「わたしたちは、幸せになれるのかしらね」

 グラスを傾け、ゆらゆらと揺らぐ水面を見つめながら、なまえは言う。壁外調査の前日に晩酌をするのがなまえの日課だった。あまり彼女が酒に強い方ではないのは、周知の事実であり、なまえ自身もそれを把握していた。にも関わらず、なまえの日課は変わらない。なまえにとって、すでにそれは儀式として化していたのだ。自身を奮い立たせるもの、として。

 林檎のように赤く染まった頬を目の端で捉えながらそっとボトルを遠ざけると、なまえはでも、わたしは今幸せよ。エルヴィンへとごちた。誘われるようにして、エルヴィンは顔をあげたが未だなまえの視線は赤い液体へと注がれており、伏せられた睫毛しか見えない。

「わたしの家は貧しくて、小さい頃から生きるか死ぬかの戦いだったわ。一日のうち、なにか口に放り込めればいい方だった。だからね、わたしはご飯をお腹いっぱいに食べるために兵士になったの。人類の勝利とか、正直二の次だったわ。だって、そうでしょう。人類よりも、まずは自分の命ですもの」

 エルヴィンにとってもなまえの話は初めて聞くものだった。振舞う所作はどこか気品めいているなまえから到底、想像のつかない出生にエルヴィンは静かに驚く。と、同時にひとつの疑問が胸にわく。なぜ、彼女は調査兵団へと入団したのだろうか。

なまえが訓練兵時代からすでにとても有望な兵として期待されていたと、一度小耳に挟んだことがある。実際、彼女は7位の順位で卒業したという。それならば、危険度の低い駐屯兵団だけではなく、巨人と遭遇せずにもっと良質の物を食せたであろう憲兵団への入団も叶ったはずである。

 様々な憶測がエルヴィンの頭に浮かんでは消える。なまえは疑問を孕んだエルヴィンの視線に気付いたのか、一口ワインを含み、微笑む。
「死がね、近くにありすぎたの」
「死が、かい」
「ええ、死が。だからなのかしらね、駐屯兵団や憲兵団のような生ぬるい場所では生きた心地がしないのよ」
 なまえの潤んだ目がエルヴィンを見つめる。
「おかしいと思うでしょ? 死にたくないから兵士になったのに、生きるために死に近づくだなんて」

 なんら可笑しなことはないというのに、なまえは声をあげ、肩を揺らし、けたけたと笑う。

「なまえ、」

 名前を小さくと呼ぶと、ぴたりとなまえの笑い声が止み、なまえはこちらを向いた。蝋の灯りに照らされたなまえの顔は心なしか悲しげに見える。続く言葉を紡ごうとエルヴィンは口を開くが、なまえはそれを遮るようにしてわたしの命が必要なんでしょう、と問う。瞬時に、なまえの言わんとしていることを察し、エルヴィンは頷くとともに瞼を閉じた。そう、という素っ気無いなまえの声が返る。

 明日の壁外調査において、エルヴィンはなまえを最も危険な配置へとつけた。彼女は強い。肩書きこそは班長だが、実力はすでに分隊長レベルに匹敵している。よって、なまえを亡くすことは調査兵団にとっても、痛手になり得る。しかし、壁内に潜む裏切り者を捕らえるためには必要不可欠な力、だった。

 最後の晩餐を向かえたなまえがいまなにを思っているのかエルヴィンにはその心情を推し量ることができない。ましては気を利かせた言葉を送ることすらもできない。その命を握り潰したのはエルヴィン自身の手なのだから。小さく蝕む罪悪感から逃げるように、グラスを手に取ると、なまえが口を開く。

「ねえ、エルヴィン。あなたはいま幸せ?」

 小さな問いにエルヴィンは顔をあげたが、なまえは静かに寝息を立て、眠りこけてしまっていた。


幸福論(20131014/Happybirthday)