやもしれないと思い始める。
肩を窄めて問い掛けると彼は笑気を漏らした。
「一人だ。他には誰も居ない。……頭を出せ」
言われるままに頭を差し出すと湯を掛けられた。
――奇襲され捕われこそしたが、手当に食事、風呂の面倒。
こんなに甲斐甲斐しく世話をされると頭にある疑念が揺らいでしまう。
「……あの、お前……まさか……監視者、か」
「まさかも何も最初からそう言っているだろう。悪魔の山羊よ」
今更ながらに自分の焦燥の空回りを自覚し、一気に深く落ち込んだ。
タロットの磨羯宮を示す悪魔のカード、種族と性別が入り混じるその歪な姿は、混乱、葛藤等の心理的錯乱を促し、滅亡や破壊への誘惑となる、といった解釈をされる。
また、悪魔は剣の刃を持った姿で描かれる。使い方は疎か剣の持ち方すら判らない事を示し、誰にも制御されない極めて危険な暴力を象徴するという話だ。
所詮は占い等と笑っていられない。
石鹸を泡立てたようで指が髪を梳いてきた。まるで侍従のような手際の良さだ。
態度はふてぶてしいが、誰かに仕えた経験があるのかもしれない。
長く伸ばしている後ろ髪迄丁寧に洗われ、湯で流されるとそれだけで随分さっぱりしたが、隅々に至る迄世話を焼かれるのは慣れていない。
磨羯宮に仕えている侍従達も入浴の世話をしたがったが、俺はどうにも気が乗らず断っていた。
「……自分で……」
口にしてみるが男は構わず首筋から背中に掌を這わせる。繋がる鎖が動きに合わせてちゃりちゃりと音を立てた。
「十分に養生させろとの達しを貰っている。一切の世話は俺が引き受けた。無駄な足掻きは止めておけ」
随分手荒で不遜な監視者兼侍従を付けたものだと溜息が出てしまう。
流石は教皇、俺の甘い算段等軽く見透かして、数手先迄考えていたという事。
――それにしても。
「お前、白銀か」
手負いとは言え、奇襲であっさりと俺をいなした実力は尋常ではない。
そういう聖闘士が居れば噂に聞いていてもおかしくはないが、少なくとも俺の耳には届いていなかった。
「いいや」
「では候補生か」
「似たようなものだ」
「誰に仕えている」
「戦女神に」
「……直属の主、師は居るのか」
「似たようなものは居たが死んだ」
「それは誰だ」
掌は丁寧に滑り続け傷を避けて胸に回る。男も正面に膝を付き直した。
「……双子座」
男の声色は僅かに沈んだ。
「……アスプロス、か」
意外な名前ではあったが、アスプロスの元で修練を積んでいたのならばこの実力も頷ける。
アスプロスは次期教皇候補としての自覚もあり、その準備も怠らなかった。秘かに弟子を育てていても何等不自然は無く、或いは教皇の指名を受けた場合の双子座の後継にするつもりだったのやもしれない。
侍従としての仕事に卒が無いのもその籍が双児宮に在ったのならば当然。
恐らくはアスプロスの死後、新たな双児宮の主がその姿を消したが為に教皇宮に籍を移し、カノン島での聖闘士の世話と管理を一任されたのだろう。
そういう経緯ならば全て合点がいく。
態度にこそ問題はあるが、実力も仕事の能力も十分――否、此処に眠らせるのは勿体ない程。
「……済まない、辛い事を聞いたな」
「いいや」
主と師を失い、双児宮を追われ、無名のままこんな僻地での任務ともなれば、胸に抱える物も大きいに違いない。
軽い気持ちでは口に出来ないが、不憫にも思った。
「名を、聞いても良いか」
聖域に帰った後、教皇に進言をする事に心に決める。
仮面で隠すその素顔のように、この才を此処に隠して終わらせるは余りに惜しい。無理を言っても聖域に戻したかった。
――あの凶星の男より余程、戦女神の、聖域の、シジフォスの為にもなる。
「名か……」
男は自嘲気味に唇を歪めたが、その口許は直ぐに不遜な笑みに変わり、牙に似た八重歯を覗かせた。
「お前は何と呼びたい?」
つくづく人を小馬鹿にするところは良い心掛けとは言えないが、この態度にも少し、ほんの少しは慣れた。
「……鬼」
なので俺も遠慮無く言ってやる事にした。
男は一瞬呆けたようにして顔を上げたが、直ぐに俺の右腕を手に取り丁寧に滑らせながら喉奥を震わせ、実に楽しそうに低い笑い声を響かせた。
「悪くない。そう呼べ」


■ ■ ■ ■ ■


久しぶりの風呂は大変有り難かったが、同胞と知って気が抜けたせいか傷が酷い熱を持ち、情けなくも夜には高熱になった。
折角用意された食事にも手を付ける事が出来ず、意識は混濁した。
――夢。
それははっきりと自覚出来た。
開けられた小窓から柔らかな月光が差し込んでいる。
そこに佇む男は地中海の空の紺碧を映したかのような鮮やかな髪をしていた。
「……アス…プロ、ス」
その美しい髪色を見間違えよう筈は無い。
「……アスプロス」
俺の声は熱にしゃがれ掠れている。
彼は二度の呼び掛けに漸く振り向いてくれた。
身を起こそうにも傷が酷く痛んで上体を捩らせるのがやっと。差し伸ばした腕は空を掻くばかり。
彼は何処と無く寂しそうに、苦しそうに、双眸を揺らめかせ、暫し無言で思案するかのように俺を見詰めていたが、やがてゆっくりと歩み寄り躊躇いがちに手を取った。
「……シジフォス、が……」
――シジフォスが泣いている。
力無く崩れ落ちて咽び泣く金色の翼が脳裏に蘇る。
強く強く、ただ前を向いて懸命に闘う背中。
血に塗れても、どんな辛い戦場であっても、決して笑顔を絶やさなかった彼。
本当はあんなにも脆かった。
今迄も沢山の傷を負っていた筈、それをどんな思いで堪え、隠してきたのだろう。
張り詰めた糸が切れたかのように、膝を折った弱々しい背中。
俺では決して足りない。
その身を支える事は叶わない。
嫌という程判っている。
――だから。
「……還って、来て」
――お前が還って来てくれるのならば、俺の命等幾らでも差し出せる。
涙が滲んだ。
熱に浮される涙とは違う、熱い涙。
傷付いた金色の翼は紺碧の空に抱かれないと癒される事は無いのだろう。
――なんて身勝手。
尊い英雄の鎮魂よりも、金色の翼の主の安寧を願い、ひたすらにその手に縋るだなんて。
「アスプロス」
彼の左の掌が俺の頬を撫で、熱い指先が涙を拭う。
死人にもこんな体温が宿るのだとぼんやりと思った。
「……済まない」
囁かれた声音はやはり穏やかで優しかったけれど、その声は俺ではなく、彼に、シジフォスに届けて欲しかった。
「酷い、熱……だな」



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