講義が始まってから自分が持ってきた教科書が違う科目であることに気付く。取りに戻ろうかとも思ったのだがいま講義を行っている場所はテスト範囲であり、席を外して聞き逃すのは惜しい。かといってこのまま教科書を見ずに講義を受けるわけにもいかず、

「アニ。教科書、見せてくれないか。間違って兵法の教科書持ってきてしまったんだ」

 近くに座っていたアニとの距離を詰め、小声でそう言えばアニはちらりとこちらを見てからそっと教科書をぼくの方へ寄せてくれた。ありがと。礼を言って、ぼくはアニと共に教科書へと目を通す。

 教官の喋る声と、カリカリという筆の走る音だけが充満する。教官の書いた言葉をもらさぬよう書き写していると、ふとアニがアンタは変わってるよ、と独り言のようにもらした。横目でアニを見てからぼくは書く手を止めないままなんでさ、と返す。

「教科書なんてわざわざ私に借りる必要はないじゃないか。そっちにいるミーナと借りればいい」
 顎先を同じ列に右側の端へと向ける。追うようにして見れば、他の兵士たちと同じようにミーナも必死にノートへと書き込みを行っていた。
「別に他意はないさ。アニが目に入ったから、アニに借りたまでだ」
「同じように教科書を間違えたやつや忘れたやつが近くにいたことがあったが、そいつらは私に一度も頼らなかった」
「そうか。じゃあぼくがアニの教科書を一緒に見た、記念すべき一号というわけか」

 茶化したぼくの物言いに、アニは呆れたようにため息をこぼした。アニに言った通り、他意などないのだ。おそらく他の兵士たちは常にひとりでいて、つまらなそうな表情を浮かべては物事を淡々とこなすアニのさまを通じてどこか冷たく、突き放すような感覚を覚え、頼ることに躊躇したのだろう。だけど、ぼくはそんなアニの孤高であろうとする姿勢をどうも嫌いになれなかった。だから、ミーナから借りるよりかは、アニから借りようと思っただけのこと。

 アニのこと嫌いじゃないよ、と言ったぼくをアニはまた変わっていると評した。

「私にそう言うところも、兄貴の名前で生きていることも。やっぱり、アンタは可笑しい」
「そんなに、可笑しいかな」
「私のことはともかくとして、普通の神経しているやつじゃ、死んだ人間の名前を語って生きようとは思わないだろうね」

 死んだ兄の名前で生きるぼくを、他の同期たちは異端だと囁いている。それどころか、事情を知っているエレン、ミカサ、アルミン、ですらぼくがルカとして生きることを是としなかった。なんでだろう。ぼくがしていることはそんなにも間違ったことなのだろうか。

「兄はぼくさえいなければ生きていたんだ。巨人につかまりそうになっていたぼくの代わりに兄は死んだ。ぼくよりも優しくて強くて愛されて、未来を生きるべきだった、兄が」

 兄を殺したのはぼくだ。だから、ぼくは兄に成り代わった。皆と会うはずだった兄に。なのに、みんなはぼくを否定する。糾弾する。ぼくはそこまで可笑しなことをしているかな。

 するり、とアニの前でこぼれたのは本音だった。何故こんなことをアニに言っているのかわからない。だけど、不思議と素直に吐露の言葉が出てきた。そんなぼくの言葉をアニは何も言わず、耳を傾け続けてくれた。

「……私は、」
「アニ?」
「私は、自分が信じる道があるのならばその道を進んでいけばいいと思う。例え、それが他人から受け入れられないものだとしても、」

 アニの瞳はぼくを映してはいなかった。どこか、ここじゃないところをアニは見ている。それがどこなのか、ぼくにはわからない。ゆっくりと噛み締めるように、一度目蓋を閉じると、アニはぼくの目を見つめた。深い、海の底みたいな青がぼくを映し出す。

「でも、あんたのために死んだ兄貴はそれで報われるんだろうかね」





(20131017)


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