初の壁外調査を目の前にして、わたしの体は恐怖に支配された。兵士になると決めたときからこの道がいかに険しいものなのかわかっていたというのに、体の震えは一向に止まる気配をみせない。このときばかりは隣ですやすやと眠るサシャが羨ましく感じられた。

 わたしはすでに巨人の恐怖を知ってしまっている。解散式のあと、たくさんの仲間たちが死んだ。食われたり嬲られたり潰されたりされて死んでいったのを見た。わたしの班で生き残ったのはわたしを含めて二人しかいなかった。それが現実だ。そんなこと訓練兵になる前も、なった後もわかっていたし、予想も想像もしていた。だけど、現実はわたしの陳腐な脳では想像つかないほどの地獄だった。

トロスト区の一件でもようやく生き長らえたというのに、わたしは明日また巨人の前に立つ。なんで調査兵団に入ってしまったのだろう。アニのように上位に入れなかったわたしが憲兵団に行くことはできないが、比較的安全な駐屯兵団に行くことはできた。なのに、わたしはしなかった。こうなったのも全部、

「こんな時間に何ほっつき歩いてんだよ」

 気分を少しでも変えようと部屋を出て宿舎を歩いていると、ふとそんな声がかかる。俯き気味であった頭をあげ、正面を見るとそこにはジャンがいた。ジャンはわたしを見るなり、様子がおかしいことに気づいたのか歩を早め近寄るとわたしの腕をつかむ。

「おまえ、どうしたその真っ赤な目は!……それに手、震えてるじゃねえか」
 心配そうな面持ちでジャンはわたしを見る。気にかけてくれている。ジャンの厚意は理解できるが、いまのわたしには素直に受け取ることができない。
「ジャ、ジャンのせいだよ……ジャンがあんなこと言うから……!」

 亡くなった兵士たちを弔ったあの日。ジャンは震える声で俺は調査兵団に行くぞ、とわたしたちに宣言した。あれだけ頑なに憲兵団行きを心に決めていたあのジャンが、巨人の恐ろしさを知ってもなお、調査兵団行きを選択した。わたしはそんなジャンに感化され、調査兵団を選んでしまった。きっと、すやすやと眠るサシャも同じクチに違いないだろう。ああ失敗した。こんなに恐ろしく感ずるならば、大人しく駐屯兵団に入っておけばよかった。

「ジャンがいけないんだ……だから、わたし、釣られてこんなところ来ちゃった……もう巨人が、どんな風に人を、殺していくか知ってるのに……ジャン、怖いよ……死にたくないよ……」

 自分がどれほど無茶苦茶なことを言っているのかはわかっていた。だけど、恐怖に押し潰され、言葉を止めることができなかった。知ってる。ジャンが悪いわけじゃないって。調査兵団を選んだのは自分の意思。ジャンのせいにするなんてお門違いもいいところ。それでも、言葉は止まらなかった。

ジャンを好きなだけ糾弾し、自分勝手な思いをぶつけるわたしにジャンは何も言わなかった。ただぎゅっとわたしの腕をつかんでは支離滅裂な言葉に耳を傾き続けてくれた。


「……でかけよう」
 ややあってから、ジャンは唐突にそう言い出した。突然の言葉にわたしは泣くのをやめ、顔をあげる。

「明日の壁外調査は行って帰って来るだけのもんだ。それに新兵で一日はきついかもしれないが半休はとれるかもしんねえ。だから、一緒にでかけよう」
「でかけるってどこに……?」
「んなもんその日になったら決めればいい。だから、おまえは明日さえ乗り切れればいいんだ」

 ジャンはそう簡単に言うが、ジャンだって知ってるはずだ。壁外調査における新兵の死亡率の高さを。確率でいえば、わたしとジャンのどちらかは死んでしまう。なのに、ジャンはわたしと約束を結ぼうとする。滑稽もいいところだろう。下手すれば永遠に守られることはないかもしれないというのに。

「……ジャン、小指貸して」
 だけど、賭けてみたくなった。ジャンの言う通り、わたしとジャンの両方が生きて帰って来る可能性を。

「は? なんでだよ」
「家にあった禁書で知ったんだけど、昔あった東洋の方では破りたくない約束ごとをするときはこうやって小指と小指を絡ませてたんだって」
「なんだそりゃ」

 口ではそう文句を垂れつつもジャンはわたしの小指と絡ませた。結び合う小指。ぎゅっと、ぎゅっと、強く。時間にしては短い時間だったがなぜかわたしには永遠にも感じられ、ジャンの指が離れるのが惜しいとすら思えた。いろんな思いが胸のうちに馳せ、目を瞑るとジャンがややあってから小指を解いた。

 ジャンはわたしの顔を見ると、静かに一回頷いた。
「もう震えてないみたいだな」
「うん」
「それならいい。俺はもう寝るぞ。おまえも早く寝ろよ」

 ジャンはわたしにそう指示すると、わたしの頭を軽く叩いてはじゃあなと言って自室へと戻っていった。その背中を暫く見送った後わたしも身を翻し、自室へと向かう。

 ジャンはもうわたしが大丈夫だと思っているみたいだが、本当は今でも体は恐怖で震えている。でもきっと、それはいつになっても治らないと思う。そこまで深く、わたしの心には巨人の恐怖が刻み込まれてしまったのだ。ジャンと指を交わした今だって、気を抜いてしまったらまた泣き出しそうになるし、ジャンのことを責めてしまいそうになる。それでも、熱を帯びたこの指を見れば、なんだか心が軽くなったような気がするのだ。ああ、明日なんてなくなってしまえばいいのに。





明日を忘れるための指切り(201309019)
素敵企画『little』さまに捧ぐ